【イエズス会 1598年度年報】

1598年10月3日付、長崎発信、フランシスコ・パシオ師のイエズス会総長宛、日本年報

フランシスコ・パシオよりいとも尊敬すべきイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァ師に宛てて
イエズス・キリストにおいていとも尊敬すべき師よ

日本からの年報は、通常、(ポルトガルの定航)船がシナに向けて出帆する三月に執筆するよう決められているが、この十月にマカオに向かう別便があるので、昨年の三月からただいままでの間に、我が(イエズス)会が(日本)で行なったことを尊師に概略、報告し、爾余のことは、来る三月にしたためる年報のために保留する。

長崎の学院長のポルトガル人アントニオ・ロペス師、(イタリアの)ペルジア出身フルヴィオ・グレゴリオ師、日本人中尾マチャス(宛字)修道士の三名の我らイエズス会員が浄福の生活へ逝った。

善男善女の群の破滅を食い止める有効な薬剤を手に入れるため、また教会の救いのための重要事項を処理するためインドへ航行中であった日本の司教ドン・ペドゥロ・マルティンス師が逝去したことを東インドの定航船から情報を得た。師父はマラッカ港に到着すると同時に帰天し、近くにあったイエズス会のマラッカ教会で鄭重に葬られた。

有家(アリヤ)の神学校が撤去されて以後は、異教徒にはまったくその記憶が消えてしまっていたが、長崎の住居で隠れた場所に神学校を再建した。現在神学校には七十名の神学生が居住しており、熱心に文学的教養を身につけている。

我らの眼前には、すべての善の根源であるデウスの御名を称揚すべき材料がちらついているが、彼らは優れた堅忍不抜の精神で、この上ない称賛に値する者であることを公言している。

なぜならもし我らが日本から追放されるとしたら、彼らも我らといっしょに追放の憂き目にあい、またキリストのために流血の覚悟さえしており、我らはこの両方の危険に遭遇する恐怖に見舞われているからである。

それゆえ時代が彼らの敬虔な望みをかなえさせ、またいつかデウスの好意によって迫害熱が冷えてしまった時には、きっとより豊かな捻りをもたらすだろうとの確かな希望を約束してくれている。

諸々の聖堂や司祭館が崩壊されて以後は、これらキリシタンたちは当時我らの尽力を特に必要としていたので、信者たちの困難を軽減するために、キリシタン諸侯の助言を得て、我らイエズス会の司祭たちは隠れ家に身を隠し、司祭館や居所を頻繁に変え危険きわまりない道を夜間に行かねばならぬという新しい事態が起こった。

しかしこのすべての煩労を不思議なばかり軽減してくれたのは、この辛苦の中にあってキリシタンが我らに対して温め抱いてくれた愛徳行為と好意であり、またこれほど長期にわたる迫害の中でデウスが恵み給うた彼らの信仰への真摯な不屈不撓の精神であった。

しかし我らは我らの責務の遂行に際しては、デウスの恩恵の助けも被って何ら不足を嘆かれる目には遭わなかった。例えば健康な人や病人たちの告白を聴くに際してであったが、ペストのように日本全土に蔓延した伝染病のためこれらの病人の(告白)数は普通よりずっと多数であった。

またキリシタン信仰を受け入れさせるために授洗したり、聖堂が破壊されたため心が滅入ってしまった人々の勇気を奮い起こして慰めたり、その他すべての我らイエズス会員の職務を遂行するに際して、不足を概嘆することはなかった。

しかし太閤様その他の異教徒の諸大名は、ずっと以前からキリシタンに対して禁教令を発布して、以後は誰一人としてキリシタンであることを公言しないように禁止しているので、いっそう大きな流血が伴うであろうと思われている。

副管区長師は小冊子を作成して、それを日本語版で刊行したが、その中でまず殉教の定義、品位、効用、条件を述べ、それに次いでこの種の必要に迫られた場合、主としてどのような意向と準備をして殉教を受けるべきかを付言した。この伝達はその後、キリシタン全員に少なからぬ効果をもたらした。

