1560年 – 64年 桶狭間の戦い
<織田家>
1560年以前の尾張国
尾張国は室町幕府足利一門の有力守護大名である斯波氏(武衛家)と、守護代(在京する守護に代わって任国を統治する代官)の織田大和守家(清須織田氏)・織田伊勢守家(岩倉織田氏)が統治していた。
しかし永正12(1515)年、斯波義達が遠江へ侵攻してきた今川氏親との戦いに敗れると斯波氏は弱体化し、織田大和守家に仕える清須三奉行の一つ弾正忠家の当主 織田信定(信長の祖父)が自治都市だった交易都市の津島や勝幡を支配して経済地盤を固める。
大永6(1526)年頃、織田信定の嫡男 信秀が家督を継ぎ勝幡城主となる。
天文3(1534)年5月、織田信秀に嫡男 吉法師(後の信長)が誕生する。※信長の出生地は勝幡城と那古野城の2つの説があるが近年の有力説は勝幡城)
天文7(1538)年頃、織田信秀が那古野城(城主 今川氏豊)を奪い、勢力を拡大する。
天文9(1540)年、織田信秀が西三河の安祥城を占領、城主に織田信広(織田信長の異母兄)を置く。信秀は三河の松平広忠(徳川家康の父。岡崎城主)や美濃の斎藤道三と勢力争いを続ける。
尾張国周辺の位置関係
※河川は明治時代古地図を基に作成、海岸線は江戸時代絵図を基にした推定図
※木曽川は1586(天正14)年8月の洪水以降の流路。洪水後に国境線となる
※鎌倉街道は当時の宿場とされる位置を結んだ推定経路
天文15(1546)年、古渡城で織田信秀の嫡男 吉法師が元服、信長と名乗る(13歳)。
天文16(1547)年9月、織田信秀が美濃 稲葉山城を攻撃するが、退却時に追撃され大敗する。信秀の弟 織田信康が討死となる。【信長公記】※【信長公記】には年次なし。天文13年説もあり。
天文17(1548)年、織田信秀が斎藤道三と和睦、条件として息子 信長と斎藤道三の娘 濃姫を婚約させる。※天文18年説もあり。
天文17年、織田信秀が小豆坂の戦いで今川方の太原雪斎に敗北する。
天文18(1549)年、今川軍の攻撃を受け三河国安祥城を失う。この時城主織田信広が太原雪斎に捕らえられ、人質としていた竹千代(後の徳川家康 6歳)と織田信広の間で人質交換が行われる。
天文19(1550)年、今川義元が大軍で知多半島へ侵攻。この頃、鳴海城の山口教継が今川へ協力することを伝える。
天文21(1552)年、織田信秀が死去(42歳)。織田信長(18歳)が家督を継ぎ那古野城主となる。※年は諸説あり ※信長の兄 信広・信時は側室の子(庶子)であるため信長が相続者となる
織田信秀の葬儀の際、信長は焼香を位牌に投げつける。 「信長が焼香にお立ちになる。その時の信長公の出で立ちは長柄の太刀、脇差を縄で巻き、髪は茶筅に立て、袴もお召しにならず、仏前に出て抹香をつかんで仏前へ投げ懸け、お帰りになった。…三郎信長公を例のごとく大うつけよ、とうわさし合った。」【信長公記】
鳴海城の山口教継が今川へ離反、鳴海城へ岡部元信ら今川家臣が入る。信長は山口教継を攻撃するが敗北する。
天文22(1553)年4月下旬、斎藤道三から申し出があり、富田の正徳寺で信長が斎藤道三と対面する。
天文23(1554)年、信長が昨年今川方が築いた知多半島の村木砦を攻撃、占領する。
天文23年、織田大和守家の織田信友が守護大名の斯波義統を殺害する(斯波義統は織田信秀を支援していたため敵対していた)。
天文23年、木下藤吉郎が信長に直訴、小者として仕える。【太閤記】
弘治1(1555)年、信長は叔父の織田信光と協力し、織田信友を殺害、清須城へ入る。信長は斯波義銀(義統の子)を尾張守護とする。
弘治1年8月、今川軍が海路から蟹江城を攻撃。美濃で斎藤義龍が父 道三に挙兵。
弘治2(1556)年、長良川の戦いで斎藤道三が義龍に敗北、戦死する(63歳)。斎藤義龍と組んだ織田伊勢守家が信長に敵対。また信長の弟 織田信行(信勝)が挙兵、信長の重臣 林秀貞も離反して信行につく。
弘治2年8月、信長が稲生の戦いで信行に勝利、信行と林秀貞を赦免する。
弘治3(1557)年11月、信長の病気の見舞いに清須城を訪れた信行を、信長が河尻秀隆に命じて暗殺する。
永禄1(1558)年、信長に二男 信雄、三男 信孝が誕生する。
永禄1年、浮野の戦いで織田伊勢守家の織田信賢に勝利。
永禄1年、尾張北東部の今川領松平氏の品野城を攻撃するが敗北。
永禄2(1559)年、尾張守護の斯波義銀が三河国の吉良義昭や今川家と手を結び、信長の追放を画策する。しかし信長に発覚、信長は斯波義銀を追放し、斯波武衛家は滅亡する。※永禄4年説もあり
永禄2年2月2日、信長が80名ほどの家来を連れて上洛、将軍足利義輝に謁見する。(尾張をほぼ制圧したことで権威を得るため、守護職を求めることが目的だった)
この時信長暗殺を企てる美濃衆30名が派遣されていたが、先に偵察に来ていた丹羽兵藏が暗殺団を発見、信長に報告する。信長は暗殺団の宿に金森長近を送り、自分のところへ挨拶に来るようにと命じる。翌日信長は暗殺団に会い、威嚇して事なきを得る。【信長公記】
永禄2年3月、岩倉城の戦いで織田信賢に勝利。織田信賢を追放処分とする。
これにより信長が鳴海、品野を除き尾張国の大半を平定する。
永禄2年3月、今川義元が七ヶ条の軍令を発布する。
永禄2年、織田家臣の前田利家が信長側近と争いを起こし斬殺、織田家を出奔する。
永禄2年、山口教継の調略により沓掛城・大高城が今川方となる。今川義元は鳴海城に岡部元信、大高城に朝比奈輝勝を配置。山口教継と子 教吉は駿河に呼び出され、切腹となる。
永禄2年、信長は鳴海城の周囲に丸根砦・鷲津砦・善照寺砦・丹下砦・中島砦を築いて兵を配置、包囲する。
今川義元は大高城へ兵糧補給を行い、鵜殿長照を入れ大高城主とする。
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永禄3年(1560年)
桶狭間の戦い
永禄3(1560)年5月12日、今川義元が大軍を率いて駿府城を出陣、尾張へ向かう。
5月17日、今川義元が進軍、尾張国沓掛城へ入る。
5月18日夜、義元は織田軍が包囲している大高城救援のため、松平元康に兵糧を運び入れさせる。
5月19日明け方、松平元康が丸根砦(城主 佐久間盛重)を攻撃、朝比奈泰朝が鷲津砦(城主 織田秀敏、飯尾定宗・尚清)を攻撃して占領する。
この報せを聞いた織田信長は「敦盛」の舞を舞い、清洲城を出陣、善照寺砦へ入る。
5月19日正午頃、沓掛城を出た今川義元は桶狭間山で休息を取る。
信長は中島砦へ進軍、さらに出陣したところ大雨となる。
雨が上がると信長は今川軍に急襲、この攻撃により今川義元は討ち死、織田軍の勝利となる。
桶狭間の戦い 進軍ルート
※正面ルート説の義元本陣は高徳院、迂回ルート説の義元本陣は田楽坪
※今川義元本陣は他に漆山、高根山、64.9m高地(田楽坪の東側)などの説がある
※【松平記】【家忠日記増補追加】では善照寺砦で二手に分かれる
※河川は明治時代古地図を基に作成、海岸線は江戸時代絵図を基にした推定図
【信長公記(町田本) 首巻 今川義元討死の事】(現代語訳) 「永禄三年五月十七日 (織田の)援軍が来ないように、十九日朝、潮の干満を考え砦を襲うのは必定と聞いたことを、十八日夕刻に(丸根砦を守る)佐久間大学(盛重)、(鷲津砦を守る)織田玄蕃(秀敏)から(清洲城の信長へ)注進申し上げた。 その夜の話には軍の手立ては少しも無く、世間の雑談だけをして、すでに夜が更けたので帰宅せよと解散された。家老衆が申すには"運の末には知恵の鏡も曇るとはこの事だ"とそれぞれ嘲弄して帰った。 予想通り夜明け方(5時頃)に、佐久間大学・織田玄蕃から早くも鷲津山・丸根山へ敵の軍勢が攻めかけたと、次々に注進が入る。この時、信長は敦盛を舞われた。 "人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか " と唄い、"法螺(ほら)をふけ、具足をよこせ"と仰せられ、鎧を身につけ、立ちながら食事をとると、兜を被り出陣なさる。 その時のお供には小姓衆、岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎、これら主従六騎、熱田まで三里を一気に駆けられた。
