1570年 – 72年 信長包囲網と西上作戦

1570年勢力図

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【小勢力マップ】

※永禄13年(1570年)4月23日、元号が「元亀」に改元。

 

<織田家>

永禄13年(1570年)

永禄13年(1570年)1月23日、織田信長が前年に続き、朝山日乗(日蓮宗の僧、朝廷の外交担当)・明智光秀宛で足利義昭へ、追加で5か条の殿中御掟を送る。
前回よりさらに政治・軍事の決定権を主張する。

一、諸国へ御内書を命じることがあるならば、信長に報告し信長の書状を添える事
一、これまでの命令は全て破棄し、考え直した上で定める事
一、公儀に忠節を尽くした者に恩賞・褒美を与えようとしても、領地がないので、信長の分領の中から将軍が命令を申し付ける事
一、天下の儀、信長に任せ置かれた上は、(信長は)誰にも従わず、将軍の上意を得ることもなく、信長の判断で成敗する事
一、天下静謐になったので、宮中の儀は将軍が常に油断なく行う事
【成簣堂文庫所蔵文書】

その後信長は畿内周辺の大名に忠誠を誓わせるため上洛を命じる。

 

1月26日、公家の山科言継が幕府奉公衆の明智光秀らを訪問する。
「未の下刻より奉公衆方へ、年頭の礼(答礼)に向かう。道中の次第は、竹内治部少輔、三淵藤英、同弥四郎、一色藤長、曾我助乗、明智光秀…等也。」【言継卿記】

 

2月25日、信長が岐阜から京へ向かう。

安土の常楽寺で相撲取りを呼び集め、相撲を見物する。

2月30日申の刻(15~17時)、信長が上洛。山科言継は信長と同行して光秀邸へ向かう。【言継卿記】【御湯殿上日記】
徳川家康が信長の上洛に随行する。京都には三好義継・和田惟政・松永久秀ら諸大名が終結する。【三好家譜】

3月1日、信長が二条新御所の義昭を訪問する。
信長が衣冠に正装し、禁裏に参内する。正親町天皇へ御太刀や御馬を献上し、誠仁親王と対面する。【言継卿記】

3月4日、山科言継が渡御のため午刻に信長を訪ねるが、信長は頭痛で臥せており明日の渡御となる。【言継卿記】

3月17日、洛外の桜馬場で徳川衆の乗馬があり、足利義昭、山科言継が見物する。豪華な催しで貴賤の見物人が2万人集まる。【言継卿記】

4月5日、信長が桜馬場で乗馬、足利義昭、山科言継が見物する。【言継卿記】

 

金ヶ崎の戦い

永禄13年(1570年)4月20日、信長は上洛命令を無視した朝倉義景の討伐に兵30,000で京都から出陣する。織田軍として三好義長、松永久秀も出陣、また援軍の徳川家康、幕府軍として摂津国守護の池田勝正が出陣する。
(名目上は朝倉方についた若狭国の石山城主 武藤友益の討伐)

4月20日、織田軍は坂本を北上し、和邇に着陣。
21日、高島郡田中城に着陣。
22日、若狭へ入り熊河に着陣。
23日、佐柿に着陣。【信長公記】

※4月23日、元号が「元亀」に改められる。

【越前へ進軍】
金ヶ崎の退き口 織田信長 浅井長政

 

元亀1年(1570年)4月25日、織田軍が敦賀へ進軍。木下藤吉郎秀吉・柴田勝家・徳川家康らが金ヶ崎城の東側にある手筒山城を攻撃、1370名を討ち取り落城させる。【家忠日記増補】

4月26日、信長は金ヶ崎城(城主 朝倉景恒)へ攻撃を開始すると、城兵は戦意を失い降伏開城する。織田軍は南の疋檀城も開城させる。
(朝倉景恒は越前へ戻るが、一門衆から朝倉名字の恥辱なりと非難され隠居、その後死去となる。)

木目峠を越え越前国内へ侵攻しようとしたところ、北上している浅井長政が裏切ったとの報せが入る。信長は虚報として信じなかったが次々に報せが届く。

信長は"是非に及ばざること"と言い、金ヶ崎城に殿軍として木下藤吉郎秀吉、明智光秀、池田勝正を置き、撤退を開始する。
援軍の徳川家康も前線に残されたが、木下藤吉郎の援助で退却する。

信長は近江で国衆 朽木元綱の協力を受け朽木越えを行い、4月30日、2000名余りの死傷者を出して織田軍が京へ帰還する。【多聞院日記】

 

