1587年 – 89年 九州征伐
<豊臣家>
天正15年(1587年)
九州征伐
<前年の経過>
天正14(1586)年7月、島津軍が筑前へ侵攻。島津忠長・伊集院忠棟が大友領の岩屋城を攻略。8月、立花山城を攻撃。その後島津軍は撤退する。
8月、秀吉が九州征伐を開始。先鋒隊として毛利輝元、黒田官兵衛、吉川元春、小早川隆景らが出陣する。
10月、島津軍が再び豊後へ侵攻、義弘・家久が日向から豊後へ侵攻する。その後府内を制圧する。
12月12日、戸次川の戦い。仙石秀久・長宗我部元親率いる秀吉軍は渡河中に伏兵の鉄砲攻撃を受け、大敗する。この戦いで長宗我部元親の嫡男 信親(22歳)、石谷頼辰、十河(三好)存保(33歳)が討死する。
【フロイス日本史】戸次川の戦いを開く(別ページ)
天正15(1587)年元旦、秀吉は各大名に九州侵攻を命令。
1月19日、島津義久が豊臣秀長・石田三成へ秀吉に服属する意思がないことを伝える。【旧記雑録後編 ニ】
1~2月、秀吉は水軍の脇坂安治・加藤嘉明に兵糧・鉄砲・玉薬を豊後の大友宗麟へ輸送させる。
2月10日、日向方面の豊臣秀長(黒田官兵衛、蜂須賀家政、小早川隆景、毛利輝元、宇喜多秀家、宮部継潤、亀井茲矩、南条元続、小早川秀秋)が出陣。石田三成、大谷吉継、長束正家は兵糧奉行を担当。
3月1日、肥後方面の豊臣秀吉(豊臣秀勝、福島正則、細川忠興、池田輝政、長谷川秀一、堀秀政、中川秀政、毛利吉成、蒲生氏郷、前田利家)(兵数120,000)が出陣。
秀吉本隊には馬廻衆・織田信雄、後備に加藤清正ら、脇備に浅野長吉(長政)ら。
※3月1日付、21日付、25日付の秀吉陣立書による
3月、黒田官兵衛が豊後へ侵攻する。
3月15日、豊後府内にいた島津義弘・家久は撤退を開始。野上城の新納忠元、白仁城の島津歳久も撤退を開始。連日大友家臣からの追撃を受ける。
3月20日、日向の都於郡城で島津義久、義弘、家久が軍議を行う。
3月25日、秀吉軍が赤間関(下関)に到着。秀長軍は豊後から日向の東ルート、秀吉軍は筑前、肥後、薩摩の西ルートを進軍することが決定。
3月29日、秀吉軍が小倉に到着。
4月1日、秀吉軍の蒲生氏郷と前田利長(兵数5,000)が島津方秋月氏の岩石城(兵数3,000)を攻撃。岩石城は標高450mの山頂にある堅固な山城だったが、圧倒的な鉄砲攻撃により1日で落城させる。
4月4日、古処山城の秋月種実が降伏、開城。秋月種実は娘を人質に出し、また名物茶器 天下三肩衝の一つ、「楢柴肩衝」を秀吉に献上する。
4月6日、秀長軍(兵数80,000)が諸城を落としながら進軍し、高城(兵数1,300)を包囲。後方からの島津軍に備え、根白坂に砦を築き、鉄砲隊を並べる。
義久、義弘、家久(兵数35,000)が都於郡城から救援に向かう。
4月16日、秀吉軍は諸城を落としながら肥後に到達。肥前の鍋島直茂が秀吉の配下となる。有馬晴信を服従させる。
4月17日、根白坂の戦い。義久、義弘(兵数35,000)が都於郡城から高城へ救援に向かう。島津軍が秀長軍の根白坂砦に夜襲攻撃。この戦いで島津忠隣が討死、島津軍は大敗する。
4月19日、秀吉軍が肥後八代に入る。
4月21日、義久が人質を出し秀長と和睦。
4月28日、次々に諸城が戦わず開城する中、平佐城(城主 桂忠昉 300)は抵抗を続け、小西行長らと戦闘を行う。戦闘中に義久から休戦命令が届き、降伏、開城する。
5月3日、秀吉軍が薩摩の川内まで進軍、泰平寺に本陣を置く。薩摩の浄土真宗勢力を味方につける。
5月8日、義久が薩摩川内の秀吉陣に向かい、秀吉に降伏を伝える。
5月9日、秀吉は義久に薩摩一国を安堵する。25日に義弘へ「新恩地」として大隅一国、30日に相良頼房に肥後国求麻郡、6月2日に佐々成政に肥後一国など順次国分を指示する。
5月18日、秀吉軍は大口方面へ進み、その後北上する。石田三成・伊集院忠棟はいまだ抵抗を続ける島津歳久の対応に当たる。
6月7日、秀吉が筑前箱崎へ入り、残りの九州国分(領土配分)を行う。
秀吉は博多復興の町割りを行い、博多でバテレン追放令を発令。1ヶ月ほど滞陣した後に帰路につき、7月14日、大坂へ帰還する。
「このたびの九州戦役の結果は、関白が想像していたほどの勝ち誇り意気揚々たるものではなかった。時あたかも7月(西暦)にあたり、日本では暑気厳しい折で、降り続く雨のために全軍は幾日もそこに為すすべもなく膠着状態に陥り、兵士の中には病人が続出し、一方こうした悪天候で五畿内からの食糧の海上輸送は困難となって、餓死者が連日後を断たぬ有様であった。
関白は莫大な兵の損失と食糧不足から薩摩国内に深入りすることを憂慮し、服従すれば軍勢を引き上げると強く要請するところがあった。薩摩の人々は内部事情を知る由もなく、関白を訪れることが良策であるとした。もしも薩摩の国王があと5日間、関白の許に赴くのを遅らせていたならば、関白は軍勢を撤退させた。」【フロイス日本史】(要約)