辰の刻(6~8時半 ※夏至の時刻)に源大夫殿宮の前で東をご覧になると鷲津・丸根砦が落ちたと思われ、煙が上がっていた。 御敵今川義元は四万五千を率い、おけはざま山に人馬を休息させていた。 永禄三年五月十九日 この度家康(松平元康19歳)は朱武者(あかむしゃ)として先鋒を任され、大高城へ兵糧を入れ、鷲津・丸根砦で手を砕き、苦労されたことにより、人馬の休息のため大高城に居陣していた。 信長が善照寺砦にお出になったのを見て、佐々隼人正(佐々政次。佐々成政の長兄)・千秋四郎の両名は兵三百余名で義元へ向かって足軽で攻めかかると、敵はどうとかかり来て、槍にて千秋四郎、佐々隼人正をはじめとして五十名ほどが討死する。
信長はご覧になって中島砦へ移ろうとするのを、"脇は深田で一騎ずつしか通れない道です。少数の様が敵方からはっきり見えてしまい、不都合です。"と家老衆が馬の轡(くつわ)の引手を取りつき口々に申したが、信長は振り切って中島砦へ移られた。 中島砦からまた軍勢を出される。今度は無理にすがり付き止めるよう申したが、この御諚をそれぞれよく聞くようにと言い、 "あの武者は宵に食事をして夜通し来て、大高に兵糧を入れ鷲津・丸根にて手を砕き苦労し、疲れた武者である。こちらは新手である。それに加え、『小軍なりとも大敵を怖るるなかれ、運は天にあり。』この言葉を知らぬか。 と御諚を伝えるところへ、前田利家、毛利河内、毛利十郎、木下雅楽助、中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人がそれぞれ手に討ち取った首を持って参上した。
先の趣旨を一つ一つ仰せ聞かれ、山際まで軍勢を寄せられたところ、にわかに急な雨が降り、石氷を投げ打つ様に敵の輔(つら)に打ち付け、味方は後方に降りかかる。沓掛峠の松の本にある二抱え三抱えもある楠の木が雨で東へ降り倒れた。余りの事に熱田明神の神軍かと皆が申した。 空が晴れるのをご覧になり、信長は槍を立てて大声を上げ、"さあ、かかれ、かかれ"と仰せられ、黒煙を立ててかかるのを見て敵は水を撒き散らしたように後ろへくわっと崩れた。弓・槍・鉄砲・のぼり・旗指物を乱したのと同じく、今川義元の塗輿も捨て、崩れ逃れた。 永禄三年五月十九日 初めは三百余名の兵が真丸となって義元を囲んで退くが、二、三度、四、五度、返し合い戦い、次第に無人になり後には五十名ほどになった。 乱戦といえども、敵味方の武者の色が紛れることはなかった。ここにおいて馬廻、小姓ら歴々衆の手負いや死人の数はわからないほどだった。 服部小平太が義元にかかり合うも、(小平太は)膝の口を切られ倒れ伏した。毛利新介が義元を討ち伏せ、首を取った。 運の尽きた証拠に、おけはざまという所は谷間が入り組み深田があり、高く低く茂みが覆い、難所ということ限りなし。深田へ逃れた者は這いずり廻るところを若武者が追いついて討たれ、二つ三つ手に首を持ち信長の御前へ参った。
首はいずれも清洲にて首実検と仰せられ、信長は義元の首を見て満足気に、元の来た道を帰陣された。 (中略) (中略)
※【甫庵信長記】桶狭間の戦い (小瀬甫庵・1612年)(別ページ) ※【甲陽軍鑑】(1621年頃)「桶狭間にて二万の人数備え無し、…義元衆乱取り仕るに、方便、三河の方へ廻り、東より切り掛かる」 ※【日本中古治乱記】(秀吉の執筆 山中長俊・1602年、または寛永以降とも)「桶狭間の内、田楽坪という所にて弁当を遣い」 ※【老人雑話】(江村専斎 ~1664年) 「信長五十騎にて、今川義元の四万の軍隊を鳴海にて敗り、義元の首を取ったのは河尻秀隆という者である。後に信濃にて死す。この時信長は清洲にいて、舞を踊り、先手から来た文箱も開けないので、皆戦は負けるだろうと思っていた。 信長は馬を出して熱田の神宮前でまどろむ。(中略) さて大雨が降る中、馬を進める。轡を抑えて諌める者もいた。(中略)義元は茶道具で茶をするところへ、急に討ってかかり勝利を得た。この時義元の軍勢四万は七陣の備えをしていたが、間道より本陣へ襲いかかったので、七陣の備えも虚しくなったということだ。」 ※【松平記】(阿部定次・成立年不詳) 信長急に攻め来て笠寺の東の道を押し出て善照寺の城より兵を二手に分け一方を先手衆に、一方を油断している本陣へ向かわせる。鉄砲を打掛けると、味方は思いもよらない事で騒ぐ処へ、山の上より服部小平太ら百余名が突撃して下る」 ※【家忠日記増補追加】(松平忠冬・1665年) 永禄三年、…十七日、今川義元四万騎を率い池鯉鮒に至る。十八日、家康が丸根に向かい攻撃、…佐久間大学遂に利を失い戦死。家康が大高城に移る。十九日夜明け、義元の軍勢が鷲津の城を攻撃、…鷲津丸根両城を落とし鳴海桶狭間に至る。 近辺の下人が酒肴を用意、義元は諸卒を招き酒宴をひらく。信長は三千名で清洲より笠寺の東の道を経て、善照寺の辺りより兵を二隊に分け、旗を巻いて隠れ義元が陣する後の山に廻りて時を窺う。…信長旗を掲げ急に攻撃、義元の軍は狼狽し離散する。」 ※【桶峽合戦記】(山澄英龍・1690年) 義元本陣は「桶狭間の北の松原」 ※【日本戦史 桶狭間役】(旧陸軍参謀本部・1899年) 梁田政綱はすぐに信長に勧めて言うには、「東軍は両砦を陥れ、必ずおごりて備えていないでしょう。今兵を潜めて不意に出て攻撃すれば義元を獲れます」。信長はこれを良しとして、若干兵をここに残し二千を率いて迂路を取り、丘陵に隠れて義元の本陣へ向かう。 義元は沓掛から大高へ向かい丸根鷲津の勝利を聞き、桶狭間の北方即ち田楽狭間にて休憩、鷲津の撃退と佐々政次の首を見て大喜び、家臣が酒肴を差し出し警備を怠った。午後二時頃太子ヶ根を下り直ちに敵営を衝き縦横に突進する。」(一部要約) ※史料別今川軍兵数:【信長公記】45,000、【家忠日記増補追加】・【徳川実紀】40,000余、【北条五代記】25,000、【甲陽軍鑑】20,000余、【足利季世記】10,000 |
桶狭間の戦いで今川家は主君の義元だけでなく、由比正信・一宮宗是・松井宗信・井伊直盛(井伊直虎の父)ら多くの重臣や国衆当主を失い国力が弱体化する。
永禄4年(1561年)
4月3日、織田信長が西三河へ侵攻。今川方の梅ヶ坪城(三宅氏)を攻撃する。 また伊保城、矢久佐(八草)城、加治屋村などを攻撃する。【信長公記】
5月、信長が西三河へ侵攻、今川方の拳母城を攻撃、中條氏を滅ぼす。
5月11日、美濃斎藤家で斎藤義龍が病死(35歳)、嫡男龍興(13歳)が家督を継ぐ。
5月14日、信長が兵1,500で美濃へ侵攻、長良川を渡り森部村で斎藤龍興の軍6,000と交戦、勝利する。
この戦いで前田利家が戦に参加、斎藤家の猛将2名を討ち取り、信長から帰参が許される。(桶狭間での戦功は認められていなかった)
6月、信長が美濃へ侵攻、大垣まで侵攻して黒俣砦を占領する。
斎藤軍が黒俣砦へ進軍、信長は交戦するが一度退却する。再度交戦し、池田恒興・佐々成政の活躍により織田軍が勝利する。
永禄4年頃、三河の松平元康(徳川家康)と清須同盟を結ぶ。
※【松平記】には「永禄3年から4年の間、刈谷衆と岡崎衆が争うところ、信長より(家康の伯父)水野信元をもって元康と和談の扱いとなり互いに起請文を交わした」と記載。
※【武家事紀】には「同(永禄)4年、今川氏真に背き、織田信長と和睦」と記載。
※【三河物語】には「拳母城・梅ヶ坪城・緒川城と交戦を続けた後、信長と和議を結び」と記載。
※【三河後風土記】には桶狭間の戦い後、信長は元康と和睦するため水野信元を使者として送るが元康は拒否する。その後度々水野信元を送り、永禄4年の秋に誓紙を交わした、と記載。
