1580年 – 81年 石山本願寺が滅亡

1580年勢力図 ※スマートフォンはタップせずに拡大表示できます


 

天正8年(1580年)

<織田家>

天正8年(1580年)1月9日、明智光秀が津田宗及と茶会を催す。
1月14日、織田信長が安土城で津田宗及、松井友閑と茶会を催す。信長が松井友閑へ茶を挽く。
1月25日、吉田兼見が安土へ年頭の礼に訪れる。松井友閑が吉田兼見と細川昭元に茶を振る舞う。【宗及他会記】

 

別所長治の最期
天正8年(1580年)1月、別所長治が守る三木城を包囲している羽柴秀吉が補給路を完全に絶つ。兵糧攻めにより別所軍の兵は戦えない状態となる。

1月6日、秀吉軍が三木城内の宮の上砦を攻撃、兵は本丸へ逃げ込む。

1月11日、秀吉は長治の叔父吉親が守る鷹ノ尾城(三木城の南)へ軍勢を向かわせると、防げないと判断した別所吉親は城を退き、三木城本丸へ逃げ込む。
秀吉軍が追撃すると本丸から兵が出て交戦となり、秀吉軍は本丸へ火を放つ。

1月15日、秀吉が降伏を勧告する。別所重宗(吉親の弟。謀反に反対して織田軍に入っていた)が城内へ勧告状を届ける。
「摂津の荒木村重や丹波の波多野兄弟のような最期を迎えては末代までの笑い者となり悔しいでしょう。ここは立派に腹を切るのが然るべきです。」

これに対し別所長治は、長治・友之・吉親の三人が切腹するのでその他の城兵は助けて欲しいと返答する。秀吉はこの返答に感銘し、酒二、三樽を城内へ届ける。

別所長治は17日に腹を切ると家族に伝えると、別所吉親はさらし者にさせないように城内に火を懸けるが、家臣が取り押さえて自害させる。

1月17日申の刻、別所長治は三歳の幼児を膝に乗せて刺し殺し、妻を引き寄せて殺害する。弟の友之も同じように妻を刺し殺す。
兄弟は広縁に出て家臣を集め、兵糧の尽きた中で籠城を成し遂げたことを称える。その後、長治が切腹(26歳)。長治を介錯した三宅治忠も切腹。友之は兄が使用した脇差で切腹する(25歳)。
吉親の妻は我が子の男子二人・女子一人を並べて刺し、自らも喉首を切って自害する。

【信長公記】

 

天正8年(1580年)2月、秀吉(または信忠)が、別所氏を支援していた英賀城(城主 三木通秋)を攻撃、占領する。

2月19日、長浜で秀吉が津田宗及と茶会を催す。【宗及他会記】

2月21日、信長が未の下刻に上洛、妙覚寺に入る。【兼見卿記】【信長公記】
2月24日、信長が京で鷹狩りを行う。2月26日、村井貞勝へ本能寺の普請を命じる。
3月1日、信長が京から郡山、有岡城へ向かい検分を行い、道中鷹狩りをしながら3月8日京へ戻る。

3月1日、朝廷が石山本願寺へ勧修寺晴豊を派遣、織田との講和を勧める。

 

北条氏政が信長に臣従
天正8年(1580年)3月9日、北条氏政の使者(笠原康明、間宮綱信、原和泉守)が上洛する。
滝川一益が出迎え、本能寺で鷹13羽・馬5頭などを献上する。

3月10日、信長が使者と面会。北条から太刀・白鳥徳利二十・熨一箱・煎なまこ一箱・あわび三百・江戸酒三種二荷などが献上される。
朝廷への報告を滝川一益と牧庵が行う。

織田の武井夕庵、滝川一益、佐久間信盛が北条使者の言上を承り、信長の娘 慈眼院と北条氏直との婚約が調えられ、関八州は織田分国として服属すると伝える。
※北条氏直は天正壬午の乱後に家康の次女督姫と婚約するため、信長の死後に慈眼院との婚約は解消されたと考えられている。

氏政からの挨拶を笠原康明が申し上げ、氏直からの挨拶を間宮綱信が申し上げる。
信長は使者に京都見物を勧め、金銀100枚を土産として渡す。

滝川一益の案内で京都見物を終え、3月21日に安土城を訪れ、信長より返礼品として虎皮二十・縮羅三箱・猩々皮十五、氏直へは段子二箱を受け取る。

使者は帰路で徳川家康と面会し、小田原へ帰国する。

 

天正8年(1580年)3月10日、秀吉が播磨の過半を制圧。諸将を休めるため長浜に帰還する。
しかし20日、宇喜多直家より援軍要請の注進が入り3月25日、再び播磨へ出陣。閏3月2日に三木城へ入城する。

 

3月15日~19日、信長が安土城西にある長命寺へ逗留、奥島で鷹狩を行う。
その間の3月17日、信長は本願寺と勅命講和し、赦免の条件として柴田領の加賀南二郡の本願寺への返還と、8月までに大坂城の退城を伝える。【本願寺文書】

閏3月5日、石山本願寺の顕如(本願寺派第11世宗主)が和睦に応じる。
しかし息子の教如が強硬派とともに抵抗、教如は信長は表裏二心があると非難し、また親鸞聖人(御真影)の御座所が汚されるとして、石山本願寺で籠城を続ける。(大坂拘様)

「この度、無事に調ったことにつき、当寺を信長へ渡すことになりました。数代の本寺聖人の御座を信長の馬の蹄で汚される事、一層の無念で嘆かわしいばかりです。…ただひとえに法義相続をして仏法を退転しないようにと思います。」【閏3月7日付 末寺門徒宛 教如書状】
(大坂拘様によって本願寺が二つに分裂するきっかけとなる。)

 

閏3月9日、越前 北ノ庄城の柴田勝家が加賀へ侵攻。一向一揆勢と交戦しながら能登へ進軍し、上杉方の末盛城(城主 土肥親真)を落城させる。(和睦条件の加賀二郡返還などは守られていない)

 

4月9日、顕如は予定を早め、親鸞聖人の御真影とともに妻の如春尼、准如、下間仲之、下間頼廉を連れ、大坂を退去する。(顕如は紀伊の鷺森御坊に移り、本拠とする。)

 

<播磨国周辺地図>
秀吉の中国攻め

天正8年(1580年)4月、秀吉が播磨西北にある宇野氏の諸城を攻撃、次々に占領する。4月下旬に居城の長水城を包囲する。

 

5月5日、信長が安土山で相撲を催す。(17日にも開催)

 

