【イエズス会1599~1601年 日本諸国記】(1)西軍の挙兵と細川ガラシャの死

<天下すなわち君主国全土にふたたび情勢の変化と混乱の生じた経緯、および、 日本の全領主たちが内府様に背反のために結んだ同盟について。また内府様 が(小西)ドン・アゴスチイノ(行長)と提携する際に表した熱意について (第26章)>

後述の都および大坂に生じた叛乱と騒擾のうちに、内府様はきわめて強大な権力を有するようになり、仲間をもつ奉行であるよりは、日本の絶体君主として統治を行なうかに見えた。

何ごとをも欲するがままに行ない、以前に太閤様がそうであったように(人々から)絶大な崇拝と畏怖とを受けている。こうしてこの一六○○年を通じて統治するに至った。このような時に、彼と(前田)肥前(利長)殿との間に伝言による激しい応酬があり、果ては断交に立ち至るかに思われた。

しかし、内府様は、とどのつまり、先の陰謀に加担していたといわれるその他の諸侯とまず和 を講じ、その多くと姻戚関係を結び、最終的には肥前殿とも関係を修復した。もっともその和平たるや双方の側にとって真実のものというよりは一時の間に合わせにすぎなかったようである。

このころ、全諸侯はすでに政庁に復帰 していたが、若干、例外があった。それは依然として自領に留まっている肥前殿、もう一人は(上杉)景勝という別の領主である。

景勝は上級奉行(大老)の一人であるばかりか、日本でもっとも強大な諸侯の一人でもあって、その 領国の東部は内府様のそれに接している。(上杉)景勝は、三年間は領内に留まってもよいとの太閤様の許可を得て いると弁解し、政庁へは赴くまいとの決意を固めた。この領主は、(石田)治部少輔のごく親しい友人であるが、内府様とは不仲であったので、内府様はその決意をきわめて遺憾に思った。

(上杉)景勝宛に、貴殿がただちに上洛しないなら、自ら出陣し、貴殿を反徒として懲罰するであろう、との伝言を送った。ところが、この景勝はきわめて勇敢な武将で、(石田)治部少輔や(前田)肥前殿、その他内府様に良からざる領主たちと密かに気脈を通じ連繋を保っていたので、内密に、これ以上はありえぬほど巧妙な策略[日本ではこれを武略と呼ぶ]をめぐらした。

その策略として、景勝が書状で内府様など物の数ではないとの態度を示して内府様を挑発し始めた。そこで内府様は、自ら(上杉)景勝討伐に赴かざるを得なくされた。

内府様は、すべてはわが手中に確保されているものと判断して、麾下の全軍を率いて行こうと決意した。京の伏見城には二千名の兵とともに、己が幼い子息を残すに留めた。また大坂城は、幼君(豊臣秀頼)並びにすべての財宝ともども、これを目下の三奉行に依託し、自分は三奉行を信頼しており、また日本の絶対君主になろうとはしていないことを示そうとした。この戦さに召集された兵士の数は十一万にのぼった。

多くの諸侯は、内府様のこの行軍を大いに称賛し従軍することを申し出た。この行軍は、また、いわば銀の橋であった。諸侯は内府様の費用に、銀や金、そのほか価値あるもので二十万クルザード以上を援助した。

内府様は急いでいたし、全員がただちに後続するものと考えていたので、自信をもって全兵力を率いて関東に向かった。幾人かの奉行は内府様に従ったが、その歩みは緩慢であった。

その一人は(石田)治部少輔の城を通過する時に彼と連絡をとり、かねて仕組んでおいた計略を明らかにしようと決意した。そこで後からやって来た者たちと談合し、全員大坂へ帰ることで一致しすぐに行動した。

このようにして、たちまち両者の関係は決裂して、日本のほとんどすべての諸侯の間に、内府様に背反する同盟が結成された。重立った奉行、および大坂にいた三名の奉行も彼らと合流し、彼らと一致団結し、内府様に敵対する立場を明らかにして内府様を政治から放逐した。

彼らは内府様に自らの領国に留まるようにとの伝言を送り、幼君秀頼様に対し、またその父君太閤様の命に背き犯した数カ条の罪状をつきつけた。

この同盟に参加していた者たちの重立った者は、(小西)ドン・アゴステイノ(行長)と、その親友(石田)治部少輔であった。両名は非常な勇気と智略に富み、太閤様から賜わった大いなる恩義を感じていた。

太閤様は存命中、この両人に対して深い愛情を常に抱いていたし、両者が大領主になったのも太閤様のおかげであったからである。したがって両者にとり、太閤様の若君(秀頼)が、内府様のために世襲封土を剥奪され、栄誉や身分の点で毀損を被ることに我慢がならなかった。

このために両者は、若君に対する忠臣として、どうしたらその身分を今までどおり留めることができるか、絶えず心を労してきた。そして両者は、この一点につき諸大名と談合の結果、最終的にこの同盟を結ぶに至った。