※清須城で同盟が締結される話は【信長公記】などその他古い史料に記載はない。家康が清須城を訪問する話は【武徳編年集成】(元文5年(1740年)成立)や【徳川実紀】(天保14年(1844年)成立)に記載。
永禄5年(1562年)
6月下旬、犬山城の織田信清(信長の従兄弟)が斎藤方についたため、信長は信清の家臣が守る小口城を攻撃する。この戦いで信長小姓衆の岩室長門守(岩室重休)が討死する。【信長公記】
永禄6年(1563年)
3月、信長の長女 徳姫(五徳)と松平元康の嫡男 信康の婚姻が約束される。(二人とも5歳)(徳姫の輿入れは永禄10年(1567年))
永禄6年、信長が美濃新加納へ侵攻するも敗北。
永禄6年、美濃侵攻に備えて小牧山城を築城。信長が居城を清須城から小牧山城へ移す。
永禄7年(1564年)
2月、斎藤家臣の竹中半兵衛・安藤守就が謀反、稲葉山城に兵を入れ城を占拠する。
半年間の占拠後、齋藤龍興へ城を返還。竹中半兵衛は斎藤家を離れる。
8月、信長が犬山城の織田信清を攻撃、犬山城を占領。信清は甲斐へ逃亡する。
11月、信長が越後の上杉輝虎へ書状を送り、息子を養子として上杉家へ同盟を求める。(この交渉は破談となる)【直江景綱宛書状 11月7日付】
永禄7年、丹羽長秀が加治田城主の佐藤忠能を調略、また犬山城の重臣を調略し味方につける。
永禄7年、信長の妹 お市が浅井長政の正室となる。【浅井三代記】※1565年、1567年説も有り。
<徳川・松平家>
三河国周辺地図
※海岸線や浜名湖の地形は明治時代古地図、江戸期の絵図を基に作成
1559年までの三河国
天文12(1543)年頃、三河 刈谷城を居城とする今川方の水野氏は水野信元が家督を継ぐ。(水野信元は岡崎城主 松平広忠の妻 於大の方の兄) しかし水野信元は今川を離反、織田方につく。
天文16(1547)年、尾張の織田信秀が三河へ侵攻、今川方の岡崎城(城主 松平広忠)の周囲に砦を築く。
松平広忠は今川義元へ援軍を要請すると、義元より息子の竹千代(家康 6歳)を人質に出すよう命じられる。広忠は竹千代を送るが、迎えの戸田康光が裏切り、竹千代は永禄銭千貫で織田家へ売られてしまう。【三河物語】
竹千代は尾張国熱田羽城(加藤順盛屋敷)で2年間留め置かれる。
※近年の研究では、越後本成寺 僧侶日覚の手紙で「岡崎は弾江かう参(降参)の分にてからからの命にて候」(年次比定天文16年9月)とあり、 また天文17年3月11日付 織田信秀宛北条氏康書状に「岡崎の城、其の国より相押さえ候」との一文があることから、竹千代は織田信秀に敗れた松平広忠が人質として織田家へ出したと考えられている。 その場合、松平広忠がいつ再度今川方に戻ったかは不明。
天文17(1548)年3月19日、小豆坂の戦い。 松平広忠の援軍要請により、今川より太原雪斎 朝比奈泰能(兵数10,000)が三河へ到着。これを聞いた織田信秀(兵数4,000)が三河へ進軍、岡崎城の南東にある小豆坂で両軍が交戦となる。 戦いは今川・松平軍の勝利となる。 ※小豆坂の戦いは【松平記】【家忠日記増補】では天文17年、【武徳大成記】では天文17年と天文11年とあり、諸説分かれている。
天文18(1549)年3月6日、松平広忠が家臣の岩松八弥の謀反により殺害される(24歳)。※死因は病死説もあり
天文18年11月、今川軍の太原雪斎が天文9年より織田に奪われていた三河国の安祥城を攻撃、城主織田信広(織田信長の異母兄)を捕らえる。
雪斎は捕らえた織田信広と竹千代の人質交換を提案、織田方が受け入れ竹千代は今川方へ戻る。その後竹千代は駿府へ移される。
弘治1(1555)年、竹千代(14歳)が元服して義元の一字を賜り、松平元信と名を改める。
弘治2(1556)年1月、松平元信(15歳)が義元の姪である築山殿(父の関口親永(氏純)は今川家御一家衆)を正室に迎える。※築山殿が義元の姪と記載したのは【松平記】
永禄1(1558)年4月、松平元信が織田へ寝返った西三河の寺部城(城主 鈴木重辰)を攻撃、勝利する。(家康の初陣となる)
義元が元信家臣の足立右馬助へ寺部城合戦や弟の討死について感状を送る。【今川義元感状】
永禄2(1559)年頃、元信が松平元康と名を改める。
1559年4月、松平元康に嫡男信康(幼名は家康と同じ竹千代)が誕生する。
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永禄3(1560)年5月、桶狭間の戦いで松平元康が先鋒を務める。元康は大高城(城主 鵜殿長照)へ兵糧を運び入れ、丸根砦(城主 佐久間盛重)を攻撃、占領する。
合戦後、敗れた今川勢は岡崎城、知立城、重原城から撤退。松平元康は空城となった生誕の地、岡崎城へ入る。(この時元康19歳)
鳴海城にいた岡部元信は信長に降伏して城を明け渡し、駿河へ戻る際に織田領の刈谷城を攻撃、刈谷城主水野信近を討ち取る。(その後刈谷城は信近の兄 水野信元(元康の伯父)が奪還する。)
桶狭間の戦い後、織田軍が占領した沓掛城を攻撃。
さらに敵対関係の水野信元の緒川城へ進軍、石ヶ瀬で合戦となり勝利する。
永禄3年、松平元康に長女亀姫が誕生する。
永禄4(1561)年、松平元康が今川家から独立する。人質の築山殿と信康は駿府に残される。
※当時は上杉景虎による関東出兵が行われ、永禄4(1561)年3月には北条家の小田原城を攻撃しており、北条と同盟関係にあった今川家は北条家を支援する必要があった。そのため今川家による西三河衆への支援が弱まり、元康は独立したと考えられている。
元康は西三河の今川方広瀬城、挙母城、梅ヶ坪城などを攻撃する。【三河物語】
4月3日、織田信長が西三河へ侵攻。今川方の梅ヶ坪城、伊保城、矢久佐(八草)城、加治屋などを攻撃する。【信長公記】
4月11日、松平元康が今川方の諸城へ攻撃を開始、牛久保城を攻撃するが敗退する。(今川氏真はこの攻撃により元康が逆心したと家臣へ伝えている)
5月、織田信長が西三河へ侵攻、今川方の拳母城を攻撃する。
5月、元康が吉良氏の西尾城を攻撃、占領する。城主に酒井正親を置く。
7月、桶狭間の戦い以降松平家へ帰属していた野田城(城主 菅沼定盈)が今川の攻撃を受け、占領される。
9月、東条城を攻撃、占領する。城主吉良義昭を岡崎城へ移す。
永禄4年、交戦を続けていた沓掛城の城主織田玄蕃(秀敏)と和睦する。
永禄4(1561)年頃、織田信長と清須同盟を結ぶ。
※【松平記】には「永禄3年から4年の間、刈谷衆と岡崎衆が争うところ、信長より(家康の伯父)水野信元をもって元康と和談の扱いとなり互いに起請文を交わした」と記載。
※【武家事紀】には「同(永禄)4年、今川氏真に背き、織田信長と和睦」と記載。
※【三河物語】には「拳母城・梅ヶ坪城・緒川城と交戦を続けた後、信長と和議を結び」と記載。
※【三河後風土記】には桶狭間の戦い後、信長は元康と和睦するため水野信元を使者として送るが元康は拒否する。その後度々水野信元を送り永禄4年の秋に誓紙を交わした、と記載。
※清須城で同盟が締結される話は【信長公記】などその他古い史料に記載はない。家康が清須城を訪問する話は【武徳編年集成】(元文5年(1740年)成立)や【徳川実紀】(天保14年(1844年)成立)に記載。
永禄5(1562)年2月、元康が上ノ郷城(西郡城)を攻撃、甲賀衆の活躍により城を攻略。城主 鵜殿長照を討ち取り、長照の子 氏長・氏次生け捕りにする。 上ノ郷城主に松平康元を置く。
駿府にいる築山殿・信康・亀姫と、鵜殿長照の子 氏長・氏次との人質交換が成立。石川数正が今川氏真のもとへ交渉に向かい、築山殿・信康・亀姫を取り戻す。
3月、元康が信長と同盟を結んだことにより、築山殿の父 関口親永は今川氏真に切腹を言い渡される。【松平記】※その数年後に氏真による関口親永に関する書状があることから、処刑はされていないとの説あり。
6月、今川軍に城を奪われていた菅沼定盈が野田城を攻撃、奪還する。
