1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (前半)

関ヶ原の戦いまでの流れ

 

慶長5年(1600年)

慶長5年(1600年)1月、上杉景勝の使者として藤田信吉が年賀の挨拶に大坂城を訪れる。

3月、越後の堀直政が徳川家康に、昨年より会津の上杉景勝が神指城の築城や道路整備を始めていることを伝える。
※神指城:一辺700m四方の平城。6月に工事を中断。調査から完成までは数年かかる規模であったこと、石塁や一部の堀が掘削されたのみで建造物の形跡がなく工事は進んでいなかったことが判明している。

3月中旬、藤田信吉が上杉家を離反、江戸を経由して上洛、家康に上杉景勝の謀反を申告する。

 

「景勝は領地に帰り前田利長と越後を攻奪しようとした。堀秀政 (※秀治の誤り) は大いに怖れ家康に報告した。家康も関東を気にし、景勝に京に戻るよう勧めたが従わなかった。
倭人が言うには、景勝が関東を突くとする。家康は関東に救援しようとすれば多分清正らがいっせいに立ち上がるであろうから、大坂は所領ではなくなるだろう。…成功しないはずはないが、惜しいかな景勝は愚劣で自分を奮発しようとしないであろう。」【看羊録】
(看羊録の筆者 姜沆は朝鮮への帰国が許され4月2日に京を出発する)

姜沆は小早川秀秋と面会した舜首座から「内府はやがて明年には再挙して朝鮮を犯そうとしている。」と伝えられる。
家康は不仲な前田利長と宇喜多秀家を朝鮮に送り、消耗させようとしているとの話を聞く。【看羊録】

 

4月1日、徳川家康は直江兼続と親交のある京都 相国寺の西笑承兌に上洛遅延について詰問状を書かせ、使者として伊奈昭綱・河村長門を会津へ派遣する。

 

<承兌書状 (要約)>
「景勝殿の上洛遅延について内府様 (家康) は不審に思っていて、噂を見逃すことはできないので伊奈昭綱・河村長門を送ります。
一、神指原に城を築城し越後津川口に道橋を作ることはいずれもあってはいけないこと、これは貴殿に非があり内府様が不審に思うのはやむを得ないことです。
一、景勝が律儀なのは内府様もわかっているので弁明があれば問題はありません。ただ堀直政の告発には陳謝が必要です。

一、前田利長謀反の件は問題なく落ち着いたのでこれを前例の戒めとするべきです。
一、一刻も早く上洛するように貴殿が計らうべきです。
一、会津で武具を集め道橋を作っていることが問題です。朝鮮へ使者を出していて降伏しなければ来年か再来年軍勢を出すことになりその相談もあるので上洛が必要です。
一、私と貴殿は年来通じており心配です。その地の存亡、上杉家の興廃にかかわることです。」

 

4月14日、直江兼続が承兌書状に返信する。

<直江状 (抜粋) >
「今月朔日の尊書、昨十三日に着き拝見しました。
一、景勝の上洛遅延についてなにかと申し廻りされているようで不審に思います。一昨年、国替えのとき程なくして上洛し、去年九月に帰国したので、当年正月に上洛を申されてはいつ国の政務ができるのでしょう。特に当国は雪国にて十月より三月までは何事もできません。当国の案内者にお尋ねくだされば、何者が景勝に逆心ありと申しているのか推測できるでしょう。
一、景勝に別心が無いのであれば誓紙を書くように申されますが、去年以来数通の起請文が反故にされていて、重ねて行う必要はありません。

一、景勝には毛頭別心はありませんが、陥れた者の申し分の糾明なく、逆心ありと思われて是非もありません。またなおざりが無いようにするには、陥れた者を引き合わせて是非を尋ねるべきです。そのようなことがないなら、内府様に表裏があるのだと思います。
一、武具を集めている事は、上方の武士は最近茶碗・炭取・瓢箪など人たらしの道具を所持されていますが、田舎武士は鉄砲、弓の道具を準備します。その国々の風俗と思われれば不審なことはありません。たとえ世間にこれ以外の準備をさせ、不似合いの道具を用意させても、景勝の身分がどれほどのものでしょうか、世間に不似合いの沙汰と思われるでしょう。

