1599年 家康が権力を強化

1599年勢力図 ※スマートフォンはタップせずに拡大表示できます
※前田家の領土は前田利家没後の領土範囲


 

<豊臣家>

慶長4年(1599年)

慶長4年(1599年)、豊臣秀吉の死後、徳川家康は縁組み禁止法度を破り諸大名と婚姻関係を築く。
慶長3年、辰千代(家康の六男、後の松平忠輝)と五郎八姫(伊達政宗の長女)が婚姻。
慶長4年、満天姫(家康の養女、父は松平康元)と福島正之(福島正則の養子、父は別所重宗・母は福島正則の姉)が婚姻。
慶長5年、氏姫(家康の養女、小笠原秀政の娘)と蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の長男)が婚姻。

 

朝鮮出兵の出来事をきっかけに、石田三成と徳川派の武将の間に対立が起きる。

「慶長の役の際、福原長尭(朝鮮出兵時の軍目付、石田三成の妹婿)なる者が石田三成を通じて、諸部隊が留まったまま進軍しないと秀吉に訴えた。蜂須賀家政・黒田長政・藤堂高虎・加藤清正・早川長政・竹中重隆みな譴責された。秀吉は早川長政や竹中重隆らの豊後六万石の領地を奪って福原長尭への賞とした。…石田三成らの一党は福原長尭を援助したので党派がいよいよ分裂した。」
【看羊録(朝鮮の官人 姜沆(カンハン)による実体験や噂話をまとめた見聞記録。慶長3年夏~慶長5年4月まで抑留)】※原文の官職名は一般名称に変換

「石田三成と浅野長政は(彼らはこの時にあたって互いに外見上の友情を温めていた)、ついに心に隠していた憎悪を爆発させた。同様に朝鮮での諸武将たちの間でも、和平締結や軍勢引き揚げについて、皆が同意見ではなかったために不和が生じた。」(要約)【1599年度日本年報『十六・七世紀イエズス会日本報告集』】

 

慶長4年(1599年)1月10日、秀吉の遺言に従い、前田利家が秀頼を擁して大坂城に入る。1月12日、徳川家康が伏見城に入る。
「なにか変事が起こりそうで、人々はしょっちゅうびくびくし、店舗も半分は店を閉じた。」【看羊録】

1月19日、四大老・五奉行が家康へ大名との婚姻について詰問の使者を出す。

「三成は家康に公然と反対を唱え始め、天下の支配権を獲得する魂胆であると。三成は武器を取り他の統治者たちの意見に従い、使者を遣わし予のことで何が気に入らぬかと詰問させた。家康は穏やかに弁明し理由を述べた。しかし彼は無防備ではなく諸国から3万の軍勢を招集し最大の兵力をもって固めた。」【1599年度日本年報】

「去る十九日に内府へ婚姻について前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・上杉景勝・前田玄以・増田長盛・浅野長政・石田三成・長束正家らが使者を送った。然れども二十日におおよそ済んだ」【言経卿記 1月24日条】

1月29日、関東の兵が多数上洛する。【義演准后日記】

「日本国の全諸侯は国王の宮殿に留まり、種々の領国から伏見と大坂へ集まった将兵は20万以上にのぼった。どの諸侯も自分の邸内で多数の護衛兵に警護されていた」【1599年度日本年報】

「内府様はすべてを治める唯一の人物となった。それによって他の者たちが彼に大いなる反感を抱き始め、一体化し、彼と衝突するための陰謀を準備した。前田利長、上杉景勝の有力奉行、下級奉行の石田三成、親友のドン・アゴスチイノ(以下、小西行長)が賛同した。…諸奉行のみならず、多くの領主たちは兵員を招集し、いかなる出来事にも対処できるようにした。市中が武装した人々で溢れ、驚くべきことであった。」【1599~1601年 日本諸国記】

 

2月5日、徳川家康が四大老・五奉行へ起請文を送り誓いをたてる。
「一、この度縁組の件につき御理の通り承り、以前と変わらず諸事入魂すること
一、太閤様の遺言、五大老・五奉行の誓紙に背かないこと
一、双方へ入魂の者へも遺恨を残さないこと」

2月12日、四大老・五奉行も家康へ誓書を返す。「早速同心入られ、然る上は今後遺恨ないとのこと」【利家以下起請文 毛利家文書】

2月5日、昨年越前北ノ庄へ減封されていた小早川秀秋が、筑前名島30万石へ復帰となる。

 

