戦国時代の暦 <太陰太陽暦(旧暦)>

戦国時代は旧暦が使われていた時代であることは知られていますが、旧暦は現在の新暦とは日付が違っていたり、1ヵ月の決め方も異なるなど、かなり複雑な暦となっていました。

ここでは暦の種類や変遷について一度整理し、戦国時代にどのような影響があったのかをまとめてみたいと思います。

暦は大きく分けて3種類

暦は大きく分けて3種類あり、<太陰暦・太陰太陽暦・太陽暦>になります。

<太陰暦>

太陰暦

太陰暦は月の満ち欠けを基にした暦で、新月の日を1日として、満月の日は15日、月末は晦日の29日(または30日)になります。

月の形でおおよその日付がわかるシンプルな暦で、世界最古の暦と言われています。

満ち欠けの周期(朔望月さくぼうげつ)は約29.53日であるため、月ごとに小の月(29日まで)と大の月(30日まで)を作り、平均で月29.5日の日数となるようにしました。

しかし月の満ち欠けの周期は、1太陽年(地球が太陽の周りを回る約365日)とは異なります。
満ち欠けの周期が12回行われても1年が354日となり11日分足りないため、このままだと季節がずれていくことになります。

この(太陰太陽暦でない)太陰暦は、現在でもイスラム教徒の多い世界各国で日用暦、または宗教行事用の暦として使用されています。

太陰暦

サウジアラビア、モロッコなどでは日用暦に太陰暦が使われていて、イラン、トルコなどのように日用暦は太陽暦、宗教行事は太陰暦と併用される例もあります。
またマレーシアなどは多民族・多宗教国家のため、イスラム暦以外に太陰太陽暦、西暦、ヒンズー暦など多数の暦が使われています。

※イスラム暦はヒジュラ暦とも呼ばれる。
※宗教行事ラマダン(断食月)の期間は、太陰暦に基づくため毎年11日早くなる。

 

<太陰太陽暦(旧暦)>

太陰太陽暦

太陰太陽暦も同じく月の満ち欠けを基にしますが、二十四節気にじゅうしせっきという、太陽暦の概念を加えて改良された太陰太陽暦になります。

(現在のグレゴリオ暦(新暦)に対して、太陰太陽暦は一般的に"旧暦"と呼ばれます。)

先ほどの太陰暦は毎年約11日ずれていくことから、太陰太陽暦では19年に7回(およそ3年に1回)、閏月(うるうづき)という1ヵ月を入れてその年は13ヵ月とし、平均して1年が365日になるように調整されました。

19年に7回の閏月を入れると1太陽年とほぼ同じになることは、紀元前433年の古代ギリシャで発見されました。これをメトン周期(中国では章法)といいます。

そしてその7回の閏月をいつ入れるのかは、二十四節気を用いて旧暦と太陽暦のずれが大きくなった時に入れることが決められました。

ただそれでも旧暦の暦は常に1~2ヵ月ずれるため、季節を表す節気(春分、立秋、大寒など)を加えて実際の季節と暦が合うようにし、農耕に適した暦となりました。

太陰太陽暦は中国や東アジアで広まり、日本にも飛鳥時代に大陸から伝わって戦国時代を経て、明治時代まで使用されることになります。

中国、台湾、韓国、ベトナム、マレーシアなど東アジア諸国では、グレゴリオ暦が採用された後も旧暦の正月を祝う行事が行われています。

 

二十四節気

二十四節気 太陰太陽暦 旧暦

二十四節気は古代中国で考案され、太陽の動き(太陽暦)を基に1年を季節で分けたものになります。

毎年同じ時期に同じ節気を迎えるため、種まきや稲刈りを行う際の正しい時期を把握することができました。

二十四節気は1年を昼夜の長さが関係する「春分・夏至・秋分・冬至」で四等分し、それぞれの初めに「立春・立夏・立秋・立冬」を入れて八節、さらに三等分するので二十四節気となっています。

太陰暦による月の満ち欠けの区切り方は「月切り」といい、そのひと月を「暦月」といいますが、
二十四節気では節気で区切る「節切り」を行い、ひと月を「節月」といいます。

