1582年(前半) 武田家の滅亡
<織田家>
天正10年(1582年)
天正10(1582)年元旦、安土城で年始祝賀を行う。堺衆の今井宗久・千利休(千宗易)・山上宗二・津田宗及、明智光秀・筒井順慶が参賀する。
1月7日、坂本城で明智光秀が津田宗及・山上宗二と茶会を催す。床の間に信長の直筆書を掛ける。【宗及他会記】
光秀は1月25日にも茶会を開き、津田宗及・島井宗室を招く。
1月11日、明智光秀家臣の斎藤利三が長宗我部家臣の石谷光政に、長宗我部元親の軽はずみな行動を諌め信長の指示に従うようにと伝える。【石谷家文書】
(信長が切り取り次第としていた四国の所領を、前年に朱印を変更し土佐一国と阿波南郡半国のみとされた元親は所領は自らの手柄であると主張、光秀から石谷頼辰が使者として送られるが元親は朱印変更を拒否すると答えた。【元親記】)
(【南海通記】には「天正十年正月、信長の命を以て明智日向守より使者を下し、元親に達して曰く」と記載)
1月15日、安土城で馬揃えと爆竹が行われる。信忠や畿内の大小名が参加する。
1月18日、姫路城で秀吉が津田宗及・山上宗二を招き茶会を催す。【宗及他会記】
1月19日、松井夕閑が堺衆の津田宗及らに手紙を送り、1月28日に信長が上洛し、茶道具を島井宗室へ見せることを伝える。(この件は5月末の上洛まで延期される)【島井家文書】
1月20日、吉田兼見が坂本城の光秀を礼問する。【兼見卿記】
1月23日、紀伊の鈴木孫一が信長の許可を得て、反信長派の土橋若大夫(守重)を攻撃、殺害する。その後鈴木孫一と土橋一族が交戦。2月8日、織田の援軍もあり鈴木孫一が勝利、土橋一族は降伏する。
1月25日、伊勢神宮の上部大夫から100年間途絶えている式年遷宮を行いたいと要望を受ける。信長は3,000貫を寄進、必要があればさらに渡すことを伝える。(その後本能寺の変が起きたため、秀吉の援助で天正13年に遷宮が行われた)【信長公記】
1月28日、吉田兼見が信長の上洛延期を知る。【兼見卿記】
1月29日、信長が尾張の暦(東国で使用されていた三島暦と言われる)を提言する。安土城で尾張の暦師と京暦(宣明暦)側の陰陽頭 賀茂在昌と土御門久脩の間で、閏月について議論が行われる。
※本来、作暦の権利は朝廷にあったが、当時の京暦は翌天正11年正月の後に閏月が入るところを、信長が介入し尾張の暦を推薦し、12月の後に閏月を入れる要望を伝えた。宣明暦は日食や月食を外すことがあったとも言われる。
1月、宇喜多直家が死去(54歳)。宇喜多秀家(11歳)が家督を引継ぐ。
1月、調略により木曽義昌が織田につく。
2月4日、京都所司代の村井貞勝邸で、医師で暦に精通した曲直瀬道三と公家衆が集まり暦を協議。12月の後に閏月を入れない宣明暦のまま使用することを決定し、信長へ伝える。
甲州征伐
天正10(1582)年2月1日、武田方の国衆 木曽義昌が離反したと織田信忠へ報せが入る。
新府城にいる木曽義昌の母や嫡男ら人質が処刑される。
2月2日、武田勝頼・信勝・信豊が15,000の兵で甲斐 新府城から出陣。上原に着陣する。
(【甲乱記】では1月28日に武田信豊(兵3,000)と援軍に仁科信盛(兵2,000)を派遣、2月2日に鳥居峠で木曽義昌と交戦し苦戦するが勝利する。)
2月3日、信長が駿河から徳川家康、関東から北条氏政、飛騨から金森長近が侵攻するよう命じ、伊那から自身と信忠が二手に分かれて進軍することを伝える。
2月9日、信長が甲州出陣の陣触れを発表、明智光秀、筒井順慶、中川清秀、細川忠興、一色義定、池田輝政・元助へ出陣命令を出す。
三好康長には四国へ出陣命令を出す。
信長は遠征のため兵を少なくし、在陣中に兵糧が続くよう補給することを伝える。
織田信忠の侵攻
2月12日、織田信忠が岐阜城から出陣。14日に岩村へ着陣する。
