【フロイス日本史】沖田畷の戦い(2)

第五三章(第二部五二章)
野戦が行なわれ、隆信が戦死し、その軍勢が壊滅した次第

ドン・プロタジオ(有馬鎮貴)は、隆信が最初の攻撃を開始してその鉄砲隊が火蓋を切るに先立って、それまでいた狭苦しい陣屋に立て籠っていることがいかに無謀であるかが判ったので、近くのある山頂に陣取っていた薩摩国主の弟中務(島津家久)の軍勢に合流しようと決心した。

その山は、同所に立て籠っている兵士たちを収容するのが精々で、兵士たちの数がそれ以上ふえると能率的に、かつ自由に戦える場所がなくなる有様であった。
ドン・プロタジオは、山頂に身を寄せるにはその設備がなく、さりとて無事に最初の陣屋に帰れる時間がすでにないのを見ると、速やかに下山して、自らの軍勢とともにその嶮山の麓に布陣することにした。

そして敵の鉄砲隊の猛射の大半を必然的に受けて味方の防壁ないし標的になることにしたが、事実まもなくそのとおりになった。だが彼が信頼を置いているのは、デウス、および自分のために司祭やキリシタンたちが捧げてくれている犠牲や祈祷、また、頸に吊している教皇からの贈物である聖遺物入れ、大きい十字を描いた旗指物、ならびこそこに我らのローマ字で描かれているイエズスの至聖なる御名であった。

そうこうする間に、隆信の軍勢が攻め寄せて来た。それはふつうの攻め方ではなく、半月形に戦列をつくり、果敢な猛攻を加え、またたく間に彼らは中務、およびドン・プロタジオの陣営を包囲してしまった。まず千拠の鉄砲のいっせい射撃が加えられた。
我らの味方は、できうる限り身を屈め、ほとんど地面に腹這うようにしてその射撃を受けた。そしてそれが終った後には、引続き槍をもってする攻撃に出ようと機を窺い、事実そのようにした。

ところで日本人は、我らヨーロッパ人のように円楯も手楯も楯も使用しないので、ドン・プロタジオとその弟ドン・エステワンは、鉄砲隊の正面にあって、この上もない危険に曝されていた。
そこで備前守殿というキリシタンの貴人は、幅が二パルモで丈が人の腰あたりまである鉄の衝立てを二基、彼らの前に置いた。かくて彼らはそれぞれの中にどうにか身を匿しておれば敵弾から免れることができた。

敵の大口の鉄砲隊の射撃が相当な間火を吐くと、ドン・プロタジオたちの上には、まるで雨のように弾丸が降って来た。その若い二人の兄弟は全身の血が沸き立つのを覚え、かくも長い間身を屈めたままでいることに堪えられなくなり、姿を現わして立ち上がろうとするやいなや、突如一発の大きい弾丸が飛来して、ドン・エステワンの額の鉄兜に当った。

その勢いはいとも激しく、彼を地面に倒してしまった。ドン・プロタジオは駆け寄ったが、ドン・エステワンはもう死んだものと思いこんでそのまま放置しておいた。しかるに彼がふたたび目をやると、彼が身体を動かし、手を挙げているのが認められた。若者(ドン・エステワン)は掠り傷一つ負うこともなく、奇跡的に正気を取り戻した。

両人はなおも二度にわたって敵の鉄砲隊の真只中に入ろうとして飛び出したが、家来たちは二人に抱きついて力ずくでそれを制止し、以下述べるような戦いの切れ目までその状態で留まった。

戦闘は栄光の福音史家聖マルコスの祝日の前日にあたる四月二十四日の朝、金曜日の八時に開始され、正午すぎまで継続した。鉄砲隊による最初のいっせい射撃が終ると、槍による激闘が一時間にわたって行なわれた。

双方とも渾身の力をもって勇戦したが、隆信の軍勢は槍の間からも鉄砲を放って戦局をきわめて有利に展開し、あまつさえその兵力は味方の軍勢とは比較にならぬほど多大であったので、彼らは我らの味方を一挙に押し切って、矢来の中に閉じこめてしまった。