これ以上の悪い事態を避けるために、キリシタン諸侯が勧めた我らイエズス会員の独居や隠れ家に原因して起こった不便さを軽減するためにも、同副管区長師はこう定めた。遠近各地の建物で行なわれる諸種の会合は夜間に行なわれるべきであり、それにも一定の制限条項を設け、そのうえ指導項目を付加して、もしイエズス会員の誰も臨席していない場合には時間が切迫していると見なして次のことを行なうべきである。
一つには祈祷を行ない、一つには霊的小冊子を講読する。一つには隣人を物質的にも精神的にも援助するための話し合い、または寄付をすべきである、と。

この種の集会によって、確かにどれほど多くの効果が得られたか、また今後得られると期待されているかは、これまでの経験そのものが十分にそれを示している。

この効用は日本国内だけでなく広く国外にも及んでいる。朝鮮国に駐留しているキリシタン諸侯は、太閤様の禁教令のために、イエズス会司祭の誰をも絶えず手もとに置いておく勇気はなかったが、告白の助けを得るための時間まで奪うべきではないと思われたので、二名の司祭が大部分のキリシタンが駐留しているドン・アゴスチイノ(小西行長)の城砦に赴き、そこにおよそ二カ月間滞在して、告白を聴いて聖体の秘蹟を授けたり信心の講話をしたりして彼らに大きな慰安を与えた。

キリシタンたちは司祭がずっといっしょに滞在することを希望していたが、政庁内にドン・アゴスチイノに嫉妬している者もあり、このために彼が太閤様に護訴をされる危険も少なくなかったので、司祭は日本へ帰り、時機を見てふたたび朝鮮へ渡航することにした。

そこで二名の司祭は日本へ帰り、三カ国の大名で異教徒ではあったがキリシタンに対しては好感をもっていた中納言(豊臣秀勝)殿の城下を通った時、そこの政庁のすべての重臣と戦将とがキリシタンになった。その少し前に他の幾人かと、中納言殿の兄弟のドン・パウロ、それに同じく親類にあたるドン・ジョアン[二人とも中納言殿といっしょに住んでいる]がキリシタンの洗礼を授かった。

彼らは道理を確信し、またアゴスチイノ、有馬(晴信)殿、大村(喜前)殿が領民こぞってキリシタンになったのを見たからである。これら諸侯の改宗は、先の三カ国での聖福音の布教に、少なからず有力な効果をもたらすであろう。

なぜなら彼らは領民の藩主、領主であり、その威厳と模範を示して、デウスが教会に与え給う大きな平和のうちに他の人々がともに真の信仰を抱くよう助長するのがたやすいように思われるからである。

そして彼らはすでに、己が精神的な援助を求めるためだけでなく、己が妻子たちに洗礼を授けるためにも我らの援助を求めてきている。そこで我らは間もなく、このためにイエズス会員二名を彼らのもとへ遣わすつもりである。

キリシタンの事情は以上のとおりで、太閤様は日一日と平静になり、その役人たちもいっそう(我らに)好意的に思われ、我ら(イエズス会員)は従前にも増して自由に務めを遂行できるだろうと考えていた。

ところが驚いたことに、異教徒を満載した船がフィリピンから日本の海岸に漂着し、その船には、二人の(フランシスコ会の)托鉢修道会員が乗船していた。二人は日本の衣服を身につけてはいたものの、日本人ではなく異国の者だったので、彼らが漂着したという噂は、たちまち日本中に、のみならず朝鮮にまで伝わってしまった。

そこで朝鮮国に滞在中の長崎奉行寺沢志摩守殿は、長崎にいる自分の代官からの書状によってただちに事件を知ると、代官ならびに他の長崎在留者に対して、事件の経過をいっさい報告せよと要求した。

すなわち、寺沢殿は、自分自身も、他のキリシタン諸侯も今回の事件によって何らかの災厄に巻き込まれることがないようにするために、なにはさておいて、太閤様に本件を報告しようと考えたからであった。

ところで我らにしてみれば、(今回のことで)新たに(迫害の)嵐が(起こりはしまいかと)恐れおののいていたことは疑いの余地もないことであった。なぜならば、もし太閤様が、使いの者から問題の船が到着したことを耳にすれば、彼は激昂し逆上するばかりでなく、二年前に行なったように、キリシタンに対して憤りからどのようなひどい害毒を及ぼすか計り知れなかったからであった。