戦後処理
戸次川での敗戦を受け仙石秀久を改易とし、高野山へ追放する。(仙石秀久は小田原征伐の際に高野山から駆けつけ参戦、復帰が認められ信濃国小諸を与えられる)
天正15(1587)年6月7日、秀吉が筑前箱崎へ入り九州国分(領土配分)を行う。
小早川隆景は筑前への移封を辞退するが秀吉の命により天正16(1588)年2月に筑前へ入る。立花宗茂は大友家から独立させ筑後柳川を与えて大名とした。
また9月には福島正則を伊予今治(11万石)へ加増転封する。
<秀吉による九州国分>
※参考文献: 歴史人『別冊 戦国武将の全国勢力変遷地図』付録地図
黒田官兵衛…豊前国の六郡(12万石)
毛利吉成…豊前国の二郡 (6万石)
小早川隆景…筑前国と筑後国の二郡・肥前国の二郡(37万石)
龍造寺政家…肥前国の四郡
松浦隆信…肥前二郡
立花宗茂…筑後国の四郡(13万石)
小早川秀包…筑後国の三郡(8万石)
大友義統…豊後国(41万石)
佐々成政…肥後国(34万石)
島津義久…薩摩、大隅、日向の一部(56万石)※島津義弘に大隅一国、伊集院忠棟に大隅肝付郡

九州征伐以降
天正15(1587)年、京極高次が九州征伐の功績により大溝城主となる。浅井三姉妹の次女 初が京極高次に嫁ぎ、大溝城へ入る。
天正15年、里見義頼が死去、義康が家督を継ぐ。
2月24日、真田昌幸が小笠原貞慶とともに上洛。秀吉に謁見し、服従を誓う。その後下向し、3月18日、真田昌幸が駿府で家康に面会する。【家忠日記】
バテレン(伴天連)追放令 天正15(1587)年4月20日、イエズス会日本副管区長ガスパル・コエリョとフロイス一行が、九州侵攻中の秀吉と肥後国八代で面会。(コエリョは前年に大坂城で秀吉に謁見している) 秀吉と2時間近く談話する。秀吉は定航船の特許状を与え、定航船が堺まで航路を伸ばすよう求める。コエリョは水深の問題がなければ可能だと応じる。 5月29日、コエリョはさらに町のキリシタンへの援助を要望するため長崎から博多へ向かい、先回りして秀吉を待つ。 6月3日、秀吉は博多から2kmにある箱崎に入った後、12日、荒廃した博多再興のため街路の区割りを実施する。 「コエリョは命令に背いて、一艘のフスタ船を作らせ、何門かの大砲を買いいれた。秀吉が博多にいたときに、旗で飾り立てたフスタ船に乗って大提督のように博多に出向き、秀吉の全軍を驚かした。秀吉はフスタ船内に入り隈なく観察し、大いに讃え、これは軍艦である云々と語った。 6月15日、司祭一行が秀吉の宿舎である寺院を訪問。ここでも好待遇を受ける。 6月17日、高山右近が司祭のいるフスタ船を訪れる。「私には間もなく悪魔による大いなる妨害と反撃が始まるように思えてならぬゆえ、司祭たちも我々も、十分な備えが必要である。」 6月19日、秀吉は以前ポルトガルの定航船を見たいので博多に定航船を廻すよう命じていたが、19日、司令官のドミンゴス・モンテイロが面会し、船が座礁する危険があるためできないと回答する。秀吉はこの件を納得し、宣教師の判印に興味を持つ。キリシタンは秀吉が自分たちに好意を寄せていると喜ぶ。 6月19日夜、突如、秀吉が高山右近に棄教を迫る。「予はキリシタンの教えが、身分のある武将の間においても広まっているが、それは右近が説得していることを承知している。予はそれを不快に思う。なぜならばキリシタンどもの間には兄弟以上の団結が見られ、天下に累を及ぼすに至ることが案ぜられるからである。」(要約) 6月19日真夜中、翌日長崎へ戻る予定のフスタ船に、小西行長の家臣と秀吉の側近が使者として訪れる。コエリョらは船を降り、小西行長の宿舎で詰問を受ける。
<詰問書3ヶ条>(要約)
この詰問に対し、コエリョが書面で返答する。 回答後、これより以前に秀吉が高山右近に与えた箇条書きの宣告文を使者が司祭らに見せ、デウスの教えを非難する。 6月20日、秀吉が宣教師について発言する。「もし予が深く注意し自覚して処していなければ欺かれたであろう。奴らは一面、一向宗に似ているが予は奴らの方がより危険であり有害と考える。日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするためであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。」
