1568年 – 69年 信長が上洛、今川家が滅亡
<織田家>
北伊勢へ侵攻 1568(永禄11)年2月、前年に続き織田軍が北伊勢へ侵攻。 信長は神戸氏の高岡城(城主 山路弾正)、神戸城(城主 神戸具盛(友盛))へ息子の信孝を養子に入れる和睦案を提案、これにより神戸氏は降伏する。 長野工藤氏(当主は北畠具教の次男具藤)では家臣が北畠派と織田派に分裂、織田派の分部光嘉・光高が北畠具藤を安濃津城から追放し、織田家に降伏する。 伊勢亀山城の関盛信も織田家に降伏。 これにより信長は北伊勢を支配下に治める。 |
1568年2月8日、足利義栄が朝廷の将軍宣下を受け、第14代将軍に就任する。
1568年6月上旬、武田信玄からの使者 秋山虎繁が訪問。
織田信忠・信玄の六女 松姫の婚約祝い(後に解消となる)として貢物(蝋燭、漆、熊の皮、名馬など)が届けられる。信長は秋山虎繁をもてなし、七度の盃、梅若大夫の能、長良川での鵜飼鑑賞を案内する。
7月上旬には信長から武田信玄へ貢物を進上する。【甲陽軍鑑】
信長の上洛作戦 大和興福寺に身を置いていた足利義昭は三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)からの危険を感じ、1565(永禄8)年12月に大和国を脱出する。 永禄8年12月5日、信長が幕臣の細川藤孝へ「上意があり次第、日ならずとも供奉する覚悟である」と伝える。【東大史料編纂所】 1566年(永禄9)8月、近江の矢島御所にいた足利義昭が上洛のお供に信長を参陣させる計画を立てるが、三好の調略により斎藤龍興の離反が起き計画は頓挫する。【閏八月十八日付 氏家直元等書状】 その後義昭は越前に入り上杉輝虎(謙信)の協力を待つが、謙信は関東の対応に追われ帰洛に協力できなかった。朝倉義景を説得しても協力してもらえなかったため信長に協力を依頼する。 義昭は信長に「この上は織田上総介信長をひとえに頼みいれたい」と手紙を送る。【信長公記】
1568(永禄11)年7月13日、足利義昭が細川藤孝・京極高成ら近臣と越前を出発する。朝倉軍2,000が国境まで同伴する。【東浅井郡志】 浅井長政が兵2,000と織田家の使者 不破光治・村井貞勝・島田秀満を連れ余吾荘で出迎える。和田惟政が先頭を進み小谷へ向かう。【東浅井郡志】 7月16日、義昭が小谷の浅井館へ入り、浅井長政のもてなしを受ける。 7月25日、義昭が美濃 立政寺へ入る。 (【甫庵信長記】には25日に立政寺へお着きになり、27日に信長卿が出仕され太刀、葦毛の馬、鎧などを進上したと記載)
信長が美濃から近江へ向かう。 8月7日、信長が近江 佐和山城へ入る。 義昭と織田の使者(和田惟政ら)が観音寺城の六角承禎(義賢)のもとを訪れ、人質を出し協力することを求める。信長は7日間留まって交渉を続け、"義昭が本意を遂げられた際は天下の所司代に任ずる"と伝えるが、六角承禎は拒否する。
9月7日、信長が義昭に出陣の挨拶を行う。信長が再び岐阜城を出陣、近江へ進軍して一帯を攻撃する。
9月12日、観音寺城の戦い。佐久間信盛・木下藤吉郎・丹羽長秀・浅井政貞が六角領の支城 箕作城を攻撃、その日の夜に落城させる。 9月14日、信長が観音寺城を攻撃、占領する。 「国主(六角承禎)がその二人の成人した息子たちとともにいた観音寺城を攻撃した。同城は人間の考えでは陥落しそうに思えなかったが、彼は武力によって侵入し、これを征服した。国主は二人の息子たちとともに逃走し、信長は城を強襲した際に1,500人以上を失ったが、同国の大部分の支配者となるに至った。」【フロイス日本史】 「六角承禎の城が落ち、近江は悉く焼かれたらしい、後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里の七人が敵(信長)に同心したらしい、京中の辺りは騒動になっている。ここのほとんどの家財は宮中の内侍へ運んだ。」【言継卿記】