5月9日、秀吉が長水城を占領する。 その後北上し因幡へ侵攻、鹿野城を攻略する。
5月16日、羽柴秀長が但馬 山名祐豊の有子山城を攻撃、占領する。秀吉家臣の宮部継潤が豊岡に入り、豊岡城を築城する。

6月5日、秀吉家臣の蜂須賀小六らが長水城を脱出し宍粟郡に立て籠る宇野民部を追撃、播磨を制圧する。

 

7月2日、安土城で本願寺の使者と朝廷の勅使を迎える。

7月2日、花隈城に逃げた荒木村重を池田恒興が攻撃、勝利する。荒木村重は毛利輝元を頼り亡命する。

その後荒木村重は大坂で茶人として秀吉に仕え、利休七哲の一人となる。
「荒木は領国から追放された後、巡礼のように、人知れず日本の諸国を巡ったが、その後堺に戻り、剃髪して同市の市民となり、商人の娘と結婚した。彼は所持していた茶の湯の道具一個を6千クルサードで羽柴に売り、今では小姓のように彼のために茶を立てている。」【1584年1月20日付 フロイス書簡】

荒木村重は秀吉と対面した際、高山右近を褒める秀吉に、高山右近への非難を述べたことから追放される。さらに不満の言葉が秀吉の妻ねねに伝わったことから、殺されるのを恐れ家と妻を捨て寺院に入る。【1584年度日本年報】
(荒木村重は天正14年(1586年)5月4日、堺にて死去(52歳))

 

7月14日、信長が上洛、翌月まで滞在する。【兼見卿記】

 

【畿内周辺地図】
畿内地図 織田信長 木津川の戦い

 

石山本願寺開城

天正8年(1580年)8月2日、教如が石山本願寺の明け渡しに応じ、石山合戦が終結する。

「雑賀・淡路島より数百艘の迎え船を寄せ、近頃まで守備していた端城の者は右往左往に、縁を頼りに海上と陸と、蜘蛛の子を散らすように散り散りに別れていった。
松明の火に西風が吹きかけ、多くあった寺院の建物は昼も夜も三日間、黒雲となって焼け落ちた。」【信長公記】

教如は顕如が入った紀伊の鷺森御坊へ移る。その後両者が対立、教如は紀伊・美濃・越前などへ向かい流浪の身となる。

紀伊では降伏に反発する土橋若大夫(守重)が信長派の顕如・鈴木孫一と対立、内部分裂が起きる。教如は反信長派として行動する。

その後、信長は石山本願寺跡地に城郭を築く。

 

<本願寺のその後>
2年後、本能寺の変が起きると教如は鷺森へ戻り顕如と和解する。その後、本願寺は秀吉により貝塚、天満と寺基が移される。
天正19年(1591年)、顕如は秀吉から京都 堀川六条の地を寄進され、本願寺を建立する。

さらに慶長7年(1602年)、教如が家康より烏丸六条の地(堀川六条の東側)を寄進され、真宗大谷派 東本願寺を建立する。
顕如の子 准如(本願寺派第12世宗主)が継承した堀川六条の本願寺は、浄土真宗本願寺派 西本願寺と呼ばれる。

 

浄土真宗本願寺派の勢力拡大まで(別ページ)

 

天正8年(1580年)8月、細川藤孝が光秀軍とともに丹後へ侵攻、一色氏に勝利する。細川藤孝は信長から丹後南半国の所領を与えられ、宮津城を築城する。
信長は一色満信(義定)の領有を認め、丹後北半国は一色氏に統治させる。

8月、信長が摂津・河内・大和の城の破却命令を出す。8月17日、筒井順慶が郡山一城を残し大和国の城を全て破却する。

8月15日未明、信長が京を出発、宇治橋を見物して舟で大坂へ向かう。【兼見卿記】

 

佐久間信盛を追放

天正8年(1580年)8月22日、大坂に着いた信長は重臣の佐久間信盛と嫡男 信栄へ折檻状を送る。

本願寺攻めの司令官として5年間よい働きがなかったこと、新領では家臣に加増せず欲深で金銀を蓄えたこと、姉川合戦では落度を咎めると口応えをしたことなどを咎め、父子共々高野山へ追放する。その後さらに山奥へ送る。

8月23日、信長は京へ戻り、林秀貞、丹羽氏勝、西美濃三人衆の一人である安藤守就も追放処分とする。(【信長公記】には「子細は先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり」と記載)

佐久間信盛の追放により、柴田勝家が織田家の筆頭家老となる。
また筒井順慶・池田恒興・高山右近・中川清秀ら摂津衆が明智光秀の与力として編成され、明智光秀は畿内方面の司令官となる。

 

8月21日、信長が細川藤孝へ、諸城の破却が終わったことを伝える。

8月28日、信長が安土城へ帰城する。

 

8月、秀吉が因幡 鳥取城(城主 山名豊国)を攻撃、降伏させる(第一次鳥取城攻め)。
秀吉は因幡西部の鹿野城に亀井茲矩・赤井忠家・福屋彦太郎を入れ毛利への前線基地とした。【寛政重修緒家譜】

その後鳥取城主 山名豊国が毛利派の家臣らに追放される。※城を出た理由は諸説あり
吉川元春は牛尾元貞らを鳥取城主として入城させるが山名家臣から新たな城主を要望される。

 

9月21日、坂本の明智秀満邸での茶会に明智光秀、津田宗及、三沢秀次、斎藤利三が参加する。【宗及他会記】

 

柴田勝家が加賀国を平定

11月、柴田勝家が加賀一向一揆の本拠地である尾山御坊(金沢御堂)を制圧。また佐久間盛政が一向一揆最後の拠点 鳥越城を落城させる。

これにより手取川周辺の一部地域を除き、加賀国を平定する。

尾山御坊跡に金沢城を築城、佐久間盛政が金沢城主となる。

 

11月24日、長宗我部元親が秀吉に書状を送る。
大坂の牢人が紀伊や淡路の者を集め、四国へ渡り勝瑞城を占領しましたが、信長の朱印が出たらしいので攻撃しませんでした。三好康長が近日讃岐へ到着し阿波へ下国してくること、淡路の和田氏が織田についたこと、我々が阿波・讃岐を平定できれば中国攻めの際は相当の協力を致します、と伝える。【吉田文書】

12月20日、明智光秀が津田宗及、筒井順慶と茶会を催す。【宗及他会記】

 

天正8年、伊勢の織田信雄(北畠信意)は居城の田丸城の天守が火災により焼失したため、松ヶ島城へ移る。(以降本能寺の変まで居城となる)

天正8年、織田信忠に長男 三法師(織田秀信)が誕生。

 