同日6月20日、フスタ船に秀吉からの使者2名が訪れ、6月19日付 5ヶ条の追放令を渡す。 「吉利支丹伴天連追放令」【松浦家文書】 一、日本は神々の国であり、キリシタン国から邪法を授けることは非常にけしからんことである。 一、国の者を近づけ門徒にし、寺社仏閣を破壊するなど前代未聞である。国郡在所知行などを給人に下されていることは当座のことであり、天下からの御法度を守り、様々な事は許可を得るべきなのに、下々として乱れているのは曲事である。 一、伴天連はその知恵をもって、個人の志し次第で信者を作っていると思っていたのに、右のように日本の仏法を破壊しているのは曲事であるので、伴天連を日本の地に置いておくことはできない。今日より二十日の間に準備して帰国せよ。その期間に下々で伴天連にいわれのない事を申し懸ける者がいれば、曲事とする。 一、黒船(貿易船)は、商売の事であるから別の問題であるので、今後もいろいろと売買するように。 一、これ以後、仏法の妨げをしない者は、商人は言うまでもなく、誰でもキリシタン国からの往来は問題ないので、そう考える事。
※6月18日付の覚書(十一ヶ条)も残されている 「天正十五年六月十八日付覚」【伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」】 (中略)
また秀吉は19の追加命令を出す。 その後秀吉は定航船がしばらく来ないことを知り、退去期限を延長し宣教師を平戸に集めるよう指示を出す。 (バテレン追放令は仏教に影響のないキリスト教信仰は認めており、1612年・1613年のキリスト教禁止令のような教会の破壊や信仰禁止までの厳しい内容ではなかった)
追放令後の宣教師の対応 発令後、次第に秀吉からの圧力が弱まっていく。 「彼(秀吉)は毎年来航する定航船から得られる利益がどれほど日本国全土を満たしているか、司祭らはポルトガル人のもとでどれほど権威を有するか、また通商の平和は司祭の努力によって保たれることを知り、(10名の長崎滞在を)許可することを確認した。(要約)」【1597年 26殉教者報告】 天正16(1588)年夏、小西行長が肥後に転封すると行長は都や地方で流浪の身となったキリシタンを集め、俸禄を与えた。【1588年度年報】
追放後の高山右近
バテレン追放令が出された理由 |
肥後国衆一揆 佐々成政は隈部城の隈部親永を攻撃、落城させるが息子の隈部親安が城村城に籠城する。城村城は武士800余人、百姓町人僧侶も合わせ約15,000人で守る。【肥後圃誌】 城村城を攻撃するが、一揆勢は隈本城を攻撃したため、佐々成政は隈本へ引き返す。 成政は自軍で鎮圧できず、秀吉は浅野長吉・加藤清正・小西行長・黒田官兵衛・小早川秀包・安国寺恵瓊・鍋島直茂・立花宗茂らに出兵させる。10月には和仁親実ら国衆も蜂起し、島津からも出兵させる。天正16(1588)年1月ようやく鎮圧となる。 その後隈部親永・親安は処刑となる。 佐々成政は安国寺恵瓊を通じて大坂に出向いて秀吉に謝罪するが、天正16(1588)年閏5月14日秀吉は尼崎に幽閉した後、切腹処分とした。 秀吉は当主不在の肥後を二分し、北部の隈本城に加藤清正、南部の宇土城に小西行長を入れることを決定。 (肥後国はもともと大名がおらず各国衆が統治していた地域であり、佐々成政は有力者との関係を築いていなかったことが一揆の原因と言われる。また地元の国衆は秀吉の直轄地として領地安堵を伝えられていたため、当主が入り検地が行われることに抵抗したとも言われる。)
翌年閏5月、秀吉は小早川隆景へ書状を送り佐々成政の処分について伝える。【閏五月十四日付 秀吉書状】(一部を抜粋) 天正十二年に、信雄が尾張の国にいる時、この陸奥守はまた人質を捨て別心をいたし、加賀の国へ乱入し、諸城を築き、そして出馬して端城を討ち果たし、陸奥守の居城である富山城を取り囲んだところ、また陸奥守は頭を剃ってこちらへ走り入って来た。哀れに思い、首ははねず城を受取らせ、越中半国を与えた。 その子式部大輔(隈部親永の子 親安)、親につられたのか、山鹿の城へ立て籠り、国衆ならびに一揆を起こし、隈本へ攻めかけ陸奥守は苦労していたので、小早川・龍造寺・立花左近をはじめ討伐を命じて隈本城へ兵糧を入れさせるが思いの外上手くいかず、毛利右馬頭(輝元)に命じて天正十六年正月下旬、冬の時分、この軍勢に命じて肥後一国を平定させた。 これら曲事の数々があったにもかかわらずその事を顧みず、肥後の国を与えたのに一ヶ月も経たず、国に乱をいでかしたこと、(秀吉まで)面目がない。また陸奥守は(派遣した浅野長吉ら)上使にもかまわず大坂へ来た。 |
※参考文献:
『肥後国衆一揆-肥後戦国武将の最後の戦い』荒木栄司(著) 熊本出版文化会館
『太閤の手紙』桑田忠親(著) 文藝春秋
『加藤清正』山田貴司(著) 戎光祥出版株式会社
天正15(1587)年8月、豊臣秀長に従二位大納言の官位が与えられ、「大和大納言」と呼ばれるようになる。
8月頃、島津義久が上洛する。
