【イエズス会1599~1601年 日本諸国記】(3)石田三成・小西行長の処刑

<偉大なキリシタン宗団が大いに苦悩したドン・アゴスチイノ(小西行長)
の投獄について(第三十八章)>

このような反乱と変動の間に、日本の新しい教会が苦しみ悩んだ既述のあらゆる喪失の中で、もっともはなはだしく司祭たちを悲しませたのは、偉大にして優れたキリシタンであるドン・アゴスチイノ(小西行長)の死であった。

というのは、この人物は、日本にいる最大のキリシタン領主であり、その諸領内には、十万人以上[既述のようにその中には非常に高貴な人々がいた] のいとも大勢のキリシタンがおり、日本の全教会のもっとも強力な支柱で、かの地方におけるイエズス会全体の一番誠実な友であり、著名な恩人、また保護者でもあった。

彼は、きわめて異彩を放った偉人で、もっとも傑出した司令官で、かのすべての諸国中、最高の名声を博しており、下の九カ国全域を司り、日本のカピタン・モール、そして海軍提督のような(地位に)あり、朝鮮(における)行軍と戦役においては、二十万に近い軍勢の最高(指揮官)で、日本のほぼ全部の国主や領主は、ひたすら彼の友情を求め重んじ、彼らからいとも愛され崇敬されていた。

そして既述のように、目下天下の君主で、かのすべての諸国の支配者である内府様自身は、自らの曾孫の一人と、ドン・アゴスチイノ(小西行長)の長子との婚姻関係を結ばせることによって彼と提携しようと大いに尽力した。

人々が一方では、デウスが永遠の生命のために予定され選ばれた徴候―それは現世において常に順調で幸せなものではないーが判るように、前もってキリストの苦悩の盃と苦痛を経験させ、他方では、現世の栄光と繁栄はわずかの間しか続きはせぬことをすべて判らせようとして、(ドン・アゴスチイノの)あらゆる幸せと偉大さを一瞬にして変え給い、その間に彼の家も家族も終りを告げ、彼は後述するように、奉仕できる一人の小姓を伴うことも許されず、ひどく狭く、かつ苛酷な牢獄に入れられた。

この偉大な司令官であり領主である人物は、都から出陣した時に、自らが置かれている危険を知り、大いなる信心をもって告白し、デウスと人々の前に、自分がなさねばならぬことをしていると思いながら、かの企てに着手した。

そして己れの主君である太閤様に行なった宣誓と、立派な領主としての忠誠心に従って、彼の息子である若君を守る義務があったし、もしデウスが彼に勝利を与え給うならば、それによって彼はより自由に、かついっそう権限をもって司祭たちを助け、我らの聖なる信仰をその領内に弘めることができるであろうと期待された。かくて戦う少し前には、彼は勝利を掌中に収めるかに見えたので、[それにはまた多くの者が関心を抱いていた]、肥後の国にいた自分の奉行たちと司祭たちに対して、能うる限り、さらに多くをキリシタンにするよう尽力されたいと書状を送った。

戦いの日に、彼はポルトガルの王妃ドナ・カタリナから贈られた、非常に敬の念を喚起させる小型の聖像を携えたが、その中には我らの主なるキリストや栄光の聖母の多くの御絵が入っており、それを彼はいつも祈るためのいくつかのコンタツとともに武具の下に入れていた。戦いが交され、仕組まれた裏切りのため一瞬にして全軍が敗れると、万事休した彼は、日本の領主たちの習わしとして切腹のやむなき状態に立ち至った。

というのも彼はきわめて名声の高い武将なので、生きていることはすこぶる屈辱的なことであったろう。しかし他方で彼はキリシタンであり、自殺することは重大きわまる罪悪であったから、名誉をもって自らの生命を絶つことで我らの主を侮辱するよりは、いかなる罵声や不名誉にも苦しみ堪えることを決意した。

彼は捕えられると、すぐにキリシタン領主で豊前の国の国主ドン・シメアン(黒田孝高)の息子甲斐守(長政)の面前に連行された。甲斐守が彼に大いに同情すると、ドン・アゴスチイノは次のように言った。「予が何者で、今、どのような状態にあるかは貴殿には十分お判りのことである。それゆえ、ともかく予に一つの恩恵を賜わるに違いない」と。

