【フロイス日本史】沖田畷の戦い(1)

第五〇章(第二部四九章)
ドン・プロタジオ(有馬鎮貴)が薩摩国主に援助を乞い、(薩摩国主が)弟中務殿を彼のところへ派遣した次第

(竜造寺)隆信は、大村の地とその領内のキリシタン宗団をことごとく掌中に収めた後、その悪魔的な企図を実現しようと、ドン・プロタジオ(有馬鎮貴の勢力)を根絶し、彼が閉じこめられているわずかな地からも彼を放逐して、自らは肥前の国の絶対君主になろうと決意した。

ドン・プロタジオは、自らがこの上もない窮地に立たされているのを見、薩摩の国主に一対し、この暴君(竜造寺隆信)から不法に奪われた土地を奪還してもらい、切迫した己が身の危険から救われようと、この暴君に対する救援を懇請し続けた。
ドン・プロタジオは、すでに一年半以上もこの懇願を続けて来たが、薩摩の兵は、肥後国の征服に従事していたので、有馬に対しては地上での警備に当る少数の兵を派遣して援助するに留まった。

従来、薩摩勢がドン・プロタジオになした最大の援助といえば、高来に向けて進出していた約千五百人あまりの薩摩の兵が、千々石城(釜蓋城)を襲撃したことであった。同城の初代の指揮官で城主だったのは、(千々石)ドン・ミゲルの父親で、そのドン・ミゲルは巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノがヨーロッパに派遣しようと連れて行った四人の少年の一人である。

(竜造寺)隆信はその千々石城を、有馬殿の弟ドン・エステワンから奪取していたのである。薩摩の兵は有馬の兵ともども、激しい勢いをもって武力を用い、攻略が至難と目されていた第一矢来に侵入した。彼らは大勢の敵兵を殺し、捕虜にし、その地を蹂躙し掠奪した。

だが山頂にいた指揮官と若干の兵士たちは、早く戦利品をもって帰りたいと野望するのあまり、敵を思う存分に撃破するに必要な一両日を待ち切れず、最良の獲物である城を放棄したまま、ドン・プロタジオがこの上もなく望んでいた目標を達することもなしに引き揚げてしまった。けだし同城は、ドン・プロタジオの高来領における、二つの鍵ともいうべき城の一つをなすものであった。

薩摩の国においては、国主の第二の弟の中務(島津家久)と呼ばれる人が、この有馬救援の企てを行うことを望んでいた。それは彼が戦において他の追随を許さぬ勇敢な武将であり、またドン・プロタジオに、彼が失った栄誉を奪回してやることによって自ら名声を嵐ち得ようと願っていたからである。

だが薩摩には、彼と張り合う競争相手がいて、意のままにその行動に出ることができないばかりか、国主はそのための軍の出動を許可せず、彼との間にも仲違いが生じたほどであった。事実、軍勢を出水、薩摩、日向の諸国から高来に向けて差遣することは多大の困難を覚悟せずにはできないことであった。

というのは、道のりはきわめて長く、軍勢が必要とする食糧を携えて行かねばならず、そのためには陸路十日ないし十二日を要するほか、有馬の湾に入りこむ海を二十里近くも航海せねばならなかったからである。薩摩にはそれほどの船舶の余裕がなく、海にしてもその激しい変化によってつねに平穏な旅を保証してくれるわけではなかった。こうしたことから中務(家久)は企ての実行を決してかねていた。

だが中務は、国主(義久)、および国主を取り巻く重臣たちに、出陣を許可してもらいたいと、なおいっそう懇請を重ねた。そして彼はついに彼らの許可を得、期するところがあったので、高来にあるだけの船舶を薩摩に寄こすように要求させた。

そしてそれらの船舶を調達すると、それにより、枝の主日(復活祭の一週間前の日曜日)後の週日に、さっそく対岸に渡った。その際、彼は戦で鍛えさせようとして、十五歳になる息子を同行させた。中務とともに渡航したのはわずか八百人くらいの兵士だけであったろう。だが彼らはいずれも赫々たる戦功に輝く勇士たちであった。