2月20日、浅間山の異変が観測される。「浅間山鳴事おびただしく、一昨年三月のようだ。しかしこの度の鳴る様子は一昨年の春より超えている。…近年比類ないことだと年老いた者が言った。」【当代記】

3月9日、伏見で島津忠恒(義弘の三男)が島津家筆頭家老の伊集院忠棟 (幸侃) を殺害する事件が起きる。(庄内の乱)

3月11日、家康が前田利家を見舞いに大坂の前田屋敷を訪れる。【譜牒余録】【当代記】
13日、家康は利家に歓迎のお礼と養生を勧める手紙を送る。

3月19日、家康が伏見の屋敷から宇治川を渡り向島城へ移る。【当代記】

閏3月3日、前田利家が死去(62歳)。
反三成派の諸将を抑えていた利家がいなくなったことで、内部抗争が激化する。

 

石田三成襲撃事件

慶長4年(1599年)閏3月4日

加藤清正・浅野幸長・蜂須賀家政・福島正則・藤堂高虎・黒田長政・細川忠興の七将が石田三成と対立。
七将は家康に三成の処分を要求する。

石田三成は大坂から伏見城内にある治部少丸 (上屋敷)へ避難する。

加藤清正、黒田長政の鉄砲隊3,000が三成を追い、伏見へ進軍する。

「治部少西丸の向の曲輪の屋敷へ参着」【慶長年中卜斎記】

「石田三成が去る四日に大坂より伏見へ行かれたらしい、今日(7日)も騒動があった」【言経卿記 閏3月7日条】

三成は毛利輝元に挙兵を求め伏見城からの反撃を試みるが、大坂城は徳川派の軍勢が支配しており計画は頓挫する。大谷吉継は毛利輝元へ三成に加担しないように伝える。

 

伏見の毛利輝元が伯父の毛利元康へ情勢を伝える。【毛利元康宛 輝元書状 厚狭毛利家文書】
「三成より小西行長・寺沢正成が来られ、狙い立てた者は一大事なく結局手を置きました、今においては仕合せ、こちらより仕掛けられるのがよいでしょう。そういうことですので輝元も天馬のごとく(伏見から)下り陣を尼崎へ置くように、と申されました。

表向きはそのようですが、彼らが申すには大坂城は徳川衆が入っているようでこちらの兵は一切立ち入れません。
増田長盛が申されるには、とにかく三成から身を引かないと済まないとのこと。
今は舵の取り方が肝心で、山名禅高・西笑承兌をもって内々に調略すべきだと安国寺恵瓊が申しています。

大谷吉継が申されるには、(伏見の)下屋敷に移るのはよくない、内府に対面するようにとのことです。三成へもこの前、毛利秀元に軍勢を三千遣わせる命令を伝えました、大谷吉継はよくご存知で、ただ引き取って加担するのは無益で、辻褄合わせをするがよいでしょうとの内意です。」

 

閏3月5日、家康が七将に返書を送る。

「心遣いのある書状を送られ喜ばしいことです。仰せのとおり、この方へ越されました。」【細川忠興・蜂須賀家政・福島正則・藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・浅野幸長宛 家康書状 譜牒餘録】

「伏見の雑説は太閤政所 (ねね) 御扱いにて無事になったらしい、よかった。大野伊兵衛が伏見より帰宅してそう言った。」【言経卿記 閏3月8日条】

 

閏3月9日、家康がこの事件の仲裁を行い、三成を佐和山城での謹慎処分とした。

「石田三成、佐和山へ閉口に定め、明日参る予定。息子(三成の嫡男重家)は昨晩我らの所へ越られた」【福島正則・蜂須賀家政・浅野幸長宛 家康書状 浅野家文書】

「伏見で三成・増田長盛・前田玄以、一ヵ所に取り籠った。しかしながら調停があった」【多聞院日記 閏3月9日条】

「石田三成は近江佐和山の城へ隠居、大名十人であろうか申し合い訴訟したそうだ。内府は異を唱えたそうだ」【義演准后日記 閏3月10日条】

「閏三月九日になって(四日の記述は無し)、清正らが武装兵を率いて伏見に上り、三成を攻めようとした。輝元の参謀僧、安国寺恵瓊は輝元に説いて言った。"関白や摂政は、ただ一人のみであります。
人臣で富んでいる者も、公をこえることはありません。戦ってどうしようというのですか"と。輝元は心のうちにこれをもっともだと思い、遂に安国寺をやって家康を説得させたところ、家康もこれに同意した。