六角承禎と息子義治は甲賀へ脱出。その後も石部城に入り抵抗を続ける。 六角家の重臣 蒲生定秀が服属、織田家臣となる。その他六角家の布施氏、青地氏も織田家臣となる。信長は近辺の残党も降伏させ、近江を平定する。 信長は立政寺にいる義昭の迎えに不破光治を遣わせる。
9月16日、木津にいた三好政康の兵3,000が引き返し、西京に布陣する。【多聞院日記】 9月22日、信長が観音寺山にある桑実寺で義昭を出迎える。 9月23日、信長が湖を渡り大津 三井寺へ布陣する。先手は山科へ布陣する。【言継卿記】 9月25日、信長が清水寺に布陣する。義昭は大津に入る。【多聞院日記】
「この突然の決断と勇敢な行為は、山城、摂津、河内、和泉、大和、丹波の諸国に大いなる驚嘆を呼び起こし、これらの諸国はその勝利の容易さ、また彼が公方様を復位させるために示して来た権威と豪華さを目撃して彼に降伏した。」【フロイス日本史】
9月26日、柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚が桂川を越え三好方の勝竜寺城(城主 岩成友通 兵500)を攻撃。
9月27日、浅井長政・朽木元綱が兵8,000で神楽岡(吉田山)に布陣、その後南へ進軍する。【言継卿記】【東浅井郡志】浅井軍も摂津平定に加わる。 9月28日、信長が京の南にある東福寺に入る。【信長公記】 東福寺の信長のもとへ医師の曲直瀬道三・半井驢庵、連歌師の里村紹巴ら人々が挨拶に訪れる。
9月29日、義昭が山崎の天神馬場へ出陣。織田軍が芥川山城(城主 三好長逸)、芥川居城を攻撃、三好長逸は城を放棄する。信長は城主に和田惟政を置く。【言継卿記】 9月30日、義昭が芥川城へ入城する。織田軍は摂津・河内方面の放火を行う。
10月2日、織田軍が越水城(城主 篠原長房)へ進軍、篠原長房は城を放棄して阿波国まで戻る。 10月2日、織田軍が摂津の池田城(城主 池田勝正)を攻撃。激しい戦いとなるが、池田勝正は人質を出して降伏。信長は所領を安堵、伊丹親興・和田惟政とともに池田勝正を摂津三守護として統治させる。 10月3日、芥川城に入った信長のもとへ人々が挨拶に訪れる。 信長は松永久秀の大和国を安堵、切り取り次第(武力制圧を認める)とした。
10月10日、細川藤孝、和田惟政、佐久間信盛が20,000の兵で大和へ進軍。三好領の森屋城を占領。翌日、窪城を占領。
10月14日、義昭が芥川城から京都へ戻り、本国寺へ入る。信長も清水寺へ入る。信長は洛中洛外に兵を置き、警護を厳重にする。 10月22日、義昭が内裏に参上する。征夷大将軍に任命され、室町幕府第15代将軍となる。 義昭は細川邸に観世大夫を招き観能会を催し、信長らを招待する。義昭は信長に副将軍・管領職を勧めるも、信長は辞退する。義昭は信長に酌をして酒を注ぎ、鷹と鎧を与える。 10月24日、信長が義昭に帰国を伝える。義昭は感謝状を渡し、「この度の国々の凶徒を悉く退治したのは武勇天下第一である」と功績を称えた。 10月28日、信長が岐阜城へ帰城する。
信長上洛後の出来事 このとき今井宗久が会合衆との仲介役となったため、信長は今井宗久に摂津住吉郡を知行地として与える。 【イエズス会日本年報】による堺の様子
上洛の際、和田惟政の取次により堺にいたルイス・フロイスら宣教師一行が初めて信長の許を訪れる。しかし信長は屋敷の奥に入ったまま、佐久間信盛と和田惟政に食事のもてなしだけをさせる。信長は宣教師の贈物の中から黒いビロードの帽子だけを受理し、その後宣教師は退出する。 信長は親しく引見しなかった理由を、異国人のもてなし方がわからなかったこと、予自身がキリシタンになると世間に思われることを案じたと佐久間信盛に伝える。【フロイス日本史】