一、道を作り、舟橋を命じられ、往来が煩わしくないようにするのは国を持つ者の役目であるので当然のことです。越後国においても舟橋道を作りました。端々に作り残っていたからで、堀監物 (堀直政) も深く知っているはずです。当国へ移ってからの仕置ということではなく、(旧)本国ですから、堀秀治を踏みつぶすのに何の手間が入るでしょうか。
一、当年三月は謙信の追善供養があるので、その後、夏頃にお見舞いとして上洛するお考えです。
一、長々と言うまでもなく、景勝に毛頭別心はなく、上洛の件はできないよう仕掛けられたので是非もありません。」

 

(宣教師も上杉家とのやりとりを記録している)
「 (上杉) 景勝宛に、貴殿がただちに上洛しないなら、自ら出陣し、貴殿を反徒として懲罰するであろう、との伝言を送った。
ところが、この景勝はきわめて勇敢な武将で、 (石田) 治部少輔や (前田) 肥前殿、その他内府様に良からざる領主たちと密かに気脈を通じ連繋を保っていたので、内密に、これ以上はありえぬほど巧妙な策略[日本ではこれを武略と呼ぶ]をめぐらした。
その策略として、景勝が書状で内府様など物の数ではないとの態度を示して内府様を挑発し始めた。そこで内府様は、自ら景勝討伐に赴かざるを得なくされた。」
【十六・七世紀イエズス会日本報告集「1599~1601年 日本諸国記」】

 

4月20日、江戸城の徳川秀忠が堀尾忠氏へ書状を送る。「会津の件伝え来られ、只今は上洛しないことを聞き申した」【大阪青山短期大学所蔵】

4月27日、伏見にいる島津義弘が本国の義久へ書状を送る。(義弘は昨年各大名が大坂へ移動した後も伏見に留まっていた)

「伊奈昭綱殿と御奉行より使者が添えられ、去月十日(「去る十日」と訳す資料もあり ※いずれも直江状と日程が合わない)に伏見を立ち会津へ下向し、(景勝が)必ず六月上旬の頃に上洛すると返事を申し放ったので、その返事により内府様は出馬されることが定まりました。

伏見城の留守番をするよう直接仰せられました。留守役について知人と相談したところ、どのようにしても公儀なのでご命令次第従うのがよいということです。
当家は留守役なので百石に一人役命じられれば整います。伏見城本丸は武田信吉 (家康の五男) が入り、内府様は手勢を全て引き連れ東国へ向かわれるそうです。」【旧記雑録後編 三】
(その後義弘への命令は出されず、武田信吉は江戸城の守備につき伏見城には鳥居元忠が入った)

 

4月28日、飛地領の豊後杵築にいた細川忠興のもとへ使者が来て、景勝が謀反したため早々に上洛するようにと伝えられる。翌日に出港、5月5日大坂へ入る。【細川忠興軍功記】

5月3日、徳川家康が会津と接する那須衆の伊王野資信へ返書を送り、出陣を伝える。「街道口を固く守るように、まもなく出陣して討ち果たす」【徳川家康文書の研究 中巻】

5月7日、長束正家、増田長盛、中村一氏、生駒親正、堀尾吉晴が家康を諌める。
直江兼続へのご立腹はごもっとも、相手は田舎者だから出馬は中止か来年でもよい、秀頼様を見捨てる行為はいけないと伝える。【古今消息集】

関ヶ原の戦い直前の勢力図と各大名の石高

1600年勢力図-石高
※参考文献:『歴史人 真説大関ヶ原』2015年9月号 他)

 

6月初旬、細川忠興が丹後へ帰国する。【細川忠興軍功記】

6月8日頃、毛利輝元、宇喜多秀家が大坂から帰国する。(【義演准后日記 6月8日条】に帰国のため進物を遣わさずと記載)

