1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (後半)

関ヶ原の戦いまでの流れ

西上開始

(東軍)慶長5年(1600年)7月26日、福島正則、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興ら東軍諸将が小山から南下、西上を開始する。

7月26日、徳川家康は堀秀治、小出吉政ら各地の諸将に先発隊の出陣を伝える。【徳川家康文書の研究 中巻】

西軍として行動している京極高次へも家康が書状を送り、必ず上洛すること、堅固にもつことが肝要で、(弟の)京極高知は先手に加わったと伝える。【譜牒余録】

上杉への備えとして宇都宮城に徳川秀忠・結城秀康(家康の次男)、宇都宮が本拠の蒲生秀行、那須衆らを配置する。
また東海道の掛川城(山内一豊)、駿府城、岡崎城(田中吉政)などの諸城に徳川譜代を配置し、在番させることとした。

家康はしばらく小山に留まった後に宇都宮へ移動、8月5日に江戸城へ戻る。

 

西上の動き

関ヶ原の戦い 西上作戦開始
※福島正則ら先鋒隊の位置は推定。

 

(東軍)7月27日、榊原康政が秋田実季へ情勢を伝える。
「上方において三成と大谷吉継が別心したことについて、大坂より御袋様 (淀殿) 、三奉行、前田利長などが早々に内府は上洛されるのが尤もと申され、両人成敗のため(関東へ)下った上方衆とともに上洛すると申された。」【譜牒余録】
(前田利長とあるので、7月13日頃の上方の噂が伝わった加賀からも報告が届いたと思われる)

(東軍)7月27日、大久保忠隣と本多正信が山内一豊へ書状を送る。大坂の様子を伝えてきたこと(大坂の山内屋敷が送ったと思われる)、(家康は)とても喜んでおられたので面倒でもこちらまで来て欲しいと申している、と伝える。【山内家史料・第一代一豊公紀】

(東軍)7月29日、徳川家康が黒田長政へ書状を送る。先頃西上された後、大坂奉行衆の離反の報せが入り、再度相談したいがすでに西上されているので(後続の)池田輝政に事を伝えた、相談するようにと伝える。【徳川家康文書の研究 中巻】

(東軍)7月30日、徳川家康が小山から宇都宮へ移動する。(【7月晦日付塩谷孝信宛家康書状】に宇都宮にいた大久保忠隣の副書あり)

 

(西軍)7月29日、石田三成が佐和山から伏見へ移動する。

(西軍)7月30日、石田三成から信濃上田城の真田昌幸へ書状を送る。

去る二十一日の書状が二十七日に佐和山へ届き拝見しました。
一、この度のなりゆき(西軍の挙兵)を知らせず、御腹立ちは無理もありません、太閤様の懇意を忘れず奉公を願います。
一、御内室方は大谷吉継がお世話をするのでご安心ください。私は昨日伏見に上ってきました。
一、東へ出陣した衆は、上方の様子を聞き、悉く帰陣し始めています。尾張・美濃へ軍勢を留め、帰陣した諸将一人一人に秀頼様への道理を伝えます。
(小山との距離からまだ西上開始の報せは届いていないと思われる)
一、細川幽斎の城へ押し寄せ、幽斎が朝廷に赦免を詫たので一命を助け丹後を平定しました。(田辺城の開城は9月。三成は8月2日付の増田長盛らとの連署状では落城が近いと伝えている)
一、今年の暮れから翌春に関東仕置のため軍を遣わせます。
【真田家文書】

同日、大谷吉継も真田昌幸・信繁へ書状を送り、こちらは伏見城を攻撃していること、両人の人質は自分が預かったこと、秀頼様を守りたいと伝えて協力を呼びかける。

(西軍)7月30日夜、石田三成が大坂城へ戻り、毛利輝元と相談する。

(西軍)8月1日、大坂城の毛利輝元が北国方面へ向かう大谷吉継へ書状を送る。【類聚文書抄】
「帰城されるとのことで申し上げます。そちらの様子をお知らせください。
一、伏見松丸を昨夜乗っ取りましたので本丸も程なくして落ちるでしょう。
一、石田三成が昨夜来て相談しました。その詳細は各々から伝えられるでしょう。
一、東国より到来する様子は、増田長盛から申し入れるのでお伝えしません。
なお、(大聖寺城の)山口玄蕃の所へ書状を遣わすので届けてください。」

 

伏見城落城

伏見城では、7月18日より城主 鳥居元忠(兵数1800)が宇喜多秀家、小早川秀秋、小西行長ら西軍(兵数40,000)の攻撃を受ける。

「伏見城が落ちないので、大鉄砲をもって攻撃するらしい。丹後の細川忠興はこの度、家康に奉仕して関東へ下ったので御敵に伏せられ、丹後へ数万が向かった。」【義演准后日記 7月27日条】

寄せ手の甲賀者 浮貝藤助が松の丸を守る甲賀組の深尾清十郎へ矢文を入れる。甲賀の妻子を磔にすること、降伏すれば妻子・親類を助け恩賞を与えると伝える。【関原始末記(1656年)】
甲賀者の深尾清十郎が寝返って松の丸へ敵を引き入れた。【戸田左門覚書】

「伏見城は夜中に松の丸・名護屋丸等が焼失した。夜中鉄砲を撃っている。」【言経卿記 7月30日条】

8月1日午前、本丸が焼かれる。鳥居元忠、内藤家長、松平家忠らが戦死する。

「子の刻 (0時頃) 、伏見城松の丸を焼き立て攻め入った。猛火は昼のようだった。(これを義演が)長尾山から見物した。辰の刻 (8時頃) 、本丸の月見櫓を火矢にて焼き立て、それより千畳敷・櫓以下、南を指して焼き、西へ廻って焼いた。巳の末刻 (11時頃) 、天守の上の重より焼け出し、午の刻 (12時頃) に焼け果てた。」【義演准后日記 8月1日条】

「諸奉行はただちに同城を包囲して数度の攻撃を行なった。城中の兵は果敢に防戦し、敵の多数を殺戮した。大量の材木をもって城の周囲の大きな濠を埋めた。城の最初の外郭を占領すると、内部の城の周囲にかの材木をすべて集めさせた。…外からはかのすべての材木に火が放たれ、諸邸宅の屋根にはおびただしい火が射られたため、城はついにことごとく火焔に包まれ始めた。」【イエズス会 1599~1601年 日本諸国記】

