1600年 関ヶ原の戦い
<関ヶ原の戦い 布陣図>
※陣跡に基づいた関ヶ原の戦い布陣図(一部推定)
※地形・場所は国土地理院「電子地形図」、河川は明治時代の古地図を利用して作成
参戦武将と兵数
※参戦武将と兵数は【朝野旧聞ホウ藁(1842年)】に基く ※空白は不明
<西軍>総数108,700 石田三成(島左近・蒲生郷舎 島津義弘(島津豊久)…3,000 大谷吉継…600 小早川秀秋…8,000 (南宮山部隊)23,800 (大垣城守備隊)7,500 |
<東軍>総数75,300 徳川家康…32,730 黒田長政(竹中重門)…6,000 井伊直政(松倉重政)…2,000 (寄合衆) (南宮山方面)13,700 (大垣城寄手)3,000 |
他史料による関ヶ原の戦い兵数 【8月21日付福島正則覚書 岡文書】による東軍兵数(岐阜城攻撃前) 【8月5日付真田昌幸宛 石田三成書状の備口人数書 浅野家文書】 【十六・七世紀イエズス会日本報告集】 【田中興廃記(1822年)】
布陣に関する記録 【神戸五兵衛覚書】「この方 (島津義弘) の陣の前は、備前中納言殿 (宇喜多秀家) 、東は石田殿が請取の陣場、この方は二番備」 【太田和泉守記(1607年) ※太田牛一が徳川家康へ献上した書物】「北野の原小関村を出て南辰巳(南東)に向かって軍勢を備える。大谷吉継・宇喜多秀家・平塚為広・戸田重政は石原峠に着陣し、ここを下り谷川を越え、関ヶ原北野へ軍勢を繰り出し、西北の山手を後ろにする」 ※上記布陣図では島津義弘陣跡に島津豊久、後方の「薩摩池」に島津義弘の陣を想定。 関ヶ原の戦い直前の勢力図 ![]() ※参考文献:『歴史人 真説大関ヶ原』2015年9月号 他) |
<開戦>
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)夜明け頃、両軍が布陣する。
「十五日小雨降。山間のため霧が深くかかり、五十間(約90m)先は見えない。霧が上がれば百間も百五十間先も、わずかに見えたかと思えば、すぐに霧が下りて、敵の旗が少し計り見えることもあるかと思えば、すぐに見えなくなる。
家康公が出馬され、石田三成、小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継の陣場とその距離一里(約4km)計りである。」【慶長年中卜斎記(~1644年成立)】
「その朝は霧が深く下りて雨も降り、物の色目も見分けられなかった。ようやく巳の刻 (9~11時) 計りに空も晴れわたる。
御敵石田三成・島津義弘・小西行長は旗頭を見せ藤古川を越え、不破の関屋より北野の原小関村を出て南辰巳(南東)に向かって軍勢を備える。大谷吉継・宇喜多秀家・平塚為広・戸田重政は石原峠に着陣し、ここを下り谷川を越え、関ヶ原北野へ軍勢を繰り出し、西北の山手を後ろにする。」【太田和泉守記】
霧が晴れ、開戦となる。
福島・井伊隊が宇喜多隊へ攻撃を開始。
笹尾山では石田隊へ黒田・細川・加藤・田中・金森・生駒隊が、藤川台では大谷隊へ藤堂・京極・寺沢・織田隊が攻撃を開始する。
「敵味方押し合い、鉄砲撃ち放ち、矢さけびの声、天を響かせ大地を動かし、黒煙が立ち、日中も暗夜となり、敵も味方も入り乱れ、しころを傾け、武器を抜き持ち、追いつまくりつ攻め戦う。」【太田和泉守記】
石田隊の島左近が黒田隊から五十挺の鉄砲攻撃を受け、被弾する。島左近は家来に肩を担がれ、陣の柵内へ入り、家来へ首を落として隠すように伝える。【黒田家譜】
島津隊が井伊・松平隊と交戦、銃撃で松平忠吉を負傷させる。【朝野旧聞ホウ藁(1842年)】
島津義弘が石田三成のもとへ長寿院・毛利覚右衛門を送り、作戦を打ち合わせる。【義弘譜】
亀井茲矩が島津義弘へ鉄砲衆の加勢を求め、義弘が兵を派遣する。【山田晏斎覚書】(この後亀井茲矩は東軍へ寝返る)
三成家臣の八十島助左衛門が島津豊久の陣所を訪れ交戦を促すが、八十島が馬上から口上を述べたため、島津の兵が無礼だと罵声を浴びせる。
その後三成自身が豊久の陣を訪れ西軍の劣勢を伝えるが、豊久は今日はそれぞれが手柄次第に働けばよいと指示に従わないことを伝える。【山田晏斎覚書】
松尾山では軍目付の奥平貞治が攻撃を催促し、小早川秀秋が下山を開始する。【朝野旧聞ホウ藁】
桃配山にいた家康は前線へ進み、平地に本陣を敷く。
9月15日正午頃、小早川秀秋、さらに脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱が寝返り、大谷・戸田・平塚隊を挟撃する。
小早川秀秋の先手 奥平貞治が大谷隊へ攻めかかり、討死する。
「戦いの中、小早川秀秋・脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保は御忠節として心変わりする。この大軍が後陣より"どう"と攻めかかり、耐えられず崩れた。
伊丹兵庫、村越兵庫、河村助左衛門、奥平貞治は乗込み突き落とされ必死に戦い四人とも枕をならべて討死した。」【太田和泉守記】
大谷隊は小早川隊と藤堂・京極隊からも攻撃を受け、壊滅する。大谷吉継は自害、戸田重政・平塚為広は討死する。
「大谷吉継は馬上にて腹を切った。…小川祐滋(小川祐忠の子)に櫻井多兵衛という者あり、平塚為広と組み合い散々に斬り戦い、平塚為広を突き伏せ首を取る。名誉ある高名手柄であった。 戸田内記(戸田重政の子)はこれまた諸将へ切ってかかり切り廻って討死した。」【太田和泉守記】
