旧国名・地名

戦国時代の令制国りょうせいこく地図

日本戦国時代-令制国-旧国名
※律令制では琉球・蝦夷地は令制国に含まない

五畿七道ごきしちどう

古代日本の広域行政区分 日本戦国時代-令制国-旧国名 五畿七道
※771年に武蔵国は東山道から東海道へ変更される

東山道 近江 - 美濃 - 飛騨 - 信濃 - 上野 - 下野 - 出羽 - 陸奥
北陸道 若狭 - 越前 - 加賀 - 能登 - 越中 - 越後 - 佐渡
東海道 伊賀 - 伊勢 - 志摩 - 尾張 - 三河 - 遠江 - 駿河 - 伊豆 - 甲斐 - 相模 - 武蔵 - 安房 - 上総 - 下総 - 常陸
畿内 大和 - 山城 - 摂津 - 河内 - 和泉
山陰道 丹波 - 丹後 - 但馬 - 因幡 - 伯耆 - 出雲 - 石見 - 隠岐
山陽道 播磨 - 美作 - 備前 - 備中 - 備後 - 安芸 - 周防 - 長門
南海道 紀伊 - 淡路 - 阿波 - 讃岐 - 伊予 - 土佐
西海道 筑前 - 筑後 - 豊前 - 豊後 - 肥前 - 肥後 - 日向 - 大隅 - 薩摩 - 壱岐 - 対馬
その他 蝦夷、琉球

 

令制国の歴史 〜律令制と荘園の拡大〜

律令制りつりょうせいの成立以前

古墳時代の日本では、大和政権が畿内を中心として勢力を拡大し、九州北部から関東地方にかけて支配していた。
大王おおきみ (国の長) は物部氏や中臣氏などの有力豪族とともに政治を行い、地方ではそれぞれの国を支配している豪族の長に国造くにのみやつこという官職を与えて、支配を任せる分権的な体制がとられていた。

飛鳥時代に入ると、推古天皇のもとで厩戸皇子うまやどのみこ (聖徳太子)・蘇我馬子そがのうまこが遣隋使を派遣、大陸の制度を参考に中央集権国家の構想が打ち出される。

645年の大化の改新を経て天智天皇 (中大兄皇子なかのおおえのおうじ) の代になると、670年に初めて全国的戸籍「庚午年籍こうごねんじゃく」が作られるなど唐の律令を参考にした改革が進められる。

また大化の改新以降、地方行政組織として全国各地にこおり (大宝律令のこおりにあたる) が設置される。

天武天皇の代(673年~686年)に、大陸で用いられていた行政区分「道」に従い行政区画を「五畿七道ごきしちどう」に分け、主要な幹線道路「七道駅路しちどうえきろ」の整備を開始する。
七道駅路は都と大宰府や五畿七道の国府が主要道路で結ばれ、迅速な情報伝達や物資の移動が可能な交通手段となる。

※七道駅路は710年の奈良時代以降に本格的に機能したと言われる。
※七道駅路の地図:「国土交通省ウェブサイト」

天武天皇は681年に律令制定を命じるが686年に崩御となり、その遺志を継いだ持統天皇により、689年に飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうで律令の令 (行政法) の基礎が作られる。

 

大宝律令と令制国の確立

701年、文武天皇のもと、藤原不比等・刑部親王らによって大宝律令たいほうりつりょうが制定される。
大宝律令では律(刑法)と令(行政法)の双方が制定される。

刑法は唐の律を踏襲して犯罪の種類と刑罰が規定される。
行政法は中央官制を二官八省とし、地方行政は国郡里制こくぐんりせいが定められ、天皇を頂点とする中央集権的な統治体制が整備される。

また公地公民制の原則で6年ごとの戸籍・計帳 (徴税の台帳) を管理し、農地を人々に分け与える班田収授法はんでんしゅうじゅほうを定める。
税制度 (租庸調そようちょう) 、軍事制度なども整備される。

地方行政の国郡里制は全国を「令制国りょうせいこく」で区分し、国は国司こくしを派遣、その下のこおりは在地の豪族を郡司ぐんじとし、里 (50戸単位) に里長 (さとおさ/りちょう) を置く。
これにより地方豪族の独自支配を制限し、天皇の支配が地方まで及ぶ仕組みが完成する。

※令制国の国は現在の県に相当する。古墳時代の豪族の支配地域"国"を基に整備されたと考えられている。
※奈良時代の霊亀3年 (717年) に里は郷へ改称される。
※地方の役所を官衙かんがといい、国には国衙こくが、郡には郡衙ぐんがが置かれる。(国府こくふは国衙一帯の都市地域)

