【イエズス会 1599年度年報】(2)

このことが平戸で知られた時、偶像教徒たちは呆然とし、あらゆる信仰を凌ぐことが起こったと考えた。つまり彼ら貴人たちは、キリシタン信仰を棄てるよう強制されぬように、これほど多くの人々を率いて故郷と親戚と財産を放棄し、またその快適さを捨ててしまったからである。

このことがあって後、すぐれた(キリシタン)たちのこの行為が、どれほどこれらの地において、キリシタンたちの名の栄誉を輝かせたかは驚くばかりである。
そしてこのことは我らに並々ならぬ慰めを与えた。しかし容易には説明されぬ二つの困難を伴っていた。

(第一の困難はこうであった)。太閤様によって掟は次のように定められていた。家臣にせよ下僕にせよ、誰一人として自分の殿の許可なしに他の殿の所領へ家族を移すことはできず、また自分の主君への服従を秘かに取り消すことはできない。誰かがそのような行為をし、その者が何処で発見されても、その殿から殺され(た場合)殿に罪はない。さらに他方の殿は、その者の脱走を受けた主君の権限に入るよう引き渡すよう強いられる、と。

この行動があった当時、他のキリシタンの諸侯は都にいたので、我らはこれほど多くの人数を自分の領内へ入れて、敵たちのすべての不義を彼らのために守ってくれる者は誰も見つからなかった。また長崎奉行の寺沢広高)殿は(松浦)法印(鎮信)のもっとも親しい友であり親戚でもあったので、他国から来たこれらのキリシタンたちは、その市では敵たちから安全ではありえなかった。さらに寺沢(広高)殿の代官は、すべての市に近づくことを彼らに対して拒んだ。

そこで第二の困難が起こった。(イエズス)会自体が日々、非常な困難に遭遇していて、この群衆を受け入れる余地がなかったことである。太閤様の掟を日本人の誰一人として犯そうとしなかったのに、もし我らがそれを犯したとしたら、我らは人々の憎悪を買うことになるだろう。

しかもずっと秘密に故郷を去って来たこれらの離村したキリシタンたちは、長崎近郊までの道中に十分だと思った必要量以外には糧食については考えておらず、それゆえにすべての人間的な援助を失っていることを我らは知っていたので、我らはデウスの光栄のために、我らのすべての危険よりも、彼ら自身を援助することを優先すべきであると判断した。

そこで我らはオルガンティーノ師と(小西)摂津守(行長)に宛ててこう書いた。日本国の公の評定の席で、キリシタンたちの事由を弁護して欲しい。またこのような混乱のすべての罪は、こうした悪行の唯一の張本人であった(松浦)法印(鎮信)に負わせてほしい。なぜならこれらキリシタンの貴人たちは五十年来キリシタンであった人々で、また朝鮮戦役では祖国のために一生懸命に戦った。

彼らに対しては、聖主キリストを棄てよとのいとも笑止な命令をもって苦しめるべきではなく、彼らに対しては善行に応じてもっとも多くの褒賞が贈られるべきである。もし彼らが故郷の財産を享受することを望んでいるのであれば、彼らに対してデウスへの信仰を棄てるよう強制すべきではない。とりわけ太閤様が存命中であったなら、太閤様からこのようなことは何一つとして命令を下されることはなかっただろう、と。

我らは逃げてきたキリシタンたちのために、我らが以前に学院のために使用した建物の中に宿泊所を準備した。そこは長崎からおよそ六スタジアム離れていて、寺沢広高)殿の支配権外の大村領下にあり、そこでずっとゆっくり住んでもらうように我らは近くにあったポルトガル人たちが廃屋にしていた数軒の家を占拠し、また我らは庶民のために新しく数軒を建てた。こうして彼らの中の誰も軒下で(屋内で)生活しない者はないようになった。

このような状態が続いていた時、大村(喜前)殿が都から帰ってきた。彼はすべての事情をその発端から理解すると、この(キリシタンたちの)居所を領内に持っていた家臣[彼は恐怖心に駆られて、これら見知らぬ者たちを退去させることにしていた]に対して殿はこう命じた。彼らに対しては、いかなる面倒も起こしてはならず、かえって彼らに対してなしうるすべてのことに便宜を与えよ、と。同様に(殿)は、困難の中にある人々に対する好意の印として、(この家臣に)己が名によって彼らを見舞わせた。