「大谷吉継は病で盲目だったので、合戦場へは乗物で出ていた。"負けになったら申せ"と湯浅五助という侍に言いつけていた。"合戦は負けたか"と再三尋ねるが五助は"未だです"と答えた。そして戦が負けになると"御合戦は御負けとなりました"と申したところ、乗物より体半分を出して首を打たせた。
以前より五助に言いつけていたのは、首を打ったら隠せと約束していたので、五助は首を隠し、その身も討死した。」【慶長年中卜斎記】
小早川秀秋らの寝返りにより、西軍は混乱状態となる。
脇坂・小川隊が宇喜多隊を側面から攻撃。福島・筒井隊も攻撃を加える。
寺沢・戸川隊が小西隊を攻撃。小西隊は壊滅する。
島津隊の銃撃により本多忠勝は馬を撃たれ、家来の馬に乗り換える。【譜牒余録】
石田隊は藤堂・京極・織田隊からも攻撃を受け壊滅する。
石田三成が島津豊久の陣から帰り着く頃、敗軍となる。【山田晏斎覚書】
前衛の蒲生郷舎は戦場を脱出、蒲生頼郷は討死する。
石田隊の蒲生頼郷は織田有楽に降伏を勧められたことに怒り、織田有楽を斬り落馬させる。しかし織田有楽の家臣に攻撃され、蒲生頼郷は討死する。【豪雄言行録 (1885年) 】
「藤堂良政(藤堂高虎の従兄弟)は島左近の子信勝と組み打ちになり、信勝が藤堂良政を押し伏せ頭をかき切った。藤堂良政の小姓がまた折り合い、信勝を打ち取る。島左近は行方知れず、子供が討死した。」【太田和泉守記】
西軍は総崩れとなり伊吹山方面へ逃走、東軍が追撃を行う。
「本多忠勝は道へ切ってかかり切り崩し、敵は耐えきれず藤川(藤古川上流)へ向かい伊吹山を目指して駈け上がった。敗北した軍勢への追撃はその数がわからないほどであった。」【太田和泉守記】
島津義弘・豊久は井伊・田中・金森隊ら東軍の包囲を受ける。
島津義弘の陣所を東軍が囲み井伊直政が押し寄せた際、川上忠兄の家臣柏木源藤が鉄砲を放つと胸板上巻に命中し、直政は落馬する。その隙に義弘は大勢の真ん中を切り崩して進んだ。【帖佐彦左衛門宗辰覚書】
弾は右脇腹の鎧に当たって跳ね返り、右腕を負傷する。【井伊慶長記】
島津義弘・豊久が敵中突破を開始(島津の退き口)。福島隊の横をすり抜け、家康本隊の進軍を避けて東へ向かう。
東軍は松平忠吉、筒井定次、小早川秀秋が追撃する。【朝野旧聞ホウ藁】
家老の長寿院盛淳が進み出て、自ら"島津兵庫頭 (義弘) "と名乗り出て戦い、討死する。【帖佐彦左衛門宗辰覚書】
烏頭坂 (うとうざか) 付近で島津豊久が殿軍を申し出、敵勢に斬り込み討死する。
島津義弘が南宮山を抜けた時、大垣城が攻撃を受けていることに気づく。
大垣城から火の手が上がっているのが見え、城に入ることをあきらめ、伊勢路へ向かう。【大重平六覚書】
南宮山方面では関ヶ原での敗北が伝わり、長宗我部盛親、長束正家が伊勢路へ退却する。【9月17日 吉川広家自筆書状案】
関ヶ原から退却する島津義弘と、長宗我部盛親、長束正家の軍が遭遇する。近江水口を領地とする長束正家が島津義弘へ道案内の者を一騎派遣する。【惟新公関原御合戦記】
家康は追撃を中止、関ヶ原の戦いは当日中に終了となる。
東軍の各隊は休息を取り、家康は本陣で首実検を行う。
「小早川秀秋の裏切りに驚き騒ぎ、進退取り乱したのを見て御方の諸軍は急に攻めかかると、敵は堪えられず石田らを始めとしてある者は伊吹山へかかり、ある者は伊勢路へ落ちて行った。辰の刻 (8時頃) に合戦が始まり午の刻 (12時頃) に及んで敵軍は残らず敗北した。討たれた者は八千人余りに及んだ。」【関原始末記】
「石田軍全ての陣が破れて敗北した、然れば午の刻 (12時頃) であるか」【帖佐彦左衛門宗辰覚書】
「数十人の首を内府家康公が首実検をされる。諸卒はしばらく人馬の息を休め、その後佐和山へ軍勢を進め、内府公は鬱憤を晴らされた。
その夜、山中の大谷吉継陣の小屋に陣を取られ、井伊直政先手は今洲口 (今須) に陣を取り、四方に段々に陣を取った。」【太田和泉守記】
佐和山城攻撃
9月16日、東軍は西にある石田三成の居城 佐和山城(三成の父正継・兄正澄ら石田一門 兵数2,800)の攻撃に向かう。
9月17日早朝、徳川家康は小早川秀秋、井伊直政、田中吉政らに攻撃を命じる。
城兵は弓・鉄砲を放ち、ここが勝負の分かれ目と防ぐが、東軍は水の手口より田中吉政、松原口・切通口より家康の御家人が攻め入ると、城兵は退いて本丸に立て籠もった。
石田正澄が井伊直政の陣へ使者を出し、城兵の助命を嘆願、一族は切腹することを伝える。家康はこれを受け入れると石田一族は切腹し、17日辰の刻 (7~9時) 、佐和山城が落城する。【田中興廃記】(【慶長年中卜斎記】では18日朝に落城)
家康は田中吉政を呼び出し、"貴殿は江州の案内者なので急ぎ江北へ行き三成を探すように"と命じる。
「佐和山には落城の後、金銀は少しもなし。三成は貯えていなかったようだ。」【慶長年中卜斎記】
大垣城攻撃
西軍主力部隊が関ヶ原へ移動した9月14日夜、東軍の水野勝成が大垣城 (福原長尭・熊谷直盛) を攻撃する。
その後、西軍敗北の報が大垣城へ届くと、相良頼房、秋月種長・高橋元種兄弟が内応し熊谷直盛らを殺害する。
「三ノ丸の西の門口で熊谷直盛・垣見一直・木村由信をあなたが討ち取り、この三首を送られ請取りました。」【9月17日付 相良頼房宛 水野勝成書状】
9月23日、本丸の福原長尭が投降、開城となる。
