戦国時代の時刻制度

戦国時代の暦-時刻制度

戦国時代の時刻制度

戦国時代の時刻制度は現在のような1日を24時間とする定時法ではなく、日の出と日没を基準とする「不定時法」で時間を判断していました。

※古代の日本は飛鳥時代の660年、中大兄皇子が大陸から伝来した漏刻ろうこく (水時計) を制作し、時間を管理していました。
以降の奈良・平安時代も使用されますが律令体制の崩壊とともに漏刻はなくなり、平安時代中期に使用された1日を12分割する不定時法が以降の年代に定着することになります。

不定時法では日の出以後の明るい時間帯(昼)と日没以後の暗い時間帯(夜)をそれぞれ6等分し、約2時間を一刻いっときとして1日を12刻で分割しました。
そしてそれぞれの刻を十二支に当てはめたことから、十二辰刻じゅうにしんこく (十二時辰じゅうにじしん) と呼ばれます。

江戸時代の貞享暦(1684年)では、日の出時刻より36分前の、東の空に薄明かりが見える時点を昼夜の境と決めていたため、戦国時代も薄明かりの頃が境目と考えられていたかもしれません。

 

「不定時法」は季節によって一刻の長さが変わるのが特徴です。
夏の昼は長く、冬の昼は短いため、夏の一刻は2時間30分ほどと長くなり、冬の一刻は1時間40分ほどになりました。

例えば京都の場合、夏至(現在の6月21日前後、戦国時代の旧暦では5月頃(年により日が異なる))の日の出時刻は4時42分頃となっているので、一般的に午前6時と言われる「の刻」はおよそ午前4時~午前6時になります。

一方、冬至(12月21日頃、戦国時代の旧暦では11月頃)は日の出時刻が7時01分頃のため、同じ「の刻」でも午前6時~午前8時頃を指します。

 

十二辰刻法

「十二支」を当てはめた一刻の呼び方は以下のようになります。

<春分・秋分頃の一刻>

の刻 午後11時~午前1時
うしの刻 午前1時~午前3時
とらの刻 午前3時~午前5時
の刻 午前5時~午前7時
たつの刻 午前7時~午前9時
の刻 午前9時~午前11時
うまの刻 午前11時~午後1時
ひつじの刻 午後1時~午後3時
さるの刻 午後3時~午後5時
とりの刻 午後5時~午後7時
いぬの刻 午後7時~午後9時
の刻 午後9時~午後11時

※春分・秋分の昼間時間は、正確には12時間より10分程度長くなりますが、簡略化して午前6時~午後6時としています。

このように夜中の午前0時であれば「の刻」、日の出の頃は「の刻」、正午頃は「うまの刻」、日没頃は「とりの刻」とされました。

時間を細かく表す場合は一刻の2時間を3つに分けて「上刻じょうこく中刻ちゅうこく下刻げこく」とし、「上刻じょうこく(午前5時過ぎ、または夜明け前)」、「うま下刻げこく(午後1時前)」と呼びました。

また一刻の半分である1時間を半刻はんとき、さらに半分の30分を四半刻しはんときとも呼ばれました。

江戸時代には細分化して一刻を4分割するようになり、「うま四刻よつどき(午四つ)」などと表します。怪談話に登場する「草木も眠るうしつどき」(午前2時~2時半)が知られています。

 

時の鐘/数読み法

不定時法には十二辰刻の他に、9~4までの数字を当てはめた鐘/数読み法もあります。

江戸時代に入ると3代将軍 徳川家光の時に江戸に鐘楼を設置、その後全国各地に時の鐘が設置され、鐘の音の回数で庶民に時刻を知らせていました。当時の庶民は時間を十二支と鐘の数の両方で判断していたことになります。

※鐘/数読み法は江戸時代に広まりましたが、戦国時代の中世でも【多聞院日記】などに記録があるように、寺院が鐘や法螺を用いて時報の役割を担うことがありました。

夜中の午前0時であるの刻は鐘を9回鳴らすので「九つ時」、日の出時刻のの刻は6回で「六つ時」、日没のとりの刻も6回で「六つ時」と呼びます。
1日に同じ数が2回あるため、呼び名は「暁」「昼」「夜」などを付けて区別されることもありました。

(数字の9から始まるのは、中国の易学(陰陽説)で縁起の良い数字が「9」であることが理由とされています。)

江戸時代の元禄期から登場する「おやつ」の語源は「八つ時」で、時刻は午後2時頃を指します。当時の人々は1日2食だったため、空腹時の「八つ時」に間食を食べる習慣がありました。

 

洋時計が伝わる

戦国時代後期から江戸時代に入ると、西洋の機械時計が日本へ伝わります。

最も古い記録は1551年(天文20年)、フランシスコ・ザビエルが周防の大内義隆に機械時計を献上したことが最初になります。

1569年(永禄12年)には織田信長がルイス・フロイスと面会した際、目覚まし時計を見せてもらうが、調整が難しく壊してしまうので受け取らないと伝えました。
1591年(天正19年)には豊臣秀吉が帰国した遣欧少年使節と謁見し、彼らが西洋から持ち帰った物の中に機械時計があり、献上されています。

江戸時代に入ると慶長14年 (1609年) 9月30日、フィリピンからメキシコへ向かっていたスペイン船が暴風雨に遭い、上総国夷隅郡(千葉県)に漂着しました。
その時地元の村人が多くの船員を救助したことから、慶長16年 (1611年)、スペイン国王フェリペ3世がお礼として日本に船を派遣、徳川家康への贈り物の中に洋時計が含まれていました。※日本現存最古の時計

家康は暦の違いから時計としては使用しませんでしたが、以降江戸時代では時計師によって不定時法に合わせた機械式の和時計が作られ、江戸城内や大名、豪商の家では使用されることになります。
(庶民に時計が広まるのは時計商工業が盛んになる明治時代以降になります。)

 

明治時代に不定時法から定時法へ

その後明治時代に入ると改暦が行われ、明治5年12月3日をグレゴリオ暦の日付に合わせて明治6年1月1日(西暦1873年1月1日)とし、太陰太陽暦(旧暦)からグレゴリオ暦(新暦)へ暦が変わりました。

それに合わせて時刻制度も変更され、現在の1日を24時間とする定時法が定められることになります。

 

旧暦・新暦についてはこちらで解説しています⇒ 戦国時代の暦 <太陰太陽暦(旧暦)>