※【波多野秀治宛 一色藤長書状】
「金ヶ崎城に木下藤吉郎、明智光秀、池田勝正、その他残し置かれ」

※【言継卿記 4月29日条】
「近江へ六角が出陣、周辺に放火し、北郡の浅井と申し合わせて信長に別心したらしい。」

 

【金ヶ崎の退き口ルート】
金ヶ崎の退き口 織田信長 浅井長政
※伊勢・美濃国の進路は明治古地図の街道を基にした推定進路。

 

永禄13年(1570年)4月23日、元号が「元亀」に改められる。

元亀1年(1570年)5月9日、京に戻った信長は、岐阜へ退却するため20,000の軍勢で出陣する。【言継卿記】
5月12日、信長は関ヶ原経由で岐阜へ帰還するため大津瀬田橋を越え近江へ進軍するが、六角の残党勢力が支配していたため、野洲永原城へ入る。

信長は永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城(信長の安土城以前にあった支城)に中川重政を置く。

信長は石部城の六角義賢(承禎)と和睦するため朝山日乗と村井貞勝を使者として送るが失敗する。【言継卿記】

5月19日、信長が出発、鈴鹿山脈越えで岐阜へ向かう。

しかし浅井長政は東近江の鯰江城に兵を入れ市原で一揆を起こさせ、八風街道を塞ぎ信長の通行を妨害する。信長は蒲生賢秀らの協力を得て千草越え(日野~四日市)へ向かう。

そこへ甲賀の六角義賢が忍者 杉谷善住坊を派遣。杉谷善住坊は千草山中の道に鉄砲を携えて潜み、信長一行が近づくと十二、三間(約20m)の距離から2度発砲する。幸い弾は体をかする程度で済み、信長は5月21日に岐阜へ帰還する。
【信長公記】(杉谷善住坊は3年後に捕らえられ処刑される)

 

6月4日、野洲河原の戦い。甲賀郡で体制を立て直した六角義賢(承禎)が南近江に侵攻、野洲川付近で柴田勝家・佐久間信盛らと合戦。織田軍の大勝となる。以降甲賀衆が織田の傘下に入る。

6月、池田城で池田勝正家臣の荒木村重と勝正の嫡男 知正が謀反を起こし、池田勝正は追放される。

 

姉川の戦い

元亀1年(1570年)6月19日、信長が浅井討伐のため岐阜城から出陣。

関ヶ原の西側にある長比・苅安砦を内応させて攻略、信長が長比砦に入る。

6月21日、小谷城まで進み山麓の町に放火して後退、その後織田軍は虎御前山に布陣する。
6月24日、長浜の東にある横山城を攻撃、包囲する。
6月27日、援軍の徳川家康が到着。織田軍とともに長浜に着陣する。

 

越前から朝倉景健の援軍(兵数8,000)が到着。浅井長政(兵数5,000)は大依山で合流し、浅井・朝倉軍は城に入らず南へ進軍、6月28日未明、姉川を挟んで布陣する。

信長も出陣、徳川軍(兵数3,000 徳川家康・酒井忠次・石川数正)は西の朝倉軍、信長と美濃三人衆である稲葉良通(一鉄)・安藤守就・氏家直元(卜全)、佐久間信盛・柴田勝家・森可成・木下藤吉郎秀吉・池田恒興(兵数10,000)は東の浅井軍と対峙する。

 

6月28日卯の刻(4~6時 ※夏至時刻)、開戦。徳川軍の活躍もあり、織田軍の勝利となる。

「今日巳の時、越前の衆ならびに浅井長政が、横山城の後詰めとして野村というところまで進出した。両陣の人数は、越前の衆一万五千計り、浅井の衆五、六千もあったか、同刻此の方より切りかかり、両陣へまとめて合戦を遂げ、大勝となった。

この度岡崎の家康出陣、我等馬廻りの者と先陣のことで話し合いになった。家康に申し付け、池田恒興、丹羽長秀を加え、越前衆に攻めかかって切り崩した。浅井衆には馬廻りにその他の衆を加え、討ち果たした。」【信長書状 津田文書】

「未明に打ち出し、姉川において合戦に及ぶ。初めの合戦は信長、家康方が押し立てられ、左翼は家康の旗本が押し直し、越前衆は敗北した。右翼は信長の旗本へ戦い合うところに、稲葉一鉄が横から攻めかかり、浅井は敗北、敵は多数討ち捕られた。」【当代記】

 

織田軍は小谷まで追撃を行うも、小谷城(標高約400m)は高山の難所であるため攻め上るのは難しいと判断。南にある横山城を攻撃して占領、木下藤吉郎が守備に入る。

信長は佐和山城へ進軍、丹羽長秀・市橋九郎右衛門・水野信元・河尻秀隆に四方から佐和山城を包囲させ、信長は京へ向かう。(佐和山城は翌年に落城)