足利義昭は兄義輝の襲撃に関わったとして関白 近衛前久を追放する。(近衛前久はその後丹波の赤井直正、本願寺顕如を頼る。1575(天正3)年、信長の奏上により帰洛する) 東播磨の別所氏、丹後国の一色氏、丹波国の波多野氏が上洛した信長に服従。 三好三人衆は畿内の諸城を放棄して四国の阿波国へ撤退する。三好家に擁立された足利義栄(義輝・義昭の従兄弟)は京に入れないまま9月30日病死する。※日付は諸説あり |
1569(永禄12)年1月5日、本圀寺の変(六条合戦)。信長が岐阜へ戻った隙に、阿波国から三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)、斎藤龍興が足利義昭を討つため畿内へ侵攻。畿内の三好方勢力の援助を受け10,000の兵となる。
1月5日午の刻(11~13時)、足利義昭が仮御所としていた六条の本圀寺を攻撃する。【言継卿記】
本圀寺は細川藤賢・明智光秀らが2,000の兵で応戦する。若狭衆の山県源内、宇野弥七が討死するが、両名の活躍によりその日の攻撃を防ぐ。
翌1月6日、細川藤孝、三好義継、池田勝正、伊丹親興、荒木村重が援軍に駆けつけ、桂川付近で戦闘となり織田軍が勝利する。
1月6日、岐阜城の信長へ本圀寺が攻撃されたと報せが入る。【信長公記】
1月10日、信長が松永久秀を連れ上洛する。【言継卿記】
(【信長公記】には信長はすぐに上洛することを決め、人夫に凍死者が出るほどの大雪の中、3日かかる行程を2日間でお伴十騎と上洛したと記載)
堺の会合衆は三好三人衆を支援していたが、本圀寺の変での敗退により信長の傘下に入る。
1569年1月14日、信長が義昭へ殿中御掟の9ヶ条と追加7ヶ条を送り承認させる。これにより政治の主導権を奪う。
1569年2月、信長は義昭のために二条城(御所の西側に隣接する二条古城。かつて義輝の居城として使われていた)を普請する。
14ヵ国から人を呼び、洛中・洛外の鍛冶、大工、杣人を集め70日間で完成させる。御殿の装飾には金銀が使われ、庭前には泉水・遣水・築山をあしらい、銀閣寺の名石を取り寄せて据える。【信長公記】
「日本の諸侯および全ての貴族が集まったので、通常25,000人が働き、少ないときでも15,000人を数えたという。信長はカンナを手にして作業を指図した。建築用の石が欠乏していたので、彼は(寺院から)多数の石像を倒し、首に縄をつけて工事場に引かしめた。」
「建築中、彼は市の内外の寺院で鐘を撞く事を禁じ、ただ一つ、人々を参集し解散させる目的で城中に置いたものだけを撞くことを命じた。」
「信長は、ほとんど常に座るために虎皮を腰に巻き、粗末な衣服を着用しており、彼の例にならって全ての殿および家臣の大部分は労働のために皮衣を着けた。」
「建築を見物しようと望む者は、男も女も全て草履を脱ぐこともなく彼の前を通る自由が与えられた。」
「建築作業を行なっていた間に、一兵士が戯れに一貴婦人の顔を見ようとして、その被り物を少し上げた事があった時、 信長はたまたまそれを目撃し、ただちに一同の面前で手ずからそこで彼の首を刎ねた。 」【フロイス日本史】
和田惟政は再度宣教師と面会してもらうよう取次を行い、信長は今回は引見すると伝える。二条城の建築工事の最中、フロイスが信長を訪問する。
信長とフロイスは橋の上で腰掛け、2時間ほど話し合う。信長は京での滞在を認め(宣教師は5年前に松永久秀により京から追放されていた)、フロイスを義昭へ面会させるよう和田惟政へ命じる。【フロイス日本史】(要約)
1569年2月、信長が撰銭令(えりぜにれい)を出す。粗悪な銭は良質な宋銭・明銭の二分の一の価値とする交換比率を定める。また3月には上京へ追加条例を出し、金銀と銭の交換比率を定める。