2月14日、信濃伊那郡の松尾城主 小笠原信嶺が織田方につき、信忠の先陣として森長可・団平八が木曽峠を越え侵攻する。飯田城の兵が逃亡、占領する。
信忠が飯田から大島へ進軍。武田信廉らが逃亡、大島城を占領する。飯島へ進軍する。
2月16日、木曽義昌ら別働隊が鳥居峠で武田軍に勝利、その後深志城へ向かう。
安土城にいる信長は信忠や河尻秀隆、滝川一益らに武田領へ深入りせず信長本隊を待つようにと伝える。
2月19日、勝頼夫人が武田八幡宮に、夫の武運長久を祈った願文を奉納する。
2月20日、徳川軍が駿河西部の田中城(城主 依田信蕃)を攻撃。
穴山梅雪の離反
信長が駿河江尻城の重臣筆頭 穴山梅雪(信君)に、内応するよう伝える。甲府にいる人質を逃亡させること、甲斐一国を与えることを条件とし、2月25日、穴山梅雪は雨夜に紛れ人質の妻子を救出する。 甲州征伐後は信長と面会し、家康の与力となる。
2月27日、諏方郡上原城に本陣を置いていた勝頼は穴山梅雪の裏切りを聞き、新府城へ撤退する。
2月末、北条軍が武田領の駿河東部へ侵攻、穴山梅雪の案内で家康が河内路(駿州往還)から甲斐へ侵攻する。
高遠城攻撃
3月2日、信忠・森長可・団平八・河尻秀隆・毛利長秀が飯島から進軍、小笠原信嶺が道案内をする。
信忠軍は高遠城(城主 仁科信盛。勝頼の異母弟)を攻撃、仁科信盛を討ち取り、当日に陥落させる。翌日深志城も開城する。
3月5日、信長、明智光秀、筒井順慶、長谷川秀一らが安土城から出陣、米原柏原まで進軍。近衛前久も同伴する。
3月6日、信長が岐阜城へ入る。仁科信盛の首が届けられる。
3月7日、信忠軍が甲斐へ侵攻、甲府に入る。【信長公記】
3月初旬、武田への援軍として上杉景勝が兵を出陣させる。
勝頼撤退
新府城はまだ未完成であり籠城兵は100人も入れない状況のため、勝頼は評定を開く。
このとき真田昌幸が上野岩櫃城へ移動することを提案するが、家老の長坂光堅が小山田信茂の提案を進言、勝頼は小山田信茂の居城である岩殿城へ入ることを決定する。【甲陽軍鑑】
3月3日、勝頼が新府城に火を懸ける。閉じ込めていた近隣諸国の人質もろとも焼き、一門や親族5、600名で岩殿城へ向かう。【信長公記】
武田信豊は小諸城で防戦するため勝頼と別れる。(その後小諸城で家臣の裏切りに合い自害する)
3月4日、勝頼一行は岩殿城へ向かう途中、勝沼の柏尾へ到着するが小山田信茂からの迎えはなく、駒飼まで進む。ここで人質としていた小山田信茂の母の行方がわからなくなり、小山田信茂が離反したことを知る。【甲乱記】
(【甲陽軍鑑】では勝頼一行は鶴瀬で7日間逗留。小山田信茂が城までの道中に木戸構え(陣の出入口)を建てる。3月9日、小山田八左衛門(信茂の従弟)と武田信堯(信玄の甥)が裏切り、小山田信茂の人質を奪って郡内へ逃れようと木戸構えから勝頼へ鉄砲を撃つ)
(【理慶尼記】では3月7日に小山田信茂が離反、母を伴って自領の郡内へ逃れ、その後兵を笹子峠に出して勝頼一行の移動を阻んだ)
これにより離散が相次ぎ、勝頼の周りは近臣・親族ら43名となる。3月10日朝、一行は天目山麓にある人家7,8軒の田野村へ向かう。
天目山の戦い
3月11日、勝頼は御伴している女房衆へ退去するよう伝え、松姫(信松尼、新館御料人)は天目山の奥へ退去させる。 嫡男 信勝(正室龍勝院の子)へも退くよう伝えるが、信勝は勝頼が北条の元へ逃れられ、自身は切腹すると返答する。
3月11日巳の刻(9~11時)、天目山の農民が一揆を起こし、勝頼らを攻撃。農民らは織田軍を案内し、滝川一益が田野村で勝頼一行を発見する。 残った女房衆が介錯されたところ、織田の兵が襲いかかる。
勝頼は土屋昌恒・金丸定光とともに織田兵と斬り合い、討ち死する(37歳)。信勝も斬り合い討ち死する(16歳)。北条夫人(19歳)は自害する。【甲陽軍鑑】
織田軍は2月末から3月初めにかけ武田残党へ、安堵を伝え御礼に参上するようにと計略の回状を出す。隠れていた武田家臣は次々に出頭する。
