【甲陽軍鑑】川中島の戦い

【甲陽軍鑑】品第三十二「川中島合戦」(現代語訳)

「永禄四年八月十六日、信州川中島より飛脚が来て申し上げた。”上杉輝虎が出陣して海津の向かい、妻女山(原文は”西条山”)に陣を取り、海津の城を攻め落とそうとしています。 その軍勢一万三千” と申し上げると、信玄公は同月十八日に甲府を出発され、同二十四日に川中島へ到着された。謙信の陣がある妻女山のこちら側、雨宮の渡りを取り、陣を置かれた。
※上杉輝虎への改名は永禄4年12月であり、誤りがある。第四次川中島の戦いの時点では上杉政虎。

謙信の衆は越後への道を塞がれ、ちょうど袋へ入れられたようになったと(上杉の家臣らは)皆心配していたが、輝虎は少しも心配した様子はなかった。
こうして信玄公は五日間そこに在陣し、六日目の二十九日に広瀬の渡しを越え、海津城へ入られた。謙信は家老の意見も聞かず、妻女山に同じように在陣していた。

ここで、信玄公へ飯富兵部(飯富虎昌)が諌め申すには、御一戦なされるのがよいでしょうと申し上げた。信玄公は馬場民部助(馬場信春)を呼び相談されると、馬場も御一戦なされるようにと申し上げた。

信玄公が仰せられるには、”当家の足軽大将で弓矢巧者の者、小幡山城はこの六月に病死し、原美濃もこの夏、鰐獄城において十三箇所の負傷でいまだに傷が治らないので召し連れていない”と仰せられ、山本勘介を呼び、”馬場信春と両人相談して、明日の合戦の備えを決めよ”と命じられた。

山本勘介が申すには、”二万の軍勢の一万二千で謙信が陣をとる妻女山へ仕掛け、明日卯の刻(午前6時頃)に合戦を始めると、越後勢は負けても勝っても川を越え退くでしょう。そこに御旗本組と二の備衆をもって前後から押し挟んで討ち取るようになさるのがよいでしょう”と、山本勘介が申し上げたので、

高坂弾正(高坂昌信)、飯富兵部少輔(飯富虎昌)、馬場民部(馬場信春)、小山田備中(小山田虎満)、甘利左衛門尉(甘利昌忠)、真田一徳斉(真田幸隆)、相木(相木昌朝)、芦田下野(芦田信守)、小山田弥三郎(小山田信有)、小幡尾張守(小幡信定)のこの十隊は妻女山に向かって卯の刻に合戦を始めようとした。

中央の御旗本組は飯富三郎兵衛(山県昌景)、左は典厩(武田信繁)、穴山殿(穴山梅雪)、右は内藤修理(内藤昌豊)、諸角豊後(諸角虎定)、御旗本脇備は、左に原隼人佐(原昌胤)、逍遙軒(武田信廉)、右脇備は太郎義信公(武田義信)その時二十四歳、望月殿(武田義勝)、御旗本後備は、跡部大炊助(跡部勝資)、今福善九郎、浅利式部丞(浅利信種)

この十二隊、御旗本とともに八千の兵、今夜七つ寅の刻(午前4時頃)に出発し広瀬の渡しを越して陣を敷くと、敵が退くのを見てから一戦に及ぶと決まった。

この先陣・旗本衆の炊事の煙が立つのを、妻女山において謙信が見られ、当家の侍大将を全て呼び集め輝虎が申すには、

“十五年前、未の秋、信玄二十七歳、謙信十八歳の時、争いを始め度々合戦をしてきたが、信玄の備えに誤りはなく戦場を信玄に取られ謙信が遅れを取っていた。明日は合戦と見るが、信玄の武略は軍勢を二手に分け、この陣場へ向けて合戦を始め、謙信の旗本が川を越えて引くところを、半分の軍勢をもって討ち取る合戦を定めるだろうと、鏡に映るようにわかる。

ここは謙信も十手を一つ仕り、川へ向かいそこで夜を明かし、日の出になれば合戦を始め、信玄の先手が駆けつける前に、武田勢を切り崩し信玄の旗本と、我が旗本と一戦を遂げ、信玄と我と、手に手を取り合い、組み伏せて刺し違えるか、様子を見て和睦するか、いずれにせよ明日は二つに一つの合戦である。”

輝虎は甲冑を付け九月九日の亥の刻(午後10時頃)に、妻女山を出陣し雨宮の渡しを越え向こうへ移られた。一万三千人の軍勢であるが音も聞こえなかった。その理由は越後衆は戦の時一人に三人分の朝食を用意させる軍法だったので人馬の食料を用意することはなく、火を焼く色は見えなかったのである。

こうして九月十日明け方に、信玄公は広瀬の渡しを越え八千の軍勢にて陣を敷き、先手の報告を待っているところに、日が出て霧が完全に晴れると輝虎が一万三千の軍勢にて近々と備えていた。
謙信は強敵ゆえ、同じ軍勢でも危うい合戦だが、まして信玄公は八千、輝虎は一万三千である。勝ったとしても討死は多数出るだろうと武田の諸将が思うのは当然だった。

(この後、武田信玄は浦野という者に斥候をさせ、浦野は謙信は退いたと報告する。しかし信玄は今日の決戦を覚悟しているはずだと言い、陣を立て直す。)

謙信は甘糟近江守(甘粕景持)という剛勇の侍大将の雑兵千人をはるか後ろに備え、直江(直江景綱)という侍大将二千に小荷駄奉行を申し付け、謙信は一万の軍勢をもって、柿崎(柿崎景家)という侍大将を一番手にして、二番手に輝虎が旗を包み傾けて無二無三に攻めかかって、一気に合戦を始めた。

その間に謙信の旗本は信玄公の味方の右へ周り、信玄公の旗本五十騎、雑兵四百余の備えを追い立て、信玄公の旗本へ、謙信の旗本と敵味方三千六七百の人数が入り乱れ、突きつ突かれつ、斬りつ斬られつ、互いに鎧の肩を取り合い、組んで転ぶ者あり、首を取って立ち上がれば、その首は我が主人のものと名乗り槍をもって突き伏せるのを見ては、またその者を斬り伏せる。甲州勢も目の前の戦いに取り紛れ、信玄公がどこにいるかもわからず、越後勢もその通りだった。

そこへ萌黄の胴肩衣を着た武者が白手拭にて頭を包み、月毛の馬に乗り、三尺ほどの刀を抜き持って、信玄公が床几(腰掛け)にいるところへ、一文字に乗り寄せ、切っ先は外したが三太刀斬りつけた。信玄公は立ち軍配団扇にて受けられた。後で見ると団扇には八つの刀傷があった。

御中間衆頭、二十人衆頭ら二十騎の者は剛勇の強者だったので立ち回り、敵味方に知られないように信玄公を取り囲み、近寄る者を斬り払う。

そのとき原大隅(原虎吉)という御中間頭が青貝の柄の槍を月毛の馬に乗る萌黄の緞子の胴肩衣の武者を突くが、突き外したので鎧の肩を打ちつけると、馬の後方を叩き、馬は竿立って走り出した。後に聞けばその武者は輝虎だったそうだ。

御旗本組のうち飯富三郎兵衛の軍勢が越後一番手の柿崎衆を追い崩し、三町ほど追撃する。穴山殿衆も、柴田を四町ほど追撃する。

信玄公は床几を立たれた場所を、少しも退かれず、その他九頭はすべて敗軍となり、千曲川、広瀬の渡しまで追撃で討たれ、太郎義信公を始め退却した。

なかでも典厩は討死、諸角豊後守は討死、旗本足軽大将の両人、山本勘介は討死、初鹿源五郎は討死、信玄公はお腕に軽く二ヶ所、太郎義信公も二ヶ所傷を負われた。

この合戦はおおかた信玄公の負けとみるところに、妻女山へかかっていた先手十頭、謙信に出し抜かれたと鉄砲の音、ときの声を聞き、すぐ千曲川を越え、越後勢の後方より合戦を始め追い打ちを行い、さすがの謙信も和田喜兵衛という侍ただ一人連れ、名馬の月毛の馬を乗り放し、家老の馬に乗り換え主従二騎にて高梨山へ退いた。(中略)

この合戦は卯の刻(午前6時頃)に始まりおおかた越後輝虎の勝ち、巳の刻(午前10時頃)に始まった合戦は甲州信玄公の勝ち、越後衆を討ち取った数は雑兵ともに三千百十七の首帳をしたため、その日申の刻(午後4時頃)に勝どきをあげられた。」