二十四節気では立春から新年が始まり、節月の一月は、立春の2月4日頃から雨水を経て、啓蟄の前日3月4日頃までの約30日になります。

(※旧暦は新暦に対してずれがあるため、旧暦の十二月中に立春を迎えることもあります。)

 

閏月の入れ方(置閏法)

太陰太陽暦は季節のずれを防ぐためにおよそ3年に1回閏月を入れるわけですが、その方法は二十四節気を使用します。

二十四節気の表に「一月節」「一月中」などとありますが、これが「節気」と「中気(表では黄土色の文字)」になり、一年を通じて交互に並んでいます。(「節」・「中」とも呼ばれます)

その「中気」が、1ヵ月間に含まれない月が来るとずれが大きくなったことになるため、閏月を入れて「中気」が正しい月に入るように調整されます。

例えば、現在の西暦2023年は、旧暦の暦を見ると閏二月が入ることになりました。
このようなイメージになります。

閏月 入れ方 二十四節気 中気

このように2023年の旧暦は、中気の穀雨が三月に当たる月に入らなくなったため、その月を前月に閏を付けた名前の閏二月が入ることになります。

太陰太陽暦ではその月が何月になるかは中気の月名で決めることになっているため、このように中気の「穀雨・三月中」が正しく三月に入ることになり、暦を調整することができました。

他にも2023年前後で閏月が入る年は、2020年の閏四月、2025年の閏六月があります。

 

<太陽暦>

太陽暦

太陽暦は紀元前3000年頃に古代エジプトで作られた暦で、ナイル川の洪水が毎年起きる前に、東の空に明るいシリウスが輝くことから天体の動きを観察し、1年365日の周期を発見したと言われています。

暦は月の満ち欠けを利用した30日を1ヵ月とし、12ヵ月と5日を合わせた365日を1太陽年としました。

ただちょうど1年365日だと、実際の1太陽年は約365.2422日であるため、長い年月ととも季節のずれが起きてしまいます。そのため、4年に1回、閏年の366日を作って調整していました(1年平均365.25日となる)。

このエジプト暦は古代ローマにも伝わり、紀元前45年、ローマ帝国のユリウス・カエサルがこの暦を採用してユリウス暦となります。ユリウス暦はローマ帝国滅亡後も、ヨーロッパで広く使用されることになります。

さらに1500年ほど時代を経て中世の頃には13日のずれが生じていたため、西暦1582年にローマ教皇グレゴリウス13世が誤差をより小さくしたグレゴリオ暦へ改暦しました。

太陽暦の変遷はこのようになります。

太陽暦、ユリウス歴、グレゴリオ暦

グレゴリオ暦は400年間に(100回ではなく)97回の閏年を入れることを決め、1年の平均が365.2425日となりました。

これにより当時判明していた1太陽年=約365.2422日に近づき、長い年月でも誤差が起きにくいようになりました。 誤差は太陽の平均周期より1年で26.821秒長いだけという、高精度な暦になっています。

グレゴリオ暦制定後はカトリック諸国ですぐ採用され、その後プロテスタント諸国、また1900年前後に日本・韓国・中国でも採用されるようになります。

 

戦国時代の暦

戦国時代に使われていた暦は上でご紹介したように、太陰太陽暦(具体的には西暦862年の平安時代に大陸から伝わった宣明暦という太陰太陽暦)になります。

やはり閏月が入る年は定期的にあり、例えば本能寺の変が起きた天正10年(1582年)前後はこのような暦になっていました。

戦国時代の暦 閏月

天正8年は閏3月、天正11年は閏1月が加えられています。

この天正11年の閏1月について、朝廷が管理する宣明暦(京暦とも呼ばれた)と地方暦との間で問題が起きています。
織田信長が天正10年(1582年)1月に、京暦にある天正11年の閏1月を入れず、尾張の暦(東国の三島暦と言われる)に従って天正10年の12月に閏月を入れるよう提言したことがありました。