武田信廉(逍遙軒)は府中で、小山田信茂、武田左衛門(信玄の弟)、小山田八左衛門、小菅五郎兵衛は善光寺で処刑される。
一条殿は家康の命令で市川で、秋山昌成は高遠で処刑される。【甲陽軍鑑】
※その他【信長公記】に記載された処刑された武将
武田信基、武田信由、朝比奈摂津守、諏訪頼豊、山懸三郎兵衛子(昌景の子・隆宝)
3月22日、武田勝頼、武田信勝、武田信豊の首が京都へ届き、長谷川宗仁によって一条大路で晒し首となる。【言経卿記】
徳川軍が攻撃していた駿河 田中城が開城、依田信蕃が降伏する。(その後依田信蕃は信長から切腹を命じられるが二俣の奥へ避難、本能寺の変後に信濃小諸へ復帰、徳川方につく。【依田記】)
戦後処理
3月11日、信長が美濃岩村城に入る。
3月19日、信長が諏訪へ入る。
ここで各隊を招集、兵を整える。織田信澄、菅屋長頼、矢部家定、福富秀勝、堀秀政、長谷川秀一、氏家源六、竹中重矩、原長頼、武藤助、蒲生氏郷、細川忠興、池田元助、蜂屋頼隆、阿閉貞征、不破直光、高山右近、中川清秀、明智光秀、丹羽長秀、筒井順慶らが集まる。
3月20日、穴山梅雪が挨拶に出仕、信長は甲斐河内領の安堵を伝える。木曽義昌も出仕、安曇郡・筑摩郡の加増を伝える。
3月21日、北条氏政から使者が来て、武田領平定を祝い馬や酒など進物を献上する。
3月23日、信長が滝川一益を呼び寄せ、上野国と信濃2郡を与え、関東八州の警護を命じる。
3月24日、善光寺で小山田信茂が母・妻・子2名とともに処刑される。【甲乱記】
3月29日、旧武田領の知行割を実施。滝川一益を関東取次役とする。
滝川一益:上野国、信濃国2郡(小県郡、佐久郡)
森長可:川中島4郡(高井・水内・更級・埴科郡)
徳川家康:駿河国を加増(うち江尻城は穴山領、興国寺城は旧武田家臣 曾根昌正領)
河尻秀隆:甲斐国(穴山梅雪の河内領を除く)と信濃諏訪郡
毛利長秀:信濃国伊那郡
木曾義昌:木曾郡安堵、安曇郡・筑摩郡を加増
小笠原貞慶には旧領を与えるとしていたが安曇郡・筑摩郡は木曾義昌に与え、貞慶は追放された。
上野の国衆(真田昌幸・小幡信貞ら)は安堵となる。
同3月29日、信長は諸将に帰陣を命じ、重臣らに同伴を命じる。軍勢は帰国を開始。
4月2日、北条氏政からキジ500羽が進上される。
4月3日、信長は新府城の焼け跡を見て甲府へ入り、躑躅ヶ崎館跡に御殿を建てる。
徳川領見物 3月19日、三河の松平家忠へ、信長帰路のため茶屋の建設と甲斐本栖へ集まるよう命じられる。【家忠日記】 4月10日、信長が甲府を出発。南下して駿河へ入り、徳川領内の見物(「家忠日記」では"御成")を行う。 家康は各地に多数の茶屋や御殿や厩を建て、信長の家来衆のために1,500軒の小屋を建てる。道には警護の兵を配置、山道では伐採をして石を取り除き道を開く。また食事では京都や堺から珍品を取り寄せる。 4月11日、右左口峠や女坂の山や谷で松平家忠ら三河衆が警護する。【家忠日記】 4月12日、本栖・大宮(浅間神社)を通過し、雪が残る富士山を見て、裾野にある人穴を見物する。 ここで家康は茶店を用意し接待すると、信長は家康に太刀や馬を与える。【家忠日記増補追加】 4月13日、大宮を出発。その後神原、江尻、田中、藤枝、掛川を通過。 大河の天竜川では家康が舟橋を作らせる。国中から人を動員して大綱数百本を張り、多数の舟を並べて丈夫な橋を完成させる。他の川にも舟橋を設置する。 4月16日、信長が浜松城へ入る。信長は小姓衆・馬廻りを解散させ、弓衆・鉄砲衆のみが警護する。信長は武田攻めに準備していた兵糧8,000俵を徳川家臣に分配する。 4月17日、今切の渡しを家康の御座船で渡り、名所の浜名の橋を見物する。 4月18日、吉田城で酒井忠次の接待を受ける。信長は酒井忠次に長太刀、黄金200両を与える。【家忠日記増補追加】 その後矢作を通過、池鯉鮒で水野忠重の接待を受ける。 4月19日、松平家忠が信長が連れた黒人を目撃する。「上様(信長)が俸禄を与え、宣教師が進上した、黒い男をお連れしている。身体は墨のようだ。身の丈は六尺二分(約182.4cm)。名は弥助というそうだ。」【家忠日記】 4月19日、清洲へ到着。 4月21日、安土城へ帰還する。 【信長公記】 |