ドン・プロタジオが(竜造寺)隆信のために、いかに追い詰められ窮地に立たされていたかを理解するためには、有馬殿には小浜という城しか残されていなかったという事実を知らねばならない。それは隆信が高来の支配者となるために押えていた二つの高来への入ロの一つである千々石城に向きあったところにあって、貧弱、かつ防禦設備がほとんどない城である。

そこから先わずかのところに串山という別城があり、その地から加津佐までは二里の距離がある。そこから半里の口之津は、シナ(マカオ)の定航船が入る港の一つである。その先に日野江と呼ばれる有馬の城があるが、そこは有馬殿の居城で、口之津から二里離れている。

有馬には、下地方の神学校があって、身分の高い人の息子たち四十人近くの少年が在学している。有馬の先、約半里のところに有家があり、そこに我らは、立派な教会と高来における主要なキリシタン宗団を有している。そこから日本の一里近く先に進むと、堂崎の城があり、そこで有馬殿の領地は他領と隣接している。

その先には、有馬殿に叛起した深江城があり、その結果として安徳と呼ばれる他の城もほとんど強制的に謀叛に加担させられたが、同城は後になり、好機をつかんでふたたび有馬殿の下に戻って来た。

深江から一里近く先に島原が続くが、それは有馬に次ぐ有馬領の主要な領地で、そこの城主、かつ領主は、ドン・プロタジオに叛逆した首魁であり、その人物が他のすべての有馬領における謀叛の強力な要因となった。
そこから先には、かつて有馬領であった三会、多比良、神代、その他の諸城が続いている。中務は有家の町に到着し、彼らはそこで、我らの修道院と教会の近くに投宿した。当時、加津佐にいた副管区長は、中務、および彼に伴って来た他の殿たちを訪問させた。彼らは伝言をもたらした日本人の修道士を手厚くもてなした。

同年、すなわち(一五)八四年の二月、長崎において夜の八時に三、四晩にわたって火柱が空に現われ、しばらくの間続いてから消えた。このような不思議な現象は、つねに人々をして深く考えこませるものなので、誰もその不可解なことが、いとも早く解明されようとは期待していなかった。それに加え、陰陽師たちは、隆信がもし高来に行くことになれば、一身および生命につき恐るべき苦労と危険を覚悟せねばならない、と予言した。

たまたまこの出来事は四旬節に生じたので、高来の人々の間には、キリシタンの信仰や宗門に善意を寄せる者が少なくなく、キリシタンたちも危険が切迫したのを見ると熱心さを倍加して、週に三度も教会へ鞭打ちの苦行に出かけて行った。

金曜日には、有馬城の重立った貴婦人たちまでが、鞭打ちの苦行がなされている場所に居合わせようとして、午後の説教を聴きに教会に出かけて来た。
告白のために陸続と来る人々、絶え間のない祈りの業、無垢な子供たちの叫び声、大小の道を鞭打ちながらつねに歩いて行く人々の数、十字架のもとに馳せつけて、主なるデウスに憐れみを乞う婦女子たち、すべてそれらは、我らの主なるデウスが、その無限の仁慈をもって、この新しいキリシタン宗団を助け給い、主を畏れる者たちの霊魂が地獄の野獣どもの手に渡されることを許し給いはせぬとの信頼感を一同に与えずにはおかなかった。

司祭たちも彼らとともにミサにおいて犠牲を捧げ、修道士たちは祈りに励み、同じ目的のために全員が断食し、鞭打ちの苦行をした。なぜならば、危険はますます増し、人間的な工作とか対策による救助の希望は失われつつあったからである。

ラザロの週に、副管区長(コエリュ)師は、長崎から高来に向かって出発した。そして口之津から、ただちに有馬の地にドン・プロタジオを訪問した。すでに戦の時期が差し迫っていたので、司祭は殿を激励しようとして、教皇グレゴリオ十三世が当地方の重立ったキリシタンの君侯たちに配るために送り届けて来た、金と七宝の最良の聖遺物入れの一つを与えることにした。

日本人はきわめて儀式を重んじ、かつ好む傾向があって、物品を贈る時の作法に従って、贈られた物を評価するのである。次の日曜日にドン・プロタジオがミサと説教を聴き終えると、折から教会は人々で満ちていたが、神学校の校長ベルショール・デ・モーラ師が短白衣と襟垂帯を着けたまま出て来て、聖堂の祭壇の階段で必要な儀式を司った。