6月、今川氏真が18,000の兵を率いて出陣、三河の牛久保城へ入る。(【三河後風土記】には元康と信長の同盟を聞いて怒った氏真が、岡崎征伐のため出陣したと記載。)
今川軍が牛久保城の北にある一宮砦(城主 本多信俊)を攻撃する。
元康は兵3,000にて出陣、敵陣を突破して一宮砦の本多信俊を救出して退却する。その後氏真も武田軍が駿河へ侵攻するとの噂を聞き、撤退する。【三河後風土記】
※【寛政重修諸家譜】は氏真の侵攻を永禄7年の出来事としている。
永禄6(1563)年3月、元康が牛久保城を攻撃、退却する。
3月、信康と織田信長の長女 徳姫(五徳)の婚姻が約束される。(二人とも5歳)(徳姫の輿入れは永禄10年(1567年))
7月、松平元康から松平家康へ改名する(22歳)。(徳川の姓を名乗るのは永禄9年12月29日)
三河一向一揆 永禄6(1563)年、西三河に地盤を置く一向宗と対立が深まり、一揆が勃発する。 「永禄五年に、本證寺の寺内に罪人がいたのを、西尾城主 酒井正親が押し込み罪を裁いたので、永禄六年正月に各地域の門徒衆が集まり、土呂・針崎・野寺・佐崎に取り籠り一揆を起こし、御敵となった。」【三河物語】※発端の原因は史料により異なる 三河三ヶ寺の本證寺・上宮寺・勝鬘寺は守護使不入(守護大名の介入を拒否する特権が与えられた領地。夫役・段銭の免除、罪人逮捕禁止などの特権がある)となっていたが、家康に特権を侵害されたとして全門徒が蜂起、西三河は内乱状態となる。 家康の家臣にも多数の一向宗門徒がおり、本多正信・本多正重兄弟、石川重康、夏目吉信らは一揆方、本多忠勝・石川数正らは家康方に残り各家でも派閥が分かれた。 西尾城(酒井正親)、深溝城(松平伊忠(深溝松平家 松平家忠の父))、竹之谷城(松平清善)、形原城(形原松平家の松平家忠)、土井城(本多広孝)などは家康方となる。
針崎、上和田など各地で戦闘が行われる。 永禄7(1564)年1月、馬頭原の合戦で勝利。一揆方の蜂屋貞次が降伏を申し出、和睦となる。 家康は降伏した蜂屋貞次ら家臣を赦免、寺院や道場を全て破壊し、僧侶は追放とした。本多正信も追放処分となる。 |
永禄6(1563)年12月、遠江 曳馬城(後の浜松城)の城主 飯尾連龍が今川から家康方へ離反、今川軍の攻撃を受ける。(その後飯尾連龍は今川氏真に呼び出され処刑される。)
永禄7(1564)年、中断していた三河平定を再開、東三河へ侵攻する。
6月、松平家康が吉田城を攻撃。(翌年に落城)
6月、田原城を攻撃、占領する。城主に本多広孝を置く。
9月、一揆に加担した上野上村城を攻撃、占領する。
10月、三河北部の足助城を攻撃、占領する。
<武田家>
1560年以前の武田家
天文10(1541)年、武田信虎が嫡男の晴信(信玄)や重臣らにより甲斐を追放され、武田晴信が武田家の当主となる。
天文11(1542)年6月、晴信が信濃 諏訪領へ侵攻。上原城を攻撃し、諏訪頼重を自害させる。 天文11年9月、諏訪領を二分していた高遠頼継と交戦、勝利する。これにより諏訪領を制圧する。
天文12(1543)年、晴信が信濃 長窪城を攻撃、占領する。
天文14(1545)年4月、武田軍が高遠城を攻撃、城主高遠頼継を降伏させる。 天文14年6月、福与城を攻撃、占領する。
天文16(1547)年、志賀城を攻撃、占領する。
天文16年、晴信は領国統治のため分国法「甲州法度次第」を制定、家臣に対する規律(喧嘩両成敗など)や百姓への納税など国の法律を定める。
天文17(1548)年2月、晴信が信濃小県領へ侵攻、葛尾城主 村上義清の軍と上田原で交戦する。武田軍は重臣の板垣信方、甘利虎泰を失い敗北、晴信自身も負傷する。
天文17年4月、信濃国守護の小笠原長時が村上義清らと諏訪へ侵攻。7月、晴信は甲府を出陣、上原城へ入る。7月19日夜明けに晴信は塩尻峠で陣を取る小笠原軍を急襲、勝利する。
天文19(1550)年、晴信が村上義清の支城である砥石城を攻撃、敗北する(砥石崩れ)。
天文20(1551)年、真田幸隆による調略で砥石城を攻略する。
天文21(1552)年11月、今川義元の娘 嶺松院と武田晴信の子義信が婚姻する。
天文22(1553)年1月、武田晴信の娘 黄梅院と北条氏康の子 氏政が婚約する起請文が交わされる。
天文22年4月、第一次川中島の戦い。北信国衆の要請を受け長尾景虎が信濃へ侵攻、荒砥城や虚空蔵山城を攻略する。武田軍は塩田城から反撃するが、小規模な戦闘に終わり両軍は撤退する。
天文22年、葛尾城の村上義清が城を捨て越後へ逃亡し、北信濃の国衆が降伏する。これにより北部を除く信濃の大半が武田の支配下となる。
天文23(1554)年7月、北条氏康の娘 早川殿と今川義元の子氏真が婚姻する。
12月、晴信の娘 黄梅院が北条氏政の元に嫁ぐ。これにより武田・今川・北条の三国が婚姻関係となり甲相駿三国同盟が成立する。
天文23年、佐久郡や伊那郡・木曽郡の反武田勢を押さえ、信濃南部を支配下に置く。
天文24(1555)年4月、第ニ次川中島の戦い。信濃国善光寺を巡り、武田軍と長尾軍が出陣、犀川を挟み両軍が約200日対峙する。今川義元の仲介により、閏10月に両軍は撤退する。
弘治3(1557)年、第三次川中島の戦い。晴信が善光寺の西北にある葛山城を攻略。長尾景虎は善光寺までの進出、緊張状態が続く。小規模な戦闘の後、将軍足利義輝より和睦の御内書が届き、両軍は撤退する。
永禄2(1559)年、晴信は長尾軍との戦いに備え、海津城(後の松代城)を山本勘助に命じて築城する。(翌年に完成) 永禄2年、永禄の飢饉が発生、甲斐国は大規模な水害に遭う。
永禄2年2月、武田晴信が出家、法名「徳栄軒信玄」を名乗る(39歳)。
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第四次川中島の戦い(八幡原の戦い) 永禄4(1561)年8月18日、上杉政虎(謙信)の出陣を受け、武田信玄(兵数17,000)が甲府を出陣する。 上杉軍が川中島へ進軍、妻女山(さいじょさん)に布陣する(兵数13,000)。(【甲越信戦録】では本隊から5,000の兵が善光寺に残る) 8月24日、武田軍が川中島へ到着、雨宮の渡しに布陣する。(【北越軍談】【武田三代記】などでは茶臼山山頂に布陣) 8月29日、武田軍は広瀬の渡しを越え、海津城(兵数3,000)に入る。 9月9日夜半、武田信玄は兵を二手に分ける作戦を実行。本隊(8,000)は千曲川を越え八幡原(はちまんばら)へ向かい、別働隊(高坂昌信・馬場信房 12,000)は妻女山へ夜襲を行う。 9月10日卯の刻(5~7時)、濃霧の中、本隊が広瀬の渡しを越え八幡原へ布陣する。そこへ上杉軍と遭遇、交戦となる。武田軍は劣勢となる。 上杉政虎が武田本陣へ斬り込み、馬上から武田信玄へ三太刀浴びせる。床几に座っていた信玄は軍配でこれを防ぐ。中間頭の原大隅守が槍で馬を突き、政虎は走り去る。 妻女山ではすでに上杉軍はおらず、別働隊は下山する。千曲川で上杉殿軍の甘粕景持が待ち受けており、交戦となる。 巳の刻(9~11時)、甘粕景持隊を突破した別働隊が八幡原へ進軍、上杉軍を攻撃する。背後から攻撃を受けた上杉軍は北の善光寺へ撤退を開始。 申の刻(15~17時)、合戦が終了する。
この戦いでの戦死者は上杉軍3,000、武田軍4,000。 合戦後、上杉政虎が撤退したことで川中島四郡は武田領となる。
【甲陽軍鑑】の川中島の戦いを開く
※【上杉家御年譜】では上杉軍は御幣川下流まで武田軍を押し込み、荒川伊豆守(長実)が信玄に斬りかかったと記載。 |
永禄4(1561)年11月24日、武田信玄が西上野へ侵攻。上杉方の国峰城を攻撃、占領する。
永禄5(1562)年9月、武田信玄が再度西上野へ侵攻、箕輪城・総社城・倉賀野城を攻撃。
永禄6(1563)年2月、武田軍が南下、北条軍とともに上杉方の松山城を攻撃、占領する。