天正10(1582)年2月14日、各地で浅間山の異変が観測される。
※【多聞院日記 2月14日条】「今夜の初夜時、丑寅の方角が大焼けになる。」
【多聞院日記 3月23日条】「先述の天の雲が焼けたと見えたのは、信州浅間の岳が焼けたのである。…この間の大風、霰、飛火、逆雨などは内裏が信長の敵国の神達を全て流したからである。」
※【フロイス日本史】「この1582年の3月8日(ユリウス暦)の夜の10時に、東方から空が非常に明るくなり、信長の最高の塔(安土城天守閣)の上方では恐ろしいばかり赤く染まり、朝方までそれが続いた。この明るさも赤さも、はなはだ低そうに見えたので、同所から20里はなれたところでは見られなかったであろうが、後になり、豊後国でも同様の兆候が見受けられたことが判明した。」
※常陸国の【烟田旧記 2月14日条】では戌方から寅方まで焼雲が目撃されたと記載。
3月、柴田勝家・前田利家・佐々成政・佐久間盛政が上杉領の越中 魚津城を包囲。(攻撃は本能寺の変翌日まで続く)
4月、滝川一益が関東の諸大名へ天徳寺宝衍(佐野房綱)を派遣し、織田家へ従属させる。
4月、秀吉が毛利配下の三島村上水軍、来島通総、得居通幸(来島通総の兄)の調略に成功する。
4月3日、織田信忠が甲斐にある武田家の菩提寺 恵林寺を焼き討ちにし、150人余りを殺害する。
住職の快川紹喜(武田信玄が京から迎え入れた住職。土岐氏の出身とされる)は寺に逃げ込んだ武田旧臣の佐々木次郎(六角義定と考えられているが詳細は不明)をかくまっており、信忠が引き渡しを命じるも快川紹喜は佐々木次郎を逃し、抵抗する。
「寺中の老若を残さず山門へ登らせ、廊門より山門へ枯草を積ませ火をつけた。初めは黒煙が上がり見えなかった。次第に煙がおさまり、火が上がり人の姿が見えたところに、快川長老は全く騒がず座ったまま動かなかった。その他老若・子供・若衆などは躍り上がり飛び上がり、たがいに抱きつき、大焦熱の焔にむせび、地獄の苦しみを悲しむ有様は目も当てられなかった。」【信長公記】
4月5日、信濃 飯山で一揆が発生。飯山城(城主 稲葉貞通)を一揆勢が包囲。信長は稲葉重通らを援軍に向かわせ、海津城からも森長可が応援に向かう。
4月8日、一揆勢8,000と交戦。1,200名を討取り、勝利する。
4月23日、奈良の多聞院英俊が、彗星を目撃する。「乾の方角(西北)に彗星が出た。光の元は戌亥(西北)、方向は辰巳(南東)、長さ十丈もあるかと見る。近年のなかき光なり、物の怪(もののけ、怪奇現象)である。(追記で)信長自害の先端なり」【多聞院日記】
4月24日、信長が丹後の細川藤孝に中国出陣準備の指示を出す。「小早川隆景が備中高松に籠り(※小早川隆景は援軍として城外にいた)秀吉が包囲している。いつでも出陣できるよう油断なく用意せよ。命令の詳細は光秀が伝える。」【細川家文書】
備中高松城の戦い(4~5月) 天正10(1582)年4月、羽柴秀吉(兵数 羽柴秀吉20,000+宇喜多忠家10,000)が備中七城を攻撃。 毛利の援軍として小早川隆景が幸山城に到着する。 4月23日、秀吉が摂津 茨木城の中川秀政へ戦況を伝える。 5月3日、秀吉は加茂城・日幡城などの支城も攻略。 「五月朔日より大小の河水を関入れ、また山の奥に分け入って谷川からも水を引き入れたので、五月六日の頃は水がどこへいったのか溜まるようには見えなかったが、十日頃には前から低かった所は、もはや人が住むこともできなくなった。 5月18日、秀吉が4月に織田方についた得居通幸へ、堤が完成したことと水軍の要請を伝える。【真田宝物館所蔵文書】 5月21日、毛利の援軍として毛利輝元、吉川元春が到着。 「五月二十五、六日頃には、町家などは床を高くかき上げ、浮き沈む様子は憐れだった。さらに痛々しかったのは、蛇、ねずみ、いたちなどが床の上へ上がり、はらってもはらっても首を傾けて来るので、女性や子どもは耐えかねてくつろげなかった。始めのうちは大声で叫んでいたが、後には慣れたのか、静かになった。」【甫庵太閤記】 |