その成否はかかってかの策略にあったが、日本の政治史においてこの同盟くらい入念に仕組まれたものはなかった。これによって大いなる名声と栄誉が、殊にかの二人の領主に帰したのであった。

(石田)治部少輔追放後、内府様は(小西)ドン・アゴスチイノを己れの味方に引き入れようと努めた。まず第一 に、彼の朝鮮における大いなる事績を、次いで彼がその友人の(石田)治部少輔に対して示した多大の忠誠心を、それぞれ称賛することによってである。

その上、内府様は、日本の他の諸侯から徴したのと同様に(小西)ドン・アゴ スチイノからも或る誓約を取りつけようとした。(すなわち)内府様が政権をとった時には、自分たちは必ず内府様を助け、その陣営に立つであろうという内容である。

しかし、(小西)ドン・アゴスチイノは、若君秀頼様の栄誉や身分を傷つけぬよう万全を尽くすという条件を別にしては、その誓約に応ずることを欲しなかった。このように、彼の秀頼様への熱意と忠誠心には並々ならぬものがあった。(後略)

<これら変革の時、大坂で生じたキリシタン夫人(細川)ドナ・ガラシアの悲しむべき死去について(第27章)>

7万人を超える住民を擁するこの大坂には全日本の主城があり、この城には若君(豊臣)秀頼様が住んでおり、また内府様がこの城に参集の奉行たちとともに、かつまた、通常は日本のほぼすべての諸侯が住んでいる。

城内には非常に立派な諸邸宅がある。このようなわけで、大坂には、変革の当初には多くの領主たちがいた。この領主たちは内府様とともに、自分の息子たちを関東の戦さに派遣していた。

ところで内府様に対する同盟が破れたので、すべての者が各自の邸に防塞を作った。家を守っていた人々や領主の家族、彼とともに赴いた君侯たちも同じことをした。そのわけは、奉行たちがこれらすべての者に対して、人質を提供し、若君(豊臣秀頼)の側の者に内府様に対して反抗するよう命じたからである。

このことについては大いなる変化と争いがあり、奉行たちは、敵として彼らを殺すために、そして、とどのつまりは、彼らに要求していた人質を提供させるため反抗していた者の邸を包囲するに至った。

この争いでは、丹後の国の、異教徒の領主長岡(細川)越中(忠興)殿の妻で、ドナ・ガラシアという名の一人のキリシタン夫人にきわめて悲しむべき事件が生じた。この夫人についてはたびたび(これまでに)書かれてきた。

この領主は関東の戦さに内府様に随行した諸侯の一人であった。そして彼は、自らのきわめて重立った身分の高い家臣の小笠原殿、および他の家臣に、自分の妻と邸宅を委ねた。

越中殿は至って誠実を好む人物であったので、邸から離れる時には、自らの家臣と邸を守っていた他の者たちに次のように命じるのが常であった。もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように、と。

このたびも、彼は同じ命令を己が家臣に対して託した。そこで奉行たちは、その同盟が露見した当日に越中殿の邸に伝言を送り、邸を守っていた者に対して、彼女の夫の安全のため人質として彼女をとるため、ただちにガラシアを引き渡すようにと言った。

(家臣)らは、ガラシア夫人を渡す意向はないと応えた。彼らは奉行たちが邸を包囲し、自分たちの女主人を捕えるつもりであることをすぐに察知し、彼女の名誉のため自分たちの主君の命令を実行に移そうと決意した。

こうして彼らは急遽ドナ・ガラシアにいっさいを知らせに行った。ドナ・ガラシアには何一つ異議はなく行動に移った。そして彼女は、常々よく整頓し飾っていた自分の祈祷室に入った。ただちに行灯に火を点すように命じ、死に支度をしながらひざまずいて祈り始めた。

そして少し祈った後、大いなる覚悟をもって部屋を出て来て、彼女とともにいたすべての侍女と婦人たちを呼び集め、我が夫が命じているとおり自分だけが死にたいと言いながら、皆には外に出るようにと命じた。皆が皆、彼女とともに死ぬつもりであると言って侍女たちは外に出ることを拒んだ。

なぜならば、このような場合にあっては、家臣は自分の主人とともに死ぬのが日本人の慣例であり体面である以外に、ドナ・ガラシアは侍女たちからあまりにも愛されていたので、全員がドナ・ガラシアと道連れに死ぬのを望んでいたからである。

しかし侍女たちは彼女の命令によって、やむなく外へ出た。ところが監視隊長(家老)の小笠原殿は、他の家臣とともに邸全体に火薬をまき散らした。侍女たちが全員屋外に出ると、ドナ・ガラシアはただちにひざまずき、たびたびイエズスとマリアの聖名を口誦んだ。

彼女自身、両手で(髪をかきあげて)首を露わにし、そして彼女の首は一撃のもとに切り落とされた。家臣たちはさっそくその首を絹衣で包み、その衣の上に火薬を置きながら、自分たちの女主人が死んだ同じ部室で死ぬことは非礼であるので前方の家屋に立ち去り、(そこで)全員切腹し、同時に火薬に火をつけた。