 

7月6日、信長は馬廻り衆を連れ上洛。足利義昭へ戦勝報告を行い、7月8日、岐阜城へ帰還する。【信長公記】
(【言継卿記】には「7月4日申の刻(15~17時)に上洛、四、五騎にて上下三十人ほどで上られた。山科言継は雑談のあと明智光秀の所へ行く。」と記載)

 

野田・福島城の戦い

本願寺との第一次石山合戦が始まる。
元亀1年(1570年)7月、三好康長と三好三人衆が四国阿波から摂津へ上陸。野田・福島の砦を城へ拡張し、占拠する。

8月20日、信長が岐阜城から出陣。
8月23日、上洛して本能寺へ着陣する。25日、大坂へ出陣。

8月26日、野田・福島城(兵数8,000)を包囲し、信長(兵数30,000)は南の天王寺に着陣する。
9月3日、信長の要請を受け足利義昭も出陣、摂津 中島の堀城へ入る。

 

9月6日、本願寺顕如が宗徒へ、信長を非難した檄文を送る。
「信長上洛につき、こちらは迷惑している。一昨年以来難題を懸け申してきて、随分な扱いであり、向こうへ応じたがその甲斐なく、(石山本願寺を)破却すべきとの内容を告げて来た。」【明照寺文書】

また本願寺顕如は同盟関係の浅井家や諸国の宗徒へ檄を飛ばし、挙兵させる。

 

9月9日、信長が北へ移動、天満の森へ本陣を移す。
9月12日、野田・福島の十町(約1.1km)北にある海老江城へ信長と足利義昭が入る。

野田・福島城へ攻撃を開始。紀伊の信長派 雑賀・根来・湯河衆(兵数20,000、鉄砲3,000挺)も参戦して攻撃する。

野田・福島城から和睦の申し入れが来るが、信長は兵糧攻めにすると言い、拒否する。

9月13日、石山本願寺から兵が出て鉄砲攻撃が行われる。
9月14日、天満の森へ攻撃してきた三好勢と交戦する。

 

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志賀の陣

元亀1年(1570年)9月、本願寺に呼応した浅井・朝倉軍が信長の背後を狙い琵琶湖西岸を南下。12月まで織田軍と浅井・朝倉・延暦寺が対峙する。

浅井・朝倉軍は一揆勢と合流し30,000の兵数となる。

「越前の軍勢八千ほどが近江堅田まで来たらしい。洛中は騒動になっている。」【言継卿記 9月12日条】
「越前衆、北郡高島衆など、その他一揆ども三万ほどが坂本へ打ち出したらしい。」【言継卿記 9月20日条】

 

9月16日、南下した浅井・朝倉軍が宇佐山城を攻撃、森可成が交戦、勝利する。
9月19日、しかし再度浅井・朝倉軍が攻撃を行い、織田軍は敗北。森可成(48歳)、織田信治(信長の弟)、青地茂綱が討死する。

9月21日、浅井・朝倉軍は京都山科へ進軍、醍醐周辺に放火、また山崎周辺を放火する。

9月23日、この動きを聞いた信長は京へ侵攻されるのを防ぐため、野田・福島城の攻撃を中止、撤退する。その日に本能寺へ入る。

9月24日、信長が京から坂本へ進軍。浅井・朝倉軍は兵を引き、比叡山に陣を置く。

信長は比叡山延暦寺へ朱印状を送る。
味方につくなら山門領を返すこと、またはどちらにも加担しないこと。もし従えない場合は一山を焼き払うと伝える。しかし延暦寺からは返答はなく、浅井・朝倉方につき、また女人を入れ魚鳥を食していることが判明する。

9月25日、信長は比叡山の麓を包囲、宇佐山城に本陣を置き、対陣が続く。
比叡山西の麓にある将軍山では一揆勢2,000が籠城。織田軍が山へ入り寺に放火する。

10月初旬、徳川から援軍が近江 瀬田、草津へ到着、挙兵した六角・一揆勢と交戦する。また11月に木下藤吉郎、丹羽長秀の軍も六角・一揆勢と交戦して勝利する。

 

11月末、雪深くなり朝倉方から和睦の嘆願が行われる。足利義昭の仲介により、12月3日、朝倉・浅井軍と和睦が成立する。

12月17日、信長が岐阜城へ帰還する。

 