(その後福原長尭は伊勢 朝熊山に蟄居となるが、三成の妹婿であるため家康の命により切腹となる)
「こちらの様子を御耳に入れます。去る十四日赤坂に着陣され、十五日巳の刻 (9~11時) 関ヶ原へさしかかり、一戦に及ばれました。石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の四名は、十四日の夜五つ時 (19~21時頃) に大垣城の外曲輪を焼き払い、関ヶ原へ一つになって打ち寄せました。
この地の衆(尾張衆)、井伊直政また福島正則殿が先手としてその他の諸将が打ち続き、敵の要害へさしかかり、合戦した時(原文:とりむすひ候刻)、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠と祐滋の父子、この四人が御味方になり、裏切りをされました。
そして敵は敗軍となり、追撃により際限なく討取りました。その大将は大谷吉継・島左近・島津豊久・戸田勝成・平塚為広と他にも討取りましたが、知られている衆はこの分になります。打捨て鼻を欠いて捨てたので、誰を討ち取ったのかもよくわかりません。
また十六日に佐和山へさしかかり取り囲み、田中吉政が水の手を取り、本丸へ押しかけると、石田正澄父子・三成の舅 宇多頼忠父子・三成の親 石田正継・妻子一人も残らず斬り殺し、天守に火を懸け悉く焼き払い落城しました。
その時城より三百人ほどこちらへ出たところを一人も残らず討ち取りました。皆々小姓まで手柄を立て高名となっているのでご安心ください。
三成は十五日の合戦場より行方は今はわかりません。また安国寺恵瓊は吉川広家・福原広俊両人の思し召しにより捕らえ出しました。毛利輝元は訴訟を申していますがどのようなことかわかりません。」
【9月15日付 伊達政宗宛 徳川家康書状】
「十五日午の刻 (11~13時) 、美濃山中において一戦に及び、宇喜多、島津、小西、石田三成の軍勢を悉く討ち取りました。すぐに佐和山まで向かい今日着馬しました。大垣城も今日すぐに確保しましたのでご安心ください。」(伊達政宗へ届くのは9月30日)
【9月20日付 近衛信尹宛 近衛前久書状】
「一昨日の夕方、あの陣地より私のところへ参った者が直に語ったことです。心得てください。
内府は当月朔日に国元を出陣されて、十四日に大垣方面へ押し寄せました。 大垣城の軍勢、石田三成・島津義弘・小西行長などはこれを見て、山へ上り陣取りました。内府は五万ほどにて手人数をそれぞれ別に備えて居陣されていました。
先手の軍勢は、福島正則が一番、細川忠興が二番・金森長近が三番、田中吉政その他上方の軍勢が四万ほど、それぞれが備えていました。青野ヶ原での合戦があり(※山内一豊は着陣した赤坂付近を青野原と書いている)、即時に斬りかかり大勝利となりました。
頃合いを見て小早川秀秋が手を返され、その攻撃によって大谷吉継は討死して、そのまま切り崩されました。上方より出陣した軍勢は五万計りで、四五千も討死したそうです。」
【9月22日付 細川忠利宛 細川忠興書状】
「一、この度関ヶ原方面まで一戦に及ばれ、悉く切り崩し、数千人を切り捨てられた。我らの手勢も首二百余りを討ち取った。安心するように。
一、私の事は丹波亀山へ働き、今日城を請け取った。安心するように。
一、丹後は無事であった。早くも幽斎へもお目にかかった。安心するように。」
【9月24日付 小早川秀秋宛 徳川家康書状】
「この度の関ヶ原においての御忠節、誠に悦ばしいことです。以前からの道理が変わらないこと、特に喜んでいます。今後は秀忠と同様に思い、ぞんざいに扱うことはありません。」
【9月28日付 伊達政宗宛 結城秀康書状】(結城秀康は宇都宮に在陣)
「去る十七日に佐和山へ山中から取りかけ、すぐに乗っ取りました。裏門を田中吉政が攻め落とし、内府は石川康通の手柄としました。石田正澄、石田正継、同妻子、近臣。天守に火をかけました。上方のことは安心してください。
最上の件、先日以来なにも申し越されず心もとなく思われたでしょう。すぐに出陣すべきだと思いますが、内府から申し付けられて困っております。先日の飛脚を留めているのは上方からの返事次第ということです。」
【神戸五兵衛覚書】
「九月十四日の夜に入って大垣を出陣し、夜中に関ヶ原へ(島津義弘が)到着された。夜が明けると、東国衆は大谷吉継殿の陣へ攻めかかり、六七度の合戦があったところに、上の山より小早川秀秋が白旗をさして横入りし、大谷殿の軍勢を一人も残らず討ち取った。 宇喜多秀家殿の陣へは新手の大将が攻めかかって追い崩し、この方(島津義弘)の陣へ攻めかかった。東は別の手の大将が攻めかかり、石田殿の陣は追い崩されたので、この方の陣へ攻めかかった。その猛勢の真ん中へ義弘公は攻めかかりなされ、大敵を討ち取り真ん中を切り開き、東へ切り通りなされた。」
【イエズス会1599~1601年 日本諸国記】関ヶ原の戦いを開く(別ページ)
【三河物語】関ヶ原の戦いを開く(別ページ)
家康が大坂城へ入る
9月17日、佐和山城を落城させる。
西進していた秀忠は信濃木曽路の妻籠宿で東軍勝利の報せを受ける。
9月17日、福島正則・黒田長政が大坂城の毛利輝元へ書状を送る。吉川広家・福原長尭が毛利家を大切に思われることを内府へ伝えたところ、輝元に落ち度は無く今後も会談をする意向だと伝える。【毛利家文書】
9月19日、毛利輝元は返信を送り、家康への感謝と領国の分割がなく安心したことを伝える。【毛利家文書】