[太閤様は、自分の布告なり掟が無視されたことを知った時以上に、使者に対して厳しい態度をとることがないのが常であった] さらに太閤様は、外国人は日本国の侵略を企てているのだという(世間に流布している)虚言を深く信じ込むことになるのである。

そこで副管区長(ペドゥロ・ゴーメス)師は、そのような悪い事態にならぬようにするために、寺沢殿のもとへ(寺沢の)腹心の友を遣わして、寺沢殿が太閤様に、事件を報告し、キリシタンの諸侯や長崎その他の地のキリシタン信徒が、生命と財産の危険に陥ることがないように(取り計らってもらいたい)と懇願させた。

寺沢殿は結局、この請願を受け入れはしたが、代官に対しては、次のように命じるに留まった。すなわち(渡航してきたフランシスコ会員のうち)すでに捕えた者(ルイス・ゴーメス師)を注意深く監視し、その同僚(ジェロニモ・デ・ジェズース師)を全力を尽くして捜索し、召し捕えよ。そして両名について(の報道が)、何びとかの耳に入る前に、彼らをフィリピンに送還してしまうがよい、と。事件はこうして、それ以上進展しなかった。

副管区長(ペドゥロ・ゴーメス)師は(寺沢殿の処置を)知って、何につけ困惑し、長崎の重立った人々に対し、捕縛された(ルイス・ゴーメス師)を適当な場所に移し、イエズス会の者に代って、彼に必需品を支給してもらいたいと助けを求めた。

彼の伴侶(ジェロニモ・デ・ジェズース師)は、[前に渡日したことがあり、昨年十月に寺沢殿からフィリピンに送還された人で](日本では)経験を(積んで)いたので(捕吏の手を免れて)都に赴いたのである。

日本全土の五大名のうち、三名の要人であり、都の奉行でもあった人々は、(ジェロニモが)到着したことでひどく機嫌を損ね、彼らはただちに同人に対して死刑の宣告を下すとともに、一同に向かって、いったい彼はどこに隠れているのか白状せよと迫り、彼を自宅に匿まった者があれば、家族はもとより、その隣人までも礫刑に処する、と申し渡した。

この告訴された(ジェロニモの)名が公にされたのは先月のことであるから、私どもは、その結果、本件がどのように進展したか知っていない。今回の事件は、寺沢殿や、上記の奉行たちにとってのみならず、キリシタンたちにとってすらはなはだ迷惑なことであった。
なぜなら、この不詳事によって、日本の教会全体がどのように明白な苦境に立たされるに至るか、判らなかったからである。

しかしこの頃、太閤様が病気になったことは、デウスの特別の御旨であり御摂理であった。というのは、太閤様が無事息災であったならば、奉行たちにはこの事件は決して隠し通せることではなかったからである。善なるデウスは、我らが善かれと希望するとおり、本件が結局は良い結果に導かれるよう取り計らって下さった。

デウスはその聖慮の習わしによって、十二ヵ年にも及ぶいとも長期の辛苦の嵐を、やがて輝かしい慰安と喜悦の光に代えて下さるものと思われる。御憐れみの聖母に奉献された(一五九八年)九月五日の祝日)に、デウスはいとも尊敬すべき司教ドン・ルイス(・セルケイラ)、および巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ、その他四名の我が会員が無事に長崎に入港することを嘉し給うたのである。

さらにその八日後には、予期せぬことに、エジディオ・デ・ラ・マッタ(ヒル・デ・ラ・マタ)師が、尊師の書簡を携えて、この(長崎)港に着くという、より大いなる喜びを授けて下さった。というのは、デ・マッタ師の乗船は、マカオを指しながら船長の不注意からマカオを遠く通過してしまい、ふたたび引き返すこともできなくなってしまった。そこで船長は、航路を誤ったことに気づくと、シナのどこかの港で越冬するよりは長崎へ向かおうと考えた。

以上のことがデウスの摂理によることは、いとも尊敬すべき司教が(日本に)到着した当時、数日来病臥していた太閤様が重態に陥ったことで、いっそう明らかになった。(太閤様の)病気はあまりにも重くて、助かる見込みは少しも窺われなかった。