元亀1年(1570年)11月13日、勝軍城に在陣している明智光秀が吉田兼見邸を訪れる。
「明智十兵衛尉来たり、石風呂所望により焼き了ぬ」【兼見卿記】

戦死した森可成に替わり、明智光秀が近江 宇佐山城主となる。

12月、武田軍の秋山虎繁が信濃伊那から三河方面へ進軍、東美濃の恵那郡上村で明知城主の遠山景行、三河衆の山家三方衆(作手奥平氏・田峯菅沼氏・長篠菅沼氏)と交戦となり武田軍が勝利する。(上村合戦)
明知遠山氏が敗北すると、武田とも通じていた奥平定能ら山家三方衆は戦わずに撤退する。
この戦いで遠山景行は自害となり、明知遠山氏は遠山一行・遠山友治が後を継ぐ。

 

 

元亀2年(1571年)

元亀2年(1571年)、3年前より実施していた御所の修築が完了する。

元亀2年、但馬国の山名祐豊が丹波国の赤井直正を攻撃。(昨年赤井忠家に竹田城、此隅山城を占領されている)しかし反撃に合い、信長に援軍を求める。
織田に服従していた丹波国の国衆が織田から離反する。

 

元亀2年、北伊勢 神戸家の織田信孝(神戸三七郎)が養父の北畠具教と不仲になったことから、信長は北畠具教を日野城へ幽閉する。
北畠家の旧臣らは信孝の家督相続に反発したため、旧臣の山路弾正を切腹処分、120名を追放する。引き続き神戸家には480名が仕える。(神戸四百八十人衆)

 

2月24日、昨年から包囲を続けていた佐和山城の浅井家臣 磯野員昌が降伏。
佐和山城主として丹羽長秀が入る。磯野員昌は近江高島郡が与えられる。

5月6日、浅井長政が木下藤吉郎が守る横山城へ兵5,000を出す。藤吉郎は手勢500程度で出陣、敵兵が一揆勢ということもあり防戦に成功する。

 

5月、第一次伊勢長島攻め。石山本願寺に呼応し、長島で一向一揆が起きる。
織田軍が長島を攻撃するが撤退する。この時地形を生かした一揆衆の追撃に合い、西美濃三人衆の一人 氏家卜全(直元)が討死する(59歳推定)。

 

5月11日、松永久秀が佐久間信盛とつながる畠山秋高の家臣 安見右近を、奈良の西新屋で切腹させる。また安見右近の居城である交野城を攻撃する。

5月、この頃、松永久秀が武田信玄と通じ、信長・足利義昭からの離反を始める。
信玄は今度遠江・三河へ出陣するので、上洛したら格別の話をしようと伝える。【5月17日付岡国高宛武田信玄書状 荒尾文書】

5月30日、松永久秀が畠山秋高の河内高屋城を攻撃する。6月には三好義継、三好三人衆も攻撃に加勢する。【多聞院日記】

筒井順慶が松永久秀の居城多聞山城を攻略するため、7月に辰市城を築城する。
8月、松永久秀と三好義継ら連合軍はすぐに辰市城を攻撃、筒井順慶と交戦となる。この戦いで松永久秀らは大敗、筒井軍の勝利となる。
この戦いで筒井順慶は永禄11年(1568年)に奪われていた筒井城を奪還する。

元亀2年(1571年)8月28日、池田城の荒木村重・中川清秀が高槻城主 和田惟政・伊丹城主 伊丹親興・茨木城主 茨木重朝と交戦(白井河原の戦い)。
この戦いで和田惟政と茨木重朝は討死、荒木軍は茨木城を占領するが信長が兵を出したことで荒木軍は撤退する。
(その後1573年に荒木村重は信長に服属する。和田惟政に仕えていた高山友照・右近父子も荒木村重に仕える)

8月18日、信長が岐阜城から出陣。9月3日、近江 金森城、三宅城の一向一揆を攻撃、降伏させる。その後比叡山方面の西へ進軍、9月11日、瀬田付近に着陣する。

 

9月2日、信長が明智光秀へ比叡山延暦寺攻撃の準備を指示。

光秀は周辺土豪の和田秀純(雄琴城主)へ書状を送り、忠節に感謝すること、宇佐山城へ移ること、鉄砲と弾薬を用意すること、八木氏が織田に加わるなら恩賞は望み次第と伝える。
また協力しない仰木村については「仰木村の事は是非とも撫で斬りにすべきです」と伝える。【9月2日付 和田秀純宛 明智光秀書状】

 

元亀2年(1571年)9月12日、比叡山延暦寺焼き討ち。

昨年より信長は浅井・朝倉に協力する比叡山の僧兵へ勧告を行うが、返答がなかったため攻撃を決