避難してきたキリシタンたちが我らのもとへ来てから、すでに三ヵ月が経っているが、(イエズス)会は彼らのために、自分たちの乏しい中から彼らの窮乏を支えている。こうしてデウスの恩恵によって、生活を維持するために必要なものは何も不足であったことは知られていない。また我らは彼らの救済のために労力と費用を使ったことを決して後悔しないであろう。なぜなら我らは、キリシタンとしての愛徳によってこの義務を果たしているのであり、またキリシタン一同は我らの行為によって、日々ますます徳を重んずるよう駆り立てられているからである。

我らが、信仰のために故郷を離れ、自らの財産を犠牲にすることを躊躇しなかった人々を助けるにあたって、出費の大きさも、また生命の危険も、我らをして遠ざけさせえなかったことを彼らは考え合わせたからである。同様に異教徒たちは、避難してきた平戸の者が、人間的な判断では明らかに虐げられ、ほとんどすべての事物から絶望しきっているが、人人の邪悪さがもたらす損害を無視するために、大いなるそして強い心でもって心を温め、また燃え上がらせることをやめずにいる姿を見出した時には、異教徒たちが聖主キリストの法から(キリシタン)たちを離反させようと強制したように、今後はその狂暴さを容易にキリシタンたちに対して振舞うようなことはないであろう。

我らがキリストのために甘受したこれらすべての中に、我らはデウスの特別な御加護を認めた。なぜなら(松浦)法印(鎮信)は、平戸へ帰ってきた時にキリシタンたちに厄介をかけたことに対する厚かましさを自ら責め、今後は彼らがキリシタンの教によって生活することを許したからである。しかし彼はただちにその愚行を終わらせたわけではない。なぜなら彼は、信仰のためにそこを逃げていった人々の数軒の家を焼き払い、彼らがいなくなったことは自分にとって非常に気持ちがよいと口外したからである。

(小西)アゴスチイノ(行長)は私に対して、次のような報告がなされるよう命じた。「自分が都から故郷へ帰った時、逃げてきたキリシタンたちに対して、彼らが生まれた地で世襲財産をもって普通生活していた以上にそこで生活するよう、年間の収益を与えてやるように」と。

これらキリシタンたちの自発的な逃亡は、三十家族以上の平戸の貴人の家臣たちが模倣した。確かにもし我らが書簡によって平戸のキリシタンの町民たちに対して「汝らが宗教上の理由によって何らの迷惑を被らぬ限り故郷を離れることは考えないでほしい」と忠告しなかったなら、皆が一つの所へ(場所を)変えたであろう。

(松浦)法印(鎮信)は、彼らを自分のもとに引き留めておこうと多くを試みた。なぜなら彼は、彼らの中の数名が逃亡しようと試みたので殺してしまったからである。しかし彼は、少しも(その問題)を拡大させることはできなかった。最後に、太閤様の存命中に(松浦)法印がこのような騒動を起こさなかったことは、デウスの大いなる摂理のおかげである。

なぜならもし彼が生きていたら、我らにはこれほど多数の人々に耕地と食糧を与えて、あのような方法で世話することは許されなかっただろうし、また彼ら(キリシタン)自身も自分たちの惨めさから他に逃れる道を見出すこともなかっただろうからである。

これらの事件が起こった頃、デウスは他のことの成果によって我らを慰めることを嘉し給うた。我らは日本国の平穏な状態から、我らの仲間の中の数名を各地へ福音を宣布するために派遣する機会を窺い得たからである。この布教は彼ら自身によって大きな成果をもって熱心に行なわれたが、特に肥後の諸地方、しかも(小西)アゴスチイノの所領において、我らの仲間たちの活動は顕著な効果を収めた。

ジョアン・バプティスタ(・デ・モンテ)師が大矢野に滞在していた時、事を運ぶに際して非常に順調で、彼は数名の重立った人々の好意を得たために少なからぬ人がキリシタンになった。彼一人ではこれほどの活動には対応できなかったので、(イエズス)会員の中から他の人々が援助に派遣され、彼らの尽力によって六カ月間に三万名以上が洗礼を授かった。異教徒たちの心には、キリシタン宗門に入信しようとする大きな熱意が弘まったので、多数の意見では間もなくそれらの地方では、すべての迷信が消えてしまいそうだというほどである。

この信心活動において、我らのために大いに援助したのは、貴人で富裕なジャコベ作右衛門という人物で、彼は(小西)アゴスチイノの重立った家臣の一人で、(小西)アゴスチーノに代ってその地域の頭であった。彼は朝鮮戦役から帰る時には長崎へ直行した。

なぜなら彼は自宅に戻る前に、魂のことで配慮することを望んだからである。そこで彼は司教(セルケイラ)貌下に挨拶をした後、告白の秘蹟によって罪の汚れを浄め、そして聖体を拝領した。こうすることによって彼は、(小西)アゴスチイノと己れと、それにともに戦ったすべての人々にもたらされた無限の恩恵に対してデウスに感謝した。