まず司祭は、殿に何を授与するかを、そしてとりわけその品は教皇聖下から贈られたもので、どれほどの貴重品であるかを述べ、金の紐をつけてそれを殿の顔に掛けた。殿はその間、祭壇の前で跪いたまま両手を合わせてそれを受けた。

この行事は、同席していた城の貴人や貴婦人たちに大いなる喜びを与えた。殿はこの上もなく喜び、それを言葉でも表わして副管区長に次のように伝えさせた。「予はこの聖遺物に対する信仰によって、我らの主なるデウス様が、戦において立派な勝利を授け給うであろうと期待している。予はこのような尊い品を受けるにふさわしくないと考えており、これは盛大な祝典の際とか、なんらかの生命の危険に曝された時以外には用いないつもりである」と。

ドン・プロタジオの家臣であるキリシタンの貴人たちは、できうる限り告白し聖体の必墳に与かって己が身を強化しようと努めた。司祭たちは夜の十時まで彼らの告白を聴いた。ある者は祝別されたコンタッを、また他の者は一種の聖遺物入れを求め、それらで身を固めることを望んだ。ある兵士は胸に聖母の小さな額を掛けていた。

彼は、ごくわずかの間、その額を他のキリシタンに貸したところ、その者はそれを顔に掛けた瞬間、聖母の額の傍に銃弾を受けた。だがそのキリシタンは掠り傷一つ負わなかった。

第五一章(第二部五〇章)
有馬殿が中務と島原城を包囲しに行ったこと、および高来における危険について

薩摩国主の弟、中務(島津家久)が高来に移ると、有馬殿はただちに兵士を率いて彼のもとに駆けつけた。そして薩摩の側からは、つねに毎日新しい兵士が高来に渡って来た。その数はもし船舶が不足していなければ、はるかに多くにのぼるはずであった。

有馬の軍勢はそこから、既述のように島原から一里近く離れた安徳城に向けて出発した。そこで敵と最初の交戦に入るためであった。中務は息子を従え、自ら島原の地形、および攻撃を開始するにあたっての配備を視察に赴いた。島原城の占拠は、彼の最大の関心事だったからである。こうして暗黒の水曜日に全軍は島原の周囲に布陣した。

一方、中務が、当時すでに四千人近くに達していた兵を率いて位置につき、他方、有馬殿が、千人前後の兵を率いて陣を構えた。彼が設けた陣営で、のちほど彼が生命を全うしたのは、柵や木の矢来で陣が固められ、敵方の畑にあった小麦や青い未熟の大麦で陣屋が施われていたためであった。
ドン・プロタジオ(有馬鎮貴)はその陣営に、五十ないし六十旅の十字模様の旗を立てたが、それらは大勢の異教徒が参集している中にあってすばらしい景観であった。

そうこうしている間に隆信が、自領の佐賀から島原城に向けて送った食糧と酒を満載した二十隻の船がやって来た。だがそれらの船は、島原の港に入ることができなかったので、船上の人々は深江城に身を寄せようとして櫓を漕ぐ手を早めた。

我ら有馬方の武装船隊は急遽これを迎撃し、わずかに抵抗を受けただけで、陸地で彼らを一掃したので、兵士たちは深江に逃亡した。我ら味方の兵士たちは、敵の船舶を荷を満載したままで分捕った。そして時に、これらの分捕品は、すべての兵士たちに少なからぬ援助と悦楽をもたらした。

戦にかけてはこの上もなく狡猾で用意周到な隆信は、島原城からの使者に接した。彼が伝達したところによると、「援軍を派遣されるよう要請する。かならずや勝利を博し得るであろう。なぜなら薩摩の軍勢はごく少数であり、出撃して来るならば容易にこれを撃破し、皆殺しにできると確信しているからである」と。

狡猾な隆信は、この好機を耳にすると、ドン・バルトロメウ(大村純忠)の兵士の中から、大村にいたわずか三百人の、もっとも身分が高く勇敢で重立った者だけを深江城に派遣した。それはそこを通過するであろうと思われる有馬勢を地上で妨害するためであった。
だが薩摩の兵士たちがその近傍に配置されていて、彼らは深江城に入ることができなかったから、そこを通り越して島原に入りこんだ。