「伏見城が落城した。寄手は三千人ほどが負傷し、悉く焼けた。言語道断で言葉では言い表せないらしい。」【言経卿記 8月1日条】

「火矢を多数射かけると、鳥居元忠家人はたくさんの水で火矢を消すが難しく、月見櫓へ火がまわると鳥居元忠は残りの兵を引き出し、討って出て寄手の中へ駆け入り、討死した。」【関原始末記】

「伏見本丸が落城、大将の鳥居元忠、内府の一人が本丸で切腹した。家々は焼け、手負い・死人は数知れず。洛中の遊民は見物のため伏見へ向かい、(そのため洛中では)盗賊等が数多く出た。」【小槻孝亮宿禰記 8月2日条】

茶人の上林竹庵 (政重) が宇治から伏見へ見舞いに訪れていた。鳥居元忠は城から出るように勧めるが、竹庵は徳川家にお世話になっていると言って城に残り、ついに討死した。【戸田左門覚書】

 

8月1日、大坂の奉行衆らが蒔田広定へ伊勢へ向かうよう指示を出す。【毛利輝元・宇喜多秀家・長束正家・増田長盛・石田三成・前田玄以 連署状 廊坊篤氏所蔵】
8月1日、同じく奉行衆は木下利房・木下勝俊へ、前田軍の南下に対して北ノ庄城(城主 青木一矩)への加勢を命じ、5日に出陣するようにと伝える。【武家事紀】

8月1日、毛利輝元が益田元祥へ、瀬田の普請の遅延を咎めて調うように相談すること、内府からの書状の案文を秀元・広家へ送るので見るようにと伝える。【毛利家文庫 譜録】(家康は7月20日頃に江戸で受けた上方情勢に対して輝元へ案文を送っている)

8月2日、石田三成は同じ連署で真田昌幸へ伏見城を落としたこと、田辺城は落城が近いことを伝える。【真田家文書】

8月2日、毛利輝元、北政所が豊国社に参拝する。【舜旧記】

大谷吉継は前田利長の南下に備えて北陸へ入る。
小早川秀秋、長束正家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親、鍋島勝茂らは伊勢方面へ向かう。
瀬田の普請を終えた毛利秀元、吉川広家も伊勢方面へ、石田三成は佐和山城へ向かう。

「毛利の安国寺恵瓊が尾張へ千人ほどで出陣したらしい。この地を通った。長束正家は伊勢口へ出陣したらしい。石田三成は本城の佐和山へ行くので出陣するらしい。」【義演准后日記 8月5日条】

8月3日、豊臣秀頼が豊国社に参拝する。【舜旧記】

8月3日、大坂の奉行衆が寺社へ、伏見城からの落ち武者がいれば捕えて出すように命じる。【義演准后日記】

 

(東軍)8月1日、徳川家康が脇坂安元(脇坂安治の息子)へ内応についての返書を送り、戦いに向けて防備を固めるようにと指示を出す。【徳川家康文書の研究】
(小早川秀秋・脇坂安治の家臣に山岡家一族が取り立てられていたため、山岡道阿弥 (景友) が内応を仲介したとされる)

(東軍)8月1日、豊前 中津城の黒田如水が豊後 岡城の中川秀成へ上方情報を伝える。 「上方を七月二十五日に出た船の報せでは、伏見城は堅固で、田辺城も堅固で交戦中です。瀬田には中国衆が城を造っています。伊勢と近江の境に城を造りその大将は大谷吉継で、そのように城を造るときは内府の上国があると見えます。」【中川家文書】

(東軍)8月3日、上杉が堀領の越後に兵を入れ、一揆を蜂起させる。【直江兼続書状  秋田藩家蔵文書】

(東軍)8月4日、豊前の黒田如水が吉川広家へ返書を送る。「去月二十三日の手紙を昨日拝見しました。天下の成り行きは是非もなく、このようになるかと常に思っていたので驚いていません。…この度の戦は成立しないと思っています。活躍できず残念です。…日本がどう変わっても、あなたと私の仲は変わりません。」【吉川家文書】

8月4日、上杉討伐の出陣衆が帰ってくると京に伝わる。【義演准后日記】

 

前田利長の動き

(東軍)7月26日、加賀の前田利長が金沢城から西軍支配の加賀南部へ侵攻。

(東軍)8月3日、前田利長が大聖寺城を攻撃、占領する。大聖寺城主 山口宗永は自害となる。

8月5日、大谷吉継が金沢城を攻撃するとの報せが届いたため、前田利長は進軍を中止、金沢方面へ撤退する。【御夜話集】

8月8日、小松城から出撃した西軍の丹羽長重から攻撃を受けるが(浅井畷の戦い)、金沢城へ撤退を完了させる。その後、能登の前田利政(利長の弟)が大坂で人質になっている妻を気にかけ、出陣を拒否したことで作戦は終了となる。

 

(東軍)8月5日、徳川家康が江戸城へ帰城する。(【戸田左門覚書】には「四日に宇都宮を出発されて古河に御泊まり、五日に古河より舟に乗られた」)

その後江戸城に約1ヶ月留まる。
(長期滞在した理由は「内府違いの条々」を受け取った豊臣方武将の動向を確認するため、伊達政宗の離反の懸念、佐竹義宣の動向が確定しないため、などと言われる。家康は9月14日までの間に全国の諸将へ100通を超える手紙を書き、諸将への指令や勧誘工作を続ける。)

(東軍)8月5日、「上方衆が一同に箱根を越えた。多勢であったので一足二足ずつ歩んでは先がつかえた。」【石川正西聞見集】

(東軍)8月8日、徳川家康が黒田長政へ書状を送る。「(7月23日頃の)吉川殿の書状、つぶさに見ました。輝元は兄弟のような仲なので申し合うことは不審に思っていたところ、事情を知らないそうで満足しました。」【吉川家文書】

 