9月、聚楽第が完成する。「壮大かつ華麗で見事な構築がされている、木造建築ではこれ以上は望めないほどである。部屋という部屋、広間という広間、台所まで金箔が貼られている」【フロイス日本史】
天正15(1587)年10月1日、秀吉が北野で大茶会を開く。
7月末より畿内各所にお触れを出し、百姓や町人、唐人など身分を問わず茶の湯に執心する者は参加してよいこと、参加しない者は今後茶湯をしてはならないこと、遠国の者に配慮し10日まで開催することを伝える。
10月1日、京の北野天満宮の境内で千利休、今井宗久、津田宗及、前田利家など名のある茶人や大名が集まり開催する。
茶会では秀吉が所有する名物茶器 天下の三肩衝のうち、自身は「新田肩衝」を使い、千利休に「楢柴肩衝」、津田宗及に「初花肩衝」を使用させる。
大茶会は10日間の開催予定だったが、突如初日に中止となる。
「京都茶の湯が去る朔日の分で終了、なにか戦でもあったのか、西国で佐々成政一円が討ち取られたか、それは誤りか」【多聞院日記 10月4日条】
12月、秀吉が関東惣無事令(かんとうそうぶじれい)、奥両国惣無事令を発令。大名間の戦闘を禁止した。(命令に従わない場合は軍勢を向けるとの意味でもあり、武力行使の理由付けとして利用された)
天正16年(1588年)
天正16(1588)年1月、足利義昭が備後から上洛。征夷大将軍を返上、出家して秀吉に臣従する。義昭は山城国槇島を与えられる。
4月6日、肥前の龍造寺政家に代わり、鍋島直茂を長崎「御代官」に任命、統治させる。
4月14日~18日、秀吉が自らの権威を高めるため聚楽第行幸を行う。後陽成天皇を聚楽第に迎え、5日間の宴を催す。※行幸(ぎょうこう)…天皇が宮中から外出する行事
「聚楽第から内裏の宮殿まで武器を持った6千人の警護者が配置された。…盛大な祝典や娯楽が催され連日素晴らしい饗宴と奏楽が行われた。」
「暴君(秀吉)は徳川家康、織田信雄、宇喜多秀家、豊臣秀長、豊臣秀次が居並ぶ金箔の広間で短い演説を試みた。"予の余命は幾ばくもない。列席の5人のうち1人が天下の主となる。誰であろうとも内裏を絶対君主として尊崇し奉るよう格別配慮をお願いする。"」【フロイス日本史】
天正16(1588)年5月7日、上杉景勝・直江兼続が上洛。秀吉は上杉景勝を従三位・参議へ叙任し、また景勝へ唐瓢箪(上杉瓢箪)を下賜する。
この頃、北条との交渉が進められ、閏5月に交渉がまとまる。
「小田原への交渉は済まなかった」【家忠日記 天正16年4月28日条】
「相模と上方の御無事が整った」【閏5月10日条】
6月4日、島津義弘が上洛する。
7月24日、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家が上洛、聚楽第で秀吉に謁見する。翌日輝元は従四位下、侍従・参議に叙任される。
天正16(1588)年7月、刀狩令を発令。 秀吉が各地に刀狩令を出し、農民から武器を没収する。 【大日本古文書 島津家文書】 一、右の取り置く刀・脇差しは無駄になることはなく、今度大仏を建立する釘、かすがいに使うと命じている。そうすれば現世は言うに及ばず、来世までも百姓は救われるのである。 一、百姓は農具だけを持ち、耕作に専念すれば、子々孫々まで永く続くであろう。百姓への憐れみをもってこのように仰せ出したのである。 ※刀狩令の原本は島津家の他に小早川家、立花家、大友家などの九州大名や高野山に残されている。 ※秀吉は1585(天正13)年4月10日、紀伊征伐の際に高野山へ武器の所持を禁止させている。また4月22日、太田城を攻略した直後、退城した農民へ「百姓が今後弓矢・槍・鉄砲・腰刀を持つことを禁止する」と刀狩りを命じている。(秀吉の刀狩令としては初見とされている)
天正18(1590)年の小田原征伐後、秀吉は石田三成へ奥州統治について7ヵ条の指示を出す。人身売買の禁止や永楽銭と鐚銭(びたせん)の交換比率と同時に、「日本六十余州の百姓は刀・脇差し・弓・槍・鉄砲など一切武具の所持を禁止し、悉く召し上げた。この度出羽・奥州の両国も同様に命じる」と刀狩りを指示している。 ※実際には没収後に返却されていたり全ての武器没収ではなく、農民の帯刀を禁止して乱用させないこと、また武士と百姓という身分制を定着させる目的があったとも考えられている。※参考文献『刀狩り―武器を封印した民衆』藤木 久志(著) 岩波書店
大和国興福寺の僧 英俊が刀狩令について記録している。