浜辺の戦列の端からは、隆信の二人の息子が他の武将たちとともに近づきつつあったが、その率いる兵はさらに豪華、かつ清潔で、見事な隊列を組んでいた。

その折、既述のように高来における最優秀のキリシタンの一人である有馬の家老の船には二門の半筒砲が積まれており、他の身分のある貴人たちが乗りこんでいた。ところでその場には砲手がいなかったので、一人のアフリカのカフル人が弾丸を込め、一人のマラバル人が点火していた。そうした厄介な操作にもかかわらず砲は見事な協力のもとに発射を始めた。

なにぶんにも敵兵は大群であったから弾丸が当り損ねることがなく、敵の一群が木端微塵に粉砕されると、(味方)一同は船内で敬虔にひざまずき、両手を合わせ、「パアテル・ノステル・クイ・エース・イン・チェリス・サンクチフィチェル、ノーメン、ツウム」の祈りを声高々に唱えた。そしてふたたび立ち上がると、またもや半筒砲にかなりの弾丸を込めた。

人々が語るところによれば、一発で十人を倒した砲弾もあったという。敵の兜が断片となって空中に舞い上がるのが見え、味方の者はふたたび敬虔にひざまずいて「パアテル・ノステル」を続けるのであった。

これら二門の砲は敵をさんざんに痛めつけ、のちほど中務やドン・プロタジオ、およびその他の殿たちの証言によれば、千人の兵を有しているよりもそれらはより効果的に役立ったという。
というのも、かの海岸の戦列の端の一隊は、それら二門の砲によって甚大な損害を被り、列を乱し出し、その一部は退却し遁走し始め、他の一部は中央から進んできた部隊に合流した。

敵勢は、とりわけドン・プロタジオとその弟を襲撃しようとして彼らがいるところに達したが、両人はただちに躍り出てこれを迎撃した。その奮戦ぶりは薩摩の連中を驚嘆せしめた。両人はまだ弱輩で、身体は強健ではなく、その時まで、こうした緊迫した争闘や妻参な合戦に慣れてはいなかったからである。

彼らはこの働き、また他の勇敢な行為によって、その家臣たち、およびそこにいた薩摩の異教徒たちの心の中に、彼らに対する評価と人望を一段と高めさせることになった。ドン・プロタジオには何発かの敵弾が鉄兜や鎧に命中したが、それらは彼になんの傷も負わせなかった。他のキリシタンの若者には、一発の至近弾が、彼の巻いていた絹の帯に当ったが、その弾は彼をなんら傷つけることなくその足もとに落ちた。

敵はふたたび我らの味方の柵塁を攻撃して来た。薩摩勢はこれに応戦したものの、すでにいくぶん疲労しており、彼我の戦備は極度にちぐはぐであった。すなわち隆信勢は、多数の鉄砲を有していたが弓の数は少なく、長槍と短い太刀を持っていたのに反し、薩摩勢は鉄砲の数が少なかったが多くの弓を持ち、短い槍と非常に長い太刀を備えていた。

敵はつねに新たな戦力をもって攻撃し、次第にその数を増し、すでに三度にわたって味方勢をその柵の中に閉じ込めた。こうして薩摩勢は、かつて味わったことのないほどの危機を迎えることになった。そこで最後の力をふりしぼり、ふたたびこの勝ち目のない一戦に功を奏すべくすべてを賭することに決した。

中務は、この目的をもって、部下の全員に見えるようにと馬にまたがり、自分に続いていた同じく馬上の一人の武将に、兵士たちに対して一席、短い訓辞をするように命じた。

それはこのような場合、意気温喪した兵士たちの士気を向上させ、発奮させるのに、勇敢な武将が試みるのが常となっていたからである。そして中務自身は、己が息子を連れてこの異常な危機に立ち向かったが、それはもはや、ほとんど勝利はおぼつかなく、全員が華々しい討死を遂げることにより、その名を永久に日本に留めんがためであった。