そこで甲斐守は、その請願は、内府様から彼の助命を請うことだろうと思ったが、ドン・アゴスチイノは答えて言った。「そうではない。予はもはや生命を重んじてはいない。もしキリシタンの教えが予に禁じていないならば、切腹することはいとも容易で、今、予は、予の罪に対してデウス様がどのような死がお気に召しても、その死を甘受する用意がある。予が貴殿に乞い願いたいことは、私の人生においてこれ以外に何もないのだが、ともかく、予が告白するのに一人の司祭伴天連様にお逢いできるよう尽力して欲しい」と。

(黒田)甲斐守がそのため内府様の許可を得るべく全力をあげて尽くすと言うと、(ドン・アゴスチイノ)は大いに心慰められた。しかし、その後、(黒田)甲斐守が内府様にそのことを話すと、内府様は許可しなかった。

そして憤って、その必要なしと言い、(ドン・アゴスチイノ)を一人の隊長に引き渡し、重大な必要と用務で奉仕し助けるためのただ一人の近習の付き添いも認めず、十分監視するように命じた。

しばらく後、監視の者たちに囲まれて捕われの身で大坂に連行され、この地で大いなる苦悩と屈辱の数日を送った。そうした日々、書状[そのうちの数通は内府様の手もとに届いた]をしたためながら、早急に、いろいろと手を尽くして告白のため誰か司祭に接することができるように努めた。

それらの書状には、彼の告白を聴くために最善を尽くすよう、都と大阪の司祭に緊急に要請する以外、他に何も述べられていなかった。内府様は、告白が何のことかも、ドン・アゴスチイノが告白のために司祭たちに求めていることも判らなかったので、何らかの欺瞞ではないかと激怒し、いかなる司祭といえどもドン・アゴスチイノと話を交わしに行ってはならぬと厳禁した。司祭たちは、あらん限り手を尽くしたが、ついにどうすることもできなかった。

しかしドン・アゴスチイノは非常に善良で古くからのキリシタンであり、このような場合に悔俊がどれほど価値あるかを教わっていたので、霊魂のあらゆる力を尽して救いを求め、自らの罪に対するいとも大いなる苦悩と悔俊の幾多の行ないを牢獄にいる間じゃうせぬ日とては一日もなかった。

彼はその苦悩と死ぬほどの労苦を自らの罪のために受けるべきものとし、デウスの御憐れみによって、現世において多くの苦しみに耐えるべきで、それはあの世の煉獄で報いられると熟考し、その同じことを訪ねて来る人々すべてに語った。

彼はほとんどすべての時間をデウスに(救霊のことを)懇請することに費やし、コンタツで祈った。そしてあらゆるかの侮辱を大いなる力と忍耐をもって堪えるに努め、その侮辱を彼はデウスが自分に役立つものとして贈られたものと見なして受け取り、常にいとも不撓不屈で勇敢な態度を示したので、彼を訪ねて来た異教徒の殿たちさえ驚嘆した。

そして彼が話すことと言えば、新たな、そして熱心な自らの(霊魂の)救いに対する望み以外は何ものもなく、告白するために誰か司祭に逢いたいと(述べるばかりであった)。

偶像崇拝(者)からキリストの教えを新たに知り、改宗した(ドン・アゴスチイノという)一人物は確かに稀で特別な例であり、我らヨーロッパの古くからのキリスト教徒、特に(キリスト教)世界の偉大で有力な人々を恥じ入らせるに十分であり、彼らは自らの霊魂の救いとか、来世のことは通常、ごくわずかしか考慮していないのである。

<ドン・アゴスチイノ(小西行長)の死とその長男について(第三十九章)>

ドン・アゴスチイノが投獄されて数日後、ついに内府様は、彼と奉行の一人であった(石田)治部少輔、および安国寺(恵瓊)[仏僧で、九カ国の国主毛利(輝元)殿が父のように敬愛し、その助言によってすべてを治めており、反内府様同盟の張本人であった]に死刑に処するとの最後の判決を下した。

そのため、彼らはただちに捕われの身となり、各々荷鞍の馬に乗せられて大坂の街路へ、その後、各々荷車に乗せられて都の街路へ連れて行かれた。このようなことは、日本では、特に領主や高貴な人々が処刑される折には、ひどい恥辱であり不名誉であると考えられている。