フロイスは秀吉が肥前名護屋城にいた文禄2(1593)年に、長崎・大村・有馬で行われた刀狩りを記録している。 「(ある男が寺沢広高へ報告した内容は)長崎のキリシタンたちは十分な武器を補給されており、伴天連たちの援助を受けて、関白に対して蜂起するために他の同志たちとともに何らかの謀反が起きるのを待っている、というのであった。 日本では今日までの習慣として、農民を初めとしてすべての者が、ある年齢に達すると大刀と小刀を帯びることになっており、彼らはこれをカタナとワキザシと呼んでいる。彼らは不断の果てしない戦争と反乱の中に生きる者のように種々の武器を所有することをすこぶる重んじている。 それゆえ関白のこれらの役人が微集した刀、脇差、槍、鉄砲、弓、矢は、長崎の村で発見されただけでも、刀剣が4,000振り、槍が500本、弓が500張以上、矢、無数、鉄砲300丁、および鎧100領以上に達し、有馬領からは16,000以上の刀剣と、その他無数の武器が微集された。」 |
天正16(1588)年7月、秀吉が海賊禁止令を発令(初令時期は不明)。盗船など海賊行為を禁止、その領主も処罰対象とした。(前年に能島村上氏による海賊行為があったため再度発令された)
8月22日、北条氏政の弟・北条氏規が上洛。聚楽第で秀吉に謁見する。
北条が服属したことにより、秀吉は佐竹氏ら関東大名、伊達政宗・最上義光ら奥羽大名に上洛を要請、国境を定めることを伝える。
天正16年、里見義康の要請により、秀吉が北条・里見領の境界裁定を行う。里見領は安房国、上総国(東金、土気、万喜土岐、長南武田を除く)となる。
天正16年頃、浅井三姉妹の長女 茶々(淀殿)が秀吉の側室となる。
天正16年頃、黒田官兵衛が豊前 中津城を築城する。
この頃秀吉は対馬の宗氏を服属させたことで李氏朝鮮も服属できたものと判断し、宗氏に朝鮮国王の上洛を求める。 しかし宗氏は朝鮮の藩臣であり、板挟みとなった当主の宗義智はあくまで通信使の派遣として嘆願することとした。宗義智は家臣の柳川調信、堺の豪商島井宗室を連れ朝鮮へ渡り、使節の派遣を求める。
天正17年(1589年)
天正17(1589)年2月、北条氏直が沼田領問題の協議のため板部岡 江雪斎を上洛させる。
3月、茶々の懐妊を受け、秀吉は淀城を改修して茶々に与え産所とする。
5月27日、淀城にて鶴松(棄 "すて")が誕生。(秀吉はこの時53歳)禁裏から祝儀の品々が贈られ、公家や諸大名も淀城を訪問し祝辞を述べる。
※鶴松は嫡男とされているが、秀吉の長浜城主時代に石松丸(幼少期に死去)が誕生した説もある。
「多くの者は、もとより彼には子種がなく子供をつくる体質を欠いているから、その息子は彼の子供ではないと密かに信じていた。」【フロイス日本史】
秀吉が沼田領土問題を裁定。沼田城を含む沼田領の2/3を北条領、名胡桃城(なぐるみじょう)を含む1/3を真田領とし、真田が失う領地の代わりとして家康から信濃伊那郡を与えることとした。真田、北条がこれを受諾する。
秀吉は板部岡 江雪斎に、北条の上洛があれば沼田を引き渡すと伝える。
6月5日、北条氏直が秀吉の上使 妙音院・一鴎軒に、氏政が12月初旬に上洛すると伝える。【岡本文書】
7月、沼田領の引き渡し。秀吉の使者 津田盛月・富田一白、徳川から榊原康政が立会い、沼田城を真田から北条へ引き渡す。(この引き渡し以降、名胡桃城事件まで北条は秀吉に使者を送らなくなる)
名胡桃城事件 天正17(1589)年10月下旬、沼田城主 猪俣邦憲が真田領の名胡桃城を攻撃、名胡桃城主の鈴木主水は自害する(または討死)。 (その後、真田や家康から名胡桃城攻撃の報せが秀吉に届いたと思われる) 11月10日、秀吉が家臣の天徳寺宝衍に、氏政が上洛しなければ討伐のために出馬することを伝える。【高橋六右衛門氏所蔵文書】 この頃秀吉のもとへ、北条からの使者 石巻康敬が到着する。
11月20日、秀吉が来春の北条討伐を決定。【伊達家文書】 この頃、秀吉は軍役数を示した陣立書を発表する。【碩田叢史】(この書(写)は日付が「十月十日」と「十一月十日」の2種類が残っている)
11月24日、秀吉が氏直へ五ヶ条の書状(宣戦布告状)を送る。津田盛月・富田一白を使者として派遣する。 「一、北条について、近年公儀をないがしろにして上洛もせず、ことさら関東での邪心にまかせた狼藉など論外である。そこで去年誅罰を加えようとしたところ、家康卿が縁戚であることから色々と懇願があり、条書で命じると、御請け申すというので赦免し、すぐに北条氏規が上洛して御礼申し上げてきた。 一、当年の十二月上旬、氏政が出仕するとの旨を一札進上してきた。これによって津田盛月・富田一白を遣して沼田を渡した。 一、沼田城を受け取った上は一札の通りすぐに上洛するだろうと思っていたところ、真田の名胡桃城を取り、表裏がある上は使者に対面する理由はない。この使者を自害させるところだが、助命し返し遣わせた。」(抜粋)【北条家文書】
