【甫庵信長記】桶狭間の戦い

【信長記】巻第一 「義元合戦事」(現代語訳)

「ここに今川義元は、天下へ切り上がり国家の邪路を正そうとして、数万人を率い、駿河国を出陣し遠江三河をも従え、ほしいままに猛威を振るっていた。

…義元は四万五千人の兵を率いて永禄三年五月十七日愛智郡沓掛に着いて、翌日十八日の夜に入り、大高城へ兵糧を入れ、ここにおいて軍評定を行い、翌朝は鷲津・丸根両城を攻め滅ぼすと定めた。

このことを(織田方の丸根砦を守る)佐久間大学(盛重)へ知らせる者がいて、”早々に準備されるのがよいでしょう”と密かに伝えると、”よく知らせてくれたものだ”と言って、使いに引き出物を渡して帰した。
このような時のために置かれた我ら也、今退けば一体何の用だったのか、と一足も退く考えはなかった。

かくして大学は飛脚でこのことを申し上げると、信長卿は急ぎ御内外様の人々を寄せ集めておっしゃるには、”今朝義元が知多郡まで出陣したと飛脚が来たので、明日逆寄せに押し寄せ合戦すべきと思うがいかがか “と言うと、

林佐渡守(秀貞)は進み出て、”義元は四万五千の到来だそうです。味方の軍勢はわずか三千を超えることはないでしょう。来鋭なればとりあえずこれを避けた後、この城の節所で引受けて合戦に及ばれるのがよろしいでしょう。”とはばからず申されると、…信長卿は国の境を越えて合戦すべしとの父の遺言に背けば天命が下ると言い、結局信長は明日合戦を果たすこととした。

家臣の者は賛同し計策を立てようと言うや否や”酒を出せ”と言い、”一種一瓶にて祝おう”とおっしゃると、”猪武者に与し一命を捨てん事、前世宿業なるべし”と、各々夢中で酒を呑んでいるところ、

信長卿は、”人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を受け、滅せぬ者のあるべきか ” と舞われると、皆興に入り、酒宴は数刻に及んだ。
宮福大夫が “つわものの交りたのみある中の酒宴かな” と謡うと、おおいに感動され黄金二十両を引かれた。”それでは明日は未明に出陣する” と仰せられてお立ちになった。

翌日暁に、佐久間大学・飯尾近江守より、敵が鷲津・丸根を早くも取り囲んだとの飛脚が到来すると、武具を付けられ、栗毛の太くたくましい馬に、金覆輪の鞍を置いてひらりと馬に乗り、清洲の城を出られる時には、
織田造酒丞、岩室長門守(重休)、長谷川橋介、佐脇藤八(良之)、山口飛騨守、賀藤彌三郎、河尻與兵衛尉(秀隆)、梁田出羽守(政綱)、佐々内蔵助(成政)のたった十騎ほどで、まず熱田へと急がれた。

熱田の旗屋口で早くも雑兵が千人ほどあちこちから加わった。そして当社大明神へ参詣され、かしこまって伏せ拝まれると、心が神に通じたのか、内陣(本尊を安置する場所)で武具の音がすさまじく聞こえた。信長卿は信心肝に銘じ、たのもしく思い召され、さては大明神も我が小勢を憐れみ、力を合わせられたとお思いになった。
いざ祈祷のため、願書を一筆書いて奉りたいと、右筆の武井肥後入道夕庵を呼ばれ、あれそれと仰せられると、夕庵は硯、畳紙を取り出す。(奉呈する願文を書く)

かくして信長卿が急がれるところに、白鷺二羽が御旗の先に止まって飛び立ったので、いよいよ頼もしく思い召された。浜の方は、ちょうどその時潮が満ちて馬が通れなかったので、笠寺の東の細道を経て砦の兵を合流させ、善照寺の東山の狭間に兵を揃えた。
ようやく兵が三千ほどになったのを見て、”軍勢は五千余りいるぞ。作戦をもって敵をとりこにするのは思いのままである。皆安心するように” と兵の勇気を励まされた。