三人とも互いに離れて行った。すなわち、(石田)治部少輔はもっとも重罪で、同盟の張本人というので先頭、仏僧安国寺は真ん中、後尾にドン・アゴスチイノがいた。彼らの公示された科は、この裁きは天下に対する反逆と暴動を行なった人々に対して下されたというものであった。

他の二人(治部少輔と安国寺)は、元気がなく、病弱で、苛酷に取り扱われたので黄色い顔つきと死人の血色で、呻きながら耐え苦んでいることを十分に示している人のようであった。ところが、ドン・アゴスチイノは顔色一つ変えず、むしろ不断と同じ顔つきでかの街路を通って行った。

したがって、誰もがドン・アゴスチイノと他の二人の間の相違と、彼が見せた元気のよさと気力に気づいた。都の市で死刑が執行されるはずの場所に近づくと、司祭が、このために派遣した一人のキリシタンが、監視の兵の群の中に入り込み、そして(小西)ドン・アゴスチイノに近づきながら、司祭から派遣された者であること、司祭たちは、彼を訪れ、告白できるようにしようと全力を尽くしたが、監視兵たちは、内府様から差し止められていると言って聞き入れなかったことを伝えた。

そこで彼は、現下、自らの力を尽くして己が罪を大いなる痛悔の念をもって想い出させた。ドン・アゴスチイノは(司祭たち)に答え、(師父ら)が自分に使者を派遣してくれたこと、そして常に信じていたが、自分のことを覚えてくれていたことで、報せに接して嬉しい。だがもはや尊師らに逢って告白し、慰められることは不可能であるから、尊師らから(かって)教わったように、自らの罪について常に悔俊し、我らの主(デウス)の恩寵をもって、救霊のことを深く信じ、自分がこの日々を常に大いなる苦しみと痛悔をもって過ごしており、煉獄に代って(今)この侮辱に甘んじている、と。

かの三名の受刑者が歩いていると、数人の仏僧が、彼らに通例の儀式を行なうために現れた。そして先頭の二人に儀式を行なった後、ドン・アゴスチイノにも行なおうとすると、予はキリシタンであるから、異教徒の盲目的な信仰、というより狂気じみたことや愚行は認めぬゆえ、そこを退けと大声で言い、顔をそむけた。
そして仏僧たちに恥をかかせ、侮辱しながら、両手にもっていたコンタツで、主祷文の祈りを声高く唱え始めた。

ついに処刑場に到着すると、稀にしか外出することのなく、或る高位の殿の死に立ち会う、いとも重立った一人の仏僧が到来した。この仏僧は、他の仏僧たちと、我らの間では聖書のような、彼らが聖なるものとみなしている一冊の書物に接吻しつつ、何らかの儀式を(石田)治部少輔と安国寺(恵境)に対して行ない終え、

また、ドン・アゴスチイノの頭上にその書を置こうとし、他の二人に行なったと同じ儀式をしようとすると、彼は仏僧につばを吐きかけ、「ここから退ち去れ。予はキリシタンであるから、勝手なことをするな。予には必要はない」と言いながら、仏僧に対して大いに怒った。

そして、既述のように常に携えていたコンタツと聖像とを両手に持ちつつ高くさしあげて三度頭上に置いた。そして我らの主に身を委ね、祈りを捧げ、すこぶる真剣な面持ちで顔色一つ変えず、微塵も動揺を見せず、天空と聖像に注目して、イエズス、マリアの至聖なる御名を唱えて祈り、いとも整然とひざまずいてこのキリシタンは死刑執行人に首を差し出した。執行人は三度、刀をふるって首を刎ねた。

刑の執行が終ると、遺体は埋葬のためただちに都のイエズス会の修道院に運ばれた。司祭たちはこれを受けとり、この日本の教会の最初にして偉大なる柱石を失ったことに悲痛の涙を留めえないで埋葬した。都をはじめ各地のイエーズス会の修道院や司祭館すべてにおいてこの葬儀の聖務を執り行ない、多くのミサを捧げた。またヨーロッパにおいても、我らの(イエズス)会総長は、会の全管区に対し、(ドン・アゴスチイノは)会の重立った恩人であるとして(ミサを)捧げるように命じた。

(ドン・アゴスチイノの)遺体が司祭たちの修道院に運ばれた時、着用していた絹の着物の裏地に包まれて妻と子供たちへの別れを告げる一通の日本文の書状があった。これを日本語から我らの言葉に訳した一部を次に掲げよう。