中務が一武将に命じて兵士たちに訓辞せしめた要旨は次のようであった。「女らの背後には、逃避を許さぬ海あるのみ。正面には一万二千、ないし一万五千の敵が迫っており、これらの敵の大部分は、いまだ戦闘に着手してはおらぬ。されば汝らに告ぐ。次のことにのみ心がけ、勇猛果敢に、何恐れることなく突進せよ。我ら全員の討死が避けられぬ今となっては、臆病と卑劣により薩摩の名声を消すことなかれ」と。

これらの言葉がまだ終りもしないうちに、全員はあたかも初陣の功を競う者のように敵を求めて出て行った。薩摩勢の異教徒たちは、ドン・プロタジオの家臣であるキリシタンたちにこう言った。「御身らは、御身らが仰ぐゼズス、マリアの名を唱えて突進されよ。拙者らは、[我らの戦の神なる]八幡大菩薩の名を呼び求めるであろう」と。

(竜造寺)隆信とその軍勢は、味方に劣らぬ迅速さと機敏さをもって応戦した。隆信はその将兵たちに向かって愉快げにこう言っていた。「恐れることはない。我が方には、はるかに多くの兵と資材と弾薬があることなれば勝利は確実だ」と。

そして戦闘が開始された。それは熾烈をきわめ、両軍とも槍を構える暇もなく、手当り次第に刀で相手の槍を切り払った。薩摩勢は、敵の槍など眼中にないかのように、その真只中に身を投じ、鉄砲も弾を込める間がないので射つのをやめてしまった。薩摩勢は鉄砲の代りに、その得意とし、熟練し、また情け容赦せぬ弓矢の業を大いに役立たせて、少なからず敵を悩ませた。

時に薩摩勢の中には、たまたま戦闘の現場から離れていた幾人かの兵がいたが、彼らはしばらく歩くうち、隆信が座乗していた駕籠の前方に現われた。そこで彼らはふたたび戦闘を交えたが、隆信は後方で何か味方の兵士たちの間で争いでも起ったのであろうくらいに考え、大声で言った。「今は味方同士が争ったりしている時ではあるまい。そのようなことをしている間に予がここまで来たのが判らぬか」と。

肩で隆信を担いでいた連中は、敵が激しく槍で突いて来るので隆信を放置し始めた。隆信は立ち上がると、自分を名指す声を聞いた。川上左京殿という薩摩の若く勇敢な武将が隆信に襲いかかり、「我ら一同、貴殿を探し求めて参った」と叫ぶなり、彼を槍で刺した。

隆信はいとも不快な思いをしつつ、しかも両手を合わせてその槍を受けた。彼が合掌したのは、自らが冒涜し続けて来た天地の創造主に対してではなく、彼の偶像への最高の呼称である阿弥陀の名を呼び求めながらそうしたのであった。

彼の首は、ただちに彼を槍で刺したのと同じ人の手で斬り落された。その時、容姿端正な十四、五歳の一少年が隆信に抱きついた。人が語るところによると、隆信はこの少年とよからぬ愛情関係にあった。
そして隆信はその赴くところ、つねにこうした少年を二、三人、馬に乗せて伴わせていたという。隆信にとって地獄の旅の道連れにするには、守護の天使ならぬこの少年ほどふさわしい者はなかったので、人々はこの少年も殺してしまった。

一方、敵は我らの味方の砲撃に恐れをなして、列を乱して後退し、隆信がすでに戦死したとの報せを陣中で耳にすると、彼らの上には大いなる恐怖が襲いかかり、聖なる正義の鞭をその背に受けるべく敗走し始めた。

後方を走っていた連中は、道を開きよりよく逃げるために前方にいる連中を殺して進んだ。立っている者は戦死者の上に重なり合って倒れたり、一歩ごとに負傷者に頸いた。差し迫った恐怖は彼らの足に羽を生じ、またこのような一刻を争う緊急時には、いかなる重荷もいっそう重く感じられ、かくも急速に破滅の時が訪れると彼らはもう我慢できなくなって、身につけていたものを手当り次第に放棄し始めた。