天正10(1582)年4月25日、勧修寺晴豊が京都所司代 村井貞勝を訪れる。(三職推任問題)
「村井の所へ参った。安土へ女房衆を遣わし、太政大臣か関白か将軍か、ご推任すべきことを申された。そのことを申し入れた。」【日々記】
天正6(1578)年に右大臣を辞任して以来、官位についていない信長へ官位を勧める会話を行う。(この時推任を申した人物が朝廷側か、村井貞勝(信長側)か不明となっている)
4月27日、村井貞勝邸に公家衆が集まり、安土へ向かわせる女房衆を上﨟局(花山院家輔女)と大御乳人に決定する。
5月4日、朝廷から勧修寺晴豊と女房衆が安土へ到着、信長は森乱丸(森蘭丸)に対応させる。
「信長より御乱という小姓を寄こし、どのような御使のことかと申された。関東を討ち果たされておめでたい時に、将軍になられるべきとのことを申すと、また御乱に御書を出された。」【日々記】
5月6日、勧修寺晴豊と女房衆が信長と面会。(以降三職推任の記述は無く、信長の返事は不明となっている)
5月7日、信長が徳川領見物のお礼として三河・遠江の国衆に兵糧を下賜する。【家忠日記】
5月7日、信長が長宗我部討伐を決定。織田信孝(神戸三七郎)に四国の領地配分と信長自身も四国へ出陣することを伝える。
「就今度至四国差下条々
一、讃岐国一円を信孝へ申し付ける事
一、阿波国一円を三好康長へ申し付ける事
一、その他両国(伊予・土佐)は信長自身が淡路へ出馬後に決定する事
国衆は忠誠を誓う者は取り立て追放すべき族は追放し、領国支配を厳しくせよ。三好康長を主君または父と思い協力せよ。」【寺尾菊子氏所蔵文書】
伊勢の慈円院正以が信孝の出陣について伊勢内宮の神宮へ伝える。
「御朱印は四国切り取りの御朱印であります。表向きは三好の養子に成られるということです。…当郡の名主百姓のうち六十歳から十五歳を境として、(信孝の部隊として)悉く出陣されました。」【神宮文庫所蔵文書】
5月10日頃、家康一行が安土へ向け出発。
5月上旬、四国軍先手として三好康長が勝瑞城へ着陣。一宮城・夷山城を攻略する。【元親記】
5月21日、長宗我部元親が信長へ書状を送る。
「一、この度の承諾が遅れていること、ことさら他意はありません。…秋に準備をして申し上げれば、叶うこともあろうかと覚悟しています。
一、一宮を始め、夷山城・畑山城・牛岐城・仁宇南方から残らず空け退きました。これにても披露は難しいと石谷頼辰が言われ、どうしようもありません。
一、いかがあっても(土佐に近い)海部・大西の両城は確保しなければなりません。これは阿波・讃岐を求めるためでは決してなく、当国の入り口として確保しなければいけません。哀れ成敗されるとはどうすることもできません。」【石谷家文書】(一部を抜粋)
(土佐から安土までは半月~1ヶ月かかるため信長に届くことはなかった)
<徳川家>
甲州征伐に参戦 天正10(1582)年2月20日、徳川軍が駿河西部の田中城(城主 依田信蕃)を攻撃。 信長が武田家重臣筆頭の穴山梅雪(信君)に内応するよう伝えると、2月25日、梅雪は雨夜に紛れ府中にいる人質の妻子を救出する。 3月4日、家康が穴山梅雪と対面。梅雪は太刀・馬・鷹を進上する。 3月19日、三河の松平家忠へ、信長帰路のため茶屋の建設と本栖へ集まるよう命じられる。【家忠日記】 甲州征伐を終えた信長は4月10日より領国内見物を行い、家康が同行して接待する。 4月16日、信長が浜松城へ入る。 4月19日、松平家忠が信長が連れた黒人を目撃する。「上様(信長)が俸禄を与え、宣教師が進上した、黒い男をお連れしている。身体は墨のようだ。身の丈は六尺二分(約182.4cm)。名は弥助というそうだ。」【家忠日記】 |