長束正家は三成の婚家であったので三成を説得し、やはり家康のもとへ行かせて謝罪させた。輝元らが遂に家康を推して盟主とし、伏見城に入居させた。三成は首謀者だったので自分の子を家康の人質にした。
家康は三成をその領地に退けた。福原長尭は事の張本人だったのでその土地を奪って早川長政らに返した。頭髪を剃って僧となり、名を緑雲と変え山寺を建ててそこに住んだ。

清正なる者の性質はもともとよこしまで激しい。それで、家康に三成を攻めるよう勧め、乱を起こそうとしたのである。
(しかし実現せず)遂に家康に叛き、前田利長・宇喜多秀家・伊達政宗・細川忠興・黒田長政・浅野長政と血判同盟を結び家康をうち滅ぼし土地を分けようと約束した。

その謀議に参加しなかったのは毛利輝元や小早川秀秋ら五、六人だけであった。盟約は成ったものの "地等しく徳等し(どんぐりの背くらべの意)" といった者ばかりで統率する者がいないものだから前田利家や加藤清正ら大半が自分の領地に帰ってしまった」

「伏見と大坂では武具の喧騒が非常に大きかったので、この世界の破滅が近づいているように思われた。しかし誰一人として敵に対して戦闘を挑まず、相手方の将兵を殺害しようと刀の鞘を払う者もいない状況であった。

もしそのようなことが行われたら、(中略)日本国全土の騒乱が起こりそうであったからである。また諸大名自身が警戒し、攻撃をしかけた者は死刑に処することを望んだからである。

時が経つにつれて、三成のもとを離れた軍勢や武将たちの数の増大によって家康は強大になり、 勝利者のように、こう言うようになった。三成が切腹をしない限り、その他の方法によって日本国が平穏になることはできぬ、と。

…ついに家康(家康派の武将)は秀頼が住んでいた大坂城を占拠した。しかも彼は、このことを非常に狡猾にやってしまい、奇襲攻撃を受けた援軍に来ていた敵方には防衛の余裕を与えなかった。

(大坂)城から遠くない邸にいて、六千の武装した軍勢に護られながら夜を過ごしていた三成は、この思いもかけぬ不幸を阻止することができなかった。

三成はこの窮地に追い込まれると、同僚の統治者たちの権力下にあった伏見の城へ赴いた。小西行長は…己が友のもとを去ることはできまいと彼について行った。

しかし、家康は、伏見の城への出発を遅らせるべきではないと考えた。彼は軍勢を率いてそこへ到着すると、諸侯の勧めを入れて次の条件で兵力を撤退させることを約束した。

官職を捨てた身分に落とし、今後は国家統治の任を離れ、己がすべての軍勢とともに自領である近江の国にずっと引き籠っているように、と。

これによって日本国の政情は非常に平和になったが、敵方は、沈黙しておれなかった。…追放されたことでは満足せず、それどころか殺害が仕組まれることさえ恐れなかった。

…彼らはまた新たに、家康のもとに三成と小西行長を訴えたが無益であった。家康は厳しい言葉で彼らを制し、(中略)一同には邸へ帰る許可が与えられた。」(一部要約)

「諸大名が寄合い内府の御仕置(政務)なら我々の希望ではないと思い、諸大名は気持ちを一つにして家康の腹を切らせようと申し合う。

(家康が)伏見より大坂へお見舞いに移られる時、ちょうどよい時だと心得たるところに、この由を藤堂高虎が心得て "今夜は我らの所にお泊りください" と申し上げ、
警護を厳しくするところに、伏見に残る譜代の大名小名夜駆けにして駆けつけると、すぐにできないと思って知らない顔をしていた。

大坂城へ入られ秀頼に対面され伏見へ帰られた。然れどもこの件思いとどまらずして、また伏見にて早おおかた敵味方がわかった状態だが取り掛かることができないところ、大坂より前田利家が急ぎ来られてとにかく向島へ移りなさいと言われ、(家康は)向島へ移られた。

それからことごとく(諸将が)心がわりして我も我もと申し訳をして、後には三成一人に(責任を)掛けて、後には寄り合って三成に腹を切らせようとするところに、

家康が慈悲に思い各将に三成を許し給えと言うが各将は聞かず、それなら佐和山へ引き入れようと出発するが、各将が道へ押しかけて腹を切らようとしていると聞き、結城秀康に送れと命じられ結城秀康が送り、三成は佐和山へ至った。
然れども三成は御恩をありがたいと思わず謀反を企んでいた。」