天正9年(1581年)

天正9年(1581年)1月8日、信長が安土城で津田宗及、山上宗二、松井友閑と茶会を催す。【宗及他会記】
1月15日、安土城西南の馬場で爆竹を行う。

2月、佐々成政が越中半国を与えられ、富山城主となる。
織田方として加わっていた神保氏張、神保長住は佐々成政の配下となる。(神保氏張は信長の妹(神保・稲葉夫人)を娶ったと言われる)

 

2月19日、織田信忠、信雄(北畠信意)が上洛。妙覚寺へ入る。
2月20日、信長が上洛、本能寺へ入る。(昨年村井貞勝が本能寺の普請を完了している)

2月23日、信長が伴天連と面会、布教の許可を出す。
イエズス会の宣教師ヴァリニャーノ(通訳にフロイスが同行)が信長に謁見。このとき連れていた黒人奴隷を信長が気に入り、弥助と名付け小姓として供廻りにする。

<弥助に関する記録>

※【信長公記】
「年齢は二十六、七歳と見える、全身の黒いこと牛のようだ。この男は丈夫で元気、器量が良い。しかも剛力で十人にも勝る。」
※【家忠日記 天正10年4月19日条】
「上様(信長)が俸禄を与え、宣教師が進上した、黒い男をお連れしている。身体は墨のようだ。身の丈は六尺二分(約182.4cm)。名は弥助というそうだ。」
※【宣教師ロレンソ・メシア書簡】
「信長自身、彼を見て驚き、生まれつき黒いのであって墨による細工でないことを納得しなかった。たびたび彼を見、幾らか日本語を解したので彼と話して飽くことがなく、また黒人は非常に力があり、幾らかの芸ができたので信長は大いに喜んだ。今では彼を厚く庇護しており、その旨を諸人に知らしめるため、腹心の家臣一人を付けて市中を巡らせた」

 

天正9年(1581年)2月28日、信長は天皇の御前で馬揃え(観兵式)を催す。
上京に南北八町(約880m)の馬場と金銀をちりばめた宮殿を設営し、五畿内の大名や隣国の家臣を集める。
馬場へ乗り入れは丹羽長秀、蜂屋頼隆、明智光秀、村井貞成が続く。次に一門衆の信忠、信雄、信孝、信包、信澄、そして公家衆、柴田勝家、前田利家、信長本隊が続く。
諸国から見物人が集まり、会衆は13万人となる。【信長公記】【フロイス 日本史】

姫路城普請のため観兵式に参加できなかった秀吉は、3月5日付の長谷川秀一へ手紙で、参加者の服装を教えてほしいと様子を聞いている。【富田文書】

 

3月5日、正親町天皇の希望で再度馬揃えが行われ、名馬500騎の軍勢が行進する。
3月10日、信長が安土へ帰城する。

3月18日、鳥取城の城主として石見福光城主だった吉川経家が入る。吉川経家は戦に備え丸山・雁金山に砦を築く。しかし因幡の町では昨年より秀吉が兵糧を買い占めており城内は十分な食料が確保ができなかった。

 

4月9日、明智光秀・息子の十五郎・明智秀満が、茶人の津田宗及・山上宗二、連歌師の里村紹巴らと丹後宮津へ向かう。
4月12日朝、細川藤孝・忠興とともに飾り船で天橋立を見物、その後連歌会を催す。【宗及他会記】

 

天正9年(1581年)4月10日、信長は小姓衆5、6人を連れ安土から長浜へ向かい、舟で琵琶湖の竹生島へ参拝に向かう。信長はその日のうちに戻り安土へ帰城する。

遠路のため信長は長浜に宿泊すると思っていた安土城の女房衆は、二の丸や観音寺山の桑実寺へ出かけており、信長が戻ったことで城内は騒ぎとなる。

これを見た信長は遊んでいた者を処罰するため桑実寺へ差し出すよう伝える。桑実寺の長老は助けるよう詫びるが、信長は女房衆と長老共々処刑する。【信長公記】

 

4月18日、明智光秀が亀山城の普請を行う。【片山家文書】

5月、越中の国衆 寺崎盛永が上杉に内通したとして、菅屋長頼の織田軍が居城の願海寺城を攻撃。寺崎盛永を捕らえ息子とともに近江佐和山城で処刑する。

7月、越中 木舟城主の石黒成綱が上杉に内通の疑いがあるとして佐和山城へ呼び出す。石黒成綱は逃走を図るが捕らえて処刑する。

 

天正9年(1581年)6月2日、明智光秀が18条の「家中軍法」を定め、軍の規律と軍役の賦課基準を制定する。

一、武者は陣地において、役者以外の兵士は高声と雑談は禁止すること。付則、攻撃場所とその配置、鯨波(敵への威嚇)は命令に応じること。
一、先鋒部隊が指図するのは、旗本が到着してから命令に従うように。但し、先鋒の所で指示を出す場合は、事前に申し伝えておくこと。

一、自分の軍勢はそれぞれ前後を揃えて従わせること。付則、鉄炮・鑓・指物・のぼり・甲立雑兵に至っては、置き所を法度の通りにすべきこと。
一、行軍の時、馬乗者が後ろに遅れると、急な動きがあっても役に立たない。大変思慮の足りないことであり、早々に領地を没収する。付則、時によっては成敗を加える 。

一、旗本・先手がそれぞれ陣を定め置いた上は、足軽が懸かり合う一戦があったとしても、皆がその命令を守るように。もし陣を乱す者がいれば、誰でも粗忽として成敗を加える。付則、虎口の使者が目の前で各自へ申し伝えたとしても、報告後に返答するように。たとえその場で手柄を立てたとしても、法度に背いたその処罰は逃れられないこと。

一、軍の行動や陣替の時、陣取と言いながら抜け駆けで兵を出すことは、堅く禁止する。その場所へ至ってよく確認すること。但し、事前に詳細を命じられていた場合は仁着をするべきこと。付則、陣払いは禁止すること。
一、陣夫の計量は京都法度の器で三斗(300合)とする。但し遠方の夫役においてはニ斗五升(250合)とする。その食料は一人につき一日に八合を領主より与える事こと。

一、軍役の人数は百石で六人とする。この前後でも凖じること
一、百石から百五十石までは、甲一名(鎧を着た者一名)・馬一匹・指物一本・槍一本のこと
一、百五十石から二百石までは、甲一名・馬一匹・指物一本・槍ニ本のこと
(中略)

一、八百石から九百石までは、甲四名・馬四匹・指物八本・槍八本・のぼり一本・鉄砲四挺のこと
一、千石は、甲五名・馬五匹・指物十本・のぼりニ本・鉄砲五挺のこと 付則、馬乗り一人の着到は二人分に凖じること