ところで太閤様に仕えていた異教徒たちは、シナから(ポルトガル)船が着けば、最初の便でジョアン・ロドゥリーゲス師と、その他ポルトガル人との通商に必要な数名を除き、(在日イエズス会員全部をマカオへ追放せよとの命令を受けていた。

しかるに太閤様が重態に陥ってからというものは、この異教徒たちは、それまでしてきたように、我らを虐待するようなことがなくなったばかりでなく、巡察師とその一行を非常に鄭重にもてなすようになった。ところで太閤様のこの重病のために、我らがどれほど恩恵を被ったか、よりいっそう理解していただくため、事の初めから報告する。

国王(太閤様)は、伏見城に滞在していた(一五九八年)六月の終りに赤痢を患い、よくあることだが、時ならず胃痛を訴えるようになった。当初は生命の危険などまったく懸念されはしなかったが、上記のように八月五日に病状は悪化して生命は絶望とされるに至った。

だが太閤様はこの時に及んでも、まるで健康体であるかのように、不屈の剛気と異常な賢明さで、[従来、万事においてそうであったのだが]身辺のことを処理し始めた。そして太閤様は、自分(亡き)後、六歳になる息子(秀頼)を王国の後継者として残す(方法)について考えを纏めあげた。

太閤様は、関東の大名で八カ国を領有し、日本中でもっとも有力、かつ戦さにおいてはきわめて勇敢な武将であり、貴顕の生まれで、民衆にももっとも信頼されている(徳川)家康だけが、日本の政権を奪しようと思えば、それができる人物であることに思いを致し、この大名(家康)に非常な好意を示して、自分と固い契りを結ばせようと決心して、彼が忠節を誓約せずにはおれぬようにした。

すなわち太閤様は、居並ぶ重立った諸侯の前で、その大名(家康)を傍らに召して、次のように語った。

「予は死んでゆくが、しょせん死は避けられぬことゆえ、これを辛いとは思わぬ。ただ少なからず憂慮されるのは、(まだ)王国を統治できぬ幼い息子を残してゆくことだ。そこで長らく思い巡らした挙句、息子自らが王国(を支配する)にふさわしくなるまでの間、誰かに国政を委ねて、安全を期することにした。

その任に当る者は、権勢ともにもっとも。抜群の者であらねばならぬが、予は貴殿を差し置いて他にいかなる適任者ありとは思われぬ。それゆえ、予は息子とともに日本全土の統治を今や貴殿の掌中に委ねることにするが、貴殿は、予の息子が統治の任に堪える年齢に達したならば、かならずやその政権を息子に返してくれるものと期待している。その際、この盟約がいっそう肇固なものとなり、かつ日本人が挙げて、いっそう慶賀してくれるよう、次のように取り計らいたい。

貴殿は、嗣子(秀忠)により、ようやく二歳を数える(孫)娘を得ておられるが、同女を予の息子と婚約させることによって、ともに縁を結ぼうではないか。かくて貴殿は、一方(同女)の祖父、同時に他方(予の息子)の父となり得よう」と。

この言葉を聞いて家康は落涙を禁じ得なかった。彼は、太閤様の死期が迫っていることに胸いっぱいになり、大いなる悲しみに閉ざされるいっぽう、以上の(太閤様の)言葉に示されているように、太閤様の己れに対する恩恵がどれほど深いかを、また太閤様の要望に対してどれだけ誠意を示し得ようかと思い巡らしたからであった。

だがこれに対して、次のように言う者がないわけではなかった。家康は狡猾で悪賢い人物であり、これまで非常に恐れていた太闇様も、ついに死ぬ(時が来た)のだと思い、随喜の涙を流したのだ。家康は、とりわけ、いとも久しく熱望していたように、今や(国家を)支配する権限を掌中に収めたのも同然となったことに落涙せざるを得なかったのだ、と。