9月19日、家康が草津へ到着。【当代記】
9月20日、家康が大津城へ入る。【時慶記】
(【関原始末記】では秀忠も20日に草津へ到着し、20日夜に大津へ入り草津へ戻る。)
9月19日、伊吹山方面へ逃亡していた小西行長を発見、捕らえる。
9月21日、北近江の古橋村で石田三成を発見、捕らえる。またこの頃、潜んでいた京都六条から脱出する安国寺恵瓊を捕らえる。
9月22日、毛利輝元が福島正則・黒田長政へ起請文を送る。自らの処分がないことを感謝し、大坂城西ノ丸から退城すること、家康へ離反の気持ちはないことを伝える。【毛利家文書】
9月22日、秀忠が草津へ到着。【慶長年中卜斎記】(【当代記】では23日に草津到着。)
9月22日、前田利長が講和が成立した丹羽長重とともに南下、大津で家康と面会する。
9月23日、家康が捕らえた石田三成らと大津で対面する。【田中興廃記】
9月25日、黒田長政・福島正則・浅野幸長・藤堂高虎・池田輝政が毛利輝元に起請文を送る。井伊直政・本多忠勝の所領安堵の起請文に偽りがないこと、反抗しなければ処分はなく協力をすることを伝える。(この起請文に家康は署名していない)
9月25日、毛利輝元が大坂城西ノ丸から退城。木津の屋敷へ入る。
9月25日、秀忠が草津から大津へ移動、家康に面会する。秀忠はその晩に伏見へ移る。【関原始末記】
9月26日、家康が大津城を出発、淀城へ入る。【当代記】【関原軍記大成】
(【慶長年中卜斎記】では25日に淀城へ入る。)
(【関原軍記大成】では26日に伏見で秀忠が家康に面会する。)
9月27日、家康が大坂城へ入る。【当代記】【関原軍記大成】
(【慶長年中卜斎記】では26日に家康が大坂城へ入り豊臣秀頼と対面する。)
(【関原始末記】では28日に大坂城へ入る。)
前田利長も兵40,000で家康を供奉し、大坂へ入る。【義演准后日記】
9月28日、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊を大坂で市中引き回しにする。その後京都へ護送する。
9月28日、家康が島津義久・忠恒へ詰問状を送る。(島津側の弁明書作成は10月22日)
9月28日、家康が黒田如水へ書状を送り、大友義統を捕らえたことを賞賛し、小倉城の毛利吉成を攻撃するよう指示を出す。【黒田家文書】
9月30日、榊原康政らが福島正則・黒田長政へ、秀忠が薩摩討伐に向かい、毛利輝元が先陣となることを伝える。【毛利家文書】
10月1日、京都六条河原にて石田三成、安国寺恵瓊、小西行長を処刑する。
「今度謀反人の石田三成、安国寺恵瓊、小西行長が引き渡され、六条河原にて斬られ、首は三条橋に掛けられた。見物人は数万人であった。」【時慶記】
10月2日、黒田長政が吉川広家へ書状を送る。
毛利輝元が奉行らと共謀して各大名へ回状を送ったことが判明し、輝元の署名もあり、処置について対応できないことを伝える。吉川広家は忠節されているので毛利領の一、二国が与えられると伝える。【吉川家譜】
10月3日、吉川広家が黒田長政・福島正則へ返事を送る。
西ノ丸へ入ったのは安国寺恵瓊の考えであり、輝元は熟慮がなかったこと、毛利家を存続してほしいと嘆願する。【吉川家譜】(黒田家に保管されていない)
10月10日、毛利家を周防・長門へ減封処分とすることを決定。
10月10日、井伊直政が島津へ使者を送る。【旧記雑録編 三】
10月15日、家康が論功行賞を行う。(この後1年程かけ順次行われる)
10月、家康は亀井茲矩に命じ、西軍方の鳥取城を攻撃させる。
11月12日、家康が薩摩へ侵攻予定の黒田如水へ書状を送る。
(10月25日の)報告を確認したこと、薩摩への侵攻について、冬に入るので年内は在陣するようにと伝える。
また井伊直政は島津に問題があれば来春に出陣すること、島津から懇願があるので聞くようにと伝える。【黒田家文書】
(このとき薩摩では島津義久が黒田如水へ取り成しを依頼し和睦が成立していた)
慶長6年(1601年)1月、黒田如水が上洛して家康と面会する。【黒田家譜】
西軍諸将の捜索と処分
<石田三成>
敗戦後、伊吹山を越え北近江へ逃亡。古橋村で腹痛を患い歩けない状態のところを、与次郎太夫という村人に保護される。しかし噂が広まったことで三成は自身の居場所を知らせるよう与次郎太夫に伝え、9月21日、田中吉政の家臣に捕らえられる。(腹痛で倒れているところを村人が田中吉政家臣に知らせたとも記載)
9月23日、三成は大津へ護送され、東軍諸将と対面する。【田中興廃記】
(三成はニ、三日ろくな食事もせず、稲の穂などを食べたため腹を悪くしていた。ぼろをまとい病気で寝ている風をよそおっていたところ、田中の家臣が発見して捕らえた。大津では小袖を与え医者に見せて養生させた。【関原始末記】)
10月1日、京都六条河原にて処刑となる(41歳)。
三成の嫡男 石田重家は大坂にいて、西軍敗北後は助命され、出家して京都妙心寺に入る。
次男 石田重成は大坂で津軽信建の助けにより、陸奥国津軽へ逃れる。
三女 辰姫は高台院の保護下に入る。1610年頃、津軽信枚のもとへ嫁ぐ。
<小西行長>
敗戦後、伊吹山方面へ逃亡。9月19日、庄屋 林蔵主が発見する。小西行長は"我は小西摂津守である。内府のもとへ連れて行き褒美をもらうように"と伝える。林蔵主は早く逃げられよと伝えるが、自分はキリシタンのため自害できないのだと伝える。林蔵主は落ち武者狩りに狙われるとして竹中重門の家来を呼び、引き渡される。【慶長年中卜斎記】