5月7日、信長から徳川領見物のお礼として三河・遠江の国衆へ兵糧を拝領する。【家忠日記】
5月10日頃、家康一行(本多忠勝・酒井忠次・井伊直政・榊原康政・石川数正・服部正成・穴山梅雪ら重臣・小姓の34名)が御礼のため、浜松から京へ向かう。
<武田家>
天正10(1582)年1月、木曽郡の木曽義昌が織田へ離反する。勝頼は新府城にいる木曽義昌の母や嫡男ら人質を処刑する。
甲州征伐 2月19日、勝頼夫人が武田八幡宮に、夫の武運長久を祈った願文を奉納する。 信長が駿河江尻城の穴山梅雪(信君)に内応するよう伝えると、2月25日、穴山梅雪は雨夜に紛れ府中にいる人質の妻子を救出する。 2月27日、諏方郡上原城に本陣を置いていた勝頼は穴山梅雪の裏切りを聞き、新府城へ撤退する。
新府城では穴山梅雪の離反が伝わると多くの家臣が本拠へと離散してしまい、1,000程度の兵数となる。 新府城はまだ未完成であり籠城兵は100人も入れない状況のため、勝頼は評定を開く。 3月2日、武田信豊は小諸城で防戦するため勝頼と別れる。(その後小諸城で家臣の裏切りに合い自害する) 3月3日、勝頼が新府城に火を懸ける。閉じ込めていた近隣諸国の人質もろとも焼き、一門や親族5、600名で岩殿城へ向かう。【信長公記】
3月4日、勝頼一行は岩殿城へ向かう途中、勝沼の柏尾へ到着するが小山田信茂からの迎えはなく、駒飼まで進む。ここで人質としていた小山田信茂の母の行方がわからなくなり、小山田信茂が離反したことを知る。【甲乱記】 (【甲陽軍鑑】では勝頼一行は鶴瀬で7日間逗留。小山田信茂が城までの道中に木戸構え(陣の出入口)を建てる。3月9日、小山田八左衛門(信茂の従弟)と武田信堯(信玄の甥)が裏切り、小山田信茂の人質を奪って郡内へ逃れようと木戸構えから勝頼へ鉄砲を撃つ) (【理慶尼記】では3月7日に小山田信茂が離反、母を伴って自領の郡内へ逃れ、その後兵を笹子峠に出して勝頼一行の移動を阻んだ) これにより離散が相次ぎ、勝頼の周りは近臣・親族ら43名となる。3月10日朝、一行は天目山麓にある人家7,8軒の田野村へ向かう。 3月11日、勝頼は御伴している女房衆へ退去するよう伝え、松姫(信松尼、新館御料人)は天目山の奥へ退去させる。 嫡男 信勝(正室龍勝院の子)へも退くよう伝えるが、信勝は勝頼が北条の元へ逃れられ、自身は切腹すると返答する。 3月11日巳の刻(9~11時)、天目山の農民が一揆を起こし、勝頼らを攻撃。農民らは織田軍を案内し、滝川一益が田野村で勝頼一行を発見する。 残った女房衆が介錯されたところ、織田の兵が襲いかかる。 勝頼は土屋昌恒・金丸定光とともに織田兵と斬り合い、討ち死する(37歳)。信勝も斬り合い討ち死する(16歳)。北条夫人(19歳)は自害する。【甲陽軍鑑】 家臣は跡部勝資、長坂光堅、土屋昌恒、金丸定光、秋山光綱、安倍宗貞、小宮山友晴、小原広勝・忠国兄弟、阿部勝宝、小山田平左衛門、大熊朝秀らが戦死する。 これにより武田家が滅亡する。 |
<北条家>
天正10(1582)年2月、信長の甲州征伐に伴い、氏政・氏直が武田領の駿河東部へ進軍。徳倉城、沼津城、深沢城など諸城を落とし、富士川以東を支配下に置く。その後甲斐へ進軍。また上野では箕輪城を占領する。
3月29日、信長が旧武田領の知行割を実施。上野は滝川一益領、北条軍が占領した駿河東部は没収、駿河国は徳川領とされる。
氏照が占領した下野 小山城も、小山秀綱の要望を聞き入れた信長が北条へ引き渡しを要求。小山秀綱へ返還する。
天正10年、里見義頼が北条と対立。
<上杉家>