1569年4月20日頃、京都妙覚寺でフロイスと天台宗の僧・朝山日乗が信長立ち会いの下、宗義論争を行う。
議論の中で朝山日乗はフロイスの言う霊魂不滅を見せよと長刀を取り襲いかかろうとするが、信長と家臣が取り押さえる。(信長はこの件を処罰せず)
翌日、朝山日乗は信長に宣教師追放を進言するが却下される。
1569年5月、フロイスが布教の許可をもらうため岐阜城を訪れる。
「岐阜城下は、8,000ないし10,000の人口を数え、取引や用務で往来する人々の数はおびただしく、塩を積んだ多くの馬や、反物、その他の品物を携えた商人たちが諸国から集まっており、世界文化の中心として栄えた古代都市バビロンの繁栄を思わせるほどであった。」【フロイス日本史】
大河内城の戦い 1569(永禄12)年8月20日、信長が伊勢へ出陣。 信長は70,000の兵で大河内城(城主 北畠具教、嫡男 具房)へ進軍する。 9月8日、稲葉良通、池田恒興、丹羽長秀が城の裏門より夜襲を行うが失敗する。 大河内城の包囲から50日後、信長は織田掃部(忠寛)を使者として和睦を伝える。【勢州四家記】 10月4日、滝川一益・織田忠寛が城を請け取り、南伊勢を平定する。 信長は伊勢の諸城の破却と関所撤廃を命じる。 |
10月6日、信長が伊勢神宮(内宮・外宮)、朝熊山を参拝する。
10月11日、信長が馬廻りを連れ上洛。
足利義昭に伊勢平定を報告するが、口論となる。
「十六日に上意(足利義昭)と口喧嘩をして下向した」【多聞院日記 十月十九日条】
10月17日、信長が岐阜へ帰城する。
1569年、明智光秀が幕府直属の奉公衆となる。(翌正月に公家の山科言継が幕府奉公衆に年頭の挨拶(答礼)に回り、その中に明智光秀が含まれている【言継卿記】)
1569年、備前国の浦上宗景が西播磨の赤松政秀を攻撃。赤松政秀は足利義昭に助けを求め、織田の摂津国衆が援軍に向かう。
1569年、尼子氏残党と山名祐豊が毛利の出雲国を攻撃。毛利元就が織田に援軍を依頼、木下秀吉(豊臣秀吉)が但馬国の山名祐豊を攻撃。木下秀吉帰還後も山名氏は信長に服従する。
<徳川家>
三河国周辺地図

※海岸線や浜名湖の地形は明治時代古地図、江戸期の絵図を基に作成
1568(永禄11)年9月、信長の上洛に水野信元(織田家臣。徳川家康の伯父)が同伴し、水野信元は朝廷に2,000疋を献上する。【言継卿記】
永禄11年12月、武田信玄が駿河に侵攻したことで、甲相駿三国同盟が破綻する。
家康は信玄と同盟を結び、大井川を境に遠江国は徳川領、駿河国は武田領とした。【三河物語】
12月、家康が遠江へ侵攻。今川方の井伊家 小野政次が占拠した井伊谷城へ、井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)を送り込み奪還させる。
12月、家康が曳馬城(後の浜松城)を攻撃、占領する。 曳馬城主であった飯尾連龍は松平方へ離反したことで氏真に処刑されており、その後家臣らは徳川派と武田派に分かれていた。城は飯尾連龍の妻 お田鶴の方が指揮して守り、最後は侍女18人とともに討って出るも討死する。
12月27日、駿河から逃れた今川氏真のいる遠江 掛川城(城主 朝比奈泰朝)を攻撃、包囲する。
1569(永禄12)年1月、武田の秋山虎繁が遠江へ進軍したことから、家康が武田信玄に抗議文を送る。以降、武田との同盟関係は解消となる。
1569年3月27日、家康は浜名湖北岸地域の堀川城に残る今川派の土豪・農民ら(2000人)を攻撃。なで斬りにより1000名を討ち取り、後日700名を捕らえて処刑する。
徳川軍は引き続き浜名湖東岸の堀江城(城主 大沢基胤)を、井伊谷衆に命じて攻撃する。城の抵抗を受け、井伊谷三人衆の一人鈴木重時が戦死する。 4月12日、家康は本領安堵を条件として、堀江城を開城させる。(以後大沢基胤は徳川家臣となる)