隆信はさらに、約五十隻の船で、鍋島殿という総大将と五千の兵を島原城に入れるために派遣した。だが彼らは、海上からも島原を包囲していた高来と薩摩の多数の船舶のために、そこに上陸することができなくて、三会城に入らざるを得なかった。

彼らは到着当日、示威運動を起して、さっそくにもなんらかの目覚ましい武勲をたてようと望んでいたが、その企ては失敗してしまった。というのは、彼らを見つけた薩摩の兵士たちは、恐るべき迅速さをもって彼らを三会の城門まで追跡したからであった。そこで彼らは大急ぎで城内に引き揚げた。

薩摩勢は、彼らの生命まで奪いはしなかったものの、素手で引き返すわけにもいかなかったので、三会城外の村落をことごとく焼き払った。その日、村では市っていたので、彼らは若干の獲物を入手し、それを携えて帰陣した。

我らの主なるデウスは、その御憐れみを表わされ、我らの信仰を試みようとして、時には人々を極度の危険に陥れ給うを常とする。それは、後になってから、勝利は人間的な細工とか努力によって職ち得られるものではなく、ただひたすら、デウス自らの御慈悲と御援助によるものであることを人々に悟らせんがためである。

危機の焦燥と切迫感は、いたるところで司祭や修道士たちを掩い始めた。そこには[人間的にいって]ほとんどいかなる対策をたて得る希望も残されてはいなかった。

というのは、ドン・プロタジオ(有馬鎮貴)が薩摩国主の(島津中務家久)に伴って島原に出陣した時には、有馬、およびその他有馬領の各地から、それらの地にいるだけすべての兵を率いて行ったので、どこもかしこも防備については空白状態となり、村落や街路では婦女子と幾人かの老人が見受けられるだけで、それらの老人でも、まだ戦える者は戦場に駆り立てるほどであった。

ドン・プロタジオは、有馬が包囲されているので、彼としては出発前にも出発してからももっとも重大な関心事であったから、時々有馬の神学校の校長に書状や伝言を届けて、次のように乞うところがあった。

「予には、尊師以外に親と思う方はおられませぬ。尊師は予の師匠でもあられることなれば、城と邸と、それに全員キリシタンゆえ、予の家族を守護して下さるよう、くれぐれも御依頼申す」と。

事実、有馬の城には、門を開閉するための、病弱で身体が不自由な四、五人の老人が残留しているだけであり、神学校の校長である司祭は、どうにも放置できない状態であったから、一人の修道士や修道院の小者たちとともに城の見張りをして、城の上部に避難している、すべての貴婦人や女中、および少年たちに、その置かれている危険状態から何らかの惨事が起らぬよう警戒に当たる必要があった。

かくて二人の司祭が、夜間に神学校で、修道士たちといっしょに夜警を務め、教会の鐘を警鐘とし、神学校の校長の司祭は、城からジャヴァの鐘をもって応答した。
第二の危険は、すでに(竜造寺)隆信の命令で、多数の兵が千々石城に集結しており、他の防備力が弱い地方や町村が襲撃されるであろうとの噂があったことである。

第三の危険はこうした場合にあり得ることで、既述の危険と比べるとはるかに大きく、人々を極度の不安に陥れたものであるが、総大将の鍋島が、(竜造寺)隆信のもとに使者を遣わして、次のように伝えたことが判ったことから生じたのである。その進言とはこうであった。

「もし殿が苦労することなく高来の絶対君主となり勝利を収めようと望まれるのならば、千々石城を出て、抵抗する兵を有しておらぬ諸町村を次々と破却し焼滅させて進撃して来られるのがもっとも確実、かつ得策と思われる。このようになされば、婦女子しかいない有馬城は無抵抗のうちに容易に獲得なされるであろう。このような戦を挑めば、薩摩勢に動揺を起させることになろうし、有馬城を抑えれば、その地の者は少数ゆえ、人として討ちもらすことはあり得ませぬ」と。

かくて司祭たちは、深い悲嘆と不安のうちに、教会の焼討ち、高来キリシタン宗団の全般的な破滅と死を昼夜を問わず今か今かと予期していた。司祭たちはそうした光景を念頭に描き、彼らは大いなる恐怖に陥っていた。