※租庸調:「租」は収穫される稲を納める税、「庸」は労役の代わりに納める税(主に布)、「調」は各地の特産物 (絹、糸、布、海産物、工芸品など) を納める税。
※大宝律令成立直後は、陸奥国は現・宮城県中部まで、出羽国は現・山形県の辺りという狭い範囲で、その以北は律令制の範囲外だった。

 

令制国の変遷と国数の固定

奈良時代に入ると地方行政区分は再編成され、複数の令制国で分立や併合、再分立など改編が行われる。

五畿七道でも改編があり、771年に武蔵国むさしのくにが東山道から東海道へ所属が変更される。(当初の東海道は相模国さがみのくにの三浦半島から船で安房国あわのくにに渡るルートだったが、相模国から荒川・江戸川を越え下総国しもうさのくにへ入る道が開通したためと言われる。)

平安時代初期の823年に越前国えちぜんのくにから加賀国かがのくにが分立されて以降、明治元年 (1868年) までの約1000年間は68か国の区分となる。(琉球りゅうきゅう蝦夷えぞは含まない)

また平安時代には蝦夷との戦いを経て、陸奥国むつのくに出羽国でわのくにの領域が徐々に北へ拡大し、10世紀頃には東北地方の最北部にまで及ぶようになる。

※68か国の区分は、正確には824年に多禰国たねのくに (種子島・屋久島・口永良部島) が廃止となり大隅国に併合されて68国となるが、離島のためか通例では加賀国の分立で68国になったと認知されている。
また876年に肥前国より値嘉島ちかのしま (五島列島) が分立するが、数年後に肥前国に再編入されている。

※対馬・壱岐の2島を分けて66国2島と呼ばれることもある。
※離島は時代により属する国が変わる場合がある。(小豆島は律令制では備前国だが江戸時代になると讃岐国に属したり、肥後国天草郡の長島・獅子島は1587年の秀吉による領地配分で薩摩国に属する、など)

 

律令国家から荘園社会へ

710年、藤原京から平城京に遷都され奈良時代に入ると、律令国家としての統治体制が確立される。
しかし人口増加が起きたことで、口分田くぶんでん (公民に貸す農地) が不足し始める。

743年に墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうが制定され、朝廷は安定した「租」が課税されることを目的として新規で開拓した土地は永久に所有できるようにする。

実際は農民よりも労働力を動員して広い土地を開墾できる、貴族・寺社・有力豪族が大規模に開墾を進め、私有化された墾田地系荘園こんでんちけいしょうえんが発展する。

757年、大宝律令を一部修正した養老律令ようろうりつりょうが施行される。

 

荘園形態の変化

794年、長岡京から平安京 (現在の京都) に遷都され平安時代に入ると、荘園の形態にも変化が生じるようになる。

9世紀後半になると徴税体制が整い、在庁官人が実務を担うようになったため、任国へ赴任せず都に留まる遥任国司ようにんこくしが増加する。
一方任国へ赴任する受領国司ずりょうこくしは大きな権限が与えられ、郡司を通さず百姓を支配して重税を課すようになる。

在地領主 (開発領主) である有力農民や郡司である豪族は国司の横暴から逃れるため、土地を院宮王臣家いんぐうおうしんけ (五位以上の公家。国司より地位が高い) のような有力貴族や寺社に寄進(土地を寄付して名目上譲る)し、自らは荘官として任命され荘園の運営を続ける寄進地系荘園きしんちけいしょうえんが拡がる。
※荘官:荘園領主から荘園の管理を任された者。年貢の徴収と荘園領主への納入を行う。

この結果、朝廷と繋がりのある有力貴族や寺社は租税免除が認められるため、朝廷の課税対象から外れる荘園が増加、国家財政の基盤が弱体化する。

寄進地系荘園は、免税特権である不輸・不入の権を背景に国司の支配から独立し、特に奈良の興福寺や摂関家のように全国に多数の荘園を持つ勢力は、莫大な経済基盤を築いて権力を維持するようになる。
※摂関家:摂政・関白を世襲した藤原北家 (藤原道長・藤原頼通など)

 

一方、朝廷は拡がる寄進地系荘園に対し自らの土地である公領を、国司が有力百姓で田地経営を行う田堵たとや在地領主を、郡司・郷司・保司などの在庁官人 (地方行政官) に任命させて直接支配する。※田堵の中で大規模な経営を行う者を大名田堵という
(荘園と公領が並立する荘園公領制となる)

 