同日11月24日、秀吉が家康へ書状を送る。【富岡家文書】 12月5日、津田盛月・富田一白が沼津 三枚橋へ到着。秀吉の五ヶ条の書状を氏直へ送る。 12月7日、氏直が弁明を行う。上洛は来春・夏頃を申し入れたところ2月中旬に京都に到着してよいと返答を受けたこと、氏政は自身が捕らえられ国替えされると思っていること、名胡桃城は上杉が動いたため軍勢を沼田に入れたにすぎない、と伝える。【武家事紀】 |
天正17(1589)年9月3日、大坂城で秀吉の名刀が盗まれる。
「関白殿の先述の大事な刀が盗まれた。ついに見つからなかったそうだ。よって多くの男女が磔にされた。浅野長吉の甥も切腹した。諸大名は動揺した。(秀吉は)一段と機嫌が悪い様子で狂乱し始めたそうだ。頼朝の守刀一文字という無類の宝物である。ある場所は今もわからないらしい。」【多聞院日記】
(翌年5月に東寺の尊教院で発見され、尊教院の順源房が捕らえられる。)
天正17年、九州では有馬晴信と天草衆が秀吉に抵抗。秀吉は加藤清正と小西行長に命じ、有馬領の天草諸島 本渡城を攻撃させる。
城内は兵糧不足となり餓死者が出る。落城前、城内の女性300人が武器を持ち秀吉軍に突撃、ほぼ全員が討死する。加藤清正が城を占領、小西行長は城内のキリシタンの救助を行う。本渡城の落城後、有馬晴信は秀吉に降伏する。【イエズス会1590年度年報】
9月25日、越前敦賀の蜂屋頼隆が死去。敦賀に大谷吉継が入る。
12月8日、氏政が兵の動員と城の普請を指示、戦準備を開始する。
秀吉は兵糧20万石を駿河 清水港へ水軍で輸送し、長期戦に備える。
<徳川家>
天正15(1587)年3月18日、上洛していた真田昌幸が小笠原貞慶・酒井忠次と下向し、駿府を訪れ家康と面会する。【家忠日記】
以降真田は家康の与力となる。
7月、秀吉を九州戦勝を祝うため家康が駿府を出発。上洛後の8月7日、秀吉の推挙で従二位・権大納言に叙任される。
8月17日、駿府へ帰城する。
12月28日、左大臣兼右近衛大将に叙任される。(翌1月に辞退)
天正16(1588)年3月1日、家康が聚楽第行幸に参加するため駿河を出発。28日、京都の東寺で秀吉と対面、翌日秀吉と鷹狩りを行う。4月27日、駿府へ帰城する。
4月6日、最上義光から伊達軍の侵攻を受けていると訴えが届き、家康が秀吉へ伝えたと返答する。
5月21日、秀吉との仲介をしていた家康が、聚楽第行幸に参列しなかった北条氏政・氏直へ起請文を送る。【鰐淵寺文書】
「一、そなた御父子の事を秀吉に讒言するようなことはせず、北条の領国を望むことはありません。
一、今月中に兄弟衆を京都へ送り御礼申し上げるべきです。
一、出仕に納得しないのであれば、娘(督姫。氏直の妻)を返していただきたい。」
6月、家康が秀吉の母 大政所の病気見舞いのため上洛する。
10月、酒井忠次が隠居、嫡男 家次が酒井家の家督を継ぐ。
12月22日、秀吉から鷹が届けられる。
天正17(1589)年から翌年にかけて家康は五ヶ国総検地を実施。駿河・甲斐・信濃は地元の領主による農地支配が続いていたため、全領国掌握のため五ヶ国総検地を始める。
その際「七か条定書」を発令。年貢の制度を確立させ、農民の軍役(夫役)を定めた。
天正17(1589)年2月5日、東海地方で地震が起きる。「申刻(16時頃)に大地震が起き、駿河の河東の興国寺城、長久保城、沼津城の壁、二階の門まで破損した。」【家忠日記】
11月3日、名胡桃城攻撃の報せが入る。
「さかみ(相模)より信州真田城を一つとり候間、手たしにまいり候」【家忠日記】(この時松平家忠は駿河の上出に出仕)
11月10日、家康が真田信幸へ返書を送り、信幸から京都の両使(冨田一白・津田盛月)へ使者を送り秀吉に名胡桃城の件を報告するよう伝える。【真田家文書】
11月24日、秀吉が北条へ宣戦布告状を送る。また家康へ、軍事の相談のため上洛を求める書状を送る。
12月上旬、家康が上洛、北条討伐の話し合いを行う。家康の出陣が1月28日に決定。
※【乙骨太郎左衛門覚書】では家康が上洛した際、秀吉が関八州を与えると伝える。
12月17日、家康が駿府へ戻る。
<北条家>
天正15(1587)年、北条氏政は秀吉の侵攻に備え、小田原城に惣構えを増築。諸城の大普請も行い防御力を高める。また武器の増強も行う。
天正16(1588)年4月、北条氏邦家臣の猪俣邦憲が真田領を攻撃。権現山城を攻略する。
天正16年4月、京で聚楽第行幸が行われるが、氏政は参列せず。
この頃、秀吉との交渉が進められ、閏5月に交渉がまとまる。
「小田原への交渉は済まなかった」【家忠日記 天正16年4月28日条】
「相模と上方の御無事が整った」【閏5月10日条】
天正16年5月21日、家康から氏政・氏直へ起請文が届く。【鰐淵寺文書】
「一、そなた御父子の事を秀吉に讒言するようなことはせず、北条の領国を望むことはありません。