6月10日、上杉景勝は安田能元・本庄繁長ら家臣へ、上洛に至らなかった経緯と上方勢の攻撃に備えることを伝える。

「この度上洛できないこと、第一に家中無力、第二に領内仕置のため、秋まで延期したいと奉行衆へ返答したところ、さらに逆心ありとの告げ口があり上洛なくばこちらへ軍が出ることとになった。
しかし元来逆心は無いので、万事投げ打って上洛する覚悟となり、告げ口が誰か糾明を一カ条申し入れたところ、問題にされずただ上洛せよとばかり伝えてくる。
そのうえ日を決めた催促、このように押し詰められ、上洛はどうしてもできない。数通の起請文も反故になった。
この旨を理解できる者は供の用意をせよ、理解できない者は去るように。上方の軍勢が下る日がわかり次第、途中で迎え撃つ。」【越後文書宝翰集】

 

上杉討伐のため関東へ向かう

6月16日、徳川家康が大坂城を出陣、伏見に到着する。【言経卿記】

伊達政宗が兵数3,000で従軍する。【義演准后日記】
見送りとして島津義弘が山科まで参上する。【島津家譜】
鍋島直茂は佐賀へ帰国、息子の鍋島勝茂・龍造寺高房が従軍のため出陣準備を行う。

家康は鳥居元忠・松平家忠・内藤家長らへ伏見城の在番を命じる。

「十七日に千畳敷櫓の奥座敷へ御出になられ、ご機嫌よく四方を眺めて座敷に立たれ、お一人でにこやかにお笑いになる。
鳥居元忠はその座にいたが、始めはご覧にならず、お座敷を立ち回られて(鳥居元忠を)ご覧になり、立たせられ御意として、"この城は太閤が日本の人々を集めて石積みになられた。
不測の事が起きて、鉄砲の玉に事欠くことがあれば、本丸天守に金銀が入れ置いてあるので取り出し、玉として鋳て撃たれよ" とのお考えだった。そのまま奥へ入られた。」【慶長年中卜斎記(~1644年成立)】

 

上杉討伐に出陣

関ヶ原の戦い 会津征伐 上杉討伐

 

6月18日辰の上刻、伏見を出発。【田中興廃記(1822年)】
家康が出陣して下国し、巳の刻 (9〜11時) に醍醐を通る。【義演准后日記 6月18日条】

大津にて京極高次が御膳を用意する。その晩、石部に到着する。【関原始末記(1656年)】

6月19日朝、水口城の長束正家父子が水口城で御膳を献上したいと伝えに参上する。その夜、家康は水口の辺へ向かい道中から使者を出し、用があるので急ぎ通過することを伝え、来國光の脇差を与えた。長束正家は仰天し、土山までお供する。【関原始末記】

6月19日、鈴鹿峠を越え、関地蔵に宿泊。

6月20日、四日市より、お供には陸路を周らせ、家康は舟に乗り、女中十人・小姓十人ほどで佐久島の崇運寺で宿泊。【慶長年中卜斎記】

 

6月21日、三河 吉田へ到着。
吉田城で池田輝政が御膳を献上、浜松城で堀尾忠氏が御膳を献上する。【関原始末記】
その夜に遠江 中泉御殿へ到着。【慶長年中卜斎記】

6月22日、掛川城で山内一豊がもてなす。【戸田左門覚書】(この覚書では24日と記載)

6月22日、島田へ到着。
6月23日、駿府城で病気の中村一氏を見舞う。清見寺へ到着。【慶長年中卜斎記】(中村一氏はこの後7月17日に病死する)

6月24日、三島へ到着。
沼津で本多正信、大久保忠隣らが江戸より御迎えに参上する。【関原始末記】

6月25日、小田原へ到着。
6月26日、藤沢へ到着。
6月27日、藤沢より鎌倉見物。
6月28日、鎌倉へ到着。
6月29日、神奈川へ到着。
7月1日、江戸城西の丸へ到着。【慶長年中卜斎記】

「そのうち秀忠公が大名衆を招き酒食でもてなし、能を仰せ付けられた。誠に緩々とした様子に多くの人は心がけが悪いと思った。」【田中興廃記】

 

江戸城入城

関ヶ原の戦い 徳川家康 江戸城入城

 

 