司祭たちが承知しているのは、こんどこそ(竜造寺)隆信は、肥前の国からキリシタンの名をことごとく消滅させることを狙っているということ、また「勝利を博した暁には、自分が娯楽として最初にすることは、副管区長の伴天連をさっそく十字架につけて処刑することだ」と言明していたこと、そしてついで長崎の港を自分の兵士たちに与え、彼らの労苦に報いるため、その港を掠奪し破壊することを許すということなどであった。

多くの者は、隆信が勝利を博すことは明白なことと見なし、既述の行動に出ることを彼に勧告したにもかかわらず、隆信が、ある別の思惑から、その進撃を思い留まったのは、彼の闊達な才能とか、悪事をなす上での繊細な知識に負うのではない。いなそれはひとえに、我らの主なるデウスが、主の御憐れみを求めており、主なるキリストがその尊い御血をもって噴い給うたこの新しいキリシタン宗団が、隆信の冒濱的な手で滅びることがないようにと、彼の目を晦ますことを欲し給うたにほかならなかった。

その頃、加津佐にいた副管区長(コエリュ)師は、バスチアンというきわめて善良で年老いたキリシタン貴人が同地における主要人物であったところから、彼がその地に有していた少数の農夫や家来たちに、教会の地所内に一種の柵を設けさせ、その地域の婦女子が敵の最初の襲撃に際して避難できるようにしてほしいと説得し始めた。そのことはさっそく実行に移された。

だがそういう対策が、強大で残虐な暴君(隆信)の猛攻撃に対しては何の役にも立たぬことが判ると、彼ら一同はその仕事をほんの義理立てに行なうだけに留めた。そこで副管区長の司祭は、隆信の兵士たちが攻めて来れば、仮に逃げられるものなら、山中に入ることに決めた。

加津佐から半里離れた口之津の村でも、まもなく海陸からの攻撃を受けるものと覚悟していた。副管区長は、同僚のルイス・フロイス師をその地に遣わして、村民たちに、己が身と妻子、家族の生命を守るように、そしてこの上もない危険に曝されていることだから、高台にあり堅固な教会の地所に、一種の柵をここでも設けて、人々が避難できるようにすべきだと説得させた。

その口之津の教会には、日本の教会を扶養する物資の大半が置かれていた。そして二人の司祭と四人ないし五人の修道士が常駐していた。フロイス師は何人かの村民を召集させたところ、夜の七時になって二人の老人が来た。その一人は片目で、ひどく衰弱していた。司祭が長々と説得し終えると、彼はおもむろにこう答えた。

「村の者は総出で出陣しております。防禦のために人手となるものは誰一人残っていない現状では、デウス様のお助け以外に救われる道は何もないことを御承知いただきたい。でも、私たちにできますことなら何でもいたしましょう」と。

フロイス師は少なくともしっかり村を見張ることくらい、さっそく引き受けてくれるものと期待していたのだが、その人たちは身体の具合が悪い老人たちであり、のんびりした連中で就床してしまったらしく、司祭や修道士たちがやむを得ず、夜通し当番を引き受けて海と陸を警戒した。

第四の危険は、以上に劣らず我らを緊張させ不安に駆り立てたものであるが、それは薩摩から派遣されて来た援軍は、当時はまだ少数だったことである。も
しも(竜造寺)隆信が大軍を率いて攻めて来るならば、我らの味方は、島原と隆信の軍勢の間に挟まれて、一人として逃れ得ない事態に陥ることは明白であり、それにより、イエズス会が多年にわたって手塩にかけて来た、高来と大村のキリシタン宗団は、ただちに彼に従属せしめられ、破壊される羽目に陥ることは必定であった。

さらに有馬の幾人かの捕虜の若者たちが逃走したことも、司祭たちに不安感を抱かせていた。これらの連中は、何らかの賞与に与かろうとして密かに主君の家を脱出し、隆信に情報を提供してこう伝えた。有馬はいかに孤立し見離されていることか。もし貴殿がそれを占領しようと思うなら、先方には誰も抵抗する者はいないし、そのほか彼らは多く動揺し、不安に襲われ続けている、と。