それらの恩恵は、デウスの助けによっていとも確かな危険を幾度も免れさせられたのだから、漠然としたものではありえなかった。この同じ貴人は堅振の秘蹟をも授かった。彼は同教の荘厳な儀式によって行なわれたこの秘蹟を大いなる敬虔さをもって受けたが、その効果は非常に豊かなものであった。なぜなら彼が次いで自らの居城である八代に到着した時、彼は自分の中にデウスへの礼拝を弘めようと、経験した心の情熱を他の者と分かち合いたい望みに駆られて、人々の魂の救済に必要と判断したことについて、その地の重立った住民たちと熱心にことを運んだからである。

彼はジョアン・バプティスタ師の援助によって、まずこの司祭によって行なわれていた教理の講話に彼らの耳を開かせ、ついには洗礼を授かってキリシタンとなることをともに望むようにさせた。彼の心の情熱は、少数の人々の中で燃え上がったのではなく、偶像崇拝者の多数がキリシタンとなるまでは安心せず、そのため短期間にその地域で、およそ二万五千名が洗礼を授かったほどである。

デウスの同じ愛の炎は、(小西)アゴスチイノの領国の中の主要な城で、他の諸々の地の頭で、八代から八里隔たった宇土へ達した。わずかな日数で、異教徒たちの中の四千名が福音の光に目を向けるようになり、それから数日を経てから二千名が洗礼を授かった。

そして現在、宇土城の中の十五名の重立った人、[そのように我らのもとに報告されている]が教理の講話を聞く決心をした。もし彼らが異教徒たちの迷信を棄ててキリシタンの信仰をもつようになったならば、[我らはそれを希望しているが]、他の大勢がこのような人物の模範に倣って浄福へ導く同じ道を歩むようになることは疑う余地がない。

我らの仲間の者が、(小西)アゴスチイノの別な城で山鹿(Giamba)といって、豊後の国を望み、宇土からは十里以上我らの所から離れている地に派遣された。彼は今日まで二千五百名以上に洗礼を授けた。そして私は要約して述べることにしよう。

ここの人々は洗礼を授かろうとする非常な熱意に燃えており、(イエズス)会員たちはきわめて短い時間も、この秘蹟を授けたり信仰の初歩を教えたりする仕事から身体を休めることがどうしてもできず、ついに彼らの中の四名はひどい過労のため倒れ病気になってしまった。しかし他の人々の救霊がおろそかにならぬよう、それ以後は始められた仕事が非常に迅速に終るように仕事が端折られた。

(小西)アゴスチイノは、都でキリシタンの布教が自分の家臣のもとで順調との報せた受けた時、どれほど喜んだかは驚くほどである。なぜならこれほど彼を喜ばせたものは何もなかったからである。彼は何度も私に宛てて書状を送り、こうしたためた。自分が帰国したら、肥後の居住地に滞在しようとしている我らの仲間を増してもらうために、その成果について予定しておこう、と。

我らは現在、彼の帰国を今か今かと期待している。なぜなら我らには、彼が都から故郷へ向かって出発したことが明らかになっているからである。この時有馬(晴信)殿は都に滞在していた。彼は再婚について考え、[なぜなら昨年、彼の夫人ドナ・ルシアが死去し、彼の所領にいるキリシタンたちにとって大きな悲しみであり、損失であったからである]、或る公家[日本人の中では、この大いなる階級は栄誉あるものである]の娘で、一人の身分の高い女を迎える決心をした。

彼女は異教徒であるが、有馬へ来たらデウスの恩恵によってキリシタンの洗礼を授かる[そう期待されている]のが容易な様子である。有馬(晴信)殿は己が長子を(小西)アゴスチイノともっとも近い親戚にすることによって結合することを望んだ。

なぜなら十四歳になる若者は、父親(有馬晴信殿)の命令によって、(小西)アゴスチイノの兄弟で堺の奉行をしている(小西)ベント(如靖)の娘で、先にアゴスチイノに自分から、この身分ある家へ、いっそう容易に嫁げるように養女となった女と、結婚によって結び合わされたからである。

我らが述べたような方法で日本国が平定して、都から自邸へ戻って行ったキリシタン諸侯の中で、一同の筆頭は大村(前)殿であった。彼は大村へ帰るとただちに、非常に熱心に私にこう要望した。自分の家臣のキリシタンたちを慰めるために、私が訪問することを望む。これらのキリシタンたちに逢うことは、私が最近に日本国へ来て以後許されていなかった、と。私はこの道中の難儀を拒むことはできなかった。