(それはともかく)家康は悲嘆の面持ちで、次のように答えた。
「殿様、拙者は殿の先君(織田)信長(様)が亡くなられた頃には、三河の一国しか領しておりませんでした。しかるに殿が日本国を統治し始められて以後、さらに三ヵ国を加えられ、その後久しからずして、殿の無上の恩恵と厚遇によって、その四カ国は、現在のように関東八カ国の所領に替えていただきました。

拙者に対する恩恵は以上に留まらず、絶えずはなはだ多大の贈物を賜わりました。殿は今後、拙者が生命を扱っても、御子息に対してあらゆる恭順、奉公を尽くすようにと、拙者ならびに拙者の子孫を解き難い絆で固く結ぼうとなさいます。

拙者は当初、殿が御意向を示された折、拙者は粉骨砕身、もって王子(秀頼)へ主権(の委譲)が安泰たるよう、その後見人として励もうと決心しておりましたが、(今や)殿は、国王(秀頼)御身、ならびに国家の命運をも拙者の忠誠に委ねられ、また、かたじけなくも殿の御子息を、拙者の息子(秀忠)の娘に、花婿として下さいます。拙者にとり、これに過ぐる恩恵は、いまだかつてなきところでございます。

かくて拙者は、大いなる愛の絆によって殿に縛られた奴隷にほかなりませず、今後は万難を排し、あらゆる障害を取り除き、もって殿の御要望なり御命令を達成いたす覚悟であります」と。

このように家康が答えると、太閤様の面前へ嫁(家康の孫娘)が連れてこられ、時間が許すかぎり(太閤様の枕もとで)喜びと厳粛さのうちに結婚式が挙行された。

それから太閤様の希望によって、家康は誓詞をもって約束を固め、また列座の他の諸侯も皆同様に服従と忠誠の誓詞を差し出すことを要求され、彼らは太閤様の嗣子に対しては、嗣子が成人した後には、その政権を掌握できるように尽力することを、また家康に対しては、その間尊敬と恭順の意を表することを誓った。

さらに太閤様は、その他の(より身分の)低い諸侯が、家康の屋敷で同じように誓うことを命じ、加えて、家臣たちの心を自分に固く結びつけ、彼らが太閤様の嗣子に対して忠節を尽くすようにと、金銀その他高価な品々を数多く分かち与えた。太閤様は非常に気前よく寛大さを示して、寡婦や古くからの下僕のような貧しい私人のことにも思い及び、それぞれの身分に応じて何らかの品を授けた。

太閤様はその後、四奉行に五番目の奉行として浅野弾正(浅野長政)を加え、一同の筆頭とした。次いで太閤様は、奉行一同が家康を目上に仰ぐよう、また主君(秀頼)が時至れば日本の国王に就任できるよう配慮すべきこと、すべての大名や廷臣を現職に留め、自分が公布した法令を何ら変革することなきようにと命じた。

また確固たる平和と融合!これなくしてはいかなる国家も永続きできぬが諸侯の間に保たれるようにと、一同に対し、旧来の憎悪や不和を忘却し、相互に友好を温めるようにと命じた。

そして太閤様は、領主たちの不和がとりわけ国家にとって不都合を生じ得るに鑑みて、彼らがそれぞれ息子や娘たちを婚姻関係で結ぶことによっていっそう団結することを希望した。また某の娘に養子をとらせ、同様に他の諸侯とも縁を組み、諸侯が大いにその婚姻を慶祝するようにした。

それから国の統治者が亡くなると戦乱が勃発するのが常であったから、これを未然に防止しようとして、太閤様は(日本中で)もっとも堅固な大坂城に新たに城壁をめぐらして難攻不落のものとし、城内には主要な大名たちが妻子とともに住めるように屋敷を造営させた。太閤様は、諸大名をこうしてまるで檻に閉じ込めたように自領の外に置いておくならば、彼らは容易に謀叛を起こし得まいと考えたのであった。

太閤様は、これらすべての企てが効を奏するためには、上記(大坂城)の普請が完成し、かつ朝鮮、日本両国間に善かれ悪しかれ和平が締結されて、全諸侯が朝鮮から帰国するまでは自分の死が長らく秘されるがよい。かくて自分の息子の将来は、いっそう安泰になるであろうと考えたのであった。