「近頃、朝鮮出兵勢の七人衆が三成の成敗を嘆願した。
秀吉公を幾度もなく支えられた、加藤清正・黒田長政・細川忠興・脇坂安治・福島正則・浅野幸長・加藤嘉明

右の衆が訴訟を申し立て、(家康が)許すようになだめられた。諸将は御前(家康)をも討つたくらみを巡らした無用の者と申される。

家康公が仰せられるには、三成の政務が気に入らず見るのも嫌なら天下の事に関わらせないようにする、秀吉公がご健在なら申し上げることはできない、同輩として同輩を殺し、秀頼公は幼君にて天下の政務はならずと何度も取り扱い、諸将も本意ではなく我慢する。

この時三成は大坂におられ調停が済み伏見へ上られた。大雨の中、三成の後に加藤清正・黒田長政両人の多勢が追い、鉄砲隊三千人がいた。これはもし家康の命令が変わって道中で三成を踏みつぶせと命じられたら、との心掛けだった。三成は西の丸の向かいの曲輪の屋敷へ参着した。

十日余りが過ぎ天下の政務に関わらないとして、佐和山へ引退とした。道中が心配なので佐和山より軍勢三千人を瀬田へ呼び置かれた。瀬田までは結城秀康に送らせようと仰せ遣わされ、(中略)
瀬田に出て別れの時、三成は結城秀康殿へ刀を進上した。結城秀康殿も脇差を差し出した。」

※参考文献:
『関ヶ原前夜―西軍大名たちの戦い』光成 準治(著) 日本放送出版協会
『石田三成伝』中野 等(著) 吉川弘文館 他

 

閏3月13日、家康が伏見の下屋敷から伏見城へ移り、政務を行う。
「十三日午の刻 (12時頃) 、家康が伏見の本丸へ入られ、天下殿に成られた。おめでたいことだ。」【多聞院日記】

閏3月21日、家康と毛利輝元が起請文を交換。家康は今後いかなることがあっても貴殿へ裏切りの気持ちはなく、兄弟のような関係であると伝える。毛利輝元は家康を親と称し、家康に屈服する。

4月5日、伊達政宗が家康へ起請文を送り、今後どのような世の中になっても一筋に内府様を守り一命を捧げると伝える。【伊達政宗記録事蹟考記】

8月、上杉景勝が帰国。家康の勧めで前田利長も帰国。反家康派大名の中心だった前田家が政局から退くことになる。

 

慶長4年(1599年)9月9日、家康が重陽の節句と称し大坂城へ入城、秀頼に拝謁する。

「前田利長はひそかに上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・宇喜多秀家・加藤清正・細川忠興らと家康を殺そうと同盟し越中に帰った。三成が家康にとがめられて近江に退いた時にその謀を知り、家康に書面で告げた。家康は秀頼に挨拶するとかこつけて虚に乗じて大坂城を拠り所とした。」【看羊録】

「内府様が天下の仕置を命じられたことについて。どのような詳細なのか、加賀に在国している前田利長殿を上洛しないようにと命じられた。万一強引に上洛するなら、越前で留めるべく、大谷吉継の養子吉治殿と石田三成の家来一千余で越前へ下し置かれる事になった。
加藤清正も上洛しないようにと命じられ、上洛する場合は淡路方面で防ぐよう菅達長・有馬則頼の両人に命じられた。」【9月21日付 島津忠恒宛 島津義弘書状】

「家康は関東の諸将に命じて利長が倭京に上る路を塞ぎ、三成に命じて近江を防備させた。利長は景勝と援助の盟約を結んだ。…家康と和解しなければ倭の方域は一つの戦場となり我が国にとっては幸いである。」【看羊録】

 

この頃、家康と淀殿の結婚についての噂が流れる。

「去る十日、太閤の書置で秀頼の母が家康と祝言あり、大野治長が秀頼の母を連れ高野山へ参ったらしい。」【多聞院日記 9月17日条】

「家康には、秀頼の母を室として政事を後見し、成人を待ってのち、政権を返すようにさせた」「大野治長と通じて妊娠していたので、拒絶して従わなかった。家康はますます怒り、 大野治長をとらえて関東に流し、さらに途中で死を与えた。 (※死を与えたは誤り)」【看羊録】