安土城で京暦の代表者として陰陽頭の賀茂在昌・土御門久脩(陰陽師安倍晴明の末裔)と、尾張の暦の論者との間で議論が行われました。

結果は京暦の閏月のままで変更なしと決まるのですが、宣明暦は日食や月食を外すことがあったようで、信長は不満があったとも言われています。

この例のように中世の日本は朝廷がある京都以外に地方暦が多数存在していて、有名な三島暦以外では西国では南都暦(奈良暦)や大坂暦、東北では会津暦などがありました。

当時はまだ暦を全国で統一できる時代ではないため、宣明暦をもとにそれぞれの地域で暦が作られていました。
そのため各暦ごとに日付のずれがあったと思われ、現存している文献や記録の日付にもその影響があるのではないかと考えられます。

 

新暦との季節感の違い

閏月を入れることで季節がずれていくことは防げるのですが、旧暦は新暦より常に1~2ヵ月ずれているため、当時の記録の日付を新暦に直すと、季節感が変わることがあります。

有名な出来事を例に挙げてみます。

桶狭間の戦い
旧暦:永禄3年5月19日
グレゴリオ暦:1560年6月22日

三方ヶ原の戦い
旧暦:元亀3年12月22日
グレゴリオ暦:1573年2月4日

本能寺の変
旧暦:天正10年6月2日
グレゴリオ暦:1582年7月1日

石田三成襲撃事件
旧暦:慶長4年閏3月4日
グレゴリオ暦:1599年4月28日

関ヶ原の戦い
旧暦:慶長5年9月15日
グレゴリオ暦:1600年10月21日

※ユリウス暦表記は複雑になるため、1582年以前もグレゴリオ暦で表記しています。

 

このように、現在の新暦に変換すると1か月前後の違いが発生しています。

桶狭間の戦いは実際に雨が降りましたが、すでに梅雨入りしていて蒸し暑そうな時期でした。関ヶ原の戦いは残暑の頃ではなく、気温が下がった秋本番の季節に起きています。(特に中世の日本は寒冷期だったと言われています)

また旧暦は日付から月の満ち欠けがわかります。
本能寺の変の前夜は新月だったので、夜中に本能寺へ向かう明智光秀にとっては好都合の日でした。

また関ヶ原の戦い前夜は満月に近い月齢で、(晴れていればですが)前夜は月明かりの元で西軍は大垣から、東軍は赤坂から関ヶ原へ進軍していたことが想像されます。

 

旧暦と西暦の不一致

旧暦とグレゴリオ暦の表記でややこしくなるのは、元亀3年12月22日の三方ヶ原の戦いのように年末の出来事の場合です。

元亀3年=1572年で覚えるのが一般的ですが、旧暦の12月は基本的に新暦では先に年を越してしまうため、三方ヶ原の戦いを新暦に換算すると1573年2月4日になります。

年表などの一部書籍では便宜上、年末の出来事でも西暦が変わっていないことがあり確認が必要です。

江戸時代の例ですが赤穂浪士の討ち入りも、元禄15年12月14日(西暦1703年1月30日)となるので覚えにくいとよく話題になっています。

 

明治の改暦まで

平安時代に伝わった太陰太陽暦の宣明暦は、戦国時代を経て800年以上という長い年月使用されました。
江戸時代になると誤差が蓄積し、正しい日付より2日進んでいた状態になっていました。

そして貞享2年(1685年)1月1日、江戸時代前期の天文暦学者 渋川春海によって、日本人による最初の暦法が作られることになります。

幕府はこの機会に全国の暦を貞享暦で統一(薩摩暦のみ遠方のため除外)し、ようやく幕府の正式な暦と地方暦による混乱がなくなりました。

その後は宝暦の改暦(1755年)、寛政の改暦(1798年)、天保の改暦(1844年)と計4回の改暦が行われ、精度の高い太陰太陽暦が作成されていきます。

明治時代に入ると近代化を進めるため、政府は明治6年(1873年)に欧米と同じグレゴリオ暦(太陽暦)への改暦を行います。

明治5年12月3日を、グレゴリオ暦の日付に合わせて新暦の明治6年1月1日(西暦1873年1月1日)としました。
また時刻についてもそれまでの日の出と日没を基準とする不定時法から、1日を24時間とする定時法を採用し、現代と同じ1分1秒単位で時間を計る暮らしが始まりました。