8月4日、公家の西洞院時慶が伏見城の島津義弘を訪問、面会する。「伏見城の焼け跡は哀れな様子で、兵の屍や骨が多数残っていた。」【時慶記】

(西軍)8月5日、石田三成が大坂城から佐和山城へ移動し、真田昌幸・信幸・信繁へ書状を送る。

一、この飛脚を早々に沼田を越して会津へお通しください。
一、先書の通り、貴殿には小諸・深志・川中島・諏訪が与えられることになりました。
一、貴殿からも上杉へ関東に軍を出すよう伝えてください。
一、堀秀治が秀頼様に忠誠を尽くすと伝えてきました、前田利長は母を江戸へ遣わしているので未だにはっきりしません。
一、上方勢はようやく尾張三河へ上り、
理半ばなのでそれぞれに聞いて済ませます。
一、丹後(田辺城)を平定し細川幽斎を高野山へ送りました。
一、備口人数書をご覧になれるよう進上します。
一、拙者は尾張へ出て織田秀信と相談し、福島正則は理半ばなので上手くいけば三河へ進み、そうでなければ伊勢勢と清須を攻撃します。
【真田家文書】

三成は翌8月6日と10日にも真田昌幸へ書状を送る。

8月5日、石田三成が岐阜城の織田秀信へ、勝利の際は美濃・尾張の二か国を与えると勧誘工作を行い、味方につける。
また城主 福島正則が抜けた清須城へ勧誘工作を行うが、留守居の大崎長行により拒否される。

8月6日、豊臣秀頼が豊国社に参拝する。【舜旧記】

 

西軍の動き 位置関係

関ヶ原の戦い  石田三成 福島正則

 

(西軍)8月10日、石田三成、小西行長が大垣城に到着。大垣城主 伊藤盛正が城を明け渡し、三成らが入城する。(この時点で大垣城の兵数は15,000)

石田三成は西軍方の犬山城(城主 石川貞清)へ竹中重門・加藤貞泰を入城させる。

(西軍)8月10日、大坂の毛利輝元が益田元祥へ書状を送る。「毛利秀元が伊勢方面へ陣替えすると、長束正家・安国寺恵瓊より伝えられたので、早々に陣替えするのは然るべきであると伝えた」

(西軍)8月10日、京極高次が北国方面として堅田まで向かうらしい。【時慶記】(京極高次はすでに家康へ忠誠を示している)

(西軍)8月11日、蜂須賀家の家臣が秀頼の馬廻りとして北国へ出陣する。【義演准后日記】

(西軍)西軍の高槻城主 新庄直頼が伊賀へ入り、上杉討伐として出陣した筒井定次の本拠 上野城を占拠する。上野城の留守居である筒井定次の兄 筒井玄蕃允は城を捨て高野山へ逃亡する。

 

(東軍)8月13日、豊前の黒田如水が中川秀成へ上方の情報を伝える。
8月7日に大坂に着いた使者の報せで、内府は小山より7月27日に引き返して上方へ出陣し(実際は江戸に留まる)、福島正則は黒田長政と同じく今日明日に清須に着くだろうと伝える。【中川家文書】

(東軍)8月13日、江戸の徳川家康が(清須城へ入る)池田輝政・九鬼守隆ら諸将へ書状を送り、そちらの様子を承りたく村越茂助を行かせたので相談しこちらへ報告ください、出馬については油断なく進めていると伝える。【九鬼家文書】【譜牒余録】【水口加藤家文書】

(東軍)8月13日、徳川家康が前田利長へ、大聖寺城の勝利を讃える。「そちらの戦功を聞き、喜ばしいことです。…こちらは諸将と相談し、美濃へ出ようと考えています。」

 

(東軍)8月14日頃、福島正則、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興らが清須城に到着。8月22日までに本多忠勝、井伊直政、松平忠吉ら各隊が入城する。(この時点で清須城の兵数は35,000)

(東軍)8月16日、福島正則は西にある今尾城の市橋長勝と松ノ木城の徳永寿昌へ、西軍の福束城(城主 丸毛兼利)攻撃を命じる。
戦いは市橋長勝らの勝利となり、丸毛兼利は大垣城へ敗走する。

(東軍)8月中旬、海路から富田信高が伊勢安濃津城へ、古田重勝が伊勢松坂城へ、稲葉道通が伊勢田丸へ、それぞれ居城へ帰城する。

(東軍)8月17日、黒田長政が吉川広家へ書状を送る。「(7月の一報を聞き)この度の件、輝元はご存知なく安国寺一人の考えと内府公も理解されています。然る上は輝元へしっかり伝えられ、内府公が入魂できるようにお考えください。あなた次第でこの件はまとまります。しかし戦が始まればそのようなことはできなくなるでしょう。」【吉川家文書】
(黒田長政は8月25日にも同様の書状を送る)

 

(西軍)8月15日、島津義弘が伏見から佐和山へ向かう。【島津家譜】

(西軍)宇喜多秀家が草津から伊勢を経由して大垣城へ向かう。「八月十五日に宇喜多秀家の一万人が醍醐を通った」【義演准后日記 8月15日条】

(西軍)「伊勢へ八万人が出陣、北国へ三万人余りが出陣したらしい。」【義演准后日記 8月17日条】

(西軍)8月17日、毛利秀元ら伊勢方面隊から小早川秀秋が離脱、行軍を停止する。8月27日まで近江石部に留まる。

(西軍)8月17日、島津義弘が美濃 垂井に着陣。8月20日頃大垣城へ入り、本国と大坂へ書状を送る。

「関東と京都の戦について、尾張と美濃の境で防戦になります。拙者は美濃垂井という所に着陣しました。 我が兵も伏見で死人が出てますます人が足りません。近日上方の軍勢が清須に着いたと報せがありました。必ず近々一戦に及ぶでしょう。
長宗我部殿は二千人ですが秀頼様への協力として五千人連れ近日伊勢へ着陣だそうです。立花殿は千三百人ですがこれも協力して四千人連れて今日こちらへ着きます。薩摩の陣立ては千人より少なく何度も言っていますが面目ない次第、豊久は佐土原から兵を連れてきたのに出水と帖佐からは兵が来ていません。」【旧記雑録後編 三】(一部要約)