「おひろい様のお袋様と密通事か、共に切腹を申し付けられるところ宇喜多秀家がかくまい高野山へ逃れると申したらしい。」【10月1日付 内藤元家宛 内藤隆春書状】

9月26日、北政所 (ねね) が大坂城 西の丸から退去、京都新城(三本木屋敷)へ移る。(北政所は政局からの引退となる)
9月28日、家康が大坂城西の丸へ入る。

家康が伏見から大坂へ移ったことで、諸大名も大坂の屋敷へ移動する。「諸大名悉く大坂へ引っ越され、伏見は荒野になる有様だ」【島津義弘書状】

 

9月、加藤清正は島津家で起きた庄内の乱で、伊集院忠真に物資を支援していたことが発覚。家康は清正を領国肥後にて謹慎処分とし、上洛を禁止した。

10月、家康の討伐を恐れた前田利長は実母の芳春院 (まつ) を人質として江戸に送ることを決定、家康に服従する。(芳春院は翌年5月に江戸へ向かう)

浅野長政も暗殺計画の嫌疑をかけられ、家督を幸長に譲り武蔵府中へ蟄居となる。さらに大野治長は下総国 結城秀康のもとへ追放、土方雄久は常陸国 佐竹義宣のもとへ追放となる。

細川忠興の嫡男 忠隆の正室 千世は前田利家の娘であり前田家と縁戚関係にあったため、11月、家康は細川忠興に起請文の提出をさせる。また三男 忠利を江戸に置くよう命じる(翌年1月に出立)。

「角倉素庵(京の富商)が言うには、"家康は5万石以上の大名の子弟を人質として関東に送るよう求めました。諸将は養子や実弟を送りましたが、清正や忠興らだけには実母か実子を求めました"」【看羊録】

 

11月、蝦夷地の徳山館 (松前大館) を居城とする蠣崎慶広が上洛。大坂城西ノ丸にて家康に謁見し、蠣崎家の系譜と蝦夷の地図を献上する。これにより蠣崎氏が家康に臣従し、以降蠣崎慶広は松前の姓に改め松前慶広と名乗る。

 

この年から翌年にかけて家康は諸大名の知行配分を行う。
細川忠興(飛地として豊後杵築・湯布院6万石を加増、松井康之・有吉立行を配置)
堀尾吉晴(越前府中5万石を加増)
森忠政(信濃川中島14万石へ転封)

「三成追放後、内府様は小西行長を味方に引き入れようと務めた。朝鮮における事績や三成への忠誠心を賞賛し、政権をとった時には陣営に立つであろうと誓約をとりつけようとした。しかし小西行長はその誓約に応ずることは欲しなかった。他の諸侯はいとも容易にかの誓約に応じた。」(要約)【1599~1601年 日本諸国記】

 

<真田家>

慶長4年(1599年)、真田信繁は豊臣秀頼の下、羽柴家旗本家臣として仕える。

9月頃、家康の大坂城入城に伴い真田昌幸が伏見から大坂へ移動する。

 

<宇喜多家>

慶長5年(1600年)1月5日、宇喜多騒動
宇喜多秀家は慶長元年 (1596年) 頃から中村次郎兵衛(秀家正室 豪姫の付人)や浮田太郎右衛門らの出頭人的奉行人を登用、領国の政務を任せる。
これまで豊臣政権とつながりを持ち宇喜多家の実権を握ってきた旧臣派は出頭人的奉行人と検地政策で対立する。

中村次郎兵衛は旧臣派の助言を無視して政務を執り行ったことから、慶長5年1月5日夜、(すでに宇喜多家から追放されている)旧臣派の戸川達安、宇喜多詮家、岡越前守、花房秀成らが大坂の中村次郎兵衛を襲撃。その後、襲撃勢は大谷吉継に庇護を求める。

大谷吉継は首謀者の処分を家康に委ね、家康は戸川達安を自国への配流として家臣とさせ、その他3名は宇喜多家に復帰とさせる。

この宇喜多騒動では宇喜多軍の戸川達安ら陣大将6名のうち4名が離反・蟄居となる。これにより兵力の半数を失うが、その後上方の牢人衆を集めたことで兵力を補充させる。

関ヶ原の戦いでは戸川達安・宇喜多詮家が東軍として参戦することになる。

※参考文献:『関ヶ原前夜―西軍大名たちの戦い』光成 準治(著) 日本放送出版協会

 

 

<毛利家>

慶長4年(1599年)1月23日、石田三成・増田長盛が毛利秀元の所領について指示を送り、出雲・隠岐・伯耆三郡などを与えることを伝える。(秀吉の存命中には秀元は出雲・石見、吉川広家は備後三原が与えられることになっていた)