この大きな改革により、日本も世界標準の暦を使用することになります。

 

暦の知識

最後に、暦の知識として二十四節気の季節感についてや、日本の伝統行事などについてもご紹介しておきます。

 

二十四節気と日本の季節感

二十四節気の節気には、立秋がまだ暑い8月上旬、など日本の季節感と少し合わない部分があると思います。

その理由は、二十四節気は古代中国の黄河流域が発祥と言われており、その地域の気候をもとに作られているためと考えられます。

実際に黄河流域の西安市や鄭州市の気温を見ると、夏は7月に最高気温となり、8月から気温が下降し始めていて、日本より1か月ほど秋に向かうのが早くなっています。

冬は西安市・鄭州市ともに1月の最低気温を過ぎて、気温が上昇し始める頃に立春を迎えます。日本では2月はまだそれほど気温は上昇しないため、両市の方が少し早くなっている印象です。

このように黄河流域の地域であれば立春や立秋の時期に季節の変わり目を体感できそうですが、日本は気温の変動が少し遅いため、季節感が違っているようです。

 

和風月名

和風月名 旧暦 太陰太陽暦

太陰太陽暦では、和風の月の呼び名が付けられていました。
古くは『日本書紀』で使われているそうですが、起源はよくわかっていません。

名称の由来でわかりやすいものとしては、睦月は睦まじくから正月に親族が集まる月、師走は僧侶が忙しく走り回る月、などと言われています。

水無月は由来が田んぼや梅雨から来ている説がありますが、旧暦の6月は新暦の7~8月頃になるため、水に結びつくものがなく諸説分かれています。

近年は水無月と神無月の「無」は、連体助詞のため「の」と読むとの説が出ていて、「水の月」「神の月」ではないかと言われています。
出雲では旧暦の10月は、全国の八百万の神々が出雲に集まると言われています。

 

雑節・節句

中国から伝わった二十四節気以外にも、日本には古くから季節の目安となる日や行事があります。

雑節(節分、春の彼岸、秋の彼岸、土用、八十八夜、入梅など)は、日本独自で作られた、季節を感じる特別な日となっています。

節分は季節の変わり目を意味していて、元は立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日が節分でした。
日本では1年の初めが尊ばれ、春の節分だけが残ることになったそうです。(豆まきは中国の上級貴族の習俗で、日本へは飛鳥時代に伝わりました。)

また古代中国から由来する、五節句と呼ばれる年中行事(七草の節句、桃の節句(ひな祭り)、端午の節句、七夕、重陽の節句)があります。

いずれも旧暦での行事のため、桃の節句は旧暦の3月3日(現在の4月頃)となり、本来は桜や桃の花が咲く時期の行事でした。

ひな祭りは平安時代の貴族によるままごと遊びとされていて、それが時代とともに中国の似た行事(上巳)と結びつき変化したものと言われています。

七夕も同じく、旧暦の7月7日(現在の8月頃)の気候での行事になります。新暦ではまだ梅雨の時期で夜空が見えない時が多いですが、昔は真夏の夜空での行事でした。

8月だと彦星や織姫星、天の川はもう少し高い位置に見え、また旧暦の7月7日は半月(上弦の月)が見える日になります。
(現在でも仙台七夕祭りなど旧暦を意識した日付で開催されている七夕もあります。)

一方、中秋の名月のような月見行事は、満月ですから現在でも旧暦に合わせることになります。旧暦の8月15日にあたる新暦の日が中秋の名月となり、毎年日付が変わることになります。

中秋の名月は中国の中秋節という、十五夜の日に親族が集まって月餅を贈り合う行事が、平安時代に日本へ伝わって広がったとされています。

現在では旧暦は一般的に使われていませんが、このように古来からの特別な日や伝統行事は受け継がれています。