その火薬(の爆発)によって、ドナ・ガラシアが外へ出させたあの侍女たち以外の者は逃れ出せず、彼らおよびきわめて華麗なる御殿は灰燼に帰した。

侍女たちはこぞって泣きつつ、そのことがどのように生じたかをオルガンティーノ師のところへ語りに行った。このことで司祭と我ら全員は、同地方のキリシタン宗団にとって、あれほど(立派な)夫人、あれほどの稀有なる徳操の模範であった人を失ったことで、ひどく悲嘆にくれた。

この夫人はキリシタンとなった後は、幾多の書簡に記されたように、改宗においても生活においても感嘆すべきものがあった。自らの霊魂のことをいとも重んじ、デウスの冒漠になる行ないをすることを大いに恐れていたので、それはすべての司祭たちには大いなる驚きであった。

死に先立って彼女は、自らの死を予知していたかのように、再度告白し、書状によって、(死去する)日より前のことであるが、もし起こるべきことが起こったならばいかに処すべきかを確かめるために多くの疑問を提示し、質疑した。そしてその疑問に対する返答に大いに満足して心も落ち着いた。

かくしてその後、自らの罪ほろぼしにその死を受け入れつつ、強く、制し難いほどの勇気をもって、しかも我らの主の御旨といとも一体となって亡くなった。そして、彼女の徳操について、多くの中から、一人の都にいる司祭が彼女が死ぬ直前に、彼女についてこのような一通の書簡をしたためていることを述べよう。

「日々にガラシアは、徳操においても、また立派なキリシタンとしての実践においても、ますます卓絶してきている。彼女は至って悔俊(の業)を好み、去る四旬節には、自分の多くの侍女たちとともに深い信心をもって鋲釘のついた金具で鞭打ちの苦行を行なって、涙と血を流した。

彼女は慈善事業や喜捨にすこぶる献身的で、自らの手で邸に養育している幾人かの捨て子の身体を洗い、衣服を着せる。家臣たちの改宗についてもきわめて熱心なので、自分の領国で福音を説くイエズス会員の5ないし7名の扶養を申し出ている。そして彼女は司祭たちにいとも順従で、彼らと自らの霊魂のことについて語らった。

彼女の従順さは、司祭たちが彼女に、邸内に、良心的には3人もの重立った婦人を奉仕させるのは良くないことだと述べると、彼女はすぐに彼女たちを解任したほどであった。また万事につけ、その他疑わしいことは尋ね、自らの霊魂のために良いと言われたことをすべて果たした。

そして大いなる尊敬と敬虔さをもって我らと諸事につき伝達し合えることを非常に大切とみなしているので、ただその目的だけで、我らの(ローマ)字の読み書きを学び、ヴィセンテ修道士が彼女に送ったABC(のローマ字アルファベット)と、ただの教材だけで、ついに同祭にも修道士にも逢うことなしに、その(日本人)師匠と同じか、またはそれ以上によく(ローマ字文の)書信を読み書きするに至った。

善意によって救済されるであろうと考え、(司祭の)面前で罪を告白しに行くことができなかったので、自らの罪の赦免を乞いつつ、その告白(内容)を書簡でもって院長師に送付した」。

これが彼女の死の15もしくは20日前に、司祭が彼女についてしたためた書簡である。

この夫人は、その大いなる徳操と役割において日本では非常に名望があった。そして、そのような徳操や役割によって夫は彼女をこよなく愛した。さらに彼女がキリシタンとなった当初は、夫は彼女に罪深い生活をさせていたし、彼女にとっては大いに苦労や苦痛の種であった。

キリストの教義を受け入れたので、それらはすべてに対し大いなる忍耐と慎重さで振舞い、そのことで夫を感動させるようになった。したがって、夫を慰めるのみでなく、今ではもう、夫は彼女がキリシタンであることを非常に喜んで、伏見から大坂の市へ移り、彼女が習わしとしていたように祈祷に専念できるように祈祷室と祭壇の修復を彼自身が行なった。

(細川邸の)火が消えると、オルガンティーノ師は篤信の一人のキリシタン婦人に、他の婦人たちを伴わせて、ガラシア夫人が死んだ場所に、遺体についている何かを探しに行くよう命じた。彼女たちは、すっかり焼けていなかった幾つかの骨を見出し、司祭のところへ持って行った。司祭は他の司祭や修道士たちと、大いなる悲痛と涙の中に彼女の葬儀と埋葬を執行した。

この夫人の死は日本中で大いに悲しまれた。ドナ・ガラシアは皆キリシタンである一人の息子(興秋)と二人の娘(長、多羅)を残した。そして彼女の夫は、なお異教徒であるが、司祭たちやキリシタン宗団ときわめて親しく、我らの諸事に対して多大の熱意と愛を表明している。