6月27日、細川忠興が丹後宮津城から出陣。7月1日、近江の朝妻 (米原) を経由し、中山道から宇都宮へ向かう。【細川忠興軍功記】

7月2日、大谷吉継が家康に合流するため、敦賀城を出陣し美濃の垂井へ着陣。そこへ石田三成の使者 樫原彦右衛門が訪れ、大谷吉継を佐和山城へ招く。
佐和山城で石田三成が挙兵を打ち明け、加わるよう説得する。大谷吉継は一度は拒否するが三成の意思は固く、7月11日、大谷吉継が同意して味方に加わる。【落穂集(1727年)】

7月5日、宇喜多秀家が京の豊国社で戦勝祈願を行う。【舜旧記】
宇喜多秀家の妻 豪姫は7月7日に豊国神社、8月7日に長谷寺で、秀家が災難を受けず加護を受けるようにと願文を納める。

7月5日、吉川広家が家康と合流するため出雲を出陣。7月13日、明石で安国寺恵瓊からの使者が来て大坂城へ入るよう指示を受ける。

 

(東軍)7月7日、江戸城の家康が最上義光、出羽諸大名、堀秀治、前田利長、佐竹義宣へ、会津出陣が二十一日と決まり参陣するよう命じる。【書上古文書】

最上義光(指揮下に秋田実季・戸沢政盛・小野寺義道)は米沢口 (最上ロ) から、前田利長・堀秀治・堀直寄は津川ロ (越後ロ) へ侵攻するよう軍令を出す。

 

この頃、島津義弘が伏見本丸・二の丸へ入ることを2度申し出るが、鳥居元忠らに断られてしまう。在番できないなら大坂へ下り、秀頼様のお傍で我慢すると家老の新納旅庵へ伝える。【旧記雑録三】【神戸久五郎覚書】

7月12日、増田長盛が徳川家臣 永井直勝へ書状を送る。大谷吉継が垂井で病気として二日滞陣し、石田三成が出陣するとの雑説が流れていると伝える。【慶長年中卜斎記】(長束正家、前田玄以らも江戸へ上方の様子を伝える)

7月初旬、鍋島勝茂・龍造寺高房・毛利吉政 (毛利勝永) が大坂を出陣するが、7月12日、石田正澄(三成の兄)が近江の愛知川に関所を設けて行軍を阻止。鍋島勝茂らは奉行衆の指示で大坂へ引き返す。【鍋島勝茂公御年譜(1735年頃)】

7月12日、増田長盛・長束正家・前田玄以が広島の毛利輝元へ呼出状を送る。
「大坂の仕置について許可を得たいので、早々に上洛なさってください。様子については安国寺恵瓊より申し伝えます。」【松井文書】

7月12日、徳川家康に従軍していた伊達政宗が、江戸から自領へ戻り、上杉領に近い北目城に入る。

 

7月12日、大坂で東軍諸将の人質収監が開始される。【霜女覚書(1648年)】

7月13日、京都の公家・僧侶に大坂の騒動が伝わる。
「昨夜より伏見・大坂において風評・騒動があるのでこれを尋ねるつもりである。(上杉討伐の)陣立て衆は少々帰ってきた衆がいるそうで不審である。」【時慶記】
「大坂に雑説が出ているそうだ。そのため伏見より荷物を京へ運ぶらしい。家康が留守になっているからで、何事があるのか。詳細はわからない。」【義演准后日記】

 

7月13日、吉川広家が大坂へ到着する。

7月14日、吉川広家が榊原康政へ書状を書く。(送付はしていない)
「安国寺恵瓊が近江で石田三成、大谷吉継とこちらの詳細な様子がわかったのか大坂に帰ってきて、私にも控えるよう申したので、昨日大坂に着きました。
両者の企てを知り、驚いています。恵瓊が呼び戻された様に申し回るのはけしからんことです。輝元は前後のことを知らないはずなので、不審に思うばかりです。」【吉川家文書】

吉川広家は同じ内容の書状を7月23日頃、親交のある黒田長政と豊前の黒田如水へ送る。

「内府様は急いでいたし、全員がただちに後続するものと考えていたので、自信をもって全兵力を率いて関東に向かった。幾人かの奉行は内府様に従ったが、その歩みは緩慢であった。
その一人は治部少輔の城を通過する時に彼と連絡をとり、かねて仕組んでおいた計略を明らかにしようと決意した。そこで後からやって来た者たちと談合し、全員大坂へ帰ることで一致しすぐに行動した。」
「主だった奉行、および大坂にいた3名の奉行も彼らと合流し、彼らと一致団結し、内府様に敵対する立場を明らかにして内府様を政治から放逐した。」【1599~1601年 イエズス会 日本諸国記】