10月1日、京都六条河原にて処刑となる(43歳)。
<安国寺恵瓊>
敗戦後、一旦退却するが南宮山へ引き返し、吉川広家と家康の和談を聞いて切腹を覚悟する。【9月17日 吉川広家自筆書状案】
毛利秀元に同行し、近江から退却する。途中で笠を被り黒い羽織姿で京都北部にある鞍馬寺の月性院へ逃げ込み、その後追手が来たため京都六条の西本願寺から乗物で脱出する。そのとき観念した小姓が首を討とうと乗物から出させるが、刀は乗物の屋根に当たり、安国寺恵瓊の右の頬をかする。その後追手に捕えられる。【慶長年中卜斎記】
(【9月17日付 石川康通・彦坂元正書状】では「吉川広家・福原広俊両人が思し召し捕らえて差し出した」と記載)
10月1日、京都六条河原にて処刑となる(62歳)。
<宇喜多秀家>
敗戦後、伊吹山方面へ逃亡。9月17日、白樫村の土豪 矢野五右衛門に匿われる。10月29日、矢野五右衛門の助けを借り、白樫村を出て大坂の備前屋敷へ向かう。【美濃国諸旧記】
その後1601年6月、島津家を頼り薩摩へ移る。しかし1603年、秀家の噂が流れたため江戸へ送られる。駿河国久能山へ幽閉の後、1606年に八丈島へ流罪となる。(1655年11月20日、八丈島にて死去(84歳))
<明石全登>
宇喜多秀家家臣の明石全登は討死しようと東軍へ突入する中、友人の黒田長政と遭遇する。長政は自決を勧めるが明石全登はキリシタンの犯罪行為であると拒否、黒田長政に首を刎ねられるなら恩義を感じると伝えると、長政は自分が家康へ助命を乞うと説得し、投降する。家康は助命を受け入れ明石全登に俸禄を与えた。【イエズス会1600年度年報補遺】
(敗戦後は黒田氏に匿われたと考えられている)
<島津義弘>
関ヶ原から離脱後、南下して峠を越え堺に入り、家臣に家族がいる大坂へ向かわせる。大坂城では帰国の許可が下り、妻宰相殿と亀寿、親族が脱出する。柳川へ帰国を目指す立花宗茂の協力もあり乗船、出航する。義弘も堺から出航して家族・立花宗茂と合流し、海路で九州へ向かい、10月3日、薩摩へ帰還する。【神戸久五郎覚書】他
その後家康と交渉の末、本領の薩摩・大隅・日向佐土原は安堵となる。
<長束正家>
南宮山から離脱後、近江の居城 水口岡山城へ向かうが、東軍の追撃を受け自害する。(水口岡山城に逃げ込んだ後、亀井茲矩らに安堵を約束され開城したが捕らえられて処刑されたとの説もあり。)
<長宗我部盛親>
南宮山から離脱後、夜四つ(22時頃)にカウツの町で一揆の襲撃を受ける。福富親政らが殿軍となり防ぐ。【福富半右衛門親政法名浄安覚書】
その後大坂へ入り、堺近郊の石津浦で長宗我部軍の船200隻が東軍の小出秀家と交戦する。【寛永諸家系図伝】
その後海路で土佐へ帰還。家康により土佐を没収、改易処分となる。
<吉川広家>
敗戦後、吉川広家は福原広俊とともに黒田長政・福島正則の指示で9月16日に南宮山から近江へ退却。道案内を堀尾忠氏が行い、17日佐和山へ着く。【9月17日 吉川広家自筆書状案】
その後大坂へ入る。
<毛利秀元>
安国寺恵瓊と共に南宮山から近江方面へ退却。【慶長年中卜斎記】
その後大坂へ入る。
<大谷吉治(吉勝)>
本戦で父吉継は自害、息子の吉治は敦賀へ落ち延びる。
<増田長盛>
敗戦後、大坂城の増田長盛は大津へ向かう。これにより家康は一命を助けて改易処分とし、増田長盛は出家して高野山へ送られる。その後岩槻城に預けられる。【戸田左門覚書】
<前田玄以>
大坂城の前田玄以は西軍に加担しなかったため、丹波亀山を安堵される。
<立花宗茂>
9月15日に大津城を落城させた後、西軍の敗北を知り大阪城へ戻る。毛利輝元は家康に従う意向であったため、人質の母を連れ脱出。島津義弘の家族も船に乗せ、島津義弘と合流した後筑後へ帰還する。九州では黒田如水が挙兵しており、本拠柳川城を攻撃され降伏する。
その後論功行賞にて改易となり、加藤清正や前田利長から仕官の誘いを断り浪人生活を続ける。1604年将軍秀忠の御伽衆として仕え、その後陸奥棚倉1万石の領主として大名に復帰する。
<京極高次>
東軍へ寝返り大津城に籠城するが、9月14日頃に西軍へ降伏。翌15日に出家して高野山へ向かう。その後家康より高野山を降りるよう伝えられ、若狭へ加増転封となる。
<毛利秀包>
大津城攻撃後に西軍の敗北を知り、大坂城へ戻る。(国許の久留米城は黒田如水らの攻撃を受け降伏する)その後改易処分となる。
<織田秀信>
岐阜城主の織田秀信 (三法師、信長の嫡孫) は助命され、高野山へ送られる。(1605年5月8日死去(26歳))
<真田昌幸>
第二次上田合戦の後、西軍敗北の報せが届き真田昌幸・信繁 (幸村) は降伏する。
真田信幸と本多忠勝の取り成しにより助命され、昌幸・信繁は高野山へ流罪となる。
上田・沼田の真田領は没収、真田信幸へ与えられる。
<織田信包>
田辺城を攻撃した織田信包 (信長の弟) は丹波柏木の所領を安堵される。
<小野木重勝>
田辺城を攻撃した小野木重勝は居城の福知山城に戻るが、関ヶ原から帰国した細川忠興から攻撃を受ける。投降するが、その後10月18日に自害する。小野木重勝の妻(島左近の娘)も同時に自害する。
<青木一矩>
越前北ノ庄の青木一矩は慶長5年 (1600年) 10月10日に病死する。(東軍方との説も有り)
<丹羽長重>
