【フロイス日本史】戸次川の戦い

「本年すなわち1587年の1月16日(西暦)に、薩摩の軍勢は、府内から3里離れたところにある利光(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。だが敵は攻撃の手をゆるめず、ついに武力によって城内に侵入し、その城主、ならびに多数の兵士を殺害した。

府内にいる味方の豊後勢は、利光殿の城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティアンの祝日に府内を出発した。

府内からは、仙石(秀久)がその兵を率い、土佐国主長宗我部(元親)とその長男(信親)が同様にその兵を伴い、さらにパンタリアン(親盛)も兵を率い、その他豊後の特定の殿たちがそれぞれ出発した。清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。

薩摩勢は、それより先、豊後勢の動静を知らされていたらしく、余裕をもって策を練り、準備を整え、一部少数の兵士だけを表に出して残余の軍勢は巧妙に隠していた。

豊後勢は、大きく流れの速い高田の川に到着し、対岸に現れた薩摩勢が少数であるのを見ると、躊躇することなく川を渡った。そして豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。

豊後勢が渡河し終えると、それまで巧みに隠れていた薩摩の兵士たちは一挙に踊り出て、驚くべき迅速さと威力をもって猛攻してきたので、土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。

というのは、薩摩軍は太刀を振りかざして弓を持って、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目もくれなかったからである。こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、携えていた鉄砲や武器はすべて破棄し、我先にと逃走して行った。

豊後の人たちは、河川の流れについて心得があったから助かったが、仙石と長宗我部の哀れな兵士たちは他国の者であったから、浅瀬を知らず溺死を余儀なくされた。

こうしてその合戦と破滅において、2,300名以上の兵士が戦死したと証言されている。彼らの中には、土佐国主の嗣子、かつて阿波の領主であった十河殿、その他大勢の貴人や要人が含まれていた。

(合戦後、島津軍が府内へ侵攻、付近の放火を始める。大友義統は家臣と逃亡、住民も逃亡を始める。)

土佐の国主長宗我部(元親)は全ての馬を放置したまま、数名の部下と一緒に船で脱出し、家財は途中で放棄した。
讃岐の国主で、もう一人の主将である仙石と称する人物も日出から乗船しようとした。彼は関白から、豊後勢を敵から救助するために遣わされていたにもかかわらず、悪事を働き、豊後の人々を侮辱し暴政を行なったために、深く憎悪されており、陸にいる人たちが彼を殺す危険が生じた。仙石殿は片足を負傷したが、20名とともに脱出し、家財を放棄して妙見にたどり着いた。 」