槍、鉄砲、弓矢、豪華な鎧、塗金した兜を放棄したのみか、背後から聞こえて来る叫喚は、彼らの眼前に死の像を示したので、腰に帯びている大小の両刀まで手放した。さらにひどいのになると、より身軽になるために、ある者など着衣まで脱いで素裸となり、それを見た人たちは、まるで鹿のようだと言っていた。なかには走らせすぎてその乗馬を死に追いやってしまう者さえいた。

薩摩勢はすでに疲労しており、敵同様に傷ついていたので、その幸運な勝利の追跡範囲を、島原から三会城に至る一里強の距離に留めざるを得なかった。その間の道という道、田畑、平野では、死体と血と無残な傷、絶命しようとする者の悲しい呻き声のほかはなかった。

勝利者たちも、過ぎ去った労苦を自らねぎらおうと、途次見つけた戦利品を拾い集めて行った。それらの中には、金や銀を用いて作った豪華な太刀や短剣など高価な品もあった。

戦場で生命を失った者の相当数は、拾得された戦利品の紋章が示しているように身分の高い人たちであった。行く先道中で見受けられた負傷者の数は甚大で、彼らはその痛みの激しさと致命的な傷のためにいたるところで死んでいった。

このたびの戦闘で、かの人々から敬愛されていた座主は、隆信に随伴していた他のすべての仏僧たちとともに死んだ。隆信の一人の兄弟と総大将の兄弟、それに戦の占いをする陰陽師も戦死した。その他大勢の貴人や、諸城の高名な殿たちも死に、島原から三会にかけての戦場だけで、二千を超す死者と三千の負傷者が出たと証言されている。それらの負傷者の多くは死を免れ得ないであろう。

薩摩勢の戦死者は二百五十人内外で、有馬のキリシタンからは十五、ないし二十人の死者がでただけであった。その他同じく相当数の負傷者が出た。

中務(島津家久)が勝利を収めて三会から帰還する間に、不思議な一事件が生じた。彼の全軍が、ある道を通過していた時のこと、道端から敵方の一人の若者が出て来て、恐れる気色もなく薩摩の兵士たちにこう告げた。「殺すことなかれ。某、薩摩国主の御令弟に重大な秘密をお打ち明け申す必要がある」と。中務は乗馬のまま、家臣を遠ざけてそれを聞こうとした。

かの若者は、これが敵将を討ち取る最後の機会であることを承知しており、突如、腰に帯びていた刀を抜くと中務に、一つは腕、他はふくら股の箇所に二つの傷を負わせた。中務の家来たちはただちに馳せつけて、勇敢に戦うその若者を討ち取ったが、彼らが来るのが今少し遅れていたならば、勝者は敗者となるところであった。

下の諸国を、隆信の名により震撼せしめていたかの暴君の不運な末路は以上のようであった。彼の首級は、その後まもなく、槍先に突き刺されたまま、島原の柵塁の傍に曝され、その後、薩摩の国主に見せるため、土産物として薩摩に持って行かれた。

隆信を討ち取ったという吉報は、夜の十時に有馬城にもたらされた。一同が示した喜悦のほどは格別であった。鐘が打ち鳴らされ、人々は熱狂した。戸や窓が開かれ、明るい灯明が一方から他方へと走り、あたかも有馬は混乱しているかのようであった。同様の歓喜は、その他、高来の全土においても、かの暴君隆信がことに脅迫していた長崎でも見受けられた。

既述のように高来の二つの鍵の一つをなす千々石城は、それから二日後に城が明け度され、そこに立て籠っていた隆信の兵士たちは遁走した。そして有馬殿の弟で、元城主であったドン・エステワンが、ただちに自らの居城としてそこに入った。

島原の城主は、その率いる他の謀叛者全員とともに、己が完全な無力さを認めるとともに、さっそく薩摩勢と協議を始め、もしも己れおよび部下を助命してくれるならば、城を明け渡すであろうと申し出た。協議はそのようにまとまった、ついで彼らは堂崎城の傍に人質として置かれていたが、その一、二ヵ月後、夜間、密かに船で佐賀に向かって脱出した。