 

(西軍)7月15日、増田長盛・長束正家・前田玄以が大阪城総構えの番手を配置。人質の妻子を出さないよう指示する。
・淀の橋:毛利高政
・高麗橋:高田治忠
・淡路町橋:早川長政
・久太郎町橋:蜂須賀家政(他)
【当代記】

(西軍)7月15日、大坂の島津義弘が上杉景勝へ西軍参加を伝える。「輝元・秀家を始め大坂御老衆・小西・大谷吉継・三成が仰せられ、秀頼様のためであり、あなたが同意したと聞き私もその通りにします。」【旧記雑録後編 三】

(西軍) 7月15日、毛利輝元は三奉行からの呼出状が届いた15日に出陣、海路で広島から大坂へ向かう。「このような書状が届いたので言うまでもなく、今日十五日に舟を出します。」【加藤清正宛 輝元書状 松井文書】
(即日の出発なので事前に準備をしていたと思われる)
【一斎留書】には二日で (大坂の) 木津に到着したと記載有り。

(東軍)7月16日、細川忠興が宇都宮近くへ着陣する。翌17日、大坂留守居役の家臣 小笠原秀清・稲富祐直から7月9日付の手紙が届き、石田三成が回状を出して上方が家康公の敵になったこと、人質として大坂城へ入るよう指示を受けた妻ガラシャが拒否をした旨が伝えられる。【細川忠興軍功記】

 

細川ガラシャの死

(西軍) 7月17日、大坂では東軍諸将の人質収監が行われる。
細川忠興の妻 ガラシャは人質となることを拒否、家臣とともに自害する(37歳)。

「大坂にて忠興の女房衆が自害、同息子 (十二才) ・同妹 (六才) ら、母が切殺し刺殺したらしく、私邸に火を懸けた。小笠原・荒川が介錯、そして腹を切ったらしい」【言経卿記】

「越中殿(以下、細川忠興)は至って誠実を好む人物であったので、邸から離れる時には、自らの家臣と邸を守っていた他の者たちに次のように命じるのが常であった。もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように、と。

奉行たちは、その同盟が露見した当日に細川忠興の邸に伝言を送り、邸を守っていた者に対して、彼女の夫の安全のために人質として彼女をとるため、ただちにガラシャを引き渡すようにと言った。

(ガラシャは)彼女とともにいた全ての侍女と婦人たちを呼び集め、我が夫が命じているとおり自分だけが死にたいと言いながら、皆には外に出るようにと命じた。

監視隊長の小笠原殿(細川家家老 小笠原少斎)は、他の家臣とともに邸全体に火薬をまき散らした。侍女たちが全員屋外に出ると、ドナ・ガラシャはただちにひざまずき、度々イエズスとマリアの聖名を口ずさんだ。彼女自身、両手で(髪をかきあげて)首をあわらにし、そして彼女の首は一撃のもとに切り落とされた。
家臣たちはさっそくその首を絹衣で包み、その衣の上に火薬を置きながら、自分たちの女主人が死んだ同じ部屋で死ぬことは非礼であるので前方の家屋に立ち去り、全員切腹し、同時に火薬に火をつけた。…きわめて華麗なる御殿は灰燼に帰した。」

加藤清正室 (清浄院) 、黒田長政室 (栄姫) は大坂を脱出し、それぞれ肥後、豊前中津へ逃れる。その他大名の家族は監視を継続する。
(豊後の中川秀成は8月18日に人質の母・妻から助けを求められたと加藤清正に伝えている【中川家文書】)

 

(西軍)7月17日、増田長盛・長束正家・前田玄以が13ヵ条の「内府違いの条々」を全国の諸大名へ送る。
一、五人の御奉行と五人の年寄で誓紙を交わして幾ばくも無いのに、年寄の二人を追い込んだこと
一、前田利長のことは決着しているにもかかわらず、景勝を討つため人質を取ったこと
一、景勝はなんのお咎めもないのに、許可なく出馬していること
一、知行のこと、取次もあってはならないのに誓紙に背き、忠節が無い者共に出したこと
一、(大坂城西の丸に)御本丸のごとく天守を建てたこと
一、縁組の事、御法度に背いていると伝え、了承されたが重ねて行っていること
(抜粋)【筑紫古文書】