1569年5月17日、包囲していた掛川城へ降伏を勧め、朝比奈泰朝は開城する。今川氏真を包囲、半年間の籠城戦となる。
駿河から武田を撤退させた後は氏真を領主へ戻すという協定を北条氏政も含めて合意する。(その後協定は実現できず今川家は滅亡する)
掛川城には石川家成が入り、西三河の統治は家成の甥石川数正が引き継ぐ。
閏5月頃、今川氏真は北条の支援を受け沼津へ入る。【岡部文書】その後、相模早川、小田原へ移る。
<武田家>
1568(永禄11)年5月初め、武田信玄が今川氏真へ手紙を送る。 今川領の東三河を武田にいただければ、義元の弔い合戦をする場合でも武田が加勢しやすい、家康に取られるなら信玄に進呈してはいかがか、と伝える。 これに対し氏真は、弔い合戦は自身が行うこと、信長と縁者になった武田は今や半分敵であること、小身の家康などいつでも退治できること、今後は書状の取り交わしは不要であると伝える。【甲陽軍鑑】
1568年6月上旬、織田信忠・信玄の六女 松姫の婚約祝い(後に解消となる)として使者 秋山虎繁が織田家を訪問する。貢物(蝋燭、漆、熊の皮、名馬など)を信長へ届ける。
信長は秋山虎繁をもてなし、七度の盃、梅若大夫の能、長良川での鵜飼鑑賞を案内する。
7月上旬には信長から武田信玄へ貢物が届けられる。【甲陽軍鑑】
武田信玄は徳川家康と同盟を結び、大井川を境に遠江国は徳川領、駿河国は武田領とした。【三河物語】
駿河侵攻
永禄11年12月、信玄が薩た峠(さったとうげ)を超え今川領へ侵攻。今川方は離反者が相次いだため、次々と駿河の諸城を落とし、12月13日、駿府城を占領する。今川氏真は遠江 掛川城へ撤退。
12月23日、信玄が家康へ書状を送り、掛川城攻撃を要請する。
「この度当国に向かい出陣のところ、手合わせのため急ぎの出陣、とても満足しています。遠江へ軍を出すところですが、当国諸将の仕置があり、一両日は延期します。三日の内に山を越えるつもりです。早々に掛川へ出陣すること、ごもっともです。」【恵林寺文書】
1569(永禄12)年1月、信濃伊那郡の秋山虎繁が遠江へ進軍したことから、家康から抗議文が届く。これに対し信玄は沈静化を図り、信長へは自身は駿府に留まることを伝えるが以降徳川との同盟関係は解消となる。
1569年1月5日、小田原の北条氏康より樽、肴が進呈される。信玄も1月12日、小田原へ使者を出すが、使者は捕らえられ韮山城で幽閉される。【甲陽軍鑑】
1569年1月18日、北条軍が兵45,000の大軍で駿河へ侵攻、これに対し信玄も兵18,000で出陣、興津へ進み、薩た峠で対峙する。 2月、武田軍が今川の大宮城を攻撃するが北条の援軍があり敗退する。 両軍の対峙は長く続き、4月28日、信玄は甲府へ撤退する。
1569年5月、信玄が信長へ、家康が今川・北条と敵対するよう働きかけを求める書状を送る。【愛知県史資料編11】
1569年6月、信玄が再び駿河へ侵攻、三島で北条氏規と戦い勝利、富士郡の大宮城を占領する。
北条領侵攻
1569年8月24日、信玄(兵数20,000)が甲府を出陣。北上して碓氷峠から上野国へ侵攻する。
1569年9月10日、武田軍が武蔵国へ入り、鉢形城(城主 北条氏邦)を包囲。
その後南下して滝山城(城主 北条氏照)へ到着、多摩川の岸に着陣する。甲斐から小山田信茂(兵数1,000)が小仏峠を越え滝山城へ進軍。氏照が兵を出し迎撃に向かわせるが、廿里で小山田信隊が勝利。
小山田隊はそのまま進軍し滝山城を攻撃、三の丸を落とす。
信玄は滝山城攻撃を中止、小田原城へ進軍する。
10月1日、武田軍は小田原城を包囲。北条氏康は籠城戦を行い、4日後の10月5日、信玄は小田原城から撤退する。
三増峠の戦い
1569(永禄12)年10月7日、甲斐に戻る武田軍を北条氏照・氏邦が三増峠(みませとうげ)南の高所で待ち伏せて着陣。