だが彼に伴っていたその弟、および他の貴人たちは、ドン・プロタジオの兵士たちによってまもなく殺害された。この件について、副管区長(コエリュ)師には、とりわけ心を悩まされる問題があった。
すなわち同司祭には、一同が考えていたように、たとえ島原城の者と協議がまとまっても、薩摩勢は、城中にいた大村の三百人のキリシタンの生命をどうあろうと許しはしないのではあるまいかと思われた。

それらのキリシタンは、ほとんど全員が貴人であり、ドン・バルトロメウ(大村純忠)領の要人たちであった。だが我らの主なるデウスは、この奇跡的な勝利において、キリシタンに対しては、彼らに特別の配慮と導きのあることを悟らせようと、副管区長のドン・プロタジオに対する処置によって、彼らキリシタンが一人として死ぬことがないよう取り計らい給った。

彼らは捕虜にもされず、武器や馬を没収されることもなく、それのみか、人々の予想にまったく反して、彼らは解放され、大村に帰ることが許された。なおその上に彼らには種々の援助がなされたのであって、それは過去のいかなる御恵みにも優る主なるデウスの恩恵というべきものであった。

最強、かつ不落を誇っていた深江城の連中はことごとく逃亡し、こちら側から、ただちに城に放火した。ドン・プロタジオはその城の収入を、伯叔父にあたる家老に与えた。ドン・プロタジオの領内および管轄区で、彼に謀叛したその他すべての諸城において勝利が確認され、デウスの御恩寵によって、彼らは短期間にドン・プロタジオに降伏し服従した。

大野城は、高来の管轄地の最終端にあり、その城主は貧しかった。ところでどうしためぐり合わせか、隆信がそこをどうしても通らねばならなくなり、しかも彼には、その場所が安全かつ、もっとも好都合に思えたので、彼はその城を隠れ家、倉庫、食糧庫とした。
そしてそこに多量の火薬、二門の砲、米千俵、自分と息子たちの衣類が入ったおびただし数の葛籠や大箱、鎧、その他戦のための兵器や軍需品を貯蔵せしめた。

不運な隆信が死んでしまったので、城主はただちに自分の真の主君であるドン・プロタジオに投降し、敵が城に貯えておいた軍需品をすべて受けることになった。そしてその後一年あまりして、この城主はキリシタンになった。

ドン・バルトロメウ(大村純忠)の息子ドン・サンチョ(喜前)は、波多殿というその従兄弟と波多の地に赴き、そこで二年近く抑留されていた。彼はその後、大村に戻されて今に至っているが、彼の二人の弟は隆信の息子政家がいるところで人質となっている。

隆信には三人の息子がいた。いずれもこのたびの戦に参加したが、皆生還した。三男は家信と称し、後藤山の領主で、比類ない騎士であり、稀有の才能を有している。彼はかねてよりキリシタンになりたく思い、すでにいくつか説教を聴聞し、デウスの教えに愛着を示していた。

そして帰陣すると、さっそく長崎の教会に密かに伝言を届けた。彼はその使者が疑惑を抱かれずに受け入れられるようにと、かつて自分が副管区長からもらった署名入りの書状を持参させた。彼はその伝言において次のように述べた。

「デウスの教えの大の反対者であった父君が亡くなって、すでに障害が除去されたことゆえ、久しく心の中に抱いていた望みを今こそ実現したい。ついては、もしできうれば、家臣たちに説教を聞かせるために、一人伊留満を御派遣いただきたい。まず家臣たち全員をキリシタンにし、ついで自分もキリシタンになる約束を果すであろう」と。

だがデウスの御判断は人間の考えとは大いに異なっており、彼は戦から帰って、嫡子の長男が父の遺産を相続することになると、将来いかに処すべきかについて苦悩し危惧し始めた。

家信は年若く勇敢な武将であったので、父の不幸な死や、武名を誇る多数の家臣を喪失したことを嘆き悲しむに至り、その上、兄弟の彼に対する悪辣な仕打ちなどがあって、あれこれの思いに閉ざされ、ついに気が狂って正常な判断がまったく不可能となった。そこで今に至るまで中にいれられ監視を付される身となっている。