また光秀は12月4日に「定家中法度」を制定する。
織田家の宿老・馬廻りには道を空けてかしこまること、坂本丹波の往復には洛中を通らないこと、洛中での使者の騎乗禁止、洛中洛外での遊興見物の禁止、他家の衆との口論する者は成敗すると記した。

 

天正9年(1581年)6月12日朝、秀吉が姫路城に津田宗及を招き茶会を催す。【宗及他会記】

6月12日、信長が香宗我部親泰(長宗我部元親の弟)に、阿波 岩倉城主の三好康俊(三好康長の嫡男)へ協力して統治するよう伝える。※年次不明(三好康俊は天正7年(1579年)に長宗我部家へ服属したが、信長は阿波国を三好家に統治させる方針を示した)

6月27日、能登 七尾城の旧畠山家臣 遊佐続光が再び上杉へ寝返ったため、北陸監査役の菅屋長頼が遊佐続光を処刑する。(一族を殺され恨みのある長連龍に殺害されたとも言われる)温井景隆・三宅長盛は越後へ逃亡する。

 

鳥取城の戦い
天正9年(1581年)6月27日、秀吉が姫路城を出陣。羽柴秀長・黒田官兵衛・中村一氏・堀尾吉晴ら(兵数20,000)が因幡へ侵攻する。
7月12日、吉川経家が守る鳥取城(兵数1,400)に着陣、兵糧攻めを開始する。

秀吉軍は海口にある補給のための出城を遮断し、城を鹿垣(石垣)で取り囲み適所に各隊を布陣させ、堀や土塁を盛り、櫓を建て完全に孤立させる。毛利軍の後詰に備えて後方も堀や土塁を築く。

8月13日、毛利輝元・小早川隆景・吉川元春の後詰が来るとの報せが入り、信長は細川藤孝・明智光秀・池田恒興を大将とし、高山右近・中川清秀らに出陣準備の指示を出す。輝元らが来れば信長自身も出陣すると伝える。

明智光秀と細川藤孝は家臣に命じ、船に兵糧を積み因幡の袋川へ停泊させる。細川藤孝は松井康之に担当させる。

8月20日、信長が秀吉に「油断なく戦うこと、南条元続が毛利の城を攻撃して攻略した」と伝える。

9月16日、吉川元春が海上から鳥取城へ兵糧補給に向かう。丹後から出陣した細川家臣 松井康之の水軍が吉川水軍を攻撃、撃退する。

10月、城内の百姓達は餓死に瀕する。
「初めのうちは五日に一度、三日に一度、鐘を鳴らし、それを合図に雑兵が柵際まで出て、草木の葉を切り取り、中でも稲株を美味しい物としていた。しかし後にはこれも尽きてしまい、城の牛馬を食べ、霜露に打たれ、弱い者が餓死していくのは際限がなかった。」【信長公記】

「急な戦であったため、十日か二十日の食料しか用意しておらず、程なくして飢えに苦しみ、飢餓の者は数えきれなかった。…柵を乗り越えて出ようとした者を、鉄砲で撃ち倒すと、まだ死なず息も絶え絶えな者を、男女がこぞって小刀や菜刀、あるいは鎌を手に持ち来て、関節を離し、肉を切り取った。」【甫庵太閤記】

吉川経家が協議を行う。「この急難を逃れることはできない。毛利家より救援しようとあった事も、度々偽りとなり、今は水のない魚のような身となった。…我々の命にかえて、多くの人々を助けようと思う。」

吉川経家が降伏を申し出、3大将の首のかわりに城中の助命を乞う。
10月25日、鳥取城が開城となる。吉川経家(35歳)・森下道祐・奈佐日本介が切腹する。

「十月二十五日、鳥取城の者は助け出された。あまりに不憫に思われ、食べ物を与えたところ、食に恵まれたが、過半の者は急死した。まことに餓鬼のように痩せ衰え、とても哀れな有様であった。」【信長公記】

<吉川経家の遺言状 吉川広家宛>
「私は鳥取城にご用に立ち、心中覚悟していたことは忘れておりません。日本の二つの弓矢(毛利・織田)の境で切腹に及ぶことは末代までの名誉と存じます。
長年の特別な御芳情は忘れることはありません。従って賜った長光の刀は息子・亀寿丸へ遣わしてください。」

<吉川経家の遺言状 子供宛>
「鳥取のこと、夜昼二百日、こらえていた。しかし兵糧が尽き果ててしまったので、私一人がご用に立ち、各々を助け申し、一門の名を上げよう。その幸せな物語を聞いてほしい。」

 

信長は毛利水軍を撃退し羽柴軍へ兵糧補給を行った細川家臣松井康之の戦功を賞賛する。

 

天正9年(1581年)7月24日、昨年に追放処分とした佐久間信盛が大和の十津川で湯治中に死去(55歳)。【高野春秋編年輯録】【多聞院日記 8月19日条】
信長は息子の信栄を赦免、旧領を安堵する。【信長公記】

8月、信長は高野山へ匿っている荒木村重の旧臣2名を差し出すよう使者を送るが、高野山側は使者10名を殺害する。これを聞いた信長は17日、高野聖数百名を捕らえ安土城にて処刑する。

 

8月7日、奈良興福寺では、近日中に明智光秀が興福寺へ来ると伝わり騒ぎになる。光秀は目を患い灸で治療すると知らせが届く。【多聞院日記 8月7日条】

8月中旬、明智光秀の妹ツマキが死去する。「去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了。信長一段ノキヨシ也。向州無比類力落也。」【多聞院日記 8月21日条(原文)】

8月19日、光秀が大和郡山城の普請を視察する。【多聞院日記 8月19日条】
8月21日、光秀が夜明けに大和から帰る。【多聞院日記 8月21日条】

 

8月17日、前田利家が能登一国を与えられ七尾城へ入る。(翌天正10年に小丸山城を築城して居城を移す)

 

第二次天正伊賀の乱
天正9年(1581年)9月、織田信雄(北畠信意)が兵数40,000で再び伊賀へ侵攻する。(2年前の伊賀国侵攻で大敗していた)
※当時の伊賀国は仁木氏が守護となっていたが統治できる力はなく、服部家(服部半蔵)、百地家(百地丹波)、藤林家(藤林長門守)の三家を中心とした、各里の地侍による自治共同体があった。

各方面より織田軍が攻撃を行う。
甲賀口より織田信雄・滝川一益・蒲生氏郷・丹羽長秀・京極高次・阿閉貞征・阿閉貞大ら
信楽口より堀秀政・永田刑部少輔・山岡景宗ら
加太口より滝川雄利・織田信包(信長の弟)
大和口より筒井順慶