10月8日、武田軍が三増峠へ進軍、武田軍も高所に布陣し交戦となる。真田昌幸が一番槍となり、北条氏照を攻撃する。
武田左翼の浅利信種が討たれるが、曽根昌世が大将となり防戦する。
小荷駄隊の工藤昌豊が離脱すると、志田峠から引き返した別働隊の山県昌景、真田信綱・昌輝が横から北条氏邦を攻撃。これにより北条軍は敗退する。
後詰の北条氏政が向かっていたため信玄は甲斐へ撤退する。
(北条軍は2,000名、武田軍は1,000名の死者を出す)
1569年11月、武田軍は駿河 蒲原城(城主 北条綱重)を攻撃、占領。北条軍の今川進軍ルートを抑える。その後駿府城を占領。
<北条家>
1568(永禄11)年、第ニ次関宿合戦。北条氏照が関宿城(城主 簗田晴助)を攻撃するも、武田信玄が今川領へ侵攻したため兵を引く。
12月、武田信玄による駿河侵攻が行われ、甲相駿三国同盟が破綻する。武田軍が駿府を占領後、今川氏真は遠江 掛川城(城主 朝比奈泰朝)へ退く。
この時、氏真の妻早川殿(氏康の娘)は徒歩で掛川城まで移動することになる。これを知った氏康は怒り、武田との同盟を破棄する。
1569(永禄12)年1月、北条氏康が兵45,000で出陣、薩た山へ兵を出し武田軍を牽制する。武田信玄も兵18,000で峠で対峙が続く。 2月、武田軍が今川の大宮城を攻撃するが北条から援軍を出し、武田軍を敗退させる。 4月、信玄は甲府へ撤退、氏康も小田原へ撤退する。
1569年5月17日、徳川軍に包囲されていた掛川城が降伏。閏5月頃、今川氏真・早川殿が北条の支援を受け沼津へ入る。【岡部文書】その後、相模早川(早川殿の呼称はこの地名が由来とされる、後に小田原へ移る。)
1569年6月、武田と同盟を破棄した氏康は、これまで関東遠征を繰り返してきた上杉と同盟を結ぶ(越相同盟)。
同盟の条件として上杉による上野国支配(厩橋城の返還)、足利義氏を古河公方とする、上杉謙信の関東管領の承認、武蔵国岩槻城・深谷城の返還が決まる。(岩槻城の返還は実行されずに終わる)
北条についていた上野 金山城(城主 由良成繁)も上杉領となる。
また氏政の次男・国増丸を上杉謙信の養子とすることが決められたが、その後変更され氏康の七男 三郎を送ることになる。(三郎は謙信より景虎の名を与えられ、上杉景虎となる) (結果的にこの同盟は機能することなく2年後の1571年に解消となる)
1569年8月、武田信玄が碓氷峠より北条領へ侵攻。鉢形城(城主 北条氏邦)を包囲して牽制し、武田軍は南下して滝山城(城主 北条氏照)を攻撃するが氏照は籠城して防戦する。
10月1日、滝山城への攻撃を諦めた武田軍はさらに南下して小田原城へ進軍し、包囲する。
10月4日、氏康・氏政は籠城して防戦、4日後に武田軍は撤退を開始する。甲斐への帰路を抑えるため北条氏邦、氏照が三増峠へ向かう。
三増峠の戦い
1569年10月7日、北条氏照・氏邦が三増峠(みませとうげ)南側の高所で待ち伏せて着陣。
10月8日、武田軍が三増峠へ進軍、武田軍も高所に布陣し交戦となる。
武田の真田昌幸が一番槍となり、北条氏照を攻撃する。武田左翼の浅利信種を討ち取る。
武田は小荷駄隊の工藤昌豊が離脱すると、志田峠から引き返した別働隊の山県昌景、真田信綱・昌輝が横から北条氏邦を攻撃。これにより北条軍は敗退する。
後詰の北条氏政が向かっていたため信玄は甲斐へ撤退する。
(北条軍は2,000名、武田軍は1,000名の死者を出す)
1569年11月、駿河 蒲原城(北条綱重)を信玄に攻撃され、占領される。これにより今川領への進軍ルートを塞がれてしまう。
<上杉家>
1568(永禄11)年3月、永禄9年に能登を畠山家の重臣に追放され近江に逃れていた畠山義綱を復帰させるため、上杉輝虎と神保長職が協力して畠山義綱を入国させる。