10月、武田の真田幸隆が上杉方の上野 岩櫃城を攻撃、占領する。
永禄7(1564)年、武田軍が上野 安中氏の松井田城、安中城を攻撃、占領する。
6月、山県昌景が飛騨へ侵攻、江馬時盛と対立する息子 輝盛を攻撃。7月に輝盛を降伏させる。その後三木氏を攻撃する。
7月、山県昌景が武田義信の傅役(教育係)飯富虎昌と武田義信の密会を信玄に訴え、義信の謀反が発覚する。(永禄8年7月とも言われる)
8月、三木氏の救援に上杉方の河田長親が越中から侵攻。上杉軍の信濃侵攻の報せが入り武田軍は飛騨から撤退する。飛騨では江馬時盛が三木氏・輝盛と和睦、上杉方につく。
8月、第五次川中島の戦い。
武田の飛騨侵攻に対し、上杉輝虎が信濃へ侵攻。7月29日、善光寺へ入り、8月3日、川中島へ進軍する。
武田信玄も川中島方面へ進軍するが、塩崎城に入り籠城する。その後10月下旬まで対峙し、両軍は撤退する。
<北条家>
1560年以前の北条家
伊勢宗瑞(北条早雲)の跡を継いだ北条氏綱は、1538(天文7)年に第一次国府台合戦で小弓公方(足利義明)・里見連合軍に勝利。この戦いに嫡男 氏康も参戦する。 これにより後北条家は領土を伊豆国・相模国・武蔵国南部・下総の一部、上総の一部まで広げる。
古河公方の第4代公方足利晴氏より氏綱は関東管領に補任される。(正式な関東管領は山内上杉家)
天文8(1539)年、氏綱は娘の芳春院を足利晴氏に嫁がせ(正室ではなく妾)、北条家は足利氏の「御一家」となる。
天文10(1541)年7月17日、北条氏綱が死去(55歳)。嫡男の氏康が3代目当主となる。
北条家と対立する山内上杉家・扇谷上杉家は、駿河の今川義元(東駿河を北条に占領されていた)と組んで北条領に侵攻する。
天文14(1545)年8月、今川義元は東駿河にある北条の拠点 吉原城へ進軍する。武田晴信(信玄)も今川の援軍として進軍する。(第2次河東一乱) 氏康は急ぎ吉原城へ入るが、武田晴信の援軍を見て城から退却する。
※1537(天文6)年に武田・今川の甲駿同盟が結ばれたことで、北条家は今川家と対立していた
河越城の戦い 氏康は武田晴信の仲介により、東駿河の河東地域を譲渡することで義元と和睦。 氏康は兵8,000で扇谷上杉方の太田資顕を調略して河越城へ入り、半年間の籠城戦となる。 天文15(1546)年4月20日、氏康は偽りの降伏状を山内・扇谷軍へ送った後、4月20日に氏康は山内・扇谷の陣に夜襲をかける。 この奇襲により扇谷上杉当主の上杉朝定を討ち取り、山内・扇谷軍は敗走、北条軍の勝利となる。 |
天文19(1550)年、氏康は山内上杉家 上杉憲政の本拠 平井城を攻撃する。
天文20(1551)年12月、足利晴氏と和睦し、芳春院殿と御子 梅千代王丸(足利義氏)を葛西城へ移す。
天文21(1552)年3月、上杉憲政が平井城から撤退、北条が上野南部を支配下に置く。※上杉憲政は上野国内で抵抗を続けるが1558年に越後を頼る。
天文21年11月、今川義元の娘 嶺松院と武田晴信の子義信が婚姻。
天文21年12月、氏康が足利晴氏に圧力をかけ、足利晴氏の嫡子 足利藤氏を廃嫡させ、芳春院殿を正室とし梅千代王丸(足利義氏)を第5代古河公方とさせる。
天文23(1554)年7月、氏康の娘 早川殿と今川義元の嫡男 氏真が婚姻。 (以前より早川殿と氏真の婚姻は約束されていたが、早川殿が幼少のため代わりとして北条氏規(氏政の弟)が人質として駿河へ送られていた。)
天文23年8月、氏康が足利義氏の古河公方擁立に反対する足利晴氏と藤氏の古河城を攻撃。11月、晴氏と藤氏を捕らえ占領する。
天文23年12月、武田晴信の娘 黄梅院が氏康の子氏政の元へ嫁ぐ。これにより武田・今川・北条の三国が婚姻関係となり甲相駿三国同盟が成立する。
永禄1(1558)年、氏康は関宿城の古河公方家臣 簗田晴助へ、足利義氏との居城交換を提案。これにより足利義氏が関宿城へ入り公方府となる。
永禄2(1559)年、永禄の飢饉が発生する。氏康は徳政令(債権者の債権放棄)を施行する。
永禄2年、北条氏康が氏政へ家督を譲る。(実権は引き続き氏康が握る)
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永禄3(1560)年9月、長尾景虎(上杉謙信)が関東遠征を行う。厩橋城を拠点に関東七ヶ国から武将を集め(兵113,000)、また上杉憲政と関白の近衛前久を擁していた。
氏康は松山城に入るが小田原城へ撤退する。北条軍は小田原城、玉縄城、滝山城、河越城、江戸城で籠城を行う。
関東連合軍により古河城を奪われ、長尾景虎が擁立する足利藤氏が古河城に入り、古河公方となる。(以後古河城の入城、退去を繰り返す)
5月27日、足利晴氏が死去(53歳)。
永禄4(1561)年3月、小田原城の戦い。長尾景虎率いる関東連合軍に小田原城を包囲される。
4月3日、連合軍の一部が無断で撤退を開始。小田原城の包囲が解かれる。
その後上杉方についた諸城を取り戻す。
12月、北条軍が下野 唐沢山城(城主 佐野昌綱)を攻撃、佐野昌綱を降伏させる。
永禄5(1562)年2月、氏康が足利藤氏の古河城を攻撃、占領する。
永禄6(1563)年2月、北条・武田軍が上杉の松山城を攻撃、占領。以降北条の拠点として支配下に置く。
3月、上杉輝虎(上杉謙信)によって古河城に足利藤氏が復帰する。
9月、北条軍が古河城を攻撃、足利藤氏を捕える。足利藤氏は小田原へ送られる。
永禄6年、武蔵 深谷城を攻撃。深谷上杉氏の上杉憲盛を降す。
永禄7(1564)年1月、第ニ次国府台合戦。援軍の上杉軍到着前に短期決戦で里見軍を攻撃し、勝利。その後上総へ侵攻、久留里城を占領。西上総を支配下に置く。(久留里城は1566年に里見が奪還)
氏康は上杉方の武蔵 岩付城(城主 太田資正)を内紛に乗じて占領、嫡男 氏資を岩付城主とし、北条配下に治める。太田資正はその後佐竹氏を頼り配下となる。
4月、下野 小山城(別名 祗園城)、結城城を占領。
<上杉家>
1560年以前の上杉家
天文5(1536)年、春日山城 越後守護代の(三条長尾家)長尾為景が隠居。虎千代(上杉謙信)の兄・長尾晴景が家督を継ぐ。
天文11年12月、長尾為景が死去。
天文12(1543)年、長尾為景の四男 虎千代が元服、長尾景虎と名乗る(14歳)。
当時の越後長尾家は三条長尾家の他に古志長尾家、上田長尾家に分かれており、守護代の地位を争う。 長尾晴景は反守護代勢力や豪族と交戦を続ける。
天文17(1548)年、晴景に代わって景虎を守護代に擁立する動きがあり、越後守護 上杉定実の調停の下、景虎が家督を継ぎ越後守護代となる。(19歳)。
天文19(1550)年、越後守護の上杉定実が死去、後継者がいなかったため、景虎は将軍足利義輝より越後守護を任じられる。
天文19年、景虎の当主に反対した坂戸城主 長尾政景(上杉景勝の父)が反乱を起こすが、翌年、景虎が坂戸城を攻撃して長尾政景を降伏させる。(長尾政景は景虎の重臣となる) 反乱を鎮圧したことで越後の内乱は治まり、景虎は越後を統一する。
天文21(1552)年7月、長尾景虎は関東管領 上杉成悦の要請を受け関東へ進軍する。
天文22(1553)年4月、第一次川中島の戦い。 武田晴信の侵攻により北信国衆の要請を受けた長尾景虎が信濃へ侵攻、荒砥城や虚空蔵山城を攻略する。武田軍は塩田城から反撃するが、小規模な戦闘に終わり両軍は撤退する。
天文22年、長尾景虎が上洛。後奈良天皇と将軍足利義輝に拝謁する。
天文24(1555)年4月、第ニ次川中島の戦い。信濃国善光寺を巡り、武田軍と長尾軍が出陣、犀川を挟み両軍が約200日対峙する。今川義元の仲介により、閏10月に両軍は撤退する。
弘治3(1557)年、第三次川中島の戦い。武田晴信が善光寺の西北にある葛山城を攻略。長尾景虎は善光寺までの進出、緊張状態が続く。小規模な戦闘の後、将軍足利義輝より和睦の御内書が届き、両軍は撤退する。