この頃、受領国司は反乱や海賊に対応するため、国衙のもとに豪族や有力農民を動員して軍事組織とする。(国衙軍制)
また地方に居住した貴族層(院宮王臣家の家人)が、院宮王臣家の権威を背景として国司並みに権力を持ち武装集団を形成、武士が登場する。
※在地領主が自らの土地を警備するため武装して武士が登場した説は、単に武装化であり身分としての武士ではないため近年では否定されている。

 

荘園制度の弱体化と守護の権力拡大

1185年、鎌倉時代に入ると、幕府は諸国へ守護・地頭職の設置を行う。
守護は京都の治安維持、罪人の取り締まり、各地の武士の統制など、幕府の地方軍事官としての任務が与えられる。

荘園には徴税権のある地頭じとうを配置する。
※地頭:在地御家人から選ばれる。荘園の管理支配と治安維持が任務。

しかし地頭の年貢滞納や横領により荘園領主との対立が起きるようになると、荘園領主は荘園の支配を地頭に任せ、代わりに一定額の年貢納入を請け負わせる地頭請じとううけが行われるようになる。

 

室町時代に入ると、室町幕府は守護に半済はんぜい(年貢半分の徴収権)を認めたことで、守護による荘園・国衙領への介入が徐々に拡大し、国の実質的な支配権を強めていくようになる。
また14世紀末頃には守護職はそれまでの任期制ではなくなり、世襲化が進むようになる。

荘園領主は守護の権限が強まったことで、(鎌倉時代の地頭請ように)守護に年貢納入を請け負わせる守護請しゅごうけを結ぶこととなる。
このように室町時代の守護は一国全体の支配力を得たことで守護大名と呼ばれ、国単位の統治を行う守護領国制しゅごりょうごくせいが形成される。

有力守護大名としては足利一門の斯波氏しばし・細川氏・畠山氏・今川氏、また山名氏、大内氏、上杉氏、伊達氏、島津氏などがある。(国司は形式上の官職となる)

 

荘園の衰退と令制国の形骸化

室町時代後期の応仁の乱以降、戦乱を収められなかった幕府の権威は低下する。在京していた各国の守護も、守護代に任せて不安定となっていた領国経営の立て直しを図るため帰国する。
帰国した守護は国人を引き入れて軍事支配を強化。荘園領主はこれに対抗できず、年貢の徴収権を奪われ荘園は徐々に衰退していく。

それまで財源不足に苦しんでいた朝廷は幕府の財政支援を受けていたが、その支援も途絶え、大名や寺社からの献金に頼るようになり、幕府・朝廷の両方が権力を失っていくようになる。

 

明応7年 (1498年) 、伊勢宗瑞いせそうずい (早雲) が伊豆国を平定して領国化する。伊勢宗瑞は守護任命によらず自力で領国を支配した最初の戦国大名となる。

その後も次々と戦国大名や国人が武力によって地域を領国化し、直接支配するようになる。
そのため令制国は行政区分としての役割が消滅、地理的区分として使われるようになる。

江戸時代、第3代将軍 徳川家光の頃に幕藩体制が確立。
中央集権的な幕府と、一定の自治権を認められた地方分権的な藩が共存する統治体制となる。
藩の領地は令制国の境界とは関係がなく、令制国は地域名称として使用されるようになる。

 

 

明治時代以降の都道府県の歴史

1868年 (明治元年) 、明治政府が幕府の主要直轄地を10府(東京府、京都府、大阪府、神奈川府、奈良府、函館府、長崎府、新潟府、甲斐府、度会府)として設置。
その他の直轄地を県とし、残り274の藩はそのまま大名が統治する。

 

1869年1月(明治元年12月)、東北の令制国を再編、陸奥国と出羽国が分割される。

陸奥 → 陸奥むつ陸前りくぜん陸中りくちゅう岩代いわしろ磐城いわき
出羽 → 羽前うぜん羽後うご

東北令制国 陸奥と出羽が分割

 

1869年7月25日(明治2年6月17日)、明治政府が版籍奉還はんせきほうかんを実施。藩が所有していた土地と人民は朝廷に返上され、旧藩主274名は天皇より知藩事に任命される。

藩も国の行政区画になったことで、政府直轄の府・県とともに府藩県三治制の地方統治が行われる。また明治2年の太政官布告だじょうかんふこくにより、東京・大阪・京都のみを府とし、残りの府は県に変更される。
※太政官布告で制定されたものは他に明治5年の太陰太陽暦から太陽暦への改暦 (時刻制度も24時間制の定時法に変更) 、人身売買の禁止、明治12年の梟首刑(晒し首)廃止、明治13年の旧刑法廃止 (明治40年に現行の刑法が成立)、明治9年の夫婦別姓・明治31年の夫婦同姓などがある。なお明治18年の内閣制の発足により太政官制は廃止となる。