(本国の薩摩では庄内の乱を鎮圧した兄 義久が実権を握り、国内政権から疎外された義弘への派兵は認められにくい状態だった)

その後8月22日、島津義弘は墨俣の渡しの守備につく。

8月18日、北政所、大谷吉継代理が豊国社に参拝する。20日には宇喜多秀家より祈願を受ける。【舜旧記】

(東軍)8月18日、東軍の戸川達安(旧宇喜多家臣)が西軍 宇喜多秀家重臣の明石全登(掃部頭)へ調略を行う。戦闘になれば秀家は敗北すること、宇喜多家存続のために家康は嫡子秀高を推していることを伝える。これに対し、明石全登は上方で牢人衆を集め兵力を整えたことを伝え、投降を拒否する。【水原岩太郎氏所蔵文書】

(東軍)8月18日、豊後の中川秀成が、肥後の加藤清正へ起請文を送る。大坂の奉行からの触状には応じず家康と懇意にしていること、大坂の家族から助けを求められたので上洛するが奉行につくことはないと伝える。(その後家臣が上洛している)【中川家文書】

 

岐阜城の戦い直前 位置関係

関ヶ原の戦い 岐阜城の戦い 石田三成 福島正則

 

岐阜城の戦い

(東軍)8月19日、黒田長政らは家康の到着後に木曽川越えと岐阜城攻撃を予定していたが、家康の使者 村越茂助と話し、家康出陣の見込みが立たないことがわかったため即進軍することを決定。【愛知県史 資料編十三、織豊三】

8月21日、池田輝政隊(兵数18,000 浅野幸長、池田長吉、堀尾忠氏、山内一豊、一柳直盛ら)と、福島正則隊(兵数16,000 黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、田中吉政、藤堂高虎、筒井定次、京極高知ら)の二手に分かれて進軍を開始。

8月22日、福島隊が木曽川を渡り、加賀野井城・竹ヶ鼻城を攻撃する。竹ヶ鼻城では城主 杉浦重勝 (兵数500) が籠城するが、東軍の攻撃を受け自害する。(竹ヶ鼻城の戦い)

 

8月22日、池田隊が木曽川を渡る前の軍議で、周辺が自領である一柳直盛 (黒田城主) が池田輝政と先陣を競い口論となる。
議論の末、一柳直盛は2番手となるが、一柳隊は先に木曽川を渡河し、米野で布陣していた織田秀信(三法師、織田信忠の嫡男 兵数3,000)を攻撃する。

残りの隊も渡河して織田軍へ攻撃を行い、織田秀信は後方へ兵を引く。(米野の戦い)

織田秀信は境川で再度布陣して東軍を待ち受け交戦するが、再び撤退、岐阜城へ帰城する。(乱闘橋の戦い)

8月22日、井伊直政と本多忠勝が家康に戦況を報告する。
(支城の)竹ヶ鼻城を落とし明日岐阜城を包囲して攻撃する予定であること、来ないと思われるが万一大坂から後詰 (毛利輝元) が来た場合は先にその援軍を抑えて大垣城を攻撃すること、明日の様子を見て出馬をお願いすると伝える。【徳川家康文書の研究 中巻】

8月23日、福島隊の細川忠興・加藤嘉明らが岐阜城(兵数5,300)を攻撃。
城の各砦を攻略すると、織田秀信が投降、岐阜城を落城させる。

 

その後犬山城(城主 石川貞清)に降伏勧告を出す。(犬山城は9月3日に開城)

岐阜城へ遅れて進軍していた黒田長政・藤堂高虎・田中吉政は西へ進路を取り、合渡の渡しを守備していた石田三成の手勢(兵数1,000)を撃破、そのまま西へ進軍し、大垣城北西の岡山へ着陣する。【神戸五兵衛覚書】

 

8月24日、福島正則が甲府の浅野長政へ書状を送る。
「ここの状況は池田輝政殿と浅野幸長殿と話合っています。一昨日池田輝政殿・浅野幸長殿、遠州衆が川を越えた処、岐阜衆が少し出てきたのを一戦に及び追い崩されお手柄でした。
昨日細川忠興・加藤嘉明・福島正則が稲葉山へ取り詰めすぐに落城させました。織田秀信殿は降参したので小姓二、三人で尾張へ送りました。…秀頼様のため良きように働きます。」【浅野家文書】

また福島正則は結城秀康へ自ら先手として加賀野井城・竹ヶ鼻城を放火したこと、石田三成の隊が合渡川まで来たところ黒田長政・藤堂高虎が追い崩したと伝える。

【1599~1601年 日本諸国記】
「両者(島津義弘・小西行長)は事態の推移を知り、敵軍が或る河を渡るのをくいとめるために、急遽2里先へ前進した。これを見、敵(東軍)は、あの両名は勇猛果敢に抵抗するかもしれぬと考え、河の対岸に兵を留めた。もしそれを実行していたなら、きわめて少数であった薩摩および小西行長の軍勢を容易に潰走させていたであろうし、ほとんど抵抗なく城に入れたであろう。(一部要約)」

 

墨俣の西にある佐渡で石田三成・島津義弘・小西行長が軍議を開く。
三成はこのまま義弘も大垣城へ入るようにと指示を出し馬に乗る。しかし墨俣にはまだ島津兵が残っていたため義弘家臣の新納忠増と川上久智が手綱をつかみ三成を止めるが、三成はそのまま大垣城へ走ってしまう。その後島津義弘は自軍を合流させ、大垣城へ移動する。【新納忠元勲功記】

島津義弘が大垣城へ移動中、水牛角の兜を被った三成が単騎で見舞いに訪れる。【神戸久五郎覚書】

北国方面の大谷吉継は大坂へ戻り毛利輝元と相談しようと南下した時、三成・小西・島津から使者が来て東国勢が岐阜城を攻撃したので急ぎ北国勢を率いて関ヶ原へ向かうようにと伝えられる。9月1日、北国勢は兵数15,000で敦賀から関ヶ原へ向かう。【家忠日記増補追加(1663年)】

 