各地から私のもとへ来た一同の私の到着に対する喜びは非常に大きかったため、私が彼らのもとに滞在した八日間に、私は我ら(イエズス会)の会員たちといっしょに過ごす、ほんのわずかな余暇もなかった。このため私は、喜びの挨拶に来る人々の集まりで疲れてしまい、この地の殿とキリシタン宗門の状況を確立すべきことについて熱心に話し合って後、私は急いで長崎へ帰るべきだと判断した。

ところで私はキリシタンたちのことで殿と話し合い、昨年人々の不信心によって破壊された聖堂の建築を開始するようにした。キリシタンの諸侯がこのような意見におちついたのは、時勢の平穏さがこうするように我らに要求したからである。

そこで彼らは我らに対して、我らが通常のように(教理の)入門や信仰の務めを教え、秘蹟を授ける仕事に戻り、またキリシタンたち一同が公然とミサ聖祭に与かり、そして、[一言で言うならば]キリシタンの教会がこれらの地で平和を享受していた朝鮮戦役勃発以前の状態に、すべてが戻るようにしてくれた。この命令が民衆の間に知れ渡った時、キリシタンたちが皆どれほど喜びに満たされたかは驚くばかりである。

有馬(晴信)殿が帰国してから数日後、最初の数日の喜びの挨拶が鎮まって後に、私は彼を訪問し、デゥスの御加護によって八日間に次のような大いなることをした。夫人[彼女のことは先に述べた]だけでなく、道中の随伴者や親戚の者たち[彼らは異教の暗黒の中で教育を受けていた]までが教理を聞き、福音の真理を受け入れて洗礼を望むようにし、その彼らの望みが荘厳な儀式をもって満足させられたことである。

有馬(晴信)殿は告白の秘蹟によって己が身を浄め、また新しくキリストの兵士となった人々が参列したミサ聖祭が終ってから、私は(有馬殿の)貴公子と娘との新しい婚姻によって、列席者一同の喜びの中に結び合わせた。聖堂建築のことが進められ、殿は有馬に聖堂を建築すべき用件を引き受けた。

同様に大村の人々も、デウスを礼拝するのに適当な場所を所有するために、大村に聖堂を造る計画が始まったのは不都合ではない。または自らの俸禄にとってまったく有益な一つの決定をして、これらの地のキリシタン事情がずっと新しくなったと思われるようにした。すでに多くの場所に聖堂が建っている。それらはここ数年にわたって暴徒たちが破壊したのとは、荘厳さでは匹敵しえぬが、それでも具合はよい。

そしてもしキリシタン諸侯が、朝鮮での七ヵ年にわたる最大の出費と戦役によって疲弊していなかったなら、現在では多数の聖堂が燦然と聳えていたであろう。しかし時勢に従うべきである。なぜなら本年は非常に悲惨で、最下層民の中の少なからぬ人々が食糧の欠乏のために餓死し、またほとんどすべての民衆が窮乏生活を送っているからである。

そのほかに二名の(イエズス)会員の布教が、異教徒たちに対してまったく有益であった。彼らの一人は司祭であり、もう一人はまだ聖品級を授かっていない日本人であった。彼らの二カ月間の活動は、[デウスの特別な助力なしでは行なわれえなかったことであるが]、千五百名の日本人をキリシタンへ導き入れたからである。

またデウスの御助力によって、少なからぬ人々をキリシタンへ受け入れる道が開かれたが、私は今その理由を次に説明することにする。我らは非常に多数の諸侯が、まず朝鮮から都へ、そして都から自領へ帰還したが、我らは彼らを表敬挨拶のために訪問すべきだと判断した。なぜなら我らの務めが彼らに非常に気に入って、皆が自分たちのもとへ、我らの仲間を呼ぶようにすべきことを熱心に考えてのことである。

諸侯は次の人々である。二カ国ともう半カ国の薩摩の国主(島津義弘)、肥前国の半分の国主鍋島(直茂)、豊前国の大部分の国主(黒田)甲斐守(長政)、筑後国の四分の一の国主(小早川)藤四郎殿[彼は現在秀包と呼ばれている]、日向国の三分の一の国主で、我らの兄弟(伊東)マンショの叔父[イタリア語でZioは叔父、伯父の双方を意味する]伊東(祐)殿、伊佐早殿(龍造寺家晴)、それに豊後国が分かち与えられている他の諸侯である。