 

明治2年7月、蝦夷地に開拓使を設置。
明治2年8月15日、開拓判官の松浦武四郎は五畿七道における東海道、西海道、南海道等の名称を踏襲し、蝦夷地を北海道と命名する。
また北海道は令制国として道内11国と86郡が新設され、これにより広域行政区分は五畿八道となる。

道内11国:
渡島おしま後志しりべし胆振いぶり石狩いしかり天塩てしお
北見きたみ日高ひだか十勝とかち釧路くしろ根室ねむろ千島ちしま
※根室国は歯舞群島はぼまいぐんとう色丹島しこたんとうを含む。
※千島国は当初は国後島くなしりとう択捉島えとろふとうのみだったが、1876年 (明治9年) に択捉島より北の千島列島ちしまれっとう (現ロシア領) も加えられる。

北海道令制国 道内11国

※蝦夷地は室町時代に津軽安東氏あんどうしの渡党が渡島半島おしまはんとうの南端に渡り道南十二館を築き、アイヌと交流を行う。その後戦国時代に渡党の蠣崎氏かきざきしが勢力を拡大、安東氏から独立して豊臣秀吉から支配権を認められる。蠣崎氏は松前まつまえと改名、江戸時代には松前藩として渡島半島を治める。

 

 

1871年8月29日(明治4年7月14日)、明治政府が富国強兵ふこくきょうへいのため廃藩置県はいはんちけんを実施、藩を廃止して府や県に名称を変更、中央集権化を進める。
これにより全ての知藩事は失脚となり、東京より各県の長官として県令が派遣される。

廃藩置県により琉球国を一時的に鹿児島県に編入する。
※琉球は慶長14年 (1609年) に薩摩軍の侵攻を受け統治下に置かれる。しかし江戸幕府は大きな利益を得る朝貢貿易を継続させるため、琉球の自主性を認めて藩を設置せず、(独立国家としての)琉球国の名称を残していた。

これにより、1使(開拓使)3府(東京府・大阪府・京都府)302県となる。

1871年(明治4年)12月、第1次府県統合が行われ、北海道を除き3府72県となる。その後も府県統合は各地で進む。
北海道は館藩(旧松前藩)の旧領を除く全域が、道内11国から開拓使の所管となる。

1872年(明治5年)、琉球国を鹿児島県の管轄から外し琉球藩として設置。その後清の反発があったため軍隊を派遣し廃藩置県を断行する。

1872年(明治5年)、北海道全域が開拓使の所管となる。

※明治5年11月9日、太政官布告により明治5年12月2日 (1872年12月31日) をもって旧暦である太陰太陽暦 (当時は天保暦を使用) を廃止、明治6年1月1日(1873年1月1日)より新暦の太陽暦(グレゴリオ暦)を採用することを決定。
同時に時刻制度も不定時法から現行の24時間制の定時法に変更される。

旧暦・新暦についてはこちらで解説しています
戦国時代の暦 <太陰太陽暦(旧暦)>
不定時法についてはこちらで解説しています
戦国時代の時刻制度

 

1876年(明治9年)、第2次府県統合が行われる。県域拡大が行われ、北海道と琉球を除き3府35県となる。※一例としてこの統合で石川県は現在の福井県越前市から富山県までの広い範囲となる。
この政策は地域性に問題があるとして、各地で復活・分県運動が起きる。

1879年(明治12年)、清と交流を続ける琉球国王 尚泰しょうたいを東京へ連行する。琉球藩を廃止して沖縄県を設置する。(琉球処分)

1882年(明治15年)、北海道の開拓使を廃止、函館県・札幌県・根室県の3県が設置される。

1886年(明治19年)、北海道3県が統廃合され、北海道庁が設置される。

1888年(明治21年)12月3日、各地の分県運動により8県が復活、1庁3府43県(計47区分)となる。全国の統廃合が終了する。

 

1943年(昭和18年)、東京府から東京都へ変更。

1947年(昭和22年)、終戦後、地方自治法が施行され北海道庁から北海道へ変更。

1972年(昭和47年)、沖縄の本土復帰以降、現在の47都道府県(1都1道2府43県)となる。

 

明治時代以降、行政区分として都道府県が使用されるが令制国は公的に廃止されたわけではなく、その後も地理的・文化的な区分として名称が残っている。