(東軍)8月23日、徳川家康が黒田長政・加藤嘉明ら諸将へ書状を送る。(江戸へ戻った)村越茂助から話を聞いたが喜ばしいことだ、全て理解したと伝える。【水口加藤家文書】

その後家康は8月23日に伊達政宗、25日に蒲生秀行へ、様子を見るので出陣を延期すると伝える。

(東軍)8月23日、宇都宮城の徳川秀忠が岡田善同らへ、信州真田仕置のため明日出陣すると伝え、真田信幸へも小県へ出陣するよう指示を出す。【秀忠書状】

 

(東軍)8月24日、徳川秀忠(榊原康政・大久保忠隣・本多正信ら徳川譜代家臣 兵数38,000)が宇都宮から出陣。
家康は浅野長政に、秀忠を信州へ出陣させたので、長政も出陣して秀忠を援助するようにと伝える。【浅野家文書】

 

(西軍)8月23日、伊勢方面の毛利秀元、吉川広家、長束正家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親、鍋島勝茂らが伊勢へ侵攻、安濃津城(兵数1,800)を攻撃する。8月25日、長束正家が和議を持ちかけ、城主 富田信高が降伏する。
また鍋島勝茂が松坂城を攻撃、城主 古田重勝は降伏する。

「伊勢の国のきわめて重要な3つの城を奪ったが、双方に多くの死者が出た。この後、諸奉行は、内府様が政庁に帰還する道筋に並ぶ重立った邸宅を占拠し、そのすべてを多数の兵で固めた。 」【1599~1601年 日本諸国記】

(西軍)8月25日、上杉景勝が長束正家ら西軍諸将に今後の戦略を伝える。
「内府は今月四日に小山より江戸に入りました。そこで関東方面へ出るところ、最上・政宗と敵対し無礼な様子なので必ず申し付けて相済ませ、関東へ向かいます。…内府の上洛が決まれば佐竹と相談して関東へ乱入の準備油断なく行いますのでご安心ください。」【真田家文書】

(西軍)8月26日、大坂の増田長盛が安濃津城の吉川広家へ書状を送る。津城を乗り崩したことは手柄であり満足している、美濃では敵は大川を越えて赤坂で放火し留まっているので、そちらの軍勢を向かわせること、大坂からも軍勢を派遣すると伝える。

また増田長盛は鍋島勝茂へも書状を送り、即時二の丸まで乗り詰め敵を多数討ち取ったことは手柄である、まもなく本丸も落ちるだろうと伝える。

(西軍)8月27日までに、宇喜多秀家が伊勢方面から大垣城へ入城する。(林村への禁制に石田三成・小西行長・島津義弘・宇喜多秀家の連署あり)【顕性寺文書】

 

(東軍)8月25日、豊後 木付城の細川忠興家臣 有吉立行・松井康之が豊後 岡城の中川秀成へ上方情報を伝える。
「一、去る十八日に大坂を船で出た者が、夜前にこちらへ着きました。慌しく申し来られたことには、長束正家の軍勢が南伊勢へ進軍し、安濃津・松坂・岩手の三城を請け取るべく使者を立てたところ、富田信高・古田重勝・稲葉道通の三人の舟七十艘ばかりが着岸し、各々の城へ入りました。筒井定次も伊賀へ帰国したとのことで(実際は筒井定次は岐阜城攻撃に参戦)、すぐにその軍勢(長束正家)は関地蔵へ引き退いたということです。

一、北国のことは、府中城(城主 堀尾吉晴は浜松で療養中)へ大谷吉継が軍勢を寄せ、色々と申されたが堀尾の留守居は堅固丈夫に守ったので、城への手当に兵を残し置き、北ノ庄へ進み、そちらに在陣したとのことです。

一、丹後の城(田辺城)はいよいよ堅固に守り、奉行衆の策で朝廷へ申し入れ、勅使の雅楽殿・阿波殿が降伏するよう申し入れたが、一切取り合わなかったとのことです。 なお、内府様が北伊勢へ進むと思い、大坂は慌てて籠城の用意をしているとのことです。」
【中川家文書】

(東軍)8月25日、江戸の徳川家康が黒田長政・池田輝政・福島正則・藤堂高虎らへ書状を送り、竹ヶ鼻城陥落を称える。8月26日、米野の戦いの勝利を称える。

(東軍)8月27日、岐阜城攻略後、池田隊の山内一豊が西へ進軍。垂井・関ヶ原を焼き払い、赤坂・青野原に着陣する。大垣城攻撃のため付城を築く。【山内一豊書状】
赤坂の町民は北部にある東光寺付近を赤坂町人小屋に避難する。※赤坂町人小屋は関ヶ原合戦御陣場図に記載「岐阜県歴史資料館蔵」

(東軍)8月27日、岐阜城攻略の報せが江戸へ届く。
徳川家康は黒田長政・池田輝政・福島正則・藤堂高虎らへ岐阜城攻めの戦功を称え、秀忠を中山道へ進むよう命じたこと、自身も江戸から出陣すること、我ら父子を待つようにと伝える。【池田家文書】他

(東軍)8月28日、黒田長政・浅野幸長が小早川秀秋に東軍につくよう要請する。

(東軍)大垣城より毛利勢へ後詰を要請した飛脚を東軍が捕らえる。【8月29日付 保科正光書状】(保科正光は浜松城にいて3日ほど前の情報となる)

(東軍)8月29日(※末日)、徳川家康は秀忠に急ぎ西進し9月10日までに美濃へ入るよう大久保忠益を使者として出す。

(東軍)9月1日、福島正則、池田輝政、藤堂高虎、黒田長政、田中吉政ら先手衆が赤坂~垂井付近に布陣する。

 

家康が江戸城から出陣

(東軍)9月1日、徳川家康が江戸城から出陣、東海道から美濃へ向かう。

家康は真田信幸へ書状を送り、大垣城を水攻めにする予定であること、上杉が越後 坂戸城(城主 堀直寄)を攻撃した場合は真田信幸が加勢に入るようにと指示を出す。【真田宝物館蔵】

(東軍)9月2日、徳川秀忠(兵数38,000)が碓氷峠を越え信濃 小諸城に入る。

 

徳川家康西上 関ヶ原の戦い 第二次上田合戦

 