加賀 浅井畷の戦いで前田利長と交戦した丹羽長重は加賀小松を没収、改易処分となる。(1603年に常陸国古渡1万石へ復帰)
<九鬼嘉隆>
志摩の九鬼嘉隆は西軍につき鳥羽城で籠城する。次男の九鬼守隆は東軍につき会津征伐に従軍する。関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると10月12日、九鬼嘉隆は自害する。
<森吉成 (毛利勝信) >
豊前小倉の森吉成は改易処分となり、土佐の山内一豊のもとへ預けられる。
息子の毛利吉政 (毛利勝永) も西軍として伏見城を攻撃、その後安国寺隊として南宮山に布陣したため、父同様に改易処分となる。
<脇坂安治>
東軍へ寝返った脇坂安治は次男 安元が上杉討伐に出陣していたが石田三成により妨害されて帰還しており、また安元が家康へ忠節を伝えていたことから所領安堵となる。
<小川祐忠>
東軍へ寝返ったが、小川祐忠・祐滋の親子が石田三成と親交があったことから、改易処分となる。
<朽木元綱>
東軍へ寝返ったが、減封処分となる。
<赤座直保>
東軍へ寝返ったが、所領没収となる。その後、前田利長の家臣として加賀へ入り、松任城代となる。
九州の動き(後半)
(9月15日~)
石垣原の戦いで勝利した黒田如水が豊後 国東半島へ侵攻。
9月22日に安岐城を攻略、富来城へ向かう。
この頃、関ヶ原の戦いで東軍が勝利した報せが黒田如水へ届き、加藤清正へ伝える。
9月27日、関ヶ原から自国へ撤退中の島津義弘の船団3隻が国東半島沖を通過。富来城攻撃のため沖に展開していた黒田水軍が船団を発見して交戦となる。島津義弘の船は離脱に成功、薩摩へ帰還する。
9月29日、日向飫肥の伊東祐兵が東軍方につく。伊東祐兵は病気のため、嫡男 伊東祐慶が家臣の稲津重政に命じ、宮崎城(高橋元種領の飛び地)を攻撃、占領する。
(しかしこのとき大垣城を守っていた高橋元種は東軍へ降伏していたため、慶長7年 (1602年) 、宮崎城を攻撃した責任として伊東祐慶は稲津重政に切腹を命じる。稲津重政はこれに抵抗し清武城に籠城するが、主君の伊東軍に攻撃され討死する。)
10月4日、黒田如水が吉川広家へ書状を送り、上方での戦いが当月まで続けば中国方面へ進軍し、一合戦しようと思っていたが、家康が早くも勝利し残念だと伝える。
10月、豊後 岡城の中川秀成が臼杵城(城主 太田一吉)攻撃のため侵攻。太田一吉は出撃し、10月3日に佐賀関で両軍は交戦となる。(佐賀関の戦い)
この戦いで中川秀成へ帰参していた田原親賢が戦死する。
合戦後、太田一吉は降伏。黒田如水が臼杵城を引き取る。
10月14日、黒田如水が小倉城を占領、筑後へ進軍する。
加藤清正は9月15日に熊本を出陣して細川軍の救援に向かうが、石垣原の戦いで勝利したことから引き返し、9月21日、小西行景 (小西行長の弟) が守る宇土城の攻撃を開始する。
同時に八代城にも兵を送り攻撃する。
9月23日、加藤清正が黒田如水へ、今後は柳川への出陣を確認したこと、鍋島直茂が加勢に来ても問題ないと伝える。【黒田家文書】
この頃、関ヶ原で東軍が勝利した報せが黒田如水を経由して宇土城攻撃中の加藤清正へ届く。
「如水からの御状は本望です。美濃方面のこと、心地よい成り行きですが(参戦できず)少し残念に思います。…中国方面へ相談していたことはなくなると思います。羨むこと言うまでもありません。」【9月28日付 松井康之・有吉立行宛 加藤清正書状 松井家文書】
9月下旬、島津・相良軍が領地奪還のため加藤清正領の佐敷を攻撃。
10月2日、加藤清正が浅野幸長へ、立花宗茂が妻子を奪い下向し、柳川城へ入ったと伝える。【新宇土市史】
10月17日、八代城を攻略。
この頃、宇土城が開城。小西行景が自害する。
黒田如水と加藤清正の許可を得た鍋島軍が参戦。
10月14日、鍋島勝茂が佐賀城を出陣する。【旧記雑録編 三】
久留米城(毛利秀包は大坂に在陣)を攻撃、15日に攻略する。その後立花宗茂の柳川城を攻撃する。
(鍋島直茂は嫡男勝茂が西軍について行動したため、家康から筑後平定を条件に本領を安堵すると言われていた)
10月20日、鍋島直茂が進軍してきた立花宗茂との戦闘に勝利する(八院合戦)。
10月22日、島津忠恒と義久が寺沢広高(家康への取次役)へ弁明書を送る。
義弘は事前の企ては知らず、秀頼様への忠節があるため従ったこと、家康への反抗心はないことを伝える。(大坂に届くのは2~3週間後)
10月24日、立花宗茂が降伏。柳川城を開城する。
加藤清正が22日頃に柳川へ入り、城を接収する。
日向飫肥城主の伊東祐兵は病のために大坂に留まっていたため、西軍として兵を送り伏見城・大津城攻めに参戦する。東軍勝利後は嫡男 祐慶を日向へ帰し、西軍方の高橋元種の宮崎城を攻撃。10月1日、宮崎城を開城させる。この働きにより黒田如水の取り成しを受ける。
10月25日、柳川城占領後、黒田如水は島津領侵攻について家康に報告する。
10月26日、加藤清正が家臣に薩摩侵攻の準備を伝える。
10月下旬、井伊直政から島津へ書状(10月10日付書状)が届く。
10月27日、立花宗茂が島津義久・義弘・忠恒へ降伏を勧める。
秀忠が近日薩摩を改めるため出陣し、自分も赦免の上出陣すること、その前に使者を出して詫言をするべきで、一命をかけて取次ぐと伝える。【旧記雑録編 三】
11月2日、島津義久が黒田如水へ、井伊直政・山口直友からも注進があったので、急ぎ使者を差し上げた、話し合いを望んでおり、取り成しを依頼したいと伝える。【旧記雑録編 三】