一、今月中に兄弟衆を京都へ送り御礼申し上げるべきです。
一、出仕に納得しないのであれば、娘(督姫。氏直の妻)を返していただきたい。」
天正16(1588)年8月22日、氏政の弟・北条氏規が上洛して秀吉に謁見。ひとまず秀吉との緊張関係が緩和される。
8月、由良国繁・長尾顕長が佐竹方に離反。北条軍が足利領を攻撃する。
11月、秀吉から妙音院・一鴎軒が派遣される。
天正17(1589)年1月、北条氏照が由良国繁、長尾顕長の足利城を攻撃。2月に由良国繁、3月に長尾顕長が降伏。足利城・桐生城を破却し、由良国繁を小田原へ送る。
天正17年2月、氏直が板部岡 江雪斎を上洛させる。
秀吉が沼田領土問題を裁定。沼田城を含む沼田領の2/3を北条領、名胡桃城を含む1/3を真田領とし、真田が失う領地の代わりとして家康から信濃伊那郡を与えることとした。真田、北条がこれを受諾する。
秀吉は板部岡 江雪斎に、北条の上洛があれば沼田を引き渡すと伝える。
天正17年6月5日、氏直が秀吉の上使 妙音院・一鴎軒に書状を送り、氏政が12月初旬に上洛すると伝える。【岡本文書】
天正17年7月、沼田領の引き渡し。秀吉の使者 津田盛月・富田一白、徳川から榊原康政が立会い、真田から北条へ引き渡される。(この引き渡し以降、名胡桃城事件まで北条は秀吉に使者を送らなくなる)
名胡桃城事件 ※詳細は<豊臣家>を参照
天正17(1589)年10月下旬、沼田城主 猪俣邦憲が真田領の名胡桃城を攻撃。
秀吉のもとへ使者 石巻康敬を派遣するが捕らえられてしまう。
12月7日、秀吉から五ヶ条の宣戦布告状が届けられ、氏直が弁明の返書を送る。
上洛は来春・夏頃を申し入れたところ2月中旬に京都に到着してよいと返答を受けたこと、氏政は自身が捕らえられ国替えされると思っていること、名胡桃城は上杉が動いたため軍勢を沼田に入れたにすぎない、と伝える。【武家事紀】
12月8日、氏政が兵の動員と城の普請を指示、戦準備を開始する。
12月9日、氏規が家康に取り成しを依頼する。【古証文 五】
<上杉家>
天正15(1587)年4月、新発田領へ侵攻、水原城を落城させる。
9月、新発田領へ侵攻、赤谷城を落城させる。10月に新発田城を包囲、新発田重家は自害する。これにより新発田重家の乱を鎮圧し、新潟・沼垂・蒲原を支配下に置く。
石田三成から直江兼続へ、来年は再び景勝が上洛するのが尤もであると書状が届く。
天正16(1588)年5月7日、上杉景勝・直江兼続が二度目の上洛。秀吉は上杉景勝を従三位・参議へ叙任し、また景勝へ唐瓢箪(上杉瓢箪)を下賜する。
景勝はしばらく上方に留まり、7月に上洛した毛利輝元と対面する。
天正16年、家臣の本庄繁長(揚北衆)が最上義光の庄内領を攻撃、占領。
天正16年、上条宜順が出奔、秀吉に仕える。
天正17(1589)年6月、秀吉の命令を受け佐渡へ侵攻。羽茂本間氏を滅ぼし、佐渡を平定する。秀吉は佐渡の金山を支配させ、納入を指示する。
<真田家>
天正15(1587)年2月24日、真田昌幸が小笠原貞慶とともに上洛し、秀吉に謁見する。次男 信繁は人質として大坂に残り、その後秀吉の側近として仕える。
3月18日、真田昌幸は上洛していた小笠原貞慶・酒井忠次と下向し、駿府を訪れ家康と面会する。【家忠日記】
以降真田家は家康の与力となる。
天正16(1588)年4月、北条氏邦家臣の猪俣邦憲に権現山城を攻略される。
5月、北条軍が中山城を攻撃、占領される。【吾妻記】
この頃、家康が本多忠勝の娘(小松姫)を嫡男の真田信幸に嫁がせる。信幸の正室であった清音院殿は側室となる。
天正17(1589)年2月、真田信幸が家康に仕える。
天正17(1589)年6月、秀吉が沼田領土問題を裁定。沼田城を含む沼田領の2/3を北条領、名胡桃城を含む1/3を真田領とし、真田が失う領地の代わりとして家康から信濃伊那郡を与えるとした。真田、北条がこれを受諾する。
10月下旬、北条の沼田城主 猪俣邦憲が真田領の名胡桃城を攻撃、占領する。名胡桃城主の鈴木主水は自害。
「この度北条方国境の軍勢が出て城代を討ち果たし、その要害を北条方が乗っ取る」【真田家文書】
11月10日、家康が真田信幸へ返書が届く。信幸から京都の両使(冨田一白・津田盛月)へ使者を送り秀吉に名胡桃城の件を報告するよう伝えられる。【真田家文書】
<伊達家>
天正15(1587)年10月、伊達家臣の鮎貝宗信が最上へ寝返る。これにより婚姻関係だった伊達家と最上家が対立。
天正16(1588)年、離反していた大内定綱が臣従。以後伊達家臣として活躍する。
天正16年2月、家臣に大崎領を攻撃させるも、最上軍・黒川氏の加勢により大敗する。政宗の母 義姫(最上義光の弟)の介入により、最上・大崎氏と和睦する。