1568年3月、恩賞に不満のあった村上城の揚北衆 本庄繁長が謀反を起こして挙兵。
1568年5月、越中衆 椎名康胤が離反、越中一向一揆と組み反上杉方となる。これにより畠山義綱と行動していた上杉軍は撤退する。
その後畠山義綱の軍のみで能登へ侵攻する。
1568年7月、畠山義慶(義綱の嫡男)の反撃に合い、9月に義綱が能登を撤退する。
1569(永禄12)年3月、本庄繁長の乱を鎮圧。本庄繁長が降伏、人質を差し出し再び上杉配下となる。
1569年6月、北条と同盟を結ぶ(越相同盟)。
同盟の条件として上杉の上野国支配(厩橋城の返還)、足利義氏を古河公方とすること、輝虎の関東管領の承認、北条方の武蔵国岩槻城・深谷城を返還させることで決まる。(岩槻城の返還は実行されずに終わる)
由良成繁(金山城)はこの同盟の仲介役となり、由良成繁は再び上杉方につく。
北条との同盟により、北条氏康の七男 三郎を謙信の養子に迎える。三郎は謙信より景虎の名を与えられ、上杉景虎と名乗る。
(結果的にこの同盟関係は機能することなく2年後の1571年に解消となる)
1569年8月、昨年離反した越中 松倉城の椎名康胤を攻撃。100日包囲するも落城せず、撤退する。
1569年10月、神保家が分裂。神保長職の息子長住が反上杉派となるが、鎮圧する。
1569年11月~70年4月、第九回関東遠征。唐沢山城(城主 佐野昌綱)を攻撃するも落城せず。
<朝倉家>
1568(永禄11)年4月15日、足利義昭(義秋)が正式に元服式を行い、義昭へ改名する。
義昭は上杉謙信からの協力が得られないことから朝倉義景を説得するが対応してもらえず越前に留まる。そこへ再び信長から協力したいと申し出がくる。【東浅井郡志】
1568年7月、義昭は朝倉家を離れ、美濃へ移る。
<三好家>
1568(永禄11)年2月28日、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)は摂津の足利義栄を室町幕府第14代将軍とした。しかし松永久秀との内乱が続き、義栄の病気もあり上洛はできなかった。義栄は9月(または10月)に病死する(31歳)。
1568年6月、三好三人衆・筒井順慶が信貴山城を攻撃、占領する。松永久秀は劣勢となり多聞山城に籠城を続ける。
1568年9月3日、三好康長・筒井順慶が多聞山城を攻撃、占領する。
1568年9月27日、上洛した織田軍が三好領の勝龍寺城・芥川城を攻撃、占領される。
1568年10月4日、松永久秀・三好義継が上洛した信長に面会。茶器「九十九髪茄子」を献上して臣従する。信長は松永久秀を援護することを伝える。
松永久秀は織田の援軍を得て半年後に信貴山城を奪還する。
10月、松永久秀と織田軍が大和へ侵攻。筒井順慶は筒井城を捨て落ち延びる。
三好三人衆は畿内の諸城を放棄して阿波へ撤退する。三好家が擁立した義栄(義輝・義昭の従兄弟)は京に入れないまま9月30日病死する。※日付は諸説あり
1569(永禄12)年1月6日、本圀寺の変。信長が岐阜へ戻った隙に、阿波から三好三人衆、斎藤龍興が足利義昭を討つため畿内へ侵攻。三好方勢力の援助を受け、10,000の兵で足利義昭が仮御所としていた六条の本圀寺を攻撃する。本圀寺の守りは堅固でなかったものの、明智光秀らが兵2,000で守備に奮闘。援軍が到着し、三好三人衆は敗退する。
<毛利家>
1568(永禄11)年2月、伊予の鳥坂峠で土佐一条軍と河野軍が交戦。3月、河野氏への援軍として小早川隆景・乃美宗勝が伊予へ上陸、鳥坂峠を防備する。
その後大洲周辺で土佐一条・宇都宮軍と毛利・河野軍が交戦、毛利方の勝利となる。
1568年11月、乃美宗勝が再度伊予へ上陸、大洲城を攻撃して占領、宇都宮豊綱を捕える。
一条兼定は宇都宮氏の救援に失敗、これにより土佐一条氏の国力が衰える。