伊賀衆の主力である比自山城、平楽寺(伊賀上野城)を攻撃する。
壬生野城、河合城、木輿城まで制圧、大和国境へ逃げた伊賀衆は筒井順慶が追撃して討ち取る。平楽寺では住民も含め3万人が殺害される。

伊賀国平定後、信長は伊賀3郡(阿拝郡、伊賀郡、名張郡)を信雄、残り1郡(山田郡)を信包に統治させる。

 

天正9年(1581年)9月、鳥取城包囲中の秀吉に、阿波 三好家臣の篠原自遁から注進が入る。秀吉は勝瑞城に仙石秀久、木津城に生駒親正を送ること、黒田官兵衛には志智城に入ることを命じる。
※官兵衛の淡路国派遣は【黒田家文書】の年次不明の史料のため天正8年や天正10年の説もある

10月9日、信長が信忠、信澄とともに伊賀国へ入り検分を行う。滝川一益、織田信雄、堀秀政、丹羽長秀らが信長の御座所を建てて食事でもてなす。

10月、高野大衆が一揆を起こしたことで織田信張(岸和田城主)が高野山へ侵攻。戦闘は本能寺の変まで続く。

 

10月26日、鳥取城の戦い後、伯耆の羽衣石城(城主 南条元続)が吉川軍に包囲されたと注進が入る。
11月4日、秀吉は宮部継潤へ国掟を与える。宮部継潤に鳥取城と八東郡などを与えて因幡国を統治させ、支城には亀井菰矩・垣屋光成・木下重堅を配置する。

その後秀吉は羽衣石城へ救援に向かい、吉川軍を攻撃して勝利する。
羽衣石城・岩倉城へ兵糧と弾薬を十分に補充し11月8日、秀吉軍は退却、姫路城へ帰還する。吉川元春も戦闘を行わず兵を引く。

11月17日、羽柴秀吉・池田元助が淡路島北端の岩屋城(毛利方の国衆 菅達長)、由良城を攻略し淡路国を平定。
11月20日、淡路国に仙石秀久・生駒親正を置き秀吉は姫路城へ帰還する。(淡路島は毛利水軍が拠点としていたが、本願寺滅亡後は安芸へ撤退していた)

 

天正9年(1581年)11月、下野の皆川広照が信長に名馬3頭を献上、また堀秀政にも馬を贈る。信長から返礼として「天下布武」の朱印状と縮羅百端・紅緒五十結・虎革五枚を送る。
※当時畿内では皆川氏が知られておらず、織田家からの書状は誤って「長沼」や「蜷川」宛てで書かれている。

12月、秀吉が安土へ上り、歳暮の祝儀として多数の品物を進上する。信長は因幡平定を讃えた感状を与え、名物茶道具12点を褒美として与える。【信長公記】
秀吉は今井宗久へ8品の名物茶器をいただいたと伝える。【小林文書】
秀吉は茨木城で茶会を催した後、姫路城へ帰還する。

天正9年、日本でのキリシタン人口は15万人(うち九州が11万5千人)となる。【1581年度日本年報】

天正9年、信長が紀伊 堀内氏の所領(相賀~新宮)を安堵する。

天正9年頃、蜂屋頼隆が岸和田城へ入る。(岸和田城には織田信張も在城)

 

<徳川家>

天正8年(1580年)9月10日、徳川家康に四男 福松丸(後の松平忠吉)が誕生する。

 

第二次高天神城の戦い

天正8年(1580年)10月、前年の11月より家康は高天神城(城主 岡部元信)の周囲に6つの砦を築城し、高天神城への補給路を断っていた。
徳川軍(兵数5,000)が高天神城を包囲し、兵糧攻めを行う。

高天神城の岡部元信は武田勝頼からの援軍を受けられず降伏を伝える。しかし家康が信長に指示を仰いだところ、降伏はさせないようにと伝えられる。
天正9年(1581年)3月、城内は餓死する者が続出する。

3月22日、岡部元信は残った城兵を連れ、徳川の陣に突撃する。
岡部元信は先頭を切って大久保忠世の陣へ突撃し、これを大久保忠教(忠世の弟、【三河物語】の作者)が迎え討つ。
大久保忠教は太刀をつけたが相手が名乗らなかったので総大将とは思っておらず、傷をつけた後は家臣に変わり、その者が岡部元信を討ち取る。【三河物語】

 

天正9年(1581年)11月12日、家康が信長に馬を献上した下野の皆川広照へ手紙を送り、信長の指示で帰路の道中の使者をもてなしたこと、また信長への忠誠を讃える。

 

<武田家>

天正8年(1580年)3月、真田昌幸が北条の沼田城攻略を開始。真田昌幸の調略により沼田城支城の小川城、猿ヶ京城、名胡桃城を占領する。

3月15日未明、沼津の千本浜沖で北条水軍と交戦する。武田水軍が伊豆 長浜城へ接近、北条水軍の梶原景宗らが反撃する。

5月、滝山城の北条軍が甲斐都留郡へ侵攻、攻撃を受ける。(信玄の代以降、甲斐国で初めて外敵の侵攻を受ける)

8月下旬、真田昌幸が沼田城主 用土新左衛門を内応させ、沼田城を占領する。勝頼は用土新左衛門を厚遇し、藤田信吉と名乗らせ所領を与える。
勝頼は沼田城に藤田信吉・海野輝幸・金子泰清、岩櫃城を海野幸光を配置する。

9月、勝頼が上野 金山城(由良国繁)、館林城(長尾顕長)を攻撃。佐竹義重、宇都宮国綱、結城晴朝らも武田との共同作戦に応じ、北条の下野 小山城を攻撃する。
10月3日、北条氏政は出陣して武蔵北端まで進軍するが、交戦はせず牽制のみに留まる。10月、勝頼は上野から撤退する。

上野国は南東部の金山領・館林領・新田領・桐生領を除き、武田の支配下となる。(武田家の最大版図となる)

 

第二次高天神城の戦い

天正8年(1580年)10月、高天神城(城主 岡部元信)が徳川軍に包囲される。

岡部元信は援軍が来ないため降伏を伝えるが、家康が信長に指示を仰いだところ、信長は降伏はさせないようにと指示を出す。
(勝頼が援軍を送らなかった理由は、北条軍に備えていたため、家臣が信長を怖れて反対した、などの説がある)