「彼らは内府様に自らの領国に留まるようにとの伝言を送り、幼君秀頼様に対し、また太閤様の命に背き犯した数ヵ条の罪状をつきつけた。」【1599~1601年 日本諸国記】

(西軍) 7月17日、毛利秀元が家康のいた大坂城西の丸を占領。
「昨夕、大坂城西の丸へ毛利宰相 (秀元) が御守護として入る。この中は家康住宅の丸也。」【義演准后日記 7月18日条】

7月18日、石田三成が軍勢を率いて京都の豊国社に参拝する。【時慶記】

7月19日、毛利輝元が大坂城へ入る。
「毛利中納言 (輝元) が六万にて大坂城へ籠もる。」【義演准后日記】

 

伏見城の戦い前後の動き

関ヶ原の戦い 伏見城の戦い

 

 

伏見城の戦い

(西軍)7月18日、宇喜多秀家、小早川秀秋、小西行長、長束正家、長宗我部盛親、島津義弘、鍋島勝茂ら(兵数40,000)が東軍の伏見城を攻撃。城主の鳥居元忠はわずか1800の兵で籠城戦に挑む。(落城は8月1日)

「家康衆が伏見城に籠り、奉行衆の屋敷に城中より火を掛けた」【北野社家日記 7月18日条】
「城より出て近場の増田長盛・前田玄以の下家に放火した。昼夜鉄砲を撃っている。宮中にて庚申待が有り、黒戸に各々参った。白粥・酒など有り。碁・小将棋、雑談など有り。」【言経卿記 7月19日条】

「伏見城は毎夜鉄砲を撃っている。宇喜多秀家の軍勢が伏見へ到着した。晩より鉄砲を撃つ。」【言経卿記 7月22日条】
「昨夕、小早川秀秋が伏見城の攻撃衆として着いた。城内より火を出し、攻撃衆を弓で射とるためらしい」【義演准后日記 7月23日条】

「伏見城二の丸が内より焼き払われ、騒動となっている。丹後国へも攻撃の軍勢が向かったらしい。」【時慶記 7月19日条】

 

(西軍)7月下旬、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊は大津 瀬田へ移動し、城・橋の修築工事を行う。

「当方の軍勢は瀬田の普請を一通り行うこと、心得るように。秀元は明日出発、安国寺も出発するので万事相談するように。」【7月22日付 益田元祥宛 輝元書状 益田家文書】
「瀬田の橋に普請仰せ付けられました。これは東国衆が上ってきたなら、そこで一戦命じられるという事と言われています。」【8月1日付 吉川広家家臣下二介書状 下家文書】

 

犬伏の別れ

(東軍)7月18日~19日、大坂から上野へ戻り戦準備を整えた真田昌幸・信繁、信幸が家康と合流するため出陣。

7月21日、下野国 佐野の天明で石田三成の飛脚が「内府違いの条々」を真田昌幸に手渡す。昌幸は犬伏にいる信幸を呼び寄せ、人払いをして夜に三人で話し合う。話し合いの末、信幸はそのまま上杉討伐へ従軍し、昌幸・信繁は三成につくことを決め、上田城へ引き返す。【落穂集(1727年)】【改選仙石家譜】

【慶長年中卜斎記】には22日午の刻に犬伏から引き返したと記載)

7月24日、東軍に合流した信幸は家康から忠節を感謝する書状を送られ、7月27日には昌幸の小県郡を与えることを約束される。【家康書状 真田宝物館蔵】

※参考文献:『「豊臣大名」真田一族』黒田 基樹 (著) 洋泉社

 

(東軍)7月19日、堀尾吉晴が浜松から越前府中へ帰国の途中、三河の池鯉鮒で水野忠重の接待を受ける。その宴会の席で美濃加賀野井城主 加賀井重望が水野忠重を殺害(【徳川実紀】によると三成から暗殺の密命を受けていた)。堀尾吉晴が傷を負いながら加賀井重望を討ち取る。