永禄2(1559)年春、景虎が5,000の兵を率いて上洛。【細川家記】
正親町天皇と足利義輝に拝謁する。
道中は加賀の本願寺、越前の朝倉義景、近江の六角義秀(いずれも反三好勢力)からの支援があり、京へ入る。京では松永久秀らの訪問を受ける。
景虎は京で関白 近衛前久と血判状を交わし盟約を結ぶ。
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永禄3(1560)年4月、長尾景虎が越中の神保長職を攻撃、富山城を攻略する。
永禄3(1560)年8月~永禄4年6月、第一回関東遠征。 関東管領上杉憲政の要請受け、景虎が関東へ出陣する。
9月、越後から三国峠を越え、上野 沼田城、厩橋城、那波城、武蔵 忍城、羽生城を占領。
永禄4(1561)年1月、関東連合軍が武蔵国へ侵攻。
この頃、関東七ヶ国から諸将が集まり総勢113,000となる。
関東連合軍が古河城を占領。古河公方家臣の古河城主 簗田晴助や、連合軍に参戦していた関東管領上杉憲政、関白の近衛前久により足利藤氏を正式な古河公方として擁立する。(以後古河城は北条に奪われて奪還するのを繰り返す)
※古河公方擁立の争いは北条家を参照
近衛前久は越後や関東へ赴き、古河城に留まるなど2年間長尾景虎を支援する。
永禄4(1561)年3月、小田原城の戦い。
景虎が小田原城へ向け進軍。北条軍と交戦を続けながら、小田原城近くへ着陣する。3月下旬までに連合軍は小田原城を包囲する。 大きな戦闘になることなく北条氏康は籠城を続ける。
閏3月16日、景虎は小田原城から鎌倉へ移動、鶴岡八幡宮で上杉憲政から関東管領職を相続する。 また山内上杉家の名跡を継承し、長尾景虎から上杉政虎へ改名する。
4月3日、政虎が越後へ撤退したため連合軍も小田原城包囲を中止、撤退する。
政虎の撤退後は上杉方に降った武蔵国の諸城は北条方に戻る。
4月、政虎が越後へ帰還の途中で北条方の松山城を占領、上杉憲勝を城主に置く(永禄6(1563)年に北条軍の攻撃により降伏する)。
第四次川中島の戦い(八幡原の戦い) 永禄4(1561)年8月14日、上杉政虎(謙信)が出陣(兵数13,000)。 8月24日、武田信玄(兵数17,000)が川中島へ到着、雨宮の渡しに布陣する。(【北越軍談】【武田三代記】などでは茶臼山山頂に布陣) 8月29日、武田軍が広瀬の渡しを越え、海津城(兵数3,000)に入る。 9月9日夜半、武田軍の挟撃を察知した上杉政虎は妻女山を下り、雨宮の渡しを越え八幡原へ向かう。 9月10日卯の刻(5~7時)、濃霧の中、八幡原で武田信玄本隊と遭遇、交戦となる。武田軍は劣勢となる。 上杉政虎が武田本陣へ斬り込み、馬上から武田信玄へ三太刀浴びせる。床几に座っていた信玄は軍配でこれを防ぐ。武田の中間頭 原大隅守が槍で馬を突き、政虎は走り去る。 妻女山に向かった武田軍の別働隊が下山を開始、千曲川で殿軍の甘粕景持が防戦する。 巳の刻(9~11時)、甘粕景持隊を突破した武田軍が八幡原へ進軍、背後から攻撃を受ける。上杉政虎は北の善光寺へ撤退を開始。 申の刻(15~17時)、合戦が終了する。
この戦いでの戦死者は上杉軍3,000、武田軍4,000。 合戦後、上杉政虎が撤退したことで川中島四郡は武田領となる。
【甲陽軍鑑】の川中島の戦いを開く
※【上杉家御年譜】では上杉軍は御幣川下流まで武田軍を押し込み、荒川伊豆守が信玄に斬りかかったと記載。 |
1561(永禄4)年10月5日、古河城に入っていた近衛前久が上杉政虎へ書状送る。
晴信との一戦で大勝され八千余を討ち取られ喜ばしいこと、珍しい振る舞いではないが、ご自身が太刀打ちに及ばれたことは比類なき次第で、天下の名誉であること、また北条氏康が松山城に在陣しているので一刻も早く関東へ出陣してもらいたいと伝える。【上越市史 別編】
1561(永禄4)年11月~62年3月、第ニ回関東遠征。
上杉政虎が上野へ侵攻。館林城を占領、唐沢山城(城主 佐野昌綱)を2度攻撃するも落城できず。関東攻撃拠点の厩橋城に譜代 北条高広(きたじょうたかひろ)を配置する。
12月、将軍足利義輝から偏諱を与えられ(一字を与えられ)、上杉政虎から上杉輝虎へ改名する。
永禄5(1562)年2月、北条氏康が古河公方 足利藤氏の古河城を攻撃、占領される。
7月、10月、輝虎が越中国衆 神保長職を攻撃、勝利する。
永禄5(1562)年11月~永禄6(1563)年6月、第三回関東遠征。武蔵 騎西城、下野 小山城、上野 唐沢山城を占領する。
永禄6(1563)年2月、北条・武田軍が松山城(城主 上杉憲勝)を攻撃、占領。輝虎の松山城救援は間に合わず。以降松山城は北条の拠点となる。
3月、輝虎によって足利藤氏が古河城に復帰する。
9月、北条軍が古河城を攻撃、足利藤氏は捕らえられ小田原へ送られる。(これにより古河公方擁立の関東遠征という名目はなくなる)
10月、上杉方の椎名氏を攻撃する神保長職を攻撃。増山城を包囲し、神保長職を降伏させる。
長職は畠山義綱に仲介を依頼、畠山義綱は富山城を破棄させ、射水・婦負郡を安堵することとし、輝虎も同意する。
永禄6年12月~永禄7年4月、第四回関東遠征。常陸 小田城、下野 佐野城、上野 唐沢山城を占領する。
永禄7(1564)年6月、武田軍の山県昌景が飛騨へ侵攻、江馬時盛と対立する息子 輝盛を攻撃。7月に輝盛を降伏させる。その後三木氏を攻撃する。
8月、三木氏の救援に上杉方の河田長親が越中から侵攻。上杉軍の信濃侵攻の報せが入り武田軍は飛騨から撤退する。飛騨では江馬時盛が三木氏・輝盛と和睦、上杉方につく。
永禄7(1564)年8月、第五次川中島の戦い。
武田の飛騨侵攻に対し、上杉輝虎が信濃へ侵攻。7月29日、善光寺へ入り、8月3日、川中島へ進軍する。
武田信玄も川中島方面へ進軍するが、塩崎城に入り籠城する。その後10月下旬まで対峙し、両軍は撤退する。
永禄7年夏、家臣の上田長尾氏の当主、長尾政景が舟による事故で溺死する。輝虎は長尾政景の息子 喜平次(後の景勝。輝虎の甥)を引き取り養子にする。
また長尾政景の居城である坂戸城を直接支配する。
永禄7年10月~11月、第五回関東遠征。再び北条についた唐沢山城を占領する。
<三好家>
1560年以前の畿内(明応の政変~両細川の乱~三好長慶の畿内掌握まで)
畿内では明応2(1493)年、管領 細川政元(応仁の乱の際東軍を率いた細川勝元の子)と日野富子(室町幕府第8代将軍・足利義政の正室)による、第10代足利義材から第11代足利義澄への将軍の擁廃立事件が起きる。
応仁の乱以降も畠山氏は当主を巡って畠山政長(畠山尾州家、支配国:紀伊・越中)と畠山基家(義豊)(畠山総州家、支配国:河内・大和)(基家は畠山義就の次男)が争いを続ける。 明応2(1493)年2月、畠山政長は第10代足利義材(義尹/義稙)、幕府軍とともに畠山基家の籠る高屋城へ進軍、河内国正覚寺に着陣する。
一方、細川政元は畠山氏が再び統一して勢力が増すことを危惧し、先に畠山基家、赤松政則、伊勢貞宗、日野富子らと組んでおり、明応2年4月、細川政元は挙兵して将軍が留守となった京を制圧。 細川政元は足利義遐(義澄)(13歳)(義澄は堀越公方足利政知の子)を第11代将軍として擁立する。(明応の政変)
明応2(1493)年閏4月、細川政元は兵を出し、高屋城から畠山基家も加わって畠山政長・足利義材の籠る正覚寺を攻撃。畠山政長は敗北となり自害、足利義材は捕えられて幽閉される。 足利義材は小豆島へ流されるところだったが側近の手引きで脱出、畠山政長の領国である越中の神保長誠を頼る。
明応6(1497)年、畠山尚順(畠山政長の嫡男)が挙兵、高屋城を攻撃し畠山基家(義豊)を追い出す。明応8(1499)年には河内十七箇所の戦いで畠山基家(義豊)を討ち取る。
明応7(1498)年、越中の足利義尹(義稙)(義材から義尹へ改名)は畠山尚順の動きに同調し、朝倉家へ移り、翌明応8(1499)年、上洛を目指し南下するが、近江坂本で近江守護の六角高頼(細川政元と同盟関係)の奇襲に合い敗北、周防の大内義興を頼る。