11月9日、黒田如水が島津義弘へ、報せは本望であること、加藤清正と相談し尽力すると伝える。【旧記雑録編 三】
11月10日、加藤清正が黒田如水へ、明日の出陣は留まり、指示に従うと伝える。【黒田家文書】
11月下旬、家康から黒田如水へ、年内は在陣するようにとの要請が届く(11月12日付書状)。
慶長6年(1601年)1月、黒田如水が上洛して家康と面会。家康は官位を与えようとするが拒否、筑前を長政に任せて隠居する。【黒田家譜】
東北の動き(後半)
(9月15日~)
直江兼続は9月8日、最上攻めを開始。米沢と庄内から進軍し、最上領の諸城を次々に落城させ、山形方面へ進軍する。
9月15日、長谷堂城の戦い。直江兼続(兵数24,000)が長谷堂城(志村光安 兵数3,000)を包囲する。長谷堂城の守備が固く、攻撃は停滞する。
9月16日、最上義光は伊達政宗に援軍要請を行い、政宗は留守政景 (騎馬500、鉄炮700) を派遣する。
9月24日、伊達政宗が義光へ、もし景勝が出陣すれば自らも最上の援軍として対陣すること、暮れか来春に会津を攻撃することを伝える。江戸や宇都宮の結城秀康へも要請しているが、佐竹への用心として2、3万の兵を残し期待できないことを伝える。【東京大学史料編纂所所蔵文書】
(政宗は北部の南部領へも兵を出しており、すぐに景勝と対峙するのは困難だった)
9月24日、伊達政宗が家康へ、宇都宮の結城秀康から援軍要請の返信がないと不満を伝える。【大阪歴史博物館所蔵文書】
9月30日、伊達政宗のもとへ関ヶ原の戦いで東軍勝利の報告が家康から届く。【留守家文書】
10月1日、直江兼続が撤退を開始。最上義光は上杉軍に占領された諸城を奪還する。
直江兼続は最上軍の追撃を受け大きな被害を出すも、10月3日上杉領の出羽 荒砥城へ帰還する。
10月6日、伊達政宗は片倉景綱・茂庭綱元・屋代景頼を出陣させ、上杉領 信夫郡の福島城(城主 本庄繁長)を攻撃する。上杉軍は援軍として直江兼続が加勢し、戦いは膠着状態となる。
翌慶長6年 (1601年) も上杉領へ攻撃を続けるが、伊達郡・信夫郡を奪還できず、旧領回復は刈田郡の白石城のみとなる。
<伊達家>
慶長5年(1600年)7月、伊達政宗が上杉領の白石城を攻撃、占領する。
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1601年春まで上杉領を攻撃する。また南部領で起きた和賀忠親による一揆を支援し、派兵する(岩崎一揆)。これにより家康からの「百万石のお墨付き」は反故とされる。
論功行賞により刈田郡2万石のみの加増となり、領地は60万石となる。(後に飛び地が加増され62万石となる)
1601年、仙台城を築城し、居城とする。
<最上家>
慶長5年(1600年)9月、長谷堂城の戦いで上杉軍の攻撃を防ぐ。その後最上義光は庄内南部へ侵攻、尾浦城を攻略する。
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慶長6年(1601年)4月、家康の許可を得て庄内北部へ侵攻。東禅寺城を攻略して庄内を支配下に置く。(その後東禅寺城は亀ヶ崎城と改められる)
論功行賞により最上義光は庄内地方が加増され、57万石となる。
<上杉家>
慶長5年(1600年)10月1日、西軍敗北の報せが届くと、直江兼続が長谷堂城から撤退。
12月、本庄繁長が上洛、講和交渉を行う。
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慶長6年(1601年)1月中旬、大坂城西の丸で家康が上杉家の処遇を評議。
この席で結城秀康が上杉家は武功の名家であることから減封を進言したところ、諸将らも同意し、減封が決定される。【上杉家御年譜】
慶長6年7月、上杉景勝と直江兼続が上方へ向かう。
7月下旬、大坂へ入り秀頼に面会する。その後、7月24日に馬廻りを連れ上洛、家康に謁見する。【旧記雑録 後編】
論功行賞で上杉家は出羽米沢30万石へ減封となる。
<真田家>
9月5日の第二次上田合戦の後、西軍敗北の報せが上田城に届き真田昌幸・信繁 (幸村) は降伏する。
論功行賞により真田領は没収となる。長男 真田信幸と本多忠勝の取り成しにより昌幸・信繁は助命され、高野山へ流罪となる。
(【真田軍功家伝記】による経緯)
真田信幸は義父の本多忠勝に昌幸・信繁の助命を嘆願する。本多忠勝は、"家康公は治部少輔(石田三成)より罪が重いと思っておられ、謀反人を助けた例はないので難しい"と答える。
本多忠勝が井伊直政に相談してみたところ、井伊直政は家康に、"安房守(昌幸)のご助命が駄目なら伊豆守(信幸)は切腹し、舅の中務(本多忠勝)の身を潰すことになり私も面目ありません、ご赦免をお願いします。"と申し上げた。
家康は機嫌が悪く返事をせずに奥に入ってしまう。しかし井伊直政は許されたのでお礼申し上げよと伝え、信幸・本多忠勝は家康にお礼を言上する。家康もしかたなく、ご赦免になった。
合戦後、真田信幸は西軍についた父との決別を表すため、信幸から信之へ改名する。
論功行賞で信之は上田藩9万石(上田・吾妻・沼田)の大名となり、真田領の統治を行う。
慶長5年12月13日、上田城を明け渡し、高野山へ向かう。【当代記】
真田昌幸は家臣16名、信繁は正室 竹林院や親族とともに高野山へ入る。その後場所を九度山へ変える。