果敢な武将である中務は、従来よりいっそうの入念さをもって陣屋を固めさせ、陣地を整備させた。ドン・プロタジオも、自らは不便な地点に位置していたけれども、同様に堅実に構えた。

第五二章(第二部五一章)
隆信がその軍勢を率いて出発した次第、および彼の兵力と装備について

(竜造寺)隆信には、自分の武将としてのあらゆる地位が、このたびの一野戦にかかっていることが判っていた。この戦に勝利を博することによって、彼は肥前、肥後両国の絶対君主となり、日本において大いなる名声を獲得し得るし、あるいは敗北するならば己が名誉、地位、生命、果ては息子たちの生命をも失うことになるのであった。

そこで彼は、これに自らの最後の力を投入することを決意した。彼は素性が下賤であり、暴虐をほしいままにしたものの、多量の金銀を蓄え、その残忍さと暴虐さによって、この上もなく一門から畏怖され、日頃は忌むべき快楽に耽溺し、求め得るあらゆる娯楽に身を委ねた日々を過していた。

だが今や彼は、それらの財宝も日頃の悦楽も忘れたかのように、そしてとりわけ、多忙な戦局を処理するにはすでにふさわしくないと思われる六十歳という年齢をも忘却したかのように専心して事に当った。彼は、このたびの出動準備を、極秘のうちに、かつ短期間に整えるように命じ、我らが全く準備を欠き、助かる見込みのないうちに、我らの諸城を完全に占拠することを目論んだ。

その細心の注意と配慮と決断は、ユリウス・カエサルとて、それ以上の迅速さと知恵をもって企て得ないかに思われた。元来、日本人はこうした機密についてはやや開放的なところがあり、また敵とあまりにも接近していたにもかかわらず、隆信は敵に気づかれないようにと細心の注意を払ったから、我らは次のことが復活祭後の木曜日の聖ジョルジの祝日になってやっと判ったほどであった。

その日の朝、逃亡して来た一人の異教徒の若者が有馬城に駆けつけてこう言った。「隆信は全軍を率いて、すでに伊佐早城にいます。明、金曜日には天明とともに、中務殿およびドン・プロタジオ殿の両陣営を破壊するために襲撃して来ることは間違いありませぬ」と。

この男は、有馬から、その夜ただちにそこから七里距たったところにいたドン・プロタジオの軍勢のもとに遣わされた。日本の習慣によって、軍勢はその男を一晩中拘留した。それは彼が真実を語り、一点たりとも違わぬかどうかを見届けるためであったが、はたして彼が告げたとおりのことが起った。

対岸の高来に渡っていた薩摩軍は、船舶がさばき得た兵数に応じて態勢を固めていった。すでにその頃、我らの味方の陣営には、ドン・プロタジオの軍勢を合わせて、六千三百しを超すほどの兵士がいたであろう。薩摩の軍勢は、戦については誇り高く、能力を備え、かつ敏捷であった。彼らは島原城に対して最初の攻撃を加えようとして、なお多くの兵士の到着を待っていた。

(竜造寺)隆信陛下の戦列は、あたかも彼が奉仕している悪魔が彼を援けているように見えた。その隊列は見事に配分されていて、まるで彼はヨーロッパの戦術図、ないし戦術計画を入手しているかのようであった。彼は一万二千の戦闘員を率いていたが、彼らは豪華に装い、また清潔で気品があり、戦場で錬磨された兵士たちであった。

隆信は三人の息子たちをも伴った。一人は政家と称する嫡男で、二人目はドン・バルトロメウの娘婿、城原殿、三人目は後藤の領主、家信である。さらに戦功の誉れ高い隆信の兄弟の一人が参戦した。総大将は鍋島殿と呼ばれた。ドン・バルトロメウの息子ドン・サンチョ(喜前)も従軍しており、隆信は自分に従うその他大勢の身分の高い殿たちを率いていた。

前衛、すなわち軍勢の正面に、隆信は千艇近い鉄砲隊を伴ったが、それらの鉄砲は火縄銃、あるいはマラバルの小型銃ではなく、大筒に似た大型の銃砲であり、一人の男が肩に担いで運搬するには苦労するほどであった。すぐその後に、千五百の塗金の槍が続き、その後を長刀と、大筒の火縄銃の別の隊列、および弓矢を携えた列が進んだ。さらに小型ではあったが二門の大砲を携えていた。