1568年、大友氏の立花鑑載が再び離反、毛利方についたことで6月、毛利元就は吉川元春、小早川隆景を九州へ派兵する。
1569(永禄12)年5月、小早川隆景が筑前の立花山城を攻撃、落城させる。
これに対し大友宗麟、立花道雪らが城を奪還すべく出陣、多々良浜付近で対陣する。(多々良浜の戦い)
5月18日、毛利の防衛線である長尾を立花道雪が攻撃、勝利する。
大友宗麟は大内氏の旧臣である大内輝弘に兵を与えて周防で挙兵させる。
また尼子勝久と山中幸盛が旧臣と兵3,000を集め挙兵する。尼子軍は新山城に布陣し、月山富田城を攻撃するが防ぐ。
10月、元就は北九州での戦いを中止、立花山城を放棄し、門司城に兵を残して撤退。尼子氏征伐へ向かう。
以後毛利軍は北九州から撤退する。
<宇喜多家>
1568(永禄11)年、宇喜多直家が婚姻関係にあった西備前の国衆 松田家と鹿狩りを行う。この時松田家の重臣 宇垣与右衛門を鉄砲で暗殺。
1568年、松田領の金川城を攻撃、占領する。松田家は滅亡。
1569(永禄12)年、宇喜多直家が主君である浦上宗景に反旗を翻すが、浦上宗景が赤松氏を倒し、宇喜多直家も降伏。助命される。 この頃から宇喜多家は軍事力を強め、浦上家から独立する。
<長宗我部家>
1568(永禄11)年冬、長宗我部元親が土佐中部の本山氏を滅ぼす。
1568年、西伊予で一条兼定が毛利・河野軍に敗北したことから長宗我部元親は土佐一条氏の傘下から自立する。
1569(永禄12)年夏、土佐東部の安芸氏を滅ぼす。
<龍造寺家>
1568(永禄11)年、龍造寺隆信が筑前へ侵攻、高祖城の原田隆種を降伏させる。(翌年大友方へ戻る)
1569(永禄12)年、大友宗麟が大軍で龍造寺領へ侵攻、佐嘉城を包囲されるが毛利軍の動きを見て大友宗麟は撤退、講和に持ち込む。(多布施口の戦い)
<大友家>
1568(永禄11)年2月、立花山城の立花鑑載が再び離反。4月、立花道雪(戸次鑑連)が討伐に派遣され立花山城を攻撃、7月に落城させ立花鑑載は自害する。
この謀反に合わせて毛利軍の吉川元春、小早川隆景が九州へ派兵される。
1569(永禄12)年、大友宗麟が大軍で肥前へ侵攻。龍造寺の佐嘉城を包囲するが、毛利軍が豊前へ侵攻したため撤退する。(多布施口の戦い)
1569年5月、小早川隆景ら毛利軍が立花山城を攻撃、落城される。
これに対し大友宗麟、立花道雪らが城を奪還すべく出陣、多々良浜付近で対陣する。(多々良浜の戦い)
5月18日、毛利の防衛線である長尾を立花道雪が攻撃、勝利する。
大友宗麟は大内氏の旧臣である大内輝弘に兵を与えて周防で挙兵させる。
また尼子勝久の再挙兵により、毛利軍は立花山城を放棄。門司城に兵を残し、九州から撤退する。(10年以上続いた毛利との覇権争いが終結)
毛利軍の撤退より、挙兵していた高橋鑑種、秋月種実、宗像氏貞らは降伏、長野氏は離散する。
秋月種実は所領安堵、宗像氏貞は高橋家を継いだ高橋紹運と婚姻関係となる。高橋鑑種は追放処分となる。(その後高橋鑑種は毛利家に引き取られ小倉城主となる)
大友宗麟は高橋家で信頼していた吉弘鑑理の子、鎮種(高橋紹運)に高橋家を引き継がせる。高橋鎮種は岩屋城・宝満城主となる。
<伊東家>
1568(永禄11)年1月、伊東義祐が飫肥城(城主 島津忠親:薩摩島津と同盟関係)を攻撃、占領する。
伊東家は日向四十八城を支配下に置き、最大領土となる。
<島津家>
1568(永禄11)年1月、相良氏・菱刈氏が籠もる大口城包囲戦で島津義弘が敗北する。
1568年、飫肥城を守る島津豊州家忠親は、伊東義祐の攻撃を受け飫肥城を退去、櫛間城へ移る。
永禄11年12月13日、貴久の父 島津忠良(日新斎)が死去(77歳)。
1569(永禄12)年5月、島津家久・新納忠元らが大口城から兵を誘い出し、釣り野伏の戦術によって勝利する。菱刈氏は降伏する。