(東軍)7月19日、江戸へ7月12日付の増田長盛書状が届く。【慶長年中卜斎記】

(東軍)7月19日、徳川秀忠(井伊直政、本多忠勝、本多正信ら)が江戸城から会津方面へ出陣。
「七月十九日までは上方擾乱、石田三成が秀頼の母淀殿の仰せを請け謀反の企てる」【田中興廃記】

(東軍)7月20日、大坂の生駒親正、蜂須賀家政、前田玄以、長束正家、滝川雄利からも上方の様子について書状が江戸へ届く。【慶長年中卜斎記】

 

(東軍)7月21日、宇都宮に到着した細川忠興が国元の丹後・豊後へ書状を送る。丹後は宮津城へ集結すること、豊後は黒田如水の居城へ入ること、如水と前もって申合せておいたこと、また上方の動きについて伝える。
「石田三成と輝元が申し合わせて決起したこと、上方から(江戸の)内府へ次々と注進が入っている。これはあるだろうと前から申している事だ。その他の衆は全て同心しているので、必ず内府はすぐに上洛するだろう。」【徳川家康文書の研究 中巻】
(日程から7月13日頃の上方の噂が江戸へ届いていたと思われる。ガラシャ自害の報せはまだ届いていない)

(東軍)7月21日、川中島の森忠政が参陣、宇都宮へ着陣する。

(東軍)7月21日、徳川家康が江戸城から会津方面へ出陣する。

(東軍)7月22日、大津城の京極高次から、石田三成が逆心したと家康に報せが届く。【譜牒余録】

「二十二日には岩槻に到着され、城主 高力清長がもてなされる。ここにおいて上方不静についてなんとなく噂が入る。翌二十三日下野国小山に到着され、しばらく逗留あり。」【田中興廃記】

(東軍)7月22日、徳川秀忠が宇都宮城へ到着。

 

(西軍)7月22日、田辺城の戦い。
丹波福知山城主 小野木重勝、丹波氷上郡柏原の織田信包(信長の弟)らが、東軍の丹後 田辺城(城主 細川藤孝 (幽斎) )を包囲。(息子の忠興は会津征伐に出陣しているため田辺城は兵数500程度。)
西軍は包囲のみで対峙を続ける。(開城は9月12日)

7月23日、北政所、宇喜多秀家代理が豊国社に参拝する。【舜旧記】

 

(東軍)7月23日、徳川家康が古河に到着、最上義光に書状を送る。
「石田三成・大谷吉継が知恵を使い各方面に触状を廻していると雑説が出ています。よって御働きはこの先無用です。こちらから状況を申し入れます。…三奉行の書状披見のためこれを差し上げます。」【譜牒餘録後編 四】

(東軍)7月24日、徳川家康が下野国 小山へ到着。

 

小山へ移動

関ヶ原の戦い 小山評定

 

(東軍)7月24日、佐竹義宣が会津方面へ進軍するが、赤館で進軍を中止する。【佐竹家譜】

(東軍)7月24日、伊達政宗が上杉領の白石城を攻撃。26日に攻略する。

(東軍)7月24日、豊後杵築城の松井康之が中川秀成へ上方情勢を伝え、毛利殿・御奉行衆が謀反したこと、伏見城は鳥居元忠が堅固に守り、京極高次(妻は淀殿の妹 お初)は家康に別心はないことを伝える。【中川家文書】

 

(東軍)7月24日、下野国北部で上杉と対峙する那須衆の大関資増(黒羽城主)らが家康に謁見、上杉への防備を命じられて帰城する。※参考文献『下野国黒羽藩主大関氏と史料保存』新井敦史(著) 随想舎

(東軍)「家康様は小山という所に御在陣、上方大名衆も小山の辺りに入られた。」【石川正西聞見集】

 