天正16年2月、郡山合戦。蘆名義広(佐竹義重の次男 87年に白河家から蘆名家へ移る)が伊達領を攻撃。一時は苗代田城を落とされ、小森城(城主 石川光昌)が離反するも奪い返す。7月に和睦。
天正17(1589)年4月、再度政宗が大崎の攻撃準備を進める中、義姫の仲介により大崎氏が服従を申し出る。これにより政宗は兵力を南へ向ける。
5月5日、政宗が南進、蘆名領の安子ヶ島城・高玉城を攻撃、占領。5月19日には東へ進軍、相馬領 駒ヶ峯城を攻撃、占領。
蘆名家臣の猪苗代盛国を調略に成功、猪苗代城が伊達領となる。これにより政宗は西の蘆名領へ侵攻、蘆名義広(佐竹義重の次男)も出陣。
佐竹軍は政宗と同盟関係にある北条軍に動きがあり、援軍を止める。
6月5日、摺上原の戦い。政宗軍(23,000)が蘆名軍(16,000)に勝利、蘆名義広は常陸へ逃亡、蘆名氏は滅亡する。
政宗は居城を米沢城から会津 黒川城へ移す。
その後二階堂氏の須賀川城を攻撃、占領。伊達政宗は奥州30余郡を版図とする。
<最上家>
天正15(1587)年、庄内北部を占領した最上義光は、東禅寺義長とともに大宝寺義興の尾浦城を攻撃、庄内地方を占領する。
天正16(1588)年8月、上杉家臣の本庄繁長、大宝寺義勝父子が庄内に攻め込み、最上軍(東禅寺義長)は大敗する(十五里ヶ原の戦い)。その後本庄軍が北進、庄内地方を制圧する。
(この時最上義光は大崎氏の救援に向かい伊達軍と交戦中だった。)
最上義光は本庄繁長の攻撃は惣無事令に違反していると秀吉に嘆願するも受け入れられず。
<毛利家>
天正15(1587)年、九州平定後、小早川隆景は伊予から筑前へ移封とされる(筑前博多は直轄地)。
小早川隆景は本国から離れることに反対するも、秀吉は移封を決定。事実上伊予国の統治をする期間がないまま筑前へ移動となる。
後任として福島正則が伊予国に入る。伊予の河野通直も国を離れ安芸で隠居する。
6月、出陣中の吉川元長が日向で死去(40歳)。弟の広家(27歳)が吉川家の家督を継ぐ。(父の元春は昨年11月に出陣中の豊前で死去)
天正16(1588)年1月、足利義昭が備後から上洛。征夷大将軍を返上、出家して秀吉に臣従する。義昭は山城国槇島を与えられる。
天正16年7月24日、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家が上洛、聚楽第で秀吉に謁見する。翌日輝元は従四位下、侍従・参議に叙任される。
同じ時期に上洛していた島津義弘も輝元の祝賀に参加する。
天正17(1589)年、太田川河口に広島城の築城を開始。(天正19(1591)年、吉田郡山城から広島城へ居城を移す)
<大友家>
天正15(1587)年、九州へ侵攻した秀吉に、大友義統が唐瓢箪(後の上杉瓢箪)を献上する。
天正15年5月6日、豊後津久見で大友宗麟が死去(58歳)。
天正16(1588)年2月27日、大友義統が上洛、聚楽第で秀吉に謁見する。
<龍造寺家>
天正15(1587)年4月、秀吉の九州侵攻が始まると、鍋島直茂が秀吉に降伏の意を表明し、島津討伐に加わる。
<島津家>
天正15(1587)年5月8日、島津家は秀吉の九州侵攻を受け降伏する。
九州国分で島津義久は薩摩国、義弘は大隅国が与えられる。伊集院忠棟は全面降伏を勧めた功績として大隅国肝付郡、久保(義弘の次男)は日向国諸縣郡が与えられる。家久、以久ら一門は安堵のみ。
6月5日、島津家久が病死(41歳)する。(【フロイス日本史】では豊臣秀長が酒宴の席で家久に毒を盛り、3日後に死亡したと記載)
家久の佐土原城は嫡男 豊久(18歳)が引き継ぐ。
6月25日、義久、伊集院忠棟が上洛するため博多へ到着。三成らと共に大坂へ向かう。
7月10日、義久、伊集院忠棟が堺へ到着。その後、肥後国人一揆が起き伊集院忠棟のみ一旦帰国する。
天正16(1588)年5月末、義弘が上洛に向け出発。
閏5月5日に豊後佐伯、14日に屋代島、21日に兵庫を経由して23日に堺津へ到着。
25日、石田三成・大谷吉継・木食上人より接待を受ける。義久が義弘の旅宿を訪問する。
6月4日、義弘が大坂城へ入る。
義久が石田三成、豊臣秀長、細川幽斎の協力を得て、人質となっていた三女の亀寿姫の帰国が認められる。
9月14日、義久が堺津を出発、10月14日、薩摩へ帰還する。
11月22日、義弘が本国へ、石田三成から琉球王国への使者派遣命令が出たと伝える。
天正17(1589)年4月19日、義弘が鎌田政近へ、三成が島津家を非難していることを伝える。 「三成の態度が変わられ、(三成が)義久へ国元の法令や屋形造りなど相談に力を入れたのに、その成果がない。…京からの題目に精を入れると国元衆から悪く言われるので実施していない」【旧記雑録後編 三】