天正10(1582)年3月、織田軍の柴田勝家・前田利家・佐々成政・佐久間盛政が越中へ侵攻、魚津城を包囲する。(上杉景勝は新発田重家の反乱軍と戦闘中ですぐには援軍を出せない状態だった)
4月23日、魚津城の12将が直江兼続へ書状を送る。
「当地のことは以前に申し上げたように、壁際まで取り詰められ、昼夜を問わず四十日攻められていますが、今日に至るまで守ってきました。しかしこの上は滅亡すると思われます。このことを然るべく景勝様へご披露差し上げるようお頼み申します。」【中条家文書】
5月6日、織田軍の攻撃により、魚津城の二の丸まで占領される。
5月15日、景勝が魚津城の救援に向かい天神山城(魚津城より東5km)へ入る。しかし森長可が信濃から春日山城へ侵攻するとの報せが届いたため、5月26日深夜、松倉城の兵とともに春日山城へ撤退する。天神山城には須田満親らを守備に残す。
「昨日二十六日、松倉を空け退いて、同夜子の刻に景勝が退散した。」【前田利家書状】
上杉家の危機を悟った景勝が佐竹義重へ手紙を送る。
「とりわけ景勝はよき時代に生まれ、弓矢を構え、六十余州を越後一国で相支え、一戦して滅亡することは死後の思い出、とても光栄です。もし生き残ることができれば、日本無双の英雄となれるでしょう。」【佐竹文書】
<真田家>
天正10(1582)年2月、真田昌幸は諏訪軍議で武田勝頼に岩櫃城での籠城戦を勧め、自身は岩櫃城に戻り御殿を増築する。【甲陽軍鑑】
しかし勝頼は小山田信茂の進言を聞き岩殿城へ向かい、小山田信茂の裏切りに合う。
織田軍が甲斐へ侵攻すると、信幸ら人質は解放され、昌幸らは真田郷へ落ち延びる。
3月、上野へ侵攻してきた滝川一益に沼田城を開け渡す。
4月、昌幸が信長に馬を献上、織田に服従する。滝川一益の家臣となる。
<毛利家>
天正10(1582)年4月、秀吉が三島村上水軍の来島通総を調略、織田方につく。能島村上武吉へも秀吉から手紙が届くが毛利方に留まった。
4月、備中高松城の戦い。清水宗治が守る備中高松城を羽柴秀吉(兵数 羽柴秀吉20,000+宇喜多軍10,000)が攻撃。足守川の流れを堰き止め、城を水攻めにする。
5月21日、後詰の毛利軍(毛利輝元・吉川元春・小早川隆景 兵数30,000)は足守川を挟んだ山に布陣し、対峙が続く。その後安国寺恵瓊が秀吉と和睦交渉を行う。
<宇喜多家>
天正10(1582)年1月、宇喜多直家が死去(54歳)。宇喜多秀家(11歳)が家督を引継ぐ。まだ若い当主を叔父の宇喜多忠家や重臣らが補佐した。
4月、宇喜多軍10,000が備中高松城の戦いで秀吉に加勢する。
<長宗我部家>
天正10(1582)年1月11日、光秀家臣の斎藤利三が石谷光政に、長宗我部元親の軽はずみな行動を諌め信長の指示に従うようにと伝える。【石谷家文書】
(信長が切り取り次第としていた四国の所領を、前年に朱印を変更し土佐一国と阿波南郡半国のみとされた元親は所領は自らの手柄であると主張、光秀から石谷頼辰が使者として送られるが元親は朱印変更を拒否すると答えた。【元親記】)
5月7日、信長が織田信孝(神戸三七郎)に讃岐、三好康長に阿波を与える領地配分を伝える。【寺尾菊子氏所蔵文書】
5月上旬、四国軍先手として三好康長が勝瑞城へ着陣。一宮城・夷山城を攻撃する。【元親記】
5月19日、元親が織田軍との抗戦に備えて出陣、阿波の国衆 木屋平へ書状を送る。
「上方勢が渡海することに付き、両国(阿波・讃岐)に命じるため、一昨日大西に到着し、昨日岩倉まで到着した。いよいよ各々覚悟をもって堅固にし、防戦に専念するように。」【阿波の中世文書】
5月21日、元親が信長へ書状を送る。
「一、この度の承諾が遅れていること、ことさら他意はありません。…秋に準備をして申し上げれば、叶うこともあろうかと覚悟しています。
一、一宮を始め、夷山城・畑山城・牛岐城・仁宇南方から残らず空け退きました。これにても披露は難しいと石谷頼辰が言われ、どうしようもありません。