(明応7(1498)年8月25日には南海トラフ沿いの東海道沖で巨大地震が発生、また明応8(1499)年には大飢饉が発生している)
永正4(1507)年、事実上の最高権力者となった管領 細川政元が、澄之・澄元・高国の3人の養子による家督争いにより、澄之派の被官 香西元長・薬師寺長忠に討たれる。(永正の錯乱)
香西元長・薬師寺長忠に擁立され、細川澄之が上洛して細川京兆家当主となる。しかしその40日後、細川高国が京都を攻撃、細川澄之は敗北して自害する。
細川高国は一族の細川政賢らと協議して阿波細川家の細川澄元を後継者とし、永正4(1507)年8月、澄元は将軍足利義澄に拝謁して細川京兆家当主となる。(澄元はまだ若年のため、阿波時代からの家宰 三好之長の立場が強くなる)
一方、周防国に逃れていた第10代将軍足利義尹(義稙)が大内義興に擁立されて上洛を開始、ここで三好之長を重用する細川澄元に不満があった細川高国が離反、大内方に寝返る。
永正5(1508)年、細川高国が大内義興とともに京都へ進軍すると、細川澄元は足利義澄と近江へ逃れる。高国は足利義尹(義稙)を将軍に復帰させて自身は細川家当主を継ぎ、管領となる。
永正6(1509)年、細川澄元・三好之長が再起を図るが細川高国に敗北する。(以降、天文元(1532)年まで両細川の乱が続く)
永正8(1511)年、足利義澄が病死。その後再び細川澄元・三好之長・赤松義村が蜂起するが細川高国・大内義興に敗北する。(船岡山合戦)
永正15(1518)年8月2日、尼子氏が大内領の石見国へ侵攻したため、大内義興が堺から帰国。10月5日に周防へ到着する。
永正17(1520)年には一時的に細川澄元が京都を奪い返すが、すぐに高国の反撃に合い等持院の戦いで敗北となり、三好之長は自害、澄元も帰国した阿波勝瑞城にて死去する。
大永1(1521)年、将軍足利義稙が細川高国と対立して出奔する。高国は後継者として足利義澄の子 亀王丸(11歳)が京へ入り朝廷から義晴の名を与えられ、足利義晴として第12代将軍に就任する。
大永7(1527)年、阿波で挙兵した三好元長(三好之長の嫡孫)が細川澄元の嫡男 晴元(14歳)を擁立して進軍、京を攻撃して高国政権を滅ぼす。細川高国と足利義晴は近江坂本へ退去する。 (その後足利義晴は幕府奉公衆である朽木氏を頼り近江高島郡朽木へ逃れ、さらに六角定頼を頼り観音寺城山麓にある桑実寺へ入る。)
細川晴元・三好元長は堺の顕本寺を拠点とし、足利義維(足利義澄の子)を将軍とする堺公方府(疑似幕府)を開く。 (この間、京は将軍と管領が不在となり、堺公方府は5年間続く。足利義維は上洛できず将軍宣下を受けられなかった。)
その後、三好元長は細川晴元と対立して自国の阿波へ撤退する。その間に高国は浦上村宗と組み摂津を制圧する。
享禄4(1531)年、細川晴元は三好元長と和睦し、赤松政祐を加えた連合軍で、細川高国・浦上村宗の連合軍に天王寺で勝利する(大物崩れ)。浦上村宗は討死、高国は捕えられ自害となる。 これにより細川家当主は細川晴元となる。しかし晴元が現将軍足利義晴と和睦したことで三好元長と対立する。
享禄5(1532)年、河内国では守護代の木沢長政が守護の畠山義堯(義宣)(畠山総州家)を討つ計画が発覚。畠山義堯は三好元長の援軍とともに木沢長政の籠る飯盛山城を包囲する。
これに対し細川晴元は大津顕証寺の蓮淳(一向宗)に依頼して一向一揆(兵100,000)を蜂起させ、飯盛山城を包囲する畠山義堯・三好元長(元長は法華宗徒で蓮淳と対立していた)を攻撃させる。(天文の錯乱) 畠山義堯は自害に追い込まれ、さらに一揆勢は堺の顕本寺へ退去した三好元長を攻撃、元長を自害させる。晴元は不和となっていた足利義維を捕らえ、堺公方府は消滅する。 (その後晴元は三好元長の嫡男・三好長慶と和睦し家臣に入れる)
※一向宗は長享2(1488)年の加賀一向一揆により加賀国守護の富樫政親を討ち加賀国を制圧(加賀は「百姓の持ちたる国」となる)。 その後京都の山科・大坂の石山に本願寺、伊勢の長島に願証寺を建立して拠点としていた。享禄4(1531)年には加賀国で内紛が起きている。(享禄の錯乱/大小一揆)
畠山義堯・三好元長を討った後も一向一揆は収まらず蜂起が続き、一向一揆は大和国の興福寺(法相宗)を攻撃、焼き討ちにする。 細川晴元は一向一揆を抑えるため対立宗派である法華宗(日蓮宗)に法華一揆を蜂起させ、また本願寺と対立する六角定頼を加えて山科本願寺を焼き討ちにして焼失させ、また大坂御坊、大津の顕証寺も攻撃する。(山科本願寺の証如は脱出して大坂御坊へ移り、石山本願寺として本拠とする)
その後も本願寺と晴元方の攻防が続くが、天文4(1535)年、本願寺は敗北となり細川晴元と和睦する。
天文5(1536)年、京都で広まっていた法華宗(日蓮宗)が、比叡山延暦寺(天台宗)と宗教問答を行い、法華宗が論破する。これに怒った比叡山延暦寺は六角定頼の協力を得て、兵60,000で京都の法華宗二十一本山を焼き討ちにする。(天文法華の乱) これにより下京は全て焼失、上京も3分の1が焼ける被害となる。
天文10(1541)年、細川晴元方の木沢長政が晴元と対立、離反するが翌年に三好長慶・三好政長に討ち取られる。(太平寺の戦い)
天文11(1542)年、足利義晴の次男、義輝の弟である千歳丸(足利義昭)が大和国の興福寺に入る。法名は覚慶と名乗り、一乗院門跡となる。
天文15(1546)年、細川氏綱(細川高国の養子)が遊佐長教(畠山尾州家の家臣)・大和国の筒井順昭(筒井順慶の父)らと挙兵、堺にいた三好長慶を越水城へ撤退させ、京を攻撃して細川晴元を丹波に逃亡させる。 しかし翌天文16(1547)年、細川晴元・三好長慶が反撃、摂津を平定し細川氏綱は敗北となる。
天文15(1546)年、足利義晴が将軍職を譲り、嫡男の義藤(義輝)(11歳)が第13代将軍となる。
天文18(1549)年、細川晴元に反旗を翻した三好長慶が、細川氏綱・遊佐長教と組み、再び敵対関係となった同族の三好政長と細川晴元に江口の戦いで勝利する。 晴元は足利義晴と義藤(義輝)を連れ、近江坂本へ避難する。(足利義晴は翌天文19年に病にて死去(40歳)。)
天文19(1550)年、三好長慶が細川氏綱を擁立し、京都へ入る。 三好長慶は細川晴元派の伊丹城(城主 伊丹親興)を降伏させ、摂津を平定。これにより細川政権は崩壊し三好家が政権を握る。
天文21(1552)年、六角氏の仲介で三好長慶と足利義藤(義輝)が和睦。足利義藤は京へ入り、三好長慶は将軍家家臣となる。管領職には細川氏綱が選ばれ、細川晴元は若狭へ逃亡する。
その後細川晴元と丹波八上城主 波多野元秀が三好長慶に対して兵を起こし、翌天文22年には足利義藤も晴元方につき、霊山城へ入る。 しかし三好長慶が大軍を率いて霊山城へ迫ると足利義藤は近江へ逃亡、以降は近江朽木に滞在する。(その後義藤は義輝へ改名する)
三好長慶は摂津 芥川山城を攻略、居城とする。
天文23(1554)年、石山本願寺の証如が死去(39歳)。本願寺は顕如(12歳)が継ぐ。
永禄1(1558)年6月、近江朽木に逃れていた足利義輝は六角義賢(承禎)の支援を得て細川晴元らと出陣。 京都奪還のため三好軍と交戦(北白川の戦い)するが、四国から三好康長、三好実休・安宅冬康・十河一存が上陸すると幕府軍の申し入れにより和睦となる。
これにより足利義輝は5年ぶりに帰京する。三好長慶は畿内を支配下に置き、幕府の実権を握る。
9月、四国では、讃岐へ勢力を広げた三好実休が西讃 守護代の香川之景の籠る天霧城を攻撃。香川之景は勝利するが、その後三好実休と和睦。讃岐国は三好家の支配下となる。
永禄2(1559)年、三好長慶、家臣の松永久秀が前年に畠山高政(紀伊・河内国守護、畠山尾州家)を追放した飯盛山城主 安見宗房を攻撃。