最後に太閤様は、自らの名を後世に伝えることを望み、まるでデウスのように崇められることを希望して、[日本全土で(通常)行なわれるように]遺体を焼却することなく、入念にしつらえた棺に収め、それを城内の庭園に安置するようにと命じた。

こうして太閤様は、以後は神[この名は存命中に徳操と戦さにおいて優れていた偉大な君侯たちの特性であり、死後はデウスたちの仲間に加えられると考えられている]の列に加えられ、シンハチマン、すなわち、新しい八幡と称されることを望んだ。

なぜなら八幡は、往昔のローマ人のもとでの(軍神)マルスのように、日本人の間では軍神として崇められていたからである。

こうしたことが進行していた折、ジョアン・ロドゥリーゲス師と数名のポルトガル人は、最近(長崎に)入港した(ポルトガル船の)司令官の名をもって、国王(太閤様)に贈物を献上するために、伏見を訪問した。(ポルトガル)船が日本の港に着くと、早い機会にいつもそうする習わしなのである。

太閤様は彼らが来訪したことを聞くと、奉行の一人に命じて、一行の航海が無事であったことに祝意を表させるとともに、ロドゥリーゲス師に対してのみ謁見を許し、他の人々は引見したくないと伝えさせた。

司祭は国王に見えるまでに非常に多くの庭や広場、住居や部屋を通過せねばならなかったので、帰りには案内者なしに出口を見つけることは困難(だと思われ)た。

ロドゥリーゲス師がついに宮廷内の寝所に達したところ、太閤様は、純絹の蒲団の間で、枕に頭をのせて)横臥し、もはや人間とは思えぬばかり全身痩せ衰えていた。太閤様はロドゥリーゲス師に、もっと近寄るようにと命じた上、「予は貴師に接して少なからず心がなごむ。余命幾ばくもなく、ふたたび見えることはあるまい」と語った。

そして太閤様は、司祭が今回のみならず、過ぐる年、(幾度も)来訪した労苦に対して感謝した。それから太閤様は、ロドゥリーゲス師に米二百俵、日本の衣服一重ね、ならびに(九州へ帰るのに)適当な乗船一隻を与え、司祭に伴って来たポルトガル人たちにも幾重ねかの衣服を、そして上記の司令官の二組の帆船に米二百俵を、さらに同数の(米)を(司令官の定航)船に与えた。

太閤様はまた、国王(秀頼)が(ロドゥリーゲス)師の訪問を受けることを望み、これより先、家臣を通じて、(秀頼に対して)司祭ならびにその同僚のポルトガル人らは異国人ゆえ、彼らを鄭重にもてなすようにと命じていた。
かくて息子(秀頼)は、そのように実行し、父王が行なったようにおのおのに対して絹衣を授けた。

その翌日、既述の五奉行の息子や娘たちの間で婚姻が行なわれることになっていたので、太閤様はその荘厳な結婚式に、ロドゥリーゲス師が列席することを望んだ。最後にロドゥリーゲス師は太閤様に対して、(今後)ポルトガル人たちを厚遇してもらいたいと大いに彼らのことを推挙したところ、太閤様は司祭に対して多くを語り、大いに好意を示した上、司祭を退出させた。

(ロドゥリーゲス)師は非常に心苦しい思いで、太閤様のもとを辞去した。それというのも、司祭には太閤様が不欄に思えたからで、太閤様は、他のすべての点では大いに先見の明があり聡明でもあったのに、己が霊魂の多いという重大事についてはひどく頑固に目を閉じて、司祭がしきりに救霊のことについて話そうと望んでも、それについては一言も耳をかそうとはしなかったからであった。

太閤様は日本の諸事について、このように処理したが、病状が日々悪化したので、城中のもっとも高い奥まった座敷へ移させた。太閤様はすべての訪問客と騒音を遠ざけるよう命じたが、これはもし(病状が)治まる望みがあるならば、より安静に療養するためか、あるいは人に煩わされることなく、息を引きとるため(と思われる)。

そこで、訣別の許しを申し出た国王(秀頼)に対して、太閤様は、「今後、予を父と言わず、家康を父と呼ぶがよい」と言った。
その際太閤様は、国王(秀頼)を家康に託し、一座の諸大名とも最後の決別をし、また自分のもとに留まる者や、寝所への出入りを許される者の人数を限った。さらに太閤様は、医者たちに常詰めするように命じた上、先に定められた場所へ移った。

太閤様がこのように奥まったところへ籠ってしまったことが、息子や近臣たちの胸をいかに深い悲しみで閉ざしたかは、誰しも容易に推察できることであった。[彼らは、太閤様との家族的な交わりから、いっそう大いなる栄誉が授けられることを期待していたのであった]

(太閤様の寝所から)非常な嘆声が起こった時には、書状も持ち出せぬほど、どこもかしこも出口や扉は厳重に締め切ってあった。それにもかかわらず、太閤様の寝所近くでの哀悼の声は、外部にも漏れ聞こえ、国王(太閤様)が亡くなられたという噂が、さっそく広がってしまった。

そうすると、略奪者が公道で横行し(始め)、また民衆は、こうした時にはどのように群集心理が働くかを心得ていたので、より安全な場所を求めて逃げ出した。大坂、都、伏見では、よろずにつけ上を下への大騒ぎとなってしまい、家康も奉行たちも、まったく群集を鎮めることができなかった。

大名たちがそれぞれ自衛のために、居城の守りを固め出したことが、民衆の噂(太閤様の死)を裏付けた。こうした風聞が八日ないし十日間続いた後、国王(太閤様)はいくぶん病状を回復し、二人の奉行を召して次のように命じた。

両人は大坂へ赴き、大坂城の拡張工事に着手し、できうるかぎり早急に全普請を完成するよう全力を尽くせ。また、伏見から大坂へ屋敷を移さねばならなくなった話侯には金、銀、米をもって出費を補ってやれ、と。

(大坂城に新しく)巡らされた城壁の長さは三里にも及んだ。その労力に対して支払われる賃金は数千金にも達したが、太閤様はこれについて少しも支払うことはなかった。その区域内には(それまでに)商人や工人の家屋[七万軒以上]があったが、すべて木造だったので、住民自らの手ですべて二、三日中に取り壊されてしまった。
[その命令に従わぬ者は皆、財産を没収すると伝えられていた]。ただし、立ち退きを命ぜられた)住民に対しては、長く真っ直ぐな道路で区分けした代替地が与えられた。

そしてそれぞれの家屋は軒の高さが同じになるようにして、檜材(日本における最良の材木)を用いるようにと命令された。この命令に従わなかった者は、地所も(建築に)必要な材木も没収されるということであった。

民衆は、諸侯や人夫たちが喧騒のうちにこのような大普請を開始したのを見ると、奉行たちが言うように、太閤様はまだ存命だとすっかり信用し始めた。というのは、家康も奉行たちも(もし太閤様が亡くなったのなら)このような辛く厭な仕事に容易に着手するはずのないことは、容易に察せられたからであった。

太閤様の容態は九月三、四日までやや持ち直し、奉行とごく近親の者以外は誰も近づくことができず、その間というのは、もっぱら、数組の(諸侯の)婚姻に関する配慮とか、国家が息子(秀頼)のために、いっそう固められるために、誓詞を(諸侯に)要求するといったことで過ぎていった。

だが九月四日には、(太閤様の)容態は悪化し、(伏見城では)すべての門で厳しい警備態勢が続き、同月十四日には太閤様は息を引き取ったかと思われるほどになった。

しかもなお十五日には太閤様は意識を回復し、狂乱状態となって、その間、種々様々の愚かしいことを口走った。だが息子(秀頼)のことに関しては、息子を日本の国王に推挙するようにと、最期の息を引き取るまで、賢明に、かつ念を押して語っていた。

こうして、太閤様はついに、その翌朝未明に薨去した。
(注、この報告書によると、洋暦九月十六日、すなわち邦暦八月十六日の未明となるが、日本側の権威ある記録では慶長三年八月十八日(一五九八年九月十八日)、丑の刻(午前二時)である。)

日本の奉行たちは太閤様が亡くなると、伏見にいる工匠ならびに住民に対して、国王(太閤様)が存命であるか薨去されたか、病状が良いか悪いかについては、第一に、いっさい口外せぬと誓うように、第二に、この点、正直に約束を履行せぬ者は、何びとも家の中に入れぬと誓うように命じた。

そしてたまたま或る大名の下僕がこの命令に従わず[太閤様の薨去について語った]ところ、彼はただちに礫刑に処せられてしまった。この見せしめは、日本人たちを非常に恐れしめるところとなって、それ以後はこの事件についてあえて口を開く者すら誰もいなくなった。

(このような次第で)今に至るまで国内はしごく平穏であり、大坂で始まった普請は進捗しており、諸大名に当てられた用地では数カ所の丘が平地に変えられている。

朝鮮国へも家康と奉行たちから二名の使者が派遣された。使者は、日本では何びとに対しても、自分たちが出発する理由を打ち明けない旨誓約をした後に朝鮮にいる諸侯全員に対し、或る人々が主張していたように、朝鮮およびシナと(日本)の間の講和(条約)が締結されているといないとにかかわらず日本へ帰るよう伝達するために出発した。

かくて前後七ヵ年にわたった朝鮮の戦役には、ついに終止符が打たれることになった。この戦役は、キリシタンたちの大いなる労苦と出費のうちに継続してきたのであるが、キリシタンの諸侯にとっては、自領を安全に保持できるに至ったという有利な面もあった。

というのは、もしもこの戦役が介入していなかったら、(それらの)領地はキリスト教会の計り知れぬ損失のもとに、太閤様によって他の領主の手に渡っていたことは疑う余地がないからである。

それゆえ既述のような(布教上の)成果、また、かくも多くの諸侯や賤しからぬ人々の間に驚くべく伝播したこの新たな葡萄園では、障害にあうこともなく順次刈り入れができること、(さらに)こうした時期に、我らがいとも敬すべき司教を無事に(日本へ)迎え得たことについて、デウスに対し奉り無限の感謝を捧げねばならぬと考える。

デウスは、(全き)善(なる方である)から、聖なる御名の光栄のために、かくも長く続いた迫害を終結せしめ給い、教会の名声を減じるどころか、信徒と未信徒を問わず一同のもとにおいていっそう増大するよう取り計らい給うたのであるから、私は尊師に対し、すべての(御身の)子(である在日イエズス会員)の名において、尊師が善きデウスに対し奉り、当然払うべき感謝の念をいっそう重ねて下さるよう切にお願いする次第である。

また尊師におかれては、ミサ聖祭、ならびにデウスのもとでの祈祷によって、我らを御援助下され、同時に(ここ日本では)新たな働き手(宣教師)が著しく不足していることをご記憶下さるよう、お願い申し上げる。

今や刈り入れるべき収穫物は、もはやすでに、真実のところ準備されているからである。諸国ならびに諸大名は、(イエズス)会の司祭たちを必要としている。

たとえば、都に近い備前国、それに筑後国、肥前国(の領主)、および八カ国の領主毛利(輝元)殿がそうであり、有馬と大村(領)に挟まれた伊佐早殿も同様である。

伊東(祐)殿も同様で、彼は日向地方の三分の一の領主である。他の門戸にも、多くの魂の回心のために開かれ、薩摩国がその例であり、同国の国主はすでにキリシタンと和解している。

豊後国には三名の異教徒の殿がいて同国の大部分を領有しているが、我らの仲間(のイエズス会員)は、そこで滞在する許可を与えられた。

その他多くの地方でも(滞在する許可を与えられている)。「最後に、我らが洞察するところ、他の諸地方、ことに下地方では、すべて収穫する準備が整っているので、我らは(ヨハネ伝、四章三十五節のように)「諸国は、はや黄ばみて収穫時になれり」と言えようかと思われる。

それゆえ私たちは、聖なる主(デウス)をまったく信頼している。もし尊師がいつもの寛大さをもって、新たな御援助をこの(日本の)地へ賜わるなら、キリストの十字架の敵たちから得られる巨大な勝利について、ほどなくもっとも芳しい報せに接せられることを信じている。

1598年10月3日、長崎において。

いとも尊敬すべき猊下
聖主における賤しき子にして僕べなるフランシスコ・パシオ