一、いかがあっても(土佐に近い)海部・大西の両城は確保しなければなりません。これは阿波・讃岐を求めるためでは決してなく、当国の入り口として確保しなければいけません。哀れ成敗されるとはどうすることもできません。」【石谷家文書】(一部を抜粋)
(土佐から安土までは半月~1ヶ月かかるため信長に届くことはなかった)
6月、本能寺の変の報せが入り、三好康長は河内へ撤退する。
<龍造寺家>
天正10(1582)年1月、蒲池氏殺害に恨みを持つ猫尾城の黒木氏が謀反。鍋島直茂が攻撃して鎮圧。
天正10年、大村純忠の嫡男 喜前を人質に取り、大村氏を服従させる。
<国内の出来事>
1月28日(ユリウス暦 1582年2月20日)、天正遣欧使節団が長崎からローマへ出発。日本初の公式欧州使節団となる。
大型帆船に正使・副使の少年4名とヴァリニャーノら宣教師、船員合わせて300名が乗船する。
九州のキリシタン大名大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、セミナリオ(キリスト教の学校)の第一期生22名から少年4名が選抜される。
伊東マンショ(正使)
千々石ミゲル(正使)
中浦ジュリアン(副使)
原マルティノ(副使)
少年使節団の派遣はイエズス会の司祭ヴァリニャーノによる発案。
ヴァリニャーノは派遣する目的を、スペイン・ポルトガル両王への日本での援助を依頼すること、日本人にキリスト教世界を見せることで日本での布教活動をより進めるためとしている。
天正遣欧使節団の主な行程 ユリウス暦 1582年2月20日(天正10年1月28日)、長崎を出港。 ※1582年10月5日、イタリアのローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦からグレゴリオ暦(ユリウス暦に対して新暦と呼ばれる)へ改暦、この日をグレゴリオ暦10月15日とした。 1582年12月31日、マカオから出港。その後マラッカ、南インドのトゥリシャンドゥルを経由する。 1583年4月7日、南インドのコチンに到着、順風を待つ。 1583年10月30日頃、コチンを出港。 1583年11月10日、インドのゴアに到着。ヴァリニャーノが下船、インド管区長としてインドに滞在する。 グレゴリオ暦 1583年12月20日、ゴアを出港。 1584年5月10日、喜望峰を通過。 大西洋の船上で疫病が発生、乗組員32名が死亡する。 1584年8月11日、ポルトガル・リスボンに上陸、内陸へ向かう。 1585年3月1日、海路でイタリア・リヴォルノに到着。 1585年3月7日、フィレンツェに到着、メディチ家の舞踏会に招待される。 その後ヴェネツィア、ミラノを巡察、ジェノヴァを出港。 1585年8月16日、スペイン・バルセロナに到着。 1585年11月、ポルトガル・リスボンに戻る。 1586年4月12日頃、ポルトガル・リスボンから帰路につく。 1586年7月7日、喜望峰を通過。 1586年9月1日、モザンビークに到着、翌年3月まで滞在。 1587年5月29日、インド・ゴアに到着、翌年4月まで滞在。ヴァリニャーノと再開、ヴァリニャーノはインド副王の使節として乗船する。 1587年7月24日(天正15年6月19日)、日本で伴天連追放令が出される。 1588年4月22日、ゴアを出港。 1588年8月11日、マカオに到着。この地で日本の伴天連追放令が知らされる。ヨーロッパから持ち帰ったグーテンべルク印刷機によって『キリスト教子弟の教育』 と『遣欧使節対話録』 が印刷される。 1590年6月23日、マカオを出港。 1591年3月3日(天正19年閏1月8日)、聚楽第で秀吉に謁見。西洋音楽の演奏を披露する。 |
※参考文献:『新装版 天正遣欧使節』松田毅一(著) 朝文社