河内 高屋城、飯盛山城を占領、 畠山高政を高屋城に入れて河内守護に復帰させる。
松永久秀が大和へ侵攻、信貴山城を占領する。
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永禄3(1560)年、三好長慶と畠山高政が対立したため、長慶は河内 高屋城を攻撃して占領する。また畠山氏の大和国を松永久秀が攻撃を続ける。 (これにより、三好家の支配地域は摂津・山城・丹波・和泉・大和・河内・播磨・阿波・淡路・讃岐の10か国とその周辺国にまで及ぶ。)
永禄3年、松永久秀と三好長慶の嫡男 義興が将軍足利義輝の御供衆となる。 永禄3年、三好長慶が居城を芥川山城から飯盛山城へ移す。 永禄3年11月、松永久秀が居城を滝山城から信貴山城へ移す。
永禄4(1561)年、三好家に抵抗を続ける細川晴元が次男 細川晴之を当主とし、畠山・六角氏とともに挙兵させる。しかし三好軍の勝利となり、細川晴之は戦死する。
三好長慶は細川晴元を普門寺に幽閉する。
永禄4年3月、三好長慶の弟 十河一存(岸和田城主)が病死する(30歳)。 7月、細川晴元の幽閉を聞いた六角義賢が、畠山高政とともに三好長慶に挙兵する。
永禄4年7月、六角義賢(兵20,000)が京へ侵攻、神楽岡に着陣、将軍山城にも兵を入れる。 三好軍は芥川山城から三好義興、信貴山城から松永久秀が出陣、六角軍と対峙する。 11月、松永久秀が将軍山城を落とすが六角義賢との交戦に敗北、三好軍は退却する。
永禄5(1562)年3月5日、畠山高政・雑賀衆・根来衆が和泉国の久米田で三好実休(長慶の弟)と交戦。畠山軍の勝利となり、三好実休は討死にする。(久米田の戦い)
3月7日、畠山高政・六角義賢が洛中へ進軍、占拠する。 4月5日、畠山高政の軍が飯盛山城を包囲、三好の諸城を攻撃する。
5月、三好義興・松永久秀・三好康長・三好政康・三好長逸・安宅冬康・十河存保が飯盛山城の援軍として進軍。
5月19日、三好軍(兵60,000)と畠山軍(兵40,000)が教興寺畷付近で交戦。 三好軍が畠山高政に勝利、畠山高政は紀伊へ撤退する。(教興寺の戦い) 六角義賢は降伏、和睦となる。
永禄6(1563)年3月1日、細川晴元が幽閉されていた普門寺で病死(50歳)。長男の細川昭元が跡を継ぐ。
8月、三好長慶の嫡男 義興が病死する(22歳)。長慶は弟 十河一存の子である、重存(三好義継)を養子に迎える。 (重存は関白九条家(近衛家と対立)の血筋であり、重存の妻は室町幕府第12代将軍足利義晴の娘)
永禄7(1564)年5月9日、三好長慶が弟の安宅冬康を飯盛山城へ呼び出し、自害させる(37歳)。(【言継卿記】では逆心の疑いがあったとされるが、この頃長慶自身は鬱病を発症し病状が悪化していた)
7月、三好長慶が死去(43歳)。三好義継(16歳)が家督を継ぐ。
義継は若年のため、三好家の実権は三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と松永久秀が握る。
<毛利家>
天文24(1555)年10月1日、厳島の戦い。毛利元就が(兵数5,000)で陶晴賢(兵数30,000)を奇襲攻撃により壊滅させる。
永禄1(1558)年、吉川元春・小早川隆景が大友方の門司城を攻撃、占領する。その後攻防が続く。
永禄3(1560)年12月24日、尼子晴久が月山富田城で死去(47歳)。嫡男の義久が尼子家を継ぐ。
永禄4(1561)年10月、大友義鎮・立花道雪(戸次鑑連)・田原親堅・臼杵鑑速ら大友軍(兵数15,000)が門司城を攻撃。
毛利軍は毛利隆元・小早川隆景ら(兵数18,000)が援軍に向かう。小早川隆景は渡海して門司城に入る。
10月10日、26日と大友軍は攻撃を行うが、落城できず退却する。毛利軍は能島村上武吉率いる水軍が追撃を行い大勝する。
永禄4年、備中 三村氏を支援し、三村家親が尼子領の備中松山城を占領。
永禄5(1562)年、尼子氏が占領している石見銀山を奪う。
永禄6(1563)年8月、白鹿城を攻撃、9月に落城させる。
永禄6年9月、毛利元就の嫡男 毛利隆元(41歳)が陣中で急死(毒殺とも言われる)。この時隆元の嫡男 輝元は11歳だったため、元就が後見人として引き続き実権を握る。
永禄6年、大友宗麟が足利将軍家へ仲介を依頼、毛利・大友で和睦の調停が進められる。
永禄7(1564)年7月、毛利・大友で起請文を提出、和睦が成立する。 元就は講和条件として門司城・香春城を毛利方とさせる。
<長宗我部家>
永禄3(1560)年5月27日、長宗我部国親が本山氏の長浜城を攻撃する。翌日も長宗我部軍が勝利、本山茂辰は浦戸城へ退却する。(この戦いで嫡男 元親が初陣を飾る) しかし長宗我部国親が急病のため長宗我部軍は撤退する。
1560年6月15日、長宗我部国親が死去(57歳)。嫡男の元親(22歳)が家督を継ぐ。
永禄4(1561)年3月、長宗我部軍が本山氏の朝倉城を攻撃する。
永禄6(1563)年1月、本山茂辰は朝倉城を捨て本山城まで撤退する。
永禄7(1564)年4月、長宗我部軍の攻勢により本山茂辰は本山を放棄、瓜生野城で抗戦を続ける。長宗我部元親は土佐中部をほぼ制圧する。
<大友家>
永禄1(1558)年、小早川隆景が大友方の門司城を攻撃、占領する。その後攻防が続く。
永禄4(1561)年7月、大友軍が毛利が支配する香春岳城を攻撃、占領する。
永禄4年10月、大友義鎮・立花道雪(戸次鑑連)・田原親堅・臼杵鑑速ら大友軍(兵数15,000)が門司城を攻撃。
毛利軍は毛利隆元・小早川隆景ら(兵数18,000)が援軍に向かう。小早川隆景は渡海して門司城に入る。 10月10日、26日と大友軍は攻撃を行うが、落城できず退却する。
この戦いの後、大友義鎮は出家して宗麟と名乗る。
永禄6(1563)年、大友宗麟が足利将軍家へ仲介を依頼、大友・毛利で和睦の調停が進められる。
永禄7(1564)年7月、大友・毛利で起請文を提出、和睦が成立する。 毛利元就は講和条件として門司城・香春城を毛利方とし、以降毛利領となる。
<龍造寺家>
永禄2(1559)年、龍造寺隆信が少弐冬尚の勢福寺城を攻撃。少弐冬尚は自害、少弐家臣の江上武種は城を脱出する(その後龍造寺に降伏)。これにより少弐氏を滅亡させる。
龍造寺方の千葉胤連が千葉胤頼の千葉城を攻撃、胤頼は自害する。晴気城も占領する。
永禄4(1561)年9月、隆信が川上峡合戦で神代勝利(少弐家臣)に勝利する。神代勝利は三瀬城に戻る。
永禄5(1562)年、神代勝利と和睦。
永禄5年、大友宗麟が少弐氏再興を図り、有馬・大村氏・松浦党諸氏の連合軍が東肥前を攻撃する。隆信は千葉胤連と組み丹坂峠で有馬・大村軍に勝利する(丹坂峠の戦い)。
勝利した龍造寺軍が進軍、多久城を攻撃。多久氏を滅ぼす。
龍造寺軍が平井氏の須古城を攻撃するが敗退する。(永禄7年にも攻撃)
永禄7(1564)年、少弐政興が挙兵するが龍造寺隆信が攻撃、降伏させる。
真幸院へ侵攻。三ノ山城を占領する。
永禄5年頃、島津豊州家の飫肥城を攻撃、占領するが数ヶ月後に奪い返される。
<島津家>
天文24(1555)年、島津貴久、義久が帖佐城を攻略。
弘治3(1557)年、島津貴久、義久、義弘が蒲生城を攻略。蒲生氏を降伏させる。
永禄3(1560)年、貴久は次男 義弘を島津豊州家救援のため飫肥城(城主 島津忠親)へ送る。翌年帰国。
永禄4(1561)年、肝付兼続が伊東氏と結び島津を攻撃。島津軍は廻城の攻防戦で大敗し、島津貴久の弟忠将が討死する。
永禄5(1562)年、北原兼守の死去により、一族である新納忠元とともに北原領の横川城・栗野城を占領する。
永禄5年、肝付兼続が島津豊州家の志布志城を攻撃、占領する。
永禄5年頃、飫肥城が伊東氏の攻撃で占領されるが、数ヶ月後に奪い返す。
永禄7(1564)年、義弘を北原領 真幸院へ送り、飯野城を統治させる。