(西軍)9月2日、大谷吉継、戸田重政、平塚為広、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治(兵数9,000)が関ヶ原南西の山中村に布陣、北国口の守備につく。

 

第二次上田合戦

(東軍)9月2日、小諸城に入った徳川秀忠は、従軍する真田信幸の嘆願により、上田城(兵数3,000)に籠城している真田昌幸・信繁へ降伏勧告を出す。

9月3日、真田昌幸は降伏勧告を受諾する。
9月4日、真田昌幸は開城せず、秀忠に宣戦布告を行う。

9月5日、戦闘が開始される。真田信幸が砥石城へ進軍すると、砥石城の真田信繁は城を捨て上田城へ退却する。真田信幸が砥石城を占領する。

9月6日、秀忠が本陣を高台の染屋原へ移す。
秀忠は牧野康成・忠成父子へ城外の刈田を命令し、兵を上田城へ接近させて挑発を行う。

上田城からは数十名が出陣、交戦となり優勢になった秀忠軍は大手門まで真田兵を追撃する。
しかし城内からの反撃に合い、秀忠は兵を引かせる。

 

9月7日、秀忠が井伊直政・本多忠勝に返書を送る。真田へ仕置を申し付け、近日上国できるのでお待ちください、と伝える。【東京都江戸東京博物館】

9月9日、秀忠は城の包囲を解き、一時小諸城へ引き返す。
そこへ家康からの使者 大久保忠益が利根川増水のため遅れて到着する。【朝野旧聞ホウ藁 第22巻(1842年)】
※【森家先代実録】では9月8日に家康の使者が来て急進するよう指示が届いたと記載

秀忠は上田城の攻撃を中止、9月10日、急ぎ美濃へ進軍する。

「秀忠様は御年が二十二で若くいらっしゃったので、佐渡(本多正信)をつけお伴させていた。何事も他の家臣には任せず、本多正信一人で執り行なった。本多正信が真田にたぶらかされて、数日を送った。"何事も諸将は本多正信の指示次第に" と仰せられていたのだった。
本多正信が扱えるのは隼(ハヤブサ)の使い方くらいで、戦をしたことは一生に一度もないので、よいわけがなかった。そうしているうち二、三日も遅く着いてしまった。」【三河物語】

※参考文献:『「豊臣大名」真田一族』黒田 基樹 (著) 洋泉社

 

(東軍)9月3日、豊前の黒田如水が吉川広家へ書状を送る。「内府の西上の噂があり、確実でしょう。その方面にあなたがいるので心配です。落度がないように判断するのが大事です。上方の軍勢は全て内府方にあるのでご自身を大事にしてください。」【吉川家文書】

(東軍)9月3日、小早川秀秋からの使者が家康のもとへ来るが、家康は取り合い無用とする。【慶長年中卜斎記(~1644年成立)】

(東軍)9月3日、犬山城が東軍の降伏勧告を受け入れ、開城。犬山城の竹中重門、稲葉貞通・典通父子、関一政らが東軍につく。城主 石川貞清は城を脱出、宇喜多隊に合流する。

 

大津城の戦い

(西軍)京極高次は北国方面軍の殿軍として1日遅れで関ヶ原へ向かう途中、近江東野で離脱し、海津から船で大津城に9月3日暁に帰城。東軍方として籠城する。【寛政重修諸家譜】

「京極高次が帰城し、脇坂安治らも同心している。」【時慶記 9月4日条】
(脇坂安治の次男 安元は上杉討伐に出陣したが、石田三成に遮られ大坂に戻っていた。その後、脇坂安元が家康へ忠節を伝えている。)

「大津城へ毛利輝元が軍勢を派遣した。」【時慶記 9月6日条】

9月7日、伊勢方面へ向かう予定だった毛利元康、小早川秀包、立花宗茂ら(兵数15,000)が大津城を攻撃する。(9月13日に開城)

「大津城が敵になり、石山より宇治笠取坂へ軍勢が通った。前代未聞のことで驚き入った」【義演准后日記 9月5日条】
「大津城攻め、鉄砲が響き地を動かし、焼煙は霧のようである。町は悉く焼き払われたそうだ」【義演准后日記 9月8日条】

 

関ヶ原周辺の動き

関ヶ原の戦い 9月初旬動き

 

(西軍)9月7日、伊勢方面軍が美濃へ進軍、毛利秀元、吉川広家らが南宮山に布陣する。【9月12日付 祖式長好宛 吉川広家書状】
(この時点で南宮山に兵数25,000、大垣城に兵数30,000となる)

鍋島勝茂は国許の九州にいる父 鍋島直茂から東軍への攻撃を中止するよう指示を受け、長島城の抑えとして進軍を止め、桑名の野代に滞陣する。

(西軍)9月7日、小早川秀秋が近江 高宮へ移動、9月13日まで滞陣する。【新訂寛政重修諸家譜】

(東軍)9月8日、小早川秀秋からの使者が家康のもとへ来る。【慶長年中卜斎記】
小早川秀秋の家臣 稲葉正成・平岡頼勝の計らいにより使者を関東へ送り、黒田長政、山岡道阿弥、岡野(板部岡)江雪斎へ頼み家康へ上方の様子を伝える。【関原始末記】

(西軍)石田三成は小早川秀秋を怪しく思い、大谷吉継を佐和山へ遣わせ秀秋を佐和山へ招いて捕らえることを計画する。平塚為広・戸田重政(勝成)を小早川秀秋のいる高宮へ派遣するが、小早川秀秋は病気として対面しなかった。【関原始末記】

9月9日、北政所が豊国社に参拝する。【舜旧記】

(西軍)9月12日、長島城の福島正頼が桑名の鍋島勝茂を攻撃する。

 

(東軍)9月11日、徳川家康が清須城に到着。井伊直政、本多忠勝、諸大将も出迎え着陣を祝う。9月12日は滞陣する。【田中興廃記 (1822年) 】

(家康は江戸~清須まで東海道 約370kmを11日間で移動。歩兵部隊は遅れて順に到着したと思われる)
<移動経路>9/1江戸~神奈川、9/2藤沢、9/3小田原、9/4三島、9/5清見寺、9/6島田、9/7中泉、9/8白須賀、9/9岡崎、9/10熱田、9/11清須【慶長年中卜斎記】