「このような予期せぬことでかくも苦悩していることは書状ではしたため尽くせぬが、この世でかくも無残な苦痛が私に起きたのである。煉獄で受けるべき罰を現世で清算しているように思われる。
ご存知の聖像を私は常に身に携え、崇め拝しているが、それは私を死に至るまでデウス様にとりなして下さるよう(願っている)。ところで私は自らの(このたびの)罪が私の責任に帰せられることを十分よく承知しているので、私のこの日々の苦悩と労苦は、デウス様が私に授け給うた特別の恩恵であり、その御手による賜物と思い、それゆえ私に賜わった御慈悲に対して無限の感謝の意を捧げている。
現世のことは何も価値なきことゆえ、汝らは今後、万事につけ心をこめてデウス様にお仕えするように」。

以上がドン・アゴスチイノ(の書状の内容である)。ところで彼は、この書状が妻や子息たちの手に届けられるようにと、死ぬ前に、或る人に、埋葬する前に着物に縫いつけてあるかの書状を探すようにと言っておいたのである。

これが偉大であり優れたキリシタン ドン・アゴスチイノの最期であった。ドン・アゴスチイノが殺されて数日後、彼の幾人かの娘以外たった一人、十二歳で未来を嘱望されていた長子も殺された。この息子は、父親が捕われたと知り、幾人かの家臣とともに毛利殿の国に身を避け、自分を引き渡さぬように毛利殿の保証をとりつけた。

しかし、彼は、自分の危険を悟りただちに広島にいた司祭を呼び、告白し、デウスの命ずることいっさいに対して十分な心構えをした。国主毛利(輝元)殿が内府様にこの少年の首を渡す決意をするにはさして手間はかからず、より安全な場所に移すのだと偽って少年を連れ出すように命じた。

毛利殿の伝言が届いた頃、司祭の命令で広島から少年のもとに来たイエズス会の一人の修道士がいた。才気煥発の少年は、この移動は自分の身を守ってくれるためではなく、自分を殺すためであることを察した。少年はその修道士に祝別したコンタツか、お守り袋か何か神聖な物を持っているならばぜひ与えてもらいたいと請うた。

修道士が慰めようとすると少年はきわめて元気で、すべてデウスにお委せすると言い、顔には何ら動揺した色もなく、むしろすこぶる陽気な表情で、自分は告白し救われることを期待しているので、死を全然恐れないと語り、むしろ少年の方が修道士を慰めるといった有様であった。少年の父親ドン・アゴスチイノはすでに殺され、(その霊魂と)心やすらかにデウスに委ね栄光の中にあったので、少年もまた、多くの苦しみとともに、死を耐えつつ父と連れ立つことを望んでいた。

修道士は少年と別れ、国主毛利(輝元)殿の家臣は一人の小姓と別の少年を残したほか、すべての家臣とともに少年を、信義に欠ける国主がいる大坂に連行した。そして(毛利殿は)密かに(少年の)首を斬らせ、内府様に贈物として送るようにし、事実そうしたが、それはこうすることで(内府様に)自分が大いに奉仕し、このような手段で自らの生命を救えると見なしたからである。

だが内府様は彼らが何を自分に献じたがっているかを知っていた、あるいは自然の憐憫の情からか、或いは彼が寛容で、傑出した人物であるためか、自分の曾孫女とかの少年が婚約していたことを想起して、ただに(その首を)見ぬようとしたのみならず、まず非常に憤激して、無邪気で全く無実の少年をあのようにして殺したことは悪事であり、彼を殺した者は罰せられるに値すると言った。

そこでその首を運んで来た人々はこれを知り、伝言の形を変え、毛利(輝元)殿の側からの言として、次のように述べた。殿は、かの若者が自領の某所に難を避けて来たことを知ったので、彼を生かしたまま殿下(内府様)のもとに連れて行くように命じたが、彼は大坂に到着すると切腹してしまったので、そこでその首を呈することになったのである、と。

内府様はそれを聞いて冷静になり、経過の次第を信じた。しかしその後、その悪業が露見し、真相が判明したので、人々は皆、(毛利殿が)内府様を恐れるのあまり、自ら(が発した)旅行手形を携え、保証されて自領に逃れて来た一人の無邪気な少年を殺させるというきわめて低級なことをするに至ったのは、いとも卑劣であるとみなし、国主(毛利輝元)に対して憤激を発した。