その後襲撃事件が起き、家康の裁定によって毛利秀元は長門・周防吉敷郡、安芸佐伯郡が与えられ、吉川広家の所領は変更なしとされる。

 

<島津家>

慶長3年(1598年)12月、島津義弘・忠恒が朝鮮から帰還、京へ入る。島津義久と伊集院忠棟も在京中で国元への政務を指示する。

慶長4年(1599年)1月、島津義久が11月に家康を訪問していたことを義弘・忠恒が咎め、別心なしとの起請文を提出させる。

 

3月9日、庄内の乱
秀吉の死後、島津家では権力争いが起き、伏見で島津忠恒(義弘の三男)が島津筆頭家老の伊集院忠棟 (幸侃) を殺害する。

(伊集院忠棟は以前より三成から重用され知行配分を行い自らは日向庄内8万石の所領を与えられていたため、島津忠恒や家臣団から不満が出ていた。また忠恒が朝鮮出兵の際に増援を求めるも伊集院忠棟は拒否したことも対立の原因となった。)

3月14日、島津義久が帰国。その後伊集院忠棟殺害の報せが入り、忠棟の嫡男 忠真に領地である庄内の城の無条件開城を求め、伊集院家の処分を始める。

閏3月1日、島津義久が石田三成へ事件について伝える。「幸侃殺害の件、あなたの御意を得て行動したと思っていましたが、忠恒の短慮であり言語道断です。私へも相談無くけしからんことです。ご立腹もっとも当然です。」(この後三成は七将の襲撃を受け対応できなくなる)

島津忠恒は謹慎処分となるが前田玄以・増田長盛・長束正家が話し合い処分は解除され、伏見の屋敷へ戻る。【種子島久時宛 義弘書状】

4月、島津忠恒は家康から帰国するよう指示が出される。

4月24日、島津義久が軍勢を出す。伊集院忠棟の嫡男 忠真は使者を派遣してからの下城を求めるが、義久は拒否し隣接する城の普請を開始する。

6月18日、伊集院忠真が伏見にいる島津義弘へ「義久様が諸口を往来できないようにされ、私も幸侃同様の扱いのようで領地の境に放火され困っています。私の身の上は義弘様より仰せ下されない間は収拾は難しいです」と伝える。

6月下旬、義久が本格的に攻撃を開始。伊集院忠真(兵数8,000)は日向 都之城とその支城12城に籠城する。

7月、家康もこの乱に介入する。「忠真が立て籠ることを内府様が曲事に思われ、従わない場合は成敗するよう仰せつけられた」【7月5日付 忠恒宛 義弘書状】

8月6日、義弘が伊集院忠真へ、忠棟の成敗は仕方がないこと、処分はわからないが開城を勧めることを伝える。

10月2日、病中の大谷吉継が島津忠恒へ乱の対応を伝える。
「忠真の事、未だ戻らず城に立て籠もっているとのこと、是非もない事です。内府様のお考えも、どのようにもあなた様が思われるように仰せ付けられることを命じられています。これまたご安心ください。」【島津家文書】

家康は10月に寺沢正成を派遣。伊集院忠真は他家への仕官を求めるが話し合いはまとまらず。家康は12月に山口直友を派遣し、講和調停を継続する。

翌慶長5年 (1600年) 3月15日、諸城が攻略され、伊集院忠真は都之城を開城、降伏する。
調停案により忠真は助命され薩摩帖佐を与えられる。(2年後の慶長7年8月17日、忠真は島津忠恒により射殺される)

庄内の乱により島津家は義久が実権を取り戻す。義弘は上方にいたため関与できず、また伊集院忠棟を失ったことで発言力が弱まる。

関ヶ原の戦いの前に義弘が自国の義久に派兵を求めるが、義弘は島津家の実権回復を図っているとされ、派兵してもらえず兵力不足のまま関ヶ原の戦いに望むことになる。

※参考文献:『関ヶ原前夜―西軍大名たちの戦い』光成 準治(著) 日本放送出版協会

 

<国内情勢>

慶長4年(1599年)、前田利政が父利家から能登の所領を与えられ、大名となる。

慶長4年5月、長宗我部元親が死去(61歳)。四男 盛親が土佐国主となる。

慶長4年10月、南部信直が死去(54歳)。嫡男 利直が家督を継ぎ南部家の当主となる。