佐々隼人正・千秋四郎は家紋の旗を持ち、見ると義元の先手が山際に控えていたので、わき目も振らず突撃して、切りつ切られつ戦ったが、遂に両人が討たれると、これを始めとして岩室長門守ら屈強の者が枕を並べて討たれた。

敵(織田方)の首を取って義元の見参に入れると、物始め良し、と喜んで、”今朝は鷲津・丸根両城を即時に乗っ取り、今また敵を討ち取ったこと、兎にも角にも我が槍先には天魔鬼神であってもかなわない。舞や歌えや “と言って酒を飲んで過ごしていた。

かくして信長卿は中島へ移ろうとすると、林佐渡守(秀貞)・池田勝三郎(恒興)・毛利新介(良勝)・柴田権六郎(勝家)が轡に取り付き、”あの大勢にこの小勢でかかられるのは不都合です” と声々に留めると、

“各々聞かれよ。無理に攻めかかろうと言うわけではない。かの凶徒らは夜通し大高城へ兵糧を入れただけでなく、今朝鷲津丸根の両城にて兵どもは皆疲れている。大将も勝利に酔って帯を解いて休んでいる。味方はまた城を落とされ気を落としている。特に大軍であるので思い侮って、まさかかかってくるとは思いもよらないだろう。この油断しているところを不意に合戦すれば勝てないということはない”
…と理を極めて義を励まし、例の大声でおっしゃると、尤もなりと人々は思い心が晴れたようだった。

こうしている間に前田又左衛門尉利家、そのときはまだ十八歳だったが、首を取ってきた。木下雅楽助、中川金右衛門尉、毛利河内守、同紳介、佐久間彌五郎、手に首をひっさげて参った。信長卿は “これは幸先がよい、敵勢の後ろの山に至り押しまわせ。そうしたならば、山際までは旗を巻いて忍びより、義元の本陣へかかれ” と命じられた。

梁田出羽守(政綱)が進み出て、 “ご命令はごもっともです。敵は鷲津・丸根を攻めてから陣を替えていません。そこでここを攻められれば、敵の後陣は先陣であり、こちらは後陣へ攻めかかるので、必ず大将を討つ事もできるでしょう、お急ぎください。”と申し上げると…各々はもっともだといよいよ戦へ奮い立った。

ちょうどそのとき黒雲が立ち大雨が熱田より降ってきて、石氷を投げるように敵勢へ降りかかり、霧海をたたえて暗く味方さえ敵陣に近いことも覚束ない程で、敵はそれまで気づかないのも当然であった。

彼が陣取っている上の山にて旗を張らせ、”各々下り立てかかれ”と命じられると、織田造酒丞(信房)、林佐渡守、毛利新介(良勝)、森三左衛門(可成)、中條小市、遠山甚太郎、同河内守、梁田出羽守(政綱)らが進んだ。

三左衛門尉が申すには、”敵は猛勢です。下りて攻めかかるなら、敵は備えを準備してしまいます。力を溜めさせては叶いません。ただ馬を下りずに懸け入れください” と申し上げると、信長卿は “尤もである。ならば我を越せや者ども” と言い、馬上で槍を手に取り、真っ先に走られる様子は、十高祖百張良が怒りを発した勢いよりも、これに勝るものがあろうか。

敵との間が近くなると鬨の声を上げ、黒煙を立て、叫びながら馬を入れ、思いのままに追いかけ突き伏せ切りかかると、敵はあまりにもあわて騒いで謀反人か喧嘩かと言う者もいて、同士討ちなどしてつかみ合う者もいた。

義元は静まるようにと命じ鳴りを静めているところ、服部小平太が刺しかかり、自らを名乗ると、義元も承知したと言い、さすがに最期は素晴らしかった。打物を抜いて小平太の膝の皿を割った。そこへ、毛利新介が名乗り出て戦い、そのまま突き伏せ、遂に首を取った。
かくして軍勢は耐えきれず、混乱して崩れかかり、太刀や武具は次々に重なって、逃げる妨げとなった。」