天正9年(1581年)3月、城内は餓死する者が続出する。

総大将 岡部元信が残った兵を連れて徳川軍の陣を攻撃、岡部元信は討ち取れ、城は落城する。

(勝頼は高天神城に援軍を送らなかったことで、人々から天下の面目を失ったと言われる。)

 

天正9年(1581年)、新府城の築城を開始する。(勝頼は工事を急がせ、財政負担も大きくなり人心が離れたと言われる。)

3月、旧沼田城主の沼田景義が北条方の金山城主 由良国繁の支援を受けて沼田城を攻撃。しかし真田昌幸、藤田信吉は金子泰清(沼田景義の叔父)に沼田景義を城内へおびき寄せさせ、沼田景義を討ち取る。

10月、武田の調略により、武田の沼津城に隣接する、北条の戸倉城主 笠原政晴が武田に寝返る。
駿河・伊豆の国境にある城が寝返ったことで、北条氏政・氏直が出陣。勝頼も沼津方面へ出陣するが、黄瀬川で両軍が対峙、その後撤退する。

12月24日、勝頼が躑躅ヶ崎館から築城途中の新府城へ入る。(まだ本丸と城下に家臣の屋敷をいくつか造った程度だったと言われる。)

 

 

<北条家>

天正8年(1580年)2月下旬、北条氏政は織田信長に従属することを決め、宿老の笠原康明と氏照の宿老 間宮綱信を派遣する。
(武田が佐竹・結城・宇都宮氏と協力関係を築き包囲されたことで、昨年より織田・徳川に接近していた)

信長に臣従
天正8年(1580年)3月9日、北条氏政の使者 笠原康明、間宮綱信、原和泉守が上洛する。
滝川一益が出迎え、本能寺で鷹13羽・馬5頭を献上する。

3月10日、使者が本能寺で信長に謁見し、献上儀礼を行う。北条から太刀・白鳥徳利二十・熨一箱・煎なまこ一箱・あわび三百・江戸酒三種二荷などが献上される。

織田の武井夕庵、滝川一益、佐久間信盛が北条使者の言上を承り、信長の娘 慈眼院と北条氏直との婚約が調えられ、関八州は織田分国として服属すると伝える。
※北条氏直は天正壬午の乱後に家康の次女督姫と婚約するため、信長の死後に慈眼院との婚約は解消されたと考えられている。

氏政からの挨拶を笠原康明が申し上げ、氏直からの挨拶を間宮綱信が申し上げる。
信長は使者に京都見物を勧め、金銀100枚を土産として渡す。

滝川一益の案内で京都見物を終え、3月21日、安土城を訪れ、信長より返礼品として虎皮二十・縮羅三箱・猩々皮十五、氏直へは段子二箱を受け取る。

使者は帰路で徳川家康と面会し、小田原へ帰国する。

 

天正8年(1580年)3月15日未明、沼津の千本浜沖で武田水軍と交戦する。昨年築城した伊豆 長浜城へ武田水軍が接近し、北条水軍は梶原景宗らが反撃する。

天正8年3月、岡見氏の要請を受け、北条氏照・氏邦(兵数3,000)が下妻の多賀谷氏が元亀元年(1570年)に岡見氏から奪った谷田部城を攻撃する。(多賀谷氏は結城家臣で佐竹方であったため)
しかし多賀谷重経が援軍に駆けつけ、北条軍は敗北となり退却する。

3月、武田の真田昌幸が上野 沼田城の攻略を開始。まずは沼田城支城の小川城、猿ヶ京城、名胡桃城が武田方となる。

5月、滝山城 北条氏照配下が檜原城(城主 平山氏重)の檜原衆を甲斐へ侵攻させ、西原峠で武田軍と交戦する。(翌年にも交戦)

8月、北条氏政(42歳)が隠居、息子の氏直(19歳)が5代当主となる。(実権は引き続き氏政が握る)

 

天正8年8月下旬、武田の真田昌幸が沼田城主 用土新左衛門を内応させ、沼田城を占領する。

9月、武田勝頼が上野 金山城(由良国繁)、館林城(長尾顕長。国繁の弟)を攻撃。佐竹義重、宇都宮国綱、結城晴朝らも武田との共同作戦に応じ、北条の下野 小山城を攻撃する。
10月3日、氏政は出陣して武蔵北端まで進軍するが、交戦はせず牽制のみに留まる。10月、勝頼は上野から撤退する。

上野国は南東部の金山領・館林領・新田領・桐生領を除き、武田の支配下となる。

 

安房 里見家では里見義弘の死後家督争いが起き、天正8年に里見義頼が勝利、里見家当主となる。(しかし宿老の小田喜領 正木憲時はなおも抵抗し、翌天正9年(1581年)に義頼が北条の支援を受けて正木憲時を討ち、ようやく沈静化する。)

 

天正9年(1581年)1月、里見義頼が武田と同盟を結ぶ交渉を始める。しかし正木憲時の反乱に北条軍の支援を受けたため、同盟交渉は中断する。

天正9年4月、滝山城 北条氏照が檜原城(城主 平山氏重)の檜原衆を甲斐へ侵攻させ、武田軍に勝利する。

天正9年5月、氏照軍が佐竹方の下野 唐沢山城(城主 佐野宗綱)を攻撃するが撤退する。

天正9年10月、武田の調略により、武田の沼津城に隣接する、北条の戸倉城主 笠原政晴(松田憲秀の長男)が武田方に寝返る。
駿河・伊豆の国境にある城が寝返ったことで、氏政・氏直が出陣。武田勝頼も沼津方面へ出陣するが、黄瀬川で両軍が対峙、その後武田軍が撤退する。

 

天正9年10月、佐竹義重が黒川城(会津若松城)の蘆名盛隆を訪問、佐竹氏と蘆名氏が同盟関係となる。

これにより伊達領以南の諸大名は佐竹氏方につき、佐竹義重による奥州一統が成され、宇都宮・結城・那須ら東方之衆も加えて佐竹氏を中心とした一大勢力となる。

 

<上杉家>

天正8年(1580年)4月、御館の乱で景虎方についていた栃尾城(本庄秀綱)を落城させる。本庄秀綱は逃亡、葦名氏を頼る。
また三条城(神余親綱)を攻撃、神余親綱は離反した家臣に殺害される。6月、御館の乱が終結する。

天正8年10月、上杉景勝が越中に出陣、織田方の小出城を攻撃する。

天正9年(1581年)3月24日、織田勢の侵攻を防ぐ重要拠点の松倉城では城主 河田長親が病死する(39歳)。上杉景勝は松倉城へ上条宜順(景勝の義兄)を配置する。

 

