【フロイス1582年度日本年報追信】山崎の戦い
「同国の重立った3人の大身(池田恒興・中川清秀・高山右近)は、羽柴殿がさほど遠くない所まで来ていることを期して、ただちに戦の準備を整え、兵を率いて高槻から3里の所にある山崎と称するかなり大きく強固な村へ出向いた。
彼らが互いに取り交わした協定は、これ以前に、ジュスト(高山右近)の大敵であった彼らのうちの一人(中川清秀)がジュストと和睦して山の上を進み、池田恒興殿と称するもう一人は当地方でもっとも水量豊かな大河、淀川に沿って兵を率いて行き、ジュストはその中間の山崎の村に留まることであった。
ジュストが村に入り、明智がかなり近くに迫ったことを知ると、彼はまだ3里以上後方にあった羽柴殿(羽柴秀吉)に火急の伝言を発してできる限り急ぐよう求め、彼はわずかではあったが己れを抑え切れずに敵と相見えんと欲する家臣を取りまとめていた。
ジュストは羽柴殿の軍勢が遅れることを知ったので、彼が自らその危険を知らせに行こうとしたが、突然、明智の兵が村の門を叩くに及んでジュストはこれ以上待つことを望まず、また、彼は勇猛でデウスを深く信じ、戦時には果敢なので、1,000にも満たぬわずかな兵を率いて門を開き敵に襲いかかった。
彼らキリシタンはこれを勇敢に行なって1人の戦死者を出したのみであったが、最初の合戦ではたちまち明智の身分の高い者の首を200以上取った。それ故、明智の軍勢の士気が下がり始め、右の初回の攻撃が終わるとジュストの両脇を進んだ他の二人の殿が到着し、明智の兵は逃げ始めた。
敵の士気をもっとも挫いたのは、三七殿(織田信孝)と羽柴殿が同所から1里足らずの所にあって2万を超える兵を率いていることを彼らが知ったからであった。だが、彼らは疲労していたためジュストのもとへ到着することができなかった。
これはデウスの御摂理によって取り計らわれたことであり、デウスはこの勝利をジュストとその兵に帰せしめて、彼が同地方のすべての大身中、もっとも大きな名声を博することを望み給うたように思われる。彼は美濃以来、戦さにおいて常に好運な勝利を収め、その勇気といとも高貴な気質とにより諸人から大いに尊敬されてきた。
この勝利は聖母訪問の祝日の正午にもたらされ、明智の滅亡の主たる原因となった。三七殿はジュストがキリシタンであったからかくのごとく首尾よく行なったのだと語った。
明智の兵は非常に急いで逃亡し、この都から敗戦地まで4里あったが、多くの者は明智がその途中に占領していた城においても安全ではなかったので、午後2時、当地(京都)を通過し、慌てて逃げた。
その際彼らは重荷となるので槍も鉄砲も携えず、武器をことごとく道に捨てていたが、我らはその逃げる有様をこの修道院から眺めていたのであり、彼らが通過するまで2時間以上を要した。
多数の兵は都に入ることを望んだが、市の人々が入口で彼らの侵入を防いだので明智の主たる城である坂本へ向かった。しかし、村々から盗賊が、また各所で別の輩が現れて馬や刀剣を奪うため彼らを殺したので多くの者は城に達することができなかった。
明智は同日午後、幾らかの兵と共に、以前、占領した勝竜寺の城に入ったという。すぐさま彼に続いて全軍がやって来たが、彼はここで夜を迎えた。
城外の兵士たちは大いに警戒し、ここ都にも聞こえるほど終夜にわたって銃を撃ち、よりよく警戒するため城の周囲に火をかけたが、包囲軍の兵はすでに戦った者も後から来た者もことごとく疲れ切っており、城の兵も講和を結ぶためジュスト右近殿やその他の領主たちに呼びかけたが、彼らは朝まで起きることを望まなかった。城は夜が明けるとただちに明け渡された。
明智は城内にいては身の安全が保てないので宵の口に逃れるようにして彼の主城坂本への道を辿った。ほとんど単身であり、人の言によれば幾らか傷を負っていたが、かの地へ着くことができず、聖母の祝日はいずこに身を隠したか知れなかった。
翌日は斬首に対する熱気が著しかったので信長が殺された場所に、最初、1,000を超す首級が運ばれた。取った首級はすべて同所へ持参するよう命じられていたからであり、首級は信長の供養のため並べられた。
この供養は暑いさなかのことであったのでひどい悪臭に満ち、信長の傲慢さにふさわしかった。あまりに悪臭を放つため、その方向から風が吹いてくる時に窓を閉めなければ教会に留まっておれないほどであった。
一キリシタンが我らに語ったことであるが、首を斬って持参するのを急ぐあまり、前日の戦さに加わっていかなったと思われる一人の殿は村々を巡り、33名(の住民)がいたある村において30名の首を斬り、これを供養(本能寺)へ持参した。
それから2日後、オルガンティーノ師と私が信長の殺された場所を通ったところ、数人があたかも羊か犬の首を運ぶかのように供物とすべき30人以上の首級を数本の縄に吊って携えて来たが、彼らは一片の感情すら示さなかった。
このようにして首が集められ、短時間でその数は2,000を超えた。
哀れな明智は身を隠し、聞くところによれば、農夫たちに坂本の城へ連れて行くよう求め、彼らに黄金の棒を与える約束をしたが、彼らは刀と幾らかの黄金を奪うため槍で突いて彼を殺し、首を斬ったとのことである。彼らはその首を三七殿に敢えて差し出すことはしなかったが、他の者が献上した。
そしてこの首にもっとも価値があったので、次の木曜日、信長殺害の現場であり他の首が集めてある場所に遺体と首が運ばれた。日本全土を混乱に陥れた者はかくのごとく哀れな最期を遂げた。
デウスはその恐るべき反逆の後、彼が12日以上生き延びることを許し給わず、貧しく厳しい農夫たちの手にかかって屈辱的な死に甘んじたので、 このような場合に異教徒が己れの名誉のため常に行なうように切腹する余裕すら彼にはなかった。三七殿は後になっ て遺体と首を合わせ、これを市外で十字架に懸けさせた。
安土山では津の国(摂津国)で生じた敗滅が伝わると、明智が同所に置いていた部将はたちまち勇気を失い、急いで坂本へ退却した。あまりに急なことであったので安土山には放火しなかった。
しかし、主(なるデウス)は信長の栄華の痕跡を断っため、敵が見逃したかの壮大な建物がそのまま残ることを許し給わず、さらにはいっそう明白な審判を下すため、主は計り給うて付近にいた信長の正しく一子が浅知恵に動かされてか理由は分らぬが、城の最上層の主な部屋に火をかけ、続いて市をも焼き払うことを命じるよう仕向けたのであり、これはまたたく間の出来事であった。