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慶長16年(1611年)6月4日、九度山で真田昌幸が死去(65歳)。
慶長19年(1614年)10月初旬、豊臣秀頼の使者が密かに九度山へ訪れ、支度金として黄金200枚、銀30貫目を届ける。
慶長19年10月9日、真田信繁(48歳)は手勢とともに九度山を脱出、大坂へ向かう。
<毛利家>
慶長5年(1600年)7月29日、蜂須賀家政(毛利輝元の動きに反対したことで謹慎を命じられていた)が返上した阿波国へ毛利軍(村上元吉・景親兄弟ら)を侵攻させ、徳島城を占領する。
8月、豊前では黒田如水が兵を集めていたため、森吉成 (毛利勝信) 領の門司城、小倉城へ兵を送る。8月18日、森吉成は輝元の指示で隈本の加藤清正のもとへ派遣される。
8月、伊予の藤堂高虎領、加藤嘉明領の家臣へ調略をかける。(伊予国北部の野間・風早郡(来島氏)、越智郡(小川祐忠)、和気郡(安国寺恵瓊)、喜多郡大洲(池田秀氏)は西軍方)
9月、毛利軍(宍戸景世、村上武吉・元吉ら)が広島から伊予の加藤嘉明領へ侵攻する。
9月17日、三津浜で加藤軍からの夜襲を受け、村上元吉が戦死する。
関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、東軍と交渉が成立していた南宮山の吉川広家が下山。堀尾忠氏の案内に従い、大坂へ退却する。【9月17日 吉川広家自筆書状案】
毛利秀元も近江から大坂へ退却する。
大坂城の毛利輝元は徳川家と交渉を開始。※詳細は<家康が大坂城へ入る>を参照
9月25日、黒田長政・福島正則・浅野幸長・藤堂高虎・池田輝政が毛利輝元に起請文を送る。井伊直政・本多忠勝の所領安堵の起請文に偽りがないこと、反抗しなければ処分はなく協力をすることを伝える。(この起請文に家康は署名していない)
同日、毛利輝元が大坂城西ノ丸から退城。木津の屋敷へ入る。
9月27日、家康が大坂城へ入る。
10月10日、論功行賞により毛利家は周防・長門(29万8千石 )へ減封処分となる。
毛利輝元は出家して宗瑞と名乗り、家督を嫡男 秀就(5歳)へ譲る。(幼少のため実権は輝元が握る)
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輝元・秀就は上方に留まり、慶長6年 (1601年) 、秀就が人質として江戸へ入る(1611年まで江戸で人質として生活する)。
慶長8年(1603年)、輝元が江戸に入り家康と面会する。
慶長9年(1604年)、輝元はようやく帰国が許され長門へ入る。幕府との話し合いで萩に城地が決定。萩城(指月城)の築城を開始、建築中の同年から居城とする。
<長宗我部家>
関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、長宗我部盛親は南宮山から南下して大坂へ入り、海路で土佐へ帰還する。
9月29日、帰国後、家康に通じていたとして兄の津野親忠(29歳)を殺害する。(親忠は前年に家督争いから元親に幽閉されていた)【土佐国編年紀事略】
11月12日、長宗我部盛親が上洛する。【11月14日付 山内一豊書状】
家康は長宗我部家を改易処分とし、土佐を没収。土佐を山内一豊へ与えることを決定、井伊直政へ浦戸城の請取りを命じる。
12月初旬、井伊直政家臣の鈴木重好らが土佐へ入るが、一領具足(長宗我部の下級家臣。半農半兵)の抵抗に合う(浦戸一揆)。
家老衆が話し合い夜中に鈴木重好を城へ引き入れると、家臣と一揆勢は城へ攻撃し、浦戸の南で交戦となり、家臣らが敗北する。【福富半右衛門親政法名浄安覚書】
鈴木重好と山内一豊の弟 忠豊が一揆を鎮圧する。【12月12日付 山内忠豊書状 朝野旧聞ホウ藁】
土佐を没収された長宗我部盛親は京都で蟄居生活を送る。
<島津家>
関ヶ原の戦いで島津義弘は戦場から離脱、大坂で家族を連れ出し、立花宗茂とともに堺より海路にて九州へ向かう。
9月下旬、薩摩では島津・相良軍が加藤清正領の佐敷を攻撃する。
10月3日、島津義弘が関ヶ原から薩摩へ帰還する。
10月中旬、大坂の家康から詰問状(9月28日付)が届く。
10月22日、島津忠恒と義久が寺沢広高(家康への取次役)へ弁明書を送る。
義弘は事前の企ては知らず、秀頼様への忠節があるため従ったこと、家康への反抗心はないことを伝える。
11月2日、南下してきた黒田如水に対し、島津義久が家康へ使者を送ったこと、取り成しを依頼したいと伝え和睦が成立する。
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慶長6年(1601年)4月4日、家康の書状と本多正信・山口直友の起請文を持った使者が島津義弘に面会する。
しかし島津家ではまだ家康の裏切りを疑い、義久の代わりに家老の鎌田政近を派遣させる。鎌田政近は8月10日、家康に拝謁する。
慶長7年(1602年)5月、山口直友が家康が島津へ起請文を書いたことを伝え、義久の上洛を求める。
8月、動かない義久の代わりに忠恒が上洛を決意。
8月17日、忠恒が日向野尻で狩りを行い、同行させた伊集院忠真を殺害。また伊集院一族を殺害する。
9月、忠恒が大坂へ出発。10月に上洛する。
12月28日、忠恒は江戸から上洛した家康と伏見城で対面、正式に島津領が安堵される。