 

この頃、秀忠が遅延しているとの知らせが届く。9月11日、軍議が開かれ井伊直政は秀忠軍の到着を待たず決戦を提案、本多忠勝は秀忠軍を待つべきと発言し、意見が分かれる。【朝野旧聞ホウ藁(1842年)】

9月12日、家康が風邪を引き薬を服用して回復する。 【慶長年中卜斎記】

9月12日、村越直吉・今井宗薫が伊達政宗へ家康が清須へ到着したことを伝える。手紙は9月29日に届き、伊達政宗が返信を送る。
「去る十二日の清須からの手紙を受け取りました。…大垣の救援衆、毛利秀元、長束正家、吉川広家、安国寺恵瓊、が罷り出られたとのこと。まずこの衆へ打ち向かわれ、即時打ち果たされる旨、尤もです。勝利を得られること必定と存じます。」 【9月29日付 伊達政宗書状】(関ヶ原の戦いの結果が届く直前に書かれた手紙)

 

(西軍)9月12日、西軍が包囲していた田辺城の細川幽斎と和議が成立、開城する。
京へも開城の噂が届く。「伝聞で、丹後細川幽斎の城は近日開け渡される、兵糧が尽きたそうだ。智仁親王の御扱い(和睦)である。」【義演准后日記 9月3日条】

(西軍)9月13日、大津城の三の丸が落とされる。【義演准后日記】

(西軍)9月13日、大津城の京極高次が降伏。
「大津城が落城し、京極高次は高野山へ登山することになった。多くの者が戦死した」【中臣祐範記 9月13日条】※【舜旧記】【北野社家日記】は9月14日条で落城を記載。

(西軍)9月13日、薩摩から島津兵287名が大垣城へ到着する。島津義弘の家老 長寿院盛淳、山田有栄も到着する。【新納忠元勲功記】

(東軍)9月13日、家康本隊、徳川衆(兵数43,000)が岐阜城に入る。9月14日夜明け、赤坂へ向かう。

大垣城周辺地図

関ヶ原の戦い 前夜 赤坂 大垣城
※地形は明治時代の古地図を参考に作成

 

(東軍)9月14日正午頃、家康本隊、徳川衆が赤坂に着陣。(兵数は78,000となる)

(東軍)9月14日、井伊直政と本多忠勝が小早川秀秋家臣の平岡頼勝・稲葉正成へ起請文を送る。
「一、秀秋に対し、内府は少しもぞんざいに扱うことはありません。
一、御両人が、とりわけ内府に忠節される上は、ぞんざいに扱うことはありません。
一、御忠節されるなら、上方において二カ国を秀秋へ与えます。」【関ヶ原軍記大成 (1713年) 】

(東軍)9月14日、井伊直政と本多忠勝が南宮山の吉川広家・福原広俊へ起請文を送る。内府は輝元を丁重にもてなすこと、忠誠を誓えば内府の直書を輝元へ送ると伝える。【毛利博物館】

(東軍)9月14日、秀忠軍はまだ木曽を進軍中。秋の長雨により道は難所となり進軍を妨げられる。

美濃赤坂 布陣図

関ヶ原の戦い-赤坂
※「関ヶ原合戦御陣場図 (1787年) 」に基づいた布陣(推定図)
古田重然、寺沢広高の位置は不明

 

(西軍)9月14日、杭瀬川付近で交戦となる。
石田三成の兵が大垣城を出て、池尻口の一色(杭瀬川の東側)の藪にて鉄砲を撃つ。これにより中村一忠・有馬豊氏の兵が応戦、徳川方は少々討たれ劣勢となる。家康は岡山の陣から戦況を確認、兵を引かせるため本多忠勝を派遣して撤退させる。【関原始末記 (1656年) 】

(【関原軍記大成 (1713年) 】による杭瀬川の戦い
島左近が東軍に動揺する兵を静めるため出陣を提案、島左近・蒲生備中守・明石全登が出陣。笠木村に伏兵を置き、池尻口から杭瀬川を渡って中村一栄を挑発、交戦となる。島左近は川を渡り退却、中村一栄は追撃して川を渡るが伏兵攻撃を受ける。中村隊の救援に有馬豊氏も参戦するが劣勢となる。家康は岡山の陣から戦況を見て本多忠勝に送り兵を退却させる。)

 

(西軍)9月14日、小早川秀秋 (兵数8,000) が近江 高宮から北上、関ヶ原南方の松尾山城へ移動する。松尾山城に入っていた伊藤盛正 (大垣城主) を追い出し、布陣する。【寛政重修諸家譜 (1812年) 】

(西軍)石田三成らは小早川秀秋へ使者を派遣して誓詞を届ける。
一、秀頼が十五歳になるまでは秀秋を関白とし、天下は秀秋へ譲渡する。
一、(筑前・筑後に加え)播磨一国を与える。
一、近江で十万石を稲葉正成に、同じく十万石を平岡頼勝に秀頼公より与えられる。
一、当座において金三百枚を稲葉正成に、同じく金三百枚をを平岡頼勝に与える。
【関原始末記】

(東軍)9月14日、福島正則が松尾山の小早川秀秋と申し合わせを行い、攻撃開始時は同時に鬨の声を上げることを伝える。【戸田左門覚書】

大谷吉継は小早川秀秋が東軍と通じていると聞き、(脇坂安治らの叛意を知らず)脇坂安治ら四名に小早川秀秋の陣へ備えさせる。【家忠日記増補追加 (1663年) 】

西軍主力部隊の動き

関ヶ原の戦い 前夜 赤坂 大垣城

(西軍)9月14日20時頃、石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家が大垣城の外曲輪を焼き払い、関ヶ原へ向かう。東軍の布陣する中山道を避け、迂回して南宮山の南麓を移動する。※【9月17日付 石川康通・彦坂元正書状】に夜五つ時 (20時頃) と記載

「小早川秀秋は裏切りが早くもはっきりする状況になったので、大垣衆は山中の大谷吉継隊が心もとなくなったということで、大垣城を引き取った。これは佐和山へ二重引きする覚悟と見える。」【9月17日 吉川広家自筆書状案】