というのも、それを発射できる者がいなかったからである。すぐそれに続いて、最初の隊列のように他の鉄砲隊が進んだ。れらは全部で三千ないし四千に達するであろうと言われた。その後に続くのは、他の倉の隊列、その他といった具合であった。隆信はそのほかにも自分が敬愛する座主を伴わせたが、この人はきわめて高貴な仏僧で、その名声と資産によって日本中で著名である。

この座主に他の十五ないし二十人の仏僧が従い、悪魔を呼び求め、彼らが礼拝する偽りの像に犠牲と祈臓を捧げながら行進した。同じように隆信は、守(勝)一軒と称する自らの相談役を務める一人物を伴わせていた。キリシタンの大敵の一人である彼は大いなる占い師、また魔術者であり、彼については、毎晩、悪魔と直接対話していると言われる[ただしこ一のたびの戦について悪魔たちは彼に真実を告げなかったらしい]。

敵将たちは、攻撃および防禦の武器で必要以上に身を固め、大量の食糧はいうに及ばず、火薬その他、戦のためのあらゆる必需品を携えて来た。敵はまた、短期間に勝敗を決しようとして、魔除の先が尖った短い棒を大量に持参しており、その杭を我らの味方の軍勢の矢来の壁に打ちこんで、それを足掛りにして登り、一挙に内部に入って壊滅しようと企てた。

薩摩勢はこれらの敵を見た時に、それがいともおびただしい大軍であり得ようとは想像もしていなかったから、つとめて平静を装い、自力に信頼し、短期間にこれを打破し全滅させるのは容易であると考えて初めのうちは敵を眺めていた。

しかるに薩摩の連中は、戦場が敵軍に埋め尽されており、島原から三会まで一里の間というものは敵の軍団以外には何も見えず、それも単なる軍勢ではなく、いずれも高貴で華麗な将兵が金色の鎧をまとい、同じ色で飾られた槍を携え、無数の工夫を施した黄金色の兜をかぶり、大小の刀剣の鞘も、あるものは金、または銀を用いており、若い元気溌刺とした兵士たちで満ちているのを見ると、互いに顔を見合わせ、やがて沈痛な面持ちに変っていった。

隆信勢は三列をつくって布陣した。その一つは山に沿って前進し、他は通常の道を通り、いま一つは海岸に沿って進んだ。この隆信勢の光景が我らの味方の兵士たちの心を大いなる驚愕をもって包めば包むほど、他方それは攻囲されていた島原城の連中を喜ばせ安心させた。

すでに老齢の隆信は、六人の部下が肩に担ぐ駕籠に乗って、軍勢の中央を進んだ。彼は我らの陣営をその目で確かめようとして、ある山頂に登ったが、そこにはわずかの兵士しかいないのを見て大声を発して笑い、いとも傲慢かつ尊大な口調でこう言った。

「よもやこれほど少数の者どもと戦うためにこれまで準備していたとは思わなかった。せめても後世日本の諸国で我が勝利が語られ、有名になるために薩摩の全軍がここにいてほしいものだ」と。そして衷心から、相手は無きに等しく、その運命は己が掌中にあって自つの勝利は定まったと考えた。

中務は急遽、二門の大砲を船積みするように命じた。それらは中型の半筒砲で、有馬殿の伯叔父にあたり、有馬の家老ジョアン左兵衛殿の持船で、同所にあった最大の船に積み込まれた。ジョアンおよびドン・プロタジオの家臣である他のキリシタンの貴人たちは、敵が浜辺にあった船舶に放火しないうちに、そして海岸沿いに来ていた敵の戦列の端に銃砲による打撃を加えるために、それらの船に乗りこむよう命ぜられた。

さらに平田殿というジョアンの一指揮官には、敵が戦の最中に島原城から出て来て味方の背後を衝くことがないようにと、千人の兵を率いて島原城の正面に布陣するようにとの命令が下された。
安徳の城はそこから一里ばかりのところにあって、彼は日頃たびたびそこに宿泊するのであるが、そこには五百人の兵を入れ、その間警備に当らせるよう手配がなされた。