小山評定

(東軍)7月25日、上杉討伐を中止、西上を決定する。

細川忠隆(忠興の嫡男)が家臣の松井興長に陣替を伝える。
「明日は軍勢の大部分が陣替えをする」【7月25日付 細川忠隆書状 松井文庫所蔵】

浅野幸長が黒羽城主 大関資増へ返書を送る。

「上方のことについて、各将が仕置について話し合い、会津への出陣は延期になりました。上方のことはいよいよ聞き届けられ、内府様が命じられました。
私はこの間は宇都宮にいましたが結城の辺りまで来ています。駿河より上の軍勢はいずれも国へ引き返されました。尚、去る二十三日の御手紙恐れ入ります。その時は小山へ参上してお返事ができませんでした。」【7月29日付 浅野幸長書状 大関家文書】

九州では8月13日、使者から報せを聞いた豊前の黒田如水が豊後の中川秀成へ家康の動きを伝える。
「内府は7月27日に小山より引き返して上方へ出陣した(実際は江戸に留まる)。」【中川家文書】

【イエズス会 1599~1601年 日本諸国記】
「諸奉行の軍勢(西軍)は、尾張の国を奪取することを企て、それに隣接する内府様側の伊勢、美濃両国に侵攻しつつあった。…内府様と関東の国へ出征していた諸侯は、戦闘の先陣を承りたいと申し出、内府様の将兵の一部を派遣してくれることを条件にした。
全軍が尾張城(清須城)に集結して、内府様の軍が都へ向かう途上の障害をなくし、さらに敵の前進を抑制するのがその目的であった。内府様は、この進言を容れ麾下の将兵数名とともに軍勢を進発せしめた。それゆえ尾張の城には約30,000の兵が集結した。」

【田中興廃記(1822年)】
「鳥居元忠・内藤家長・松平家忠・松平近正が伏見より遣わせた使者が井伊直政のところへ来て、三成の謀反をお聞きになった。秀忠公を呼び返し相談の上、諸大名を呼ばれそのことを伝えた。
景勝討伐を止め石田を討伐することに付き、諸大名は勝手次第に引取り命じられるべく、福島正則・黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・田中吉政・藤堂高虎ら(他13名)は直ちに先手仕る旨を申し出、誓紙を差し上げた。
これにつき、井伊直政・本多忠勝を添え尾張清洲へ上り、その他は本国へ帰国した。」

【慶長年中卜斎記(~1644年)】
「七月二十八日五つ時に、結城秀康殿が一番に小山へ来た。その外残らず午の刻前に大将衆が小山へ参上した。

小山古城の内にある庄屋が居た家を、結城秀康殿が広間の奥に三間四方くらいの仮の御殿を造らせ、この広間に大将衆が集まり、座敷の内四方の角に中座にて(家康からの)上意の仰せ出しを本多忠勝と本多正信の両人が行った。結城秀康殿はこの時は番所の小屋へ入った。
大将衆の移動は白沢より木連川までは七、八里ほど、白沢より小山までは八、九里である。この十七、十八里の道を越えて来たが、振る舞いもなく薄茶も出なかった。

大将衆の福島正則、池田輝政、浅野幸長、この衆も馬に乗り、持鎗一本、挟箱一、二つ、歩行の者十人ほどが馬印一つにて参上した。家康の御意を承り、御広間よりそのまま出発して西を目指して上った。
大将衆も十七、十八里を移動して参上した。小山を出発し、尋常の軽き者(身分の低い者カ)の歩みのように、うちまたぎの馬にて旅籠飯を食べて参上した。

大将衆が座を立って一時ほど過ぎ、(家康が)福島正則に御用があるので追いかけて呼び返すように、と奥平貞治を遣わした。

(※原文内での追記)本文にはこのようにあるが、黒田家の覚書には黒田長政が小山を出発したところ、奥平貞治を使者として黒田長政を途中より呼び返し、(家康の)御前において御用を共に深夜まで仰せつけられた。(黒田長政に)御暇を下された時、(家康の)秘蔵の御馬を拝領し、早速出発したとある。卜斎の書き間違いと見えるので、このように記す。

小田原までに追い付けば呼び返し、小田原まで行って追い付かなければ帰るようにと上意があったが、追い付けなかったために奥平貞治が帰った。後に聞いたところ福島正則が申し上げたことは、駿河より勢州(伊勢)までの城に御譜代衆を遣わせて受け取らせてから(家康が)上る、と申し上げたとのことである。」

 

<次ページ>⇒関ヶ原の戦いまでの流れ (後半)