「小早川秀秋が謀反と風聞があり仕置いたすべきとして出陣された」【慶長年中卜斎記】

(東軍)9月15日未明、大垣城から移動を始めた西軍を確認し、追撃を開始する。

関ヶ原に着陣

関ヶ原の戦い前夜

(西軍)9月15日未明、西軍各隊が次々に関ヶ原へ到着。北国脇往還と中山道を抑えた配置を取る。
夜明け前、島津隊が到着して布陣する。【黒木左近・平山九郎左衛門覚書】

(東軍)東軍が関ヶ原に到着。美濃赤坂で西側に布陣していた福島正則、黒田長政、細川忠興らを先頭に陣を構える。

 

区切り線

※「東軍」「西軍」は当時の呼称ではありませんが、便宜上使用しています。
※参考文献:

『関ヶ原前夜―西軍大名たちの戦い』光成 準治 (著) 日本放送出版協会
『謎解き 関ヶ原合戦 戦国最大の戦い、20の謎 』 桐野作人 (著) アスキー・メディアワークス
『関ヶ原 島津退き口ー敵中突破三〇〇里』桐野作人 (著) 学研新書
「慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について」白峰旬 (著) 別府大学紀要53号、別府大学大学院紀要14号、史学論叢42号
『徳川家康 ─その政治と文化・芸能』笠谷 和比古 (著) 宮帯出版社 他

 

九州の動き (前半)

(~9月14日)

7月24日、豊後 木付城の細川家臣 松井康之が豊後岡城の中川秀成へ、毛利殿・奉行衆が話し合われ内府様に謀反したと伝える。【中川家文書】

8月1日、豊前 中津城の黒田如水が中川秀成へ上方情報を伝える。
「上方を七月二十五日に出た船の報せでは、伏見城は堅固で、田辺城も堅固で交戦中です。瀬田には中国衆が城を造っています。伊勢と近江の境に城を造りその大将は大谷吉継で、そのように城を造るときは内府の上国があると見えます。」【中川家文書】

豊後 木付城の松井康之・有吉立行が肥後の加藤清正へ、上洛しようにも船と水夫が足りないので城を守っていると伝える。
8月6日、加藤清正は返書を送り、自らも船を用意次第、船に乗り上洛するだろうと伝える。【松井家文書】

8月12日、家康が自国謹慎を命じていた加藤清正へ書状を送り、肥後・筑後両国を占領次第、支配してよいと伝える。【新訂徳川家康文書の研究 中】(江戸から肥後へ届くのは約2週間後)

 

8月13日、黒田如水が中川秀成へ上方の情報を伝える。
7日に大坂に着いた使者の報せで、内府は小山より27日に引き返して上方へ出陣した、福島正則は黒田長政と同じく今日明日に清須に着くだろうと伝える。【中川家文書】

8月、黒田如水が出陣について家康の了承を得る。

9月、大友義統(文禄の役での失策による幽閉は1599年に赦免)が毛利の支援を得て西軍方につき、広島から旧領の豊後へ上陸。9月10日、木付城を攻撃する。

9月9日、黒田如水は支度金で集めた兵9,000で出陣、豊後へ侵攻する。

9月11日、加藤清正が本多正信へ書状を送り、家康に侵攻開始を伝える。
「先頃私の使者が小山より命じられて下向しました。尾張まで出馬する前に軽率に軍勢を動かしてはならないと命じられたことにつき、今まで留まっていました。もはや尾張まで出馬され、美濃の様子も届き、こちらは如水と相談し、隣国へ侵攻します。」【黒田家文書】(清正には家康が8月25日に清須へ着くと伝えられていた)

黒田如水が富来城を包囲中に、大友義統が進軍してきたとの報せが届く。

9月13日、進軍した黒田軍(兵数10,000)と木付城攻撃中の大友軍(兵数2,000)が交戦、黒田如水が勝利する(石垣原の戦い)。
大友義統は降伏し捕えられる(その後常陸穴戸へ流罪となる)。
この戦いで大友改易後に中川秀成の与力となっていた田原親賢は大友旧臣とともに大友方へ加わるが敗北、中川家へ帰参する。

石垣原の戦い後、黒田如水が家康へ戦況報告を行う(9月28日頃に届く)。

 

東北の動き (前半)

(~9月14日)

7月24日、佐竹義宣が会津方面へ進軍するが、赤館で進軍を中止する。

7月24日、家康に呼応した伊達政宗が上杉領の白石城を攻撃、26日に落城させる。その後上杉領へ侵攻予定であったが、その頃石田三成の挙兵により東軍が西上を開始、宇都宮の徳川秀忠も北上しないことから8月、伊達政宗は上杉との講和に動く。

8月22日、家康が伊達政宗へ、東軍勝利後は旧領七郡を加増するとの約束状を出す(百万石のお墨付き)。(後に政宗が南部領奪還のため和賀氏の一揆に派兵していたことが判明し反故となる)

8月25日、上杉景勝が西軍諸将へ、家康が上洛したら佐竹氏と関東へ進軍することを伝える。【真田家文書】

最上義光は伊達政宗と上杉が同盟交渉を進めていることに驚き、8月18日、直江兼続へ最上家の降伏状を送り、景勝とともに出陣することを伝える。
しかし最上義光が人質を送らないため9月8日、直江兼続は米沢から最上領へ攻撃を開始。畑谷城、梁沢城、八沼城、左沢城などを落とし、庄内からの上杉軍は白岩城、寒河江城、谷地城など諸城を次々と落城させる。

9月3日、直江兼続が上杉家臣 本庄繁長へ、関東出陣のために伊達政宗の白石城攻撃を許し手を組むことを伝える。【山形県史】

 

<国内情勢>

慶長5年(1600年)3月16日、オランダ船のリーフデ号が豊後臼杵に漂着。徳川家康は船員のウィリアム・アダムス(英国人、後に三浦安針)、ヤン・ヨーステン(後に耶楊子)を大坂へ呼び面会する。西洋の科学知識を持っている彼らを登用し、後に江戸幕府の外交顧問となる。

 

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