【三河物語】関ヶ原の戦い

【三河物語】関ガ原の戦い(現代語訳)

「まず血祭りに岐阜の城を攻め取る。その軍勢に加わらなかった軍は(岐阜城と大垣城の間にある)合渡村へ押しかけ、合渡にいる敵を切り崩して追撃した。それより青野ヶ原へ攻め上り陣取った。敵は大垣城を本城として、柏原・山中・番場・醒ヶ井・垂井・赤坂、佐和山まで取っていた。

敵は十万余りだったか、味方は四、五万もいただろうか。家康の出陣が無いうちに合戦をしたならば、もしかして勝つこともあったろうに、しなくてはならないところ時期を延ばしてしまった。

慶長五年九月十四日に青野ヶ原へ押し寄せられ、同十五日に合戦をなされ、小早川秀秋が裏切りをして切り崩し、ことごとく大谷吉継をはじめとして追撃により残らず討ち取った。佐和山の城を乗り崩して火をかけて、三成の妻や子、一族を一人も残らず焼き殺した。

安芸の毛利は家老である吉川広家が夜に内通を申し上げ、十五日の日は裏切りをして迎えていたので、命も助け主人の国もあげて、(家康は)安穏にして慈悲深いので、毛利には周防と長門の両国をくだされた。
島津は薩摩・日向両国が本領なので下し置かれた。
丹羽長重は “上様への御無沙汰ではありません。加賀の前田利長のことで問題があったので、御敵となり迷惑仕りました” と申したので命を許された。その後召し出されて少しの知行をくだされた。

立花宗茂は(大津の)膳所の城を攻めて御敵になったのを、命を助けられたことさえ大変な御恩なのに、召し出されて過分の知行をくだされた。役に立つ者とお考えになったことは、凡人には理解できないものだ。
この度の合戦には池田輝政と福島正則の両人が首を振っていたら、関ヶ原まで出られることは難しかったが、池田輝政は家康のための婿殿だったので御味方しないというのはできなかった。福島正則は本当に思い切って御味方を申した。清須の城を明け渡すことは類まれな忠節だった。

秀忠様は宇都宮より出陣なされ、中山道を通り攻め上られたところ、真田の城へ通りがけに攻撃された。秀忠様は御年が二十二で若くいらっしゃったので、佐渡(本多正信)をつけお伴させていた。

何事も他の家臣には任せず、本多正信一人で執り行なった。本多正信が真田にたぶらかされて、数日を送った。”何事も諸将は本多正信の指示次第に” と仰せられていたのだった。本多正信が扱えるのは隼(ハヤブサ)の使い方くらいで、戦をしたことは一生に一度もないので、よいわけがなかった。そうしているうち二、三日も遅く着いてしまった。(中略)
本多正信が巧者ぶって繰引(殿軍を分けて敵を防ぎながら撤退すること)をして、後に自分が利口だと言っていたが、人々は”佐渡の繰引”と言って笑った。

(家康が)大坂へ移られた。秀頼に腹を切らせなさるかと皆が思ったが、御慈悲のある上様なので、むしろ後に秀忠様の婿殿になさった。」