天正9年6月27日、能登 七尾城の旧畠山家臣 遊佐続光が再び上杉方につくが、織田家北陸監査役の菅屋長頼が遊佐続光を処刑する。(一族を殺され恨みのある長連龍に殺害されたとも言われる)温井景隆・三宅長盛は越後へ逃亡する。
その後8月に前田利家が七尾城へ入る。

天正9年10月上旬、新発田重家の乱
御館の乱後の論功行賞に不満を持った揚北衆の新発田重家が、織田信長の調略により謀反を起こす。
蘆名氏も織田に協力したため反乱は長期間に及び、景勝は南北から挟撃されることになる。(反乱は天正15年(1587年)まで続く)

この頃景勝は越中方面で織田の侵攻に備える必要があったため、新発田重家は手薄となった新潟津、沼垂津まで支配下に置く。

天正9年11月、春日山城内で刃傷事件が起き、家臣の毛利秀広が重臣の山崎秀仙、直江信綱を殺害する。
直江家は跡継ぎがいなかったため、景勝が取り立てていた側近 樋口与六が養子となって直江兼続と名乗り、家督を継ぐ(21歳)。直江兼続は与板城主となる。
山崎秀仙の死後は直江兼続、狩野秀治が内政・外交を担当する。

 

<伊達家>

天正8年(1580年)閏3月、佐竹義重・蘆名盛隆・白河義親の連合軍が田村領へ侵攻。大きな合戦はなく佐竹義重は撤退する。
7月、二階堂・石川軍が阿武隈川流域にある田村清顕の御代田城を攻撃する。(御代田合戦)

 

天正9年(1581年)2月、佐竹義重が再び出陣、御代田城攻撃に加わる。

天正9年4月、伊達輝宗・岩城晴朝・相馬義胤の仲介により、佐竹連合軍と田村清顕の間で和睦が成立する。
蘆名・二階堂氏が奪った御代田は田村氏へ返還、田村氏は拠点である岩瀬郡の今泉城や本拠 田村郡の一部を二階堂氏へ返還する。(実質佐竹連合軍の勝利となる)
※永禄2年(1559年)に田村氏が二階堂領の今泉城を占領していた

(天正7年(1579年)に田村氏の大内定綱が離反した際、大内氏を佐竹・蘆名・二階堂・二本松・岩城・石川・白河結城氏らが支持しており連合勢力ができていた。)

 

天正9年(1581年)5月上旬、伊達政宗が伊具郡で相馬氏と交戦する。(伊達政宗(15歳)の初陣となる)

天正9年、相馬領の小斎城(城主 佐藤為信)が伊達家に寝返る。

天正9年、伊達輝宗と蘆名盛隆により、御館の乱の恩賞に不満のあった越後の新発田重家を調略。新発田重家は新潟城を築城し、上杉景勝に対し挙兵する。

 

天正9年8月、須賀川の当主 二階堂盛義が死去(38歳)。長男の盛隆は蘆名氏当主となっているため、盛義の次男 行親が二階堂氏の家督を継ぐ。
(しかし行親は翌天正10年に死去(13歳)、須賀川は盛義の未亡人 阿南の方(大乗院)が天正17年まで須賀川城主となる。)

天正9年10月、佐竹義重が黒川城(会津若松城)の蘆名盛隆を訪問、佐竹氏と蘆名氏が同盟関係となる。

これにより伊達領以南の諸大名は佐竹氏方につき、佐竹義重による奥州一統が成され、宇都宮・結城・那須ら東方之衆も加えて佐竹氏を中心とした一大勢力となる。

 

<最上家>

天正8年(1580年)、最上義光が上山城(城主 上山満兼)の家臣 里見民部を内応させて上山満兼を討ち取らせ、上山城を攻略する。(里見民部は以降上山城主として仕える)

天正9年(1581年)、最上義光が村山郡へ侵攻、天童方につく小国城主 細川直元に勝利して小国城を占領する。

また最上郡へも侵攻、小野寺氏重臣の鮭延城(城主 鮭延秀綱)を調略によって占領する。(鮭延秀綱は以降最上家に仕え、最上領北方の守備を任される)

 

<真田家>

天正8年(1580年)3月、真田昌幸が調略により沼田城支城の小川城、猿ヶ京城、名胡桃城を占領する。

真田昌幸は沼田城主の藤田信吉の内応に成功。沼田城攻撃時に決起するよう調略をかける。
天正8年8月下旬、矢沢頼綱(昌幸の叔父)が沼田城を攻撃。内応していた藤田信吉・金子泰清が沼田城を開城させる。

 

天正9年(1581年)1月、真田昌幸が新府城の普請に加わる。

天正9年11月21日、岩櫃城代の海野幸光・輝幸兄弟(吾妻郡を支配し武田に仕えた羽尾氏一族)と真田昌幸が吾妻領の支配を巡り対立。真田昌幸は海野兄弟を襲い粛清する。【加沢記】


<毛利家>

天正8年(1580年)3月13日、小早川隆景が備前に侵攻、辛川で宇喜多忠家と戦闘、敗北する。

天正8年5月、昨年より織田方についた伯耆の南条元続へ攻撃を行う。吉川元春が岩倉城(城主 小鴨元清、南条元続の弟)を攻撃するが敗退。(天正10年(1582年)に再度攻撃し占領する)

天正8年8月、石山本願寺が降伏。

信長侵攻の防波堤としていた宇喜多氏の離反、調略が成功した荒木・別所の敗北、羽柴秀吉による但馬・因幡への侵攻、さらに本願寺の降伏によって織田包囲網が崩壊し、毛利の対信長戦略が劣勢となる。

 

天正9年(1581年)2月、吉川経家を鳥取城主とすることを決定。
山陰方面を管轄する吉川元春は南条元続の離反を受けて毛利の兵力を山陽と山陰の南北に分けることを断念、但馬・因幡を見捨てる戦略を選択する。【小早川家文書】
吉川経家はそのような情勢の中、鳥取城の守備に入る。

吉川経家は兵糧を集めるが、すでに因幡国内の米は秀吉が高値で買い占めており長期戦への備えはできなかった。

天正9年6月27日、鳥取城の戦い。羽柴秀吉による兵糧攻めが行われる。10月24日、吉川経家が自害、落城する。
南条元続は秀吉の鳥取城攻めに加担し、羽衣石城に籠城して後詰の吉川元春を防ぐ。

天正9年8月、長宗我部元親が毛利家と同盟を結ぶ。【8月7日付 乃美兵部丞宛 長宗我部元親書状】(元親は四国を支配しようとする信長を離れ毛利と同盟を結んだ)

 

天正9年、毛利軍が宇喜多領の忍山城を攻撃、落城させる。

 

<宇喜多家>

天正8年(1580年)3月13日、小早川隆景が備前に侵攻、辛川で宇喜多忠家が戦闘、勝利する。

天正9年(1581年)、毛利軍が宇喜多領の忍山城を攻撃、落城する。

 

<長宗我部家>

天正8年(1580年)1月、昨年12月に岩倉城で敗れた三好存保は勝瑞城を捨て讃岐の十河城へ撤退する。その後長宗我部軍が十河城・羽床城を攻撃する。

天正8年11月24日、長宗我部元親が羽柴秀吉に書状を送る。大坂の牢人が紀伊や淡路の者を集め四国へ渡り勝瑞城を占領したが信長の朱印が出たらしいので攻撃しなかった、三好康長が近日讃岐へ到着し阿波へ下国してくること、淡路の和田氏が織田についたこと、我々が阿波・讃岐を平定できれば中国攻めの際は相当の協力を致すと伝える。【吉田文書】

天正8年、香宗我部親泰が阿波東部へ侵攻。三好領の牛岐城を攻撃、城主 新開実綱が降伏する。

 

天正9年(1581年)3月、三好康長が阿波へ入る。(【讃岐国大日記】によると三好康長は岩倉城へ入り嫡男 康俊を離反させ織田方へつかせた。)

天正9年6月12日、織田信長から香宗我部親泰(長宗我部元親の弟)へ、阿波 岩倉城主の三好康俊に協力して統治するよう伝えられる。※この記録は年次不明(三好康俊は天正7年(1579年)に長宗我部家へ服属していたが、信長は阿波国を三好家に統治させる方針を示した)

天正9年7月23日、東伊予の金子元宅と同盟を結ぶ。

天正9年8月、長宗我部元親が毛利家と同盟を結ぶ。【8月7日付 乃美兵部丞宛 長宗我部元親書状】(元親は四国を支配しようとする信長を離れ毛利と同盟を結んだ)

天正9年11月、羽柴秀吉が淡路島を平定する。

 

<大友家>

天正8年(1580年)、昨年の田原親貫、田北紹鉄の謀反に対し、立花道雪が大友義統の引退と大友宗麟の復帰を訴える。
隠居していた大友宗麟が出陣、9月に田原親貫の拠点である安岐城、10月に鞍懸城を攻撃して落城させ、反乱を抑える。

天正8年9月、織田信長により九州に近衛前久が使者として派遣される。信長の安芸出陣のため島津と和睦をすること、異議ある場合は敵を見なすことを伝えられる。

天正9年(1581年)、大友宗麟が豊前彦山の三千坊といわれる坊舎(僧が住む住居)を焼き討ちにし、仏教徒を追い払う。

天正9年8月、立花道雪は男児がいなかったため、高橋紹運の嫡男である高橋統虎(立花宗茂(14歳))を養嗣子にしたいと高橋紹運へ要望。(この時点で立花家は娘の誾千代(ぎんちよ)が立花山城督として家督を継いでいた)
高橋統虎は誾千代(13歳)の婿養子として立花山城に入り、戸次統虎となる。(道雪は立花家継承後も戸次姓を名乗っていたため)
※戸次統虎は天正10年(1582年)の16歳の時に立花姓に改め、その後幾度も改名し、慶長15年(1610年)に宗茂と名乗る。

 

 

<大村家>

天正8年(1580年)4月27日、龍造寺との戦いでイエズス会から戦費の支援を受けていたキリシタン大名の大村純忠が、イエズス会と寄進状を交わす。

長崎・茂木の土地を教会領として寄進すること、死刑を含む裁判権を与えること、入港税・停泊税を与えること、物品輸入税を保留することが決まる。
これによりイエズス会は関税以外の権利を手に入れ、治外法権を持つことになる。砦を築き大砲を配置して村のキリシタンに銃を与えて長崎を支配する。
(イエズス会による長崎占領は1587年秀吉による九州征伐まで続く)

 

<龍造寺家>

天正8年(1580年)2月、蒲池鎮漣が反旗を翻し、柳川城に籠城する。龍造寺軍が攻撃するが落城せず、一時講和を結ぶ。

この頃、有馬氏の諸城を次々に離反させる。

4月、筑前 鷲ヶ岳城を占領。
7月、筑前 安楽平城を占領。その後博多へ侵攻し、博多の町を焼き討ちにする。

天正8年、龍造寺信周が博多から豊前侵攻を開始。大友氏と対立する秋山氏の高橋元種が居城である馬ヶ岳城へ龍造寺信周を入れ、豊前の国衆も龍造寺に従う。

 

天正9年(1581年)、龍造寺軍が肥後へ侵攻する。
3月、阿蘇氏の御船城主 甲斐宗運、城氏の隈本城主 城親賢を服従させる。
4月、赤星氏の隈府城主 赤星統家を服従させる。

北肥後の合志氏から服属の起請文を受け取る。これにより北肥後を支配下に置く。龍造寺軍は天草諸島へも侵攻する。

5月、蒲池鎮漣が島津と通じたことから、調略を行う。和平締結のためと称し佐賀城に呼び寄せ、殺害する。(直前に大村純忠を呼び寄せてもてなし、蒲池鎮漣を安心させていた)
蒲池鎮漣は襲撃を受け自害、蒲池氏一族も殺害する。
その後龍造寺隆信は鍋島直茂に命じ、蒲池鎮漣の柳川を占領する。

 

<島津家>

天正8年(1580年)、島津家は隈本城の城親賢へ援軍を送り、相良氏、阿蘇氏と対立する。
島津家から龍造寺隆信へ相良氏の支援を止めるよう書状を送るが、龍造寺隆信は拒否、肥後国中(肥後北部)は龍造寺領であると伝える。

9月、織田信長が九州に近衛前久を派遣。島津義久は大友家と和睦すること、翌年信長自身が安芸に出陣するので大友家とともに協力するようにと伝えられる。

12月、相良氏と一時和睦が成立。隈本に送った兵を撤退させる。

天正9年(1581年)2月、肥後へ侵攻、相良氏の水俣城を攻撃する。
8月、島津義久・義弘・歳久・家久の大軍が水俣城を攻撃、相良義陽を降伏させる。

12月、島津義久は相良義陽に、阿蘇氏を攻撃するよう命じる。(相良義陽と阿蘇氏の家臣 甲斐宗運は親友の仲)
響野原の戦いで相良軍は甲斐宗運の軍勢に敗退、相良義陽は討死する。

島津軍が相良領の八代城を占領する。

天正9年(1581年)、島津義久が従四位下に任じられる。