これらの諸侯は城郭を再建するために驚くばかり忙殺されているため、これまで我らの幾つかの居所について決心はしていても、まだ目を向けることはできなかった。彼らが諸城郭を整えているのは、もし武器に訴えねばならなかった時、それらによって敵たちの攻撃を防止することができると期待しているからである。しかし伊佐早殿(龍造寺家晴)[その領地は大村と有馬の間にあって、肥沃さではそのどちらにも劣っていない]は、我らのために我らがそこで好都合に住める土地を与え、そして現在司祭館が建てられている。

この君侯はその嗣子といっしょに洗礼を授かることを考えたが、悪魔は盟約によって結び合った、或る偶像崇拝をしている君侯の力をかりて、このような立派なことをするのを遅らせた。それでも彼は、いつかは次のようにしようと約束した。自分の心のすべての汚れが洗礼の秘蹟によって浄められるようにしよう、と。彼の領内では、数年ですでにキリシタンは七千名を数えている。この国主の葡萄畑を耕作するために働き、また彼の土地を通っていく我らの仲間たちを国主自身が大きな好意をもって待遇しているのが普通である。

(小早川)藤四郎(秀包)殿、彼の夫人は今は亡きすぐれたフランシスコ王(大友宗麟)の娘ドナ・マセンシアである]は都から故国へ帰って後、彼を訪問した一人の(イエズス)会員の尽力と助言によって、自分が真にキリシタンであることを示した。

彼の模範によって、多くの人々が立派な収穫を得たし、また少なからぬ人々が異教徒から聖主キリストの陣営へ移ってきた。こうしてこれらの地では、キリシタンは四千名を数えている。我らは彼らの司牧を、我らの二名の司祭、およびそれと同数の修道士に委ねたが、司祭たちはまた(黒田)甲斐守(長政)の領内にいる二千名のキリシタンたちを司牧している。

(黒田)甲斐守(長政)は幼年時代に、[太閤様が特にキリシタンたちに関しては、デウス(聖なること)と人間(俗なること)とのすべてについて禁止し始めた数カ月前に]、父親の官兵衛(孝高)殿の命令で洗礼を授かった。そして彼は朝鮮戦役の全期間中、城の中で生活していたが、我らの仲間の一人が彼のもとへ近づいた時、彼は教理を十分に聞く機会を得た。

この時彼の側には、彼の高貴な家族たちだけでなく仏僧たちもいて、仏僧は信仰の教理について種々の質問をした。我らの教理教育者はそれらの質問に対して一同を等しく満足させたので、(黒田)甲斐守は少なからず満足した。

私が先に述べた豊後の国の諸侯は非常に偶像を崇拝しているが、我らに対してその領国に滞在する許可を与。た我らの一人の司祭を非常に親切に取り扱った。この司祭は、本年豊後に分散して残っていた人々[その当時、この国にはキリシタンたちがおよそ千二百名いた]に対して、その任務を継続した。

豊後の同じ領主たちは、キリシタンたちに対して福音の掟に従って生活する許可を与え、また未だに日本人たちの誤謬を棄てきれずにいた己が貢納者たちに対して、その意見を変えて、キリシタンの国主の旗の下で戦っても罰を受けずにすむよう許可した。これら諸侯の頭は、明白にこう宣言した。現在全力をあげて普請している築城をすませたら、教理を聞いてから洗礼を授かって身を浄めたいものだ、と。

我らは山口の市に居住地をもち始めたので、日本人たちに対して大きな効果が現れるだろうと期待している。なぜなら毛利(輝元)殿という山口の国主は九カ国の支配権を掌握し、日本国中では(徳川)家康に次いで、もっとも権力があるからである。毛利殿の甥で、彼から養子にされた人物が、山口の市に向かいその地に居所をおくために出発したことは、我らの希望をふくらませている。この甥は、山口の人々のもとでキリシタンのことを司っている我らの一人の司祭に対して親切にした。

キリシタンたちは(フランシスコ・ザビエル師の時代から五百名を数えているが、一度受け入れられたキリシタンの信仰は、時代のいかなる嵐も彼らの心を変えさせることはできなかった。
同じく毛利(輝元)殿は、下から都へ赴く途中の或る海辺の市(下関)に適当な居所を二名の(イエズス)会員に与えた。彼は自ら住んでいる主な城のある所でも、それと同じだけを与えようと約束した。さらに毛利(輝元)殿の異教徒の親戚は、このことが我らが希望している結果になるようにと引き受けた。

山口よりは都に近い所で三カ国の重立った国主に服属している備前の国では、日々聖主キリストの腕を、自分たちの首にかけることを認めている。彼らの少なからぬ者が栄誉ある人々であり、また親戚関係で(領国の)君主自身と結びついている。

(織田)信長の孫(秀信)[彼は十七歳で、今から少し前の日に受洗した]が(領国の)君主である美濃の国では、この君主自身の好意によって聖堂が建てられたが、その費用にキリシタンたちは四百金を費やした。この聖堂は大勢の人を入れる能力があり、日本の建物と同じようにした立派なものである。これは日本国の事情を知らない人々には、おそらく信じ難く思われるだろう。

なぜなら猊下は、四百金で建っている建物をほとんど見たことがないからである。しかし日本国では、普請のために頭領たちがその仕事に望む報酬を受けず、無償で労力を奉仕しており、また建物はすべて木材からなっているからである。我らは美濃の我らの居所を非常に高く評価している。なぜならそこは領主の保護下にあるだけでなく、また都からはわずか二十里しか離れていないからである。

最後に都の市自体では、最近多くの人々が洗礼を授かっている。それゆえ我らはデウスの恩恵によって、日本国の諸事情のよりよい方への大きな変化と、異教からキリシタン教会への大きな近づきを期待しているが、城郭を建設することへの諸侯の信じ難いほどの用事が、それを遅らせている。日本人たちは太閤様の波瀾の支配によって戦術の新たな方法を学んだ。それゆえ彼らは今や、古い城郭を壊し、敵の勢力を撃退するため時代に適合した新しい城郭を普請しているからである。

私がこれまで報告したことから、現下は我らが我らの諸活動の幸せな歩みにいかに満足しているか容易に推測されるであろう。とりわけ多くの不正に振りまわされながら、不断の恐怖の中に生きねばならなかった幾年かの歳月を経た後に、慈悲深いデウスは今や好都合になって、混乱の事態に対応した忍耐に対して豊かに報い給うているからである。

これまで日本国において支配権を得た一同の中で、最高の王であり、皆が恐れていた太閤様が、数年にわたって非常に激しく聖主キリストの崇拝者たちを迫害したのに、キリシタン宗門をその王国において根絶させることができなかったことについて異教徒たちは驚嘆の眼を注いでいる。キリシタン宗門は非常に禁圧されていると考えられていながら日ごとに増大しているのを、我らは大きな喜びをもって見ている。

さらに現在では、キリシタンの事情はかつてなかったほどに、よく日本人たちのもとで所を得ているほどである。しかし我らが活動の順調な進展によって、過度に喜ぶことのないように、デウスはこれから私が話す逆境によって、我らの喜びの程度を制限することを望み給うた。この日本管区の代理の任にあり、ローマへ赴くよう選ばれたエジディオ・デ・ラ・マタ師は、当地(長崎)からジャンクと呼ばれる定航船に乗って二月にマカオへ向けて出帆した。

ここからマカオまでは十五日、あるいはせいぜい二十日行程であるのに、七月になっても我らは何の便りも聞けなかった。マカオの人々は、日本の定航船が入港しなかったので次のような疑念を抱いた。太閤様の薨去が日本国において大混乱をひき起したのであり、そのためにポルトガルの商人たちは容易に買手が見つからなかったために、日本国において越冬したのであり、こうしてついに騒動が鎮まってから、彼らの商品をできるだけ早く売ろうとしているのである、と。

マカオの人々はこの疑念を抱いたため、本年は彼らの中の一人も日本へは来航しなかった。彼らはその事態からして、ジャンクがマカオへ到着するより以前に定航船を日本国へ送ることはあるまいと考えていたからである。しかしマカオの人々が考え違いをしていたことは、彼らにも我らにも大きな損害を伴った。なぜならジャンクは、日本には停泊していなかったからである。

またもし定航船がマカオから日本へ着いていたら、ジャンクの沈没による損失を(ポルトガルの)商人たちが大方は弁償したであろう。ジャンクに乗っていた多数の船客が、七十名以上のポルトガル人とともに沈没し、四十万金が沈んでしまった。

我らもまた損害を被った。なぜなら我らは非常に秀れた司祭(エジディオ・デ・ラ・マタ)を失い、またそれと同時に、我らは、(マタ)師のヨーロッパへの出発に際して、この時にあたり我らが非常に必要としていた援助を新たに我らのもとへ送ってもらうことにしていた最大の希望をも失ってしまったからである。

この損失に、また別の軽からぬ損失が加わった。私が書簡によって、マカオの学院から呼んでいた十名の司祭[日本国において、キリシタンのために働くよう一定の時期に派遣される我らの仲間たちはマカオに集結する習わしである」が、まだ出発していなかったことである。

しかし彼らの仕事は、本年は偶像崇拝者たちを聖なるキリシタンへ導くことにおいて、また我らの聖堂や司祭館の建設のためや(イエズス)会員の各人のもとへたびたび赴くための、種種の重要な我らの(イエズス)会の他の諸任務において、非常に有益なはずであった。しかしデウスは彼らを見棄てず、種々の方法で助け給うことを我らは知って慰められている。

それゆえ我らに対しては、(デウス)は日本人たちの救済が望むような別な方法によって援助し給うことを我らは期待している。それゆえ我らは、デウスの御意志と御意向に従うべきであり、万事においてデウス御自身の望みに依り奉るべきである。

(セルケイラ)司教貌下は、これまで我らのもとの司祭館で生活しているが、今後も太閤様の禁止令が続いている限りはそのまま生活するであろう。日本国では、(イエズス)会員だけが聖職者なので、(司教)は我らといっしょに住むことを強いられている。我らは司教の中に、家族的な模範を見習うべき、もっとも秀れた徳の模範を見ている。

(司教)は当然、我らが定められた会律を遵守して有徳の生活をするよう、我ら一同を駆り立てるべきだからである。(同教)は諸侯からさえも、そしてキリシタン一同から非常に快く受け入れられている。彼の特別な親切と非常に愛想のよい振舞いが、皆に尊敬の念を抱かせているのである。そして彼は時間が許す限り、その司教職をまったく熱心に遂行している。

私がこの報告を書いている時、(小西)アゴスチイノ(行長)が長崎へ来た。彼は同教貌下の不在を知ると、管区長師に挨拶のため志岐の我らのもとを訪れ、そして司教の勧めで二日間我らといっしょに滞在し、彼にとっても、また我らにとっても慰めとなった。

我らは彼とともに、これらの諸地域でのキリシタンたちの共通の情勢にとって有益になろうと我らが希望した多くの問題について、熱心に話し合った。彼は自分の領内で種々の城郭を建設するために、この地を急いで出発したが、こう約束した。自分は司教から堅振の秘蹟を受けるために、近日中に、すなわち二十日もしないうちに帰って来よう、と。

なぜなら彼は、あまりの急用のため、今日はそれを実行することができたカズからである。我らは(小西)アゴスチイノ(行長)と他のキリシタン諸侯が、彼らが現在保有しているところで、自身のために栄誉と支配権を保つようにとデウスに祈願する次第である。

日本国の情勢に関して言えば、多くの人々が希望している堅固さを、すべての者が保持しているわけではないが、当分は何ら著しく事情が変化する恐れはないであろう。なぜなら日本国のすべての諸侯は太閤様に非常な恩義を受け、そしてまた現在七歳の彼の嗣子(秀頼)のために、国家を保持するため驚くほど心配しているので、家康が太閤様の遺命によってすべてを統治している限りは、彼らは家康に快く服従するだろうからである。

しかしもし彼が専主の地位を獲得しようと努め、皆が彼一人に抵抗したとしたら、このために日本国全土は非常に苛酷な戦さによって燃え上がるであろう。しかし家康は賢明な人物であり、また齢いを重ねている[すなわち六十歳になっている]ので、不確かで危険に溢れたことを己が栄誉と評判を大いに犠牲にまでして追求しようとする冒険に容易に身を曝すようなことはあるまい。

なぜなら彼はその誠実さによって、また太閤様への信頼の点で、日本人たちが吹き込んだ最良の意見を無視することはないだろうからである。ここで私が黙過してはならぬと考えたことがある。それは[昨年報告したように]、太閤様が自分の死後に、希望として命じた他の諸々の中で、己れに対する主要なことは次のことであった。(己れの)死亡が民衆の中に伝わった時、神となり、そして新八幡と名づけられるようにせよ、と。

これは新しい八幡のことであり、日本人のもとでは戦争のデウスのことである。彼は贅沢な廟の形を模して、その中に自分の遺骸が葬られることを望み、また日本人の神神の栄誉を与えていた己が姿に似た像が安置されることを望んだ。こうして私が先に述べた騒動が終って後、廟が日本国家の統治者たちの命令によって建立されたが、それは[それを見た人たちの語るところでは]、太閤様が命じた姿に似た形をした、日本国にあるすべての中でもっとも荘麗なものであった。

そして彼は迷信的な不敬をもって、神々の数に入れられ、そしてすべての神々の中の第一の神と呼ばれた後に、安置され腐敗した遺骸は埋葬地にあった場所からこの新しい崩へ移された。そしてそこに像が置かれ、一同はそれをデウスとして礼拝し崇敬せねばならなかった。しかし非常に憐れな人間(太閤様)の不幸な魂は、己が身に適した地獄の諸々の苦しみの座へ移り住み、そこで悪魔どもといっしょに永劫の炎によって苦しめられており、己が大いなる悪にとっては虚偽のものを経験しているのである。

なぜなら不敬虔な人間(太閤様)は、存命中は必死になって、いとも確かな真理のように、こう弁明していたからである。人間の魂は当然、死によって肉体とともに消滅してしまう、と。だがこの意見は明らかに不条理であり、また人類にとっても有害なものである。
この(悲惨な太閤様の)光景は、特に日本の神々に対する我らが擁護する真理の激しくてもっとも大きな説教であり、またゆるぎない確証であった。

なぜなら日本人の間で、明らかに無感覚になっていない人々は、貪欲で汚らわしく傲慢な人間であり多くの破廉恥と悪行に覆われて神々の数に加えられた太閤様は、存命中に多くのことを企画しながらそれを成就することができずに、ついには他の人間たちと同様に命を失ったことに気づいた時、彼ら自身、日本人の迷信がデウスたちと言っている他の神々は、我らと似た人間たちであった、と結論することになる。

それゆえ日本国においては、各地で次のような声が聞かれている。「伴天連たちが我らの神々について言っていることは真実ではあるまいか。(神々)は我らと同じ人間だったのではあるまいか」と。この論識が民衆の間で交わされた、これらの言葉や他のこれに類する言葉によって、キリシタンたちは受け入れた信仰で強められ、これに反して偶像崇拝者たちは[どうか有益になってほしいものだが]、自分の愚かさを恥ずかしく思っている。

我らが述べた方法で、日本人が彼らの新しい神(太閤様)の礼拝に狂っていた時、聖主キリストは偶像崇拝者たちがいっそう自分の醜行を恥じるように、彼ら自身の愚行の新しい印しを示すことを望み給うた。八代[その地は(小西)アゴスチイノ摂津守(行長)殿が領有する肥後の国にあり、この地で大勢が受洗したことは先述した]においては、キリシタンたちによって墓地に十字架が建てられ、彼らはそこへ祈臓のためによく集まっていた。

その十字架が祈臓中の一人の少年に輝いているように思われた。いっしょに祈っていた他の人々は、少年からこのことについて話を聞き、また十字架の周りでは種々のことが彼らに現れた。この噂は、八代の後に近郊へ拡まり、このような珍しいことを一目見ようと、非常に大勢の人がそこへ押し寄せた。

有馬の市からは、貴人も一般の人人も大勢がその光景の場所へ駆けつけた。大勢の人々はその場所へ近づいた時に一基の十字架を見た。彼らがしばらく祈臓を捧げた後、しっかり固定したままの一基の十字架の前後と左右に多数の十字架が目に現れてきた。それは昼間だけでなく夜間にも現れ、すべての十字架は或る時は互いに等しい大きさで、或る時は一方が他方より長い格好に見えた。

この出現の原因はデウスが知り給うところであり、その効果は日本人たちに十分に明らかにされている。彼ら(キリシタン)の多くの人々が、ことの珍しさに感動して、これまで犯した罪をいたく後悔し、また自分の苦悩を非常に多くの涙によって証明し、そして悔俊の秘蹟によって諸々の過誤を償った後、以後は生活を改善しようと真面目に骨折った。またこの感嘆すべきことの見物人となっていた異教徒たちの中の少なからぬ人々が、キリシタン宗門へ心を動かした。

司教況下は信頼に値する人々から十字架に関して起こったことを聞いて知った後、全体のことを司祭たちと長い間種々協議してから、次のような意見に至った。この時にあたって、何も新たにすべきことはあるまい。なぜなら私がすでに述べたこと以外には特に何も不思議なことは起こらなかったからである、と。

そこで司祭たちの共同の意見で、(司教)は次のように決めた。民衆は十字架をこれまで行なったように礼拝することを許される。また十字架自体は散乱しないように、[各々が自分のためにその一部分を削り取って、それらを聖遺物の代りに家へ持ち帰っていた]、もっとも大きな十字架の中へ填め込んでから、四本の柱が支えた東屋の下に建てておいて、希望者一同から見られ、また崇拝されるようにしよう、と。

以上が現在私が貌下に宛てて報告すべきだと考えたことである。私は最後に猊下ならびに同僚全員に切にこう願う。ミサ聖祭と祈祷によって、デウスから我らに対して、我らがキリシタンの信仰を布教するように課された責務を品位にふさわしく負って行く力を与え給うようにして頂きたい。我らが眼前にしている数多くの収穫物が、我らの罪[デウスはそれを取り除き給うている]によって、失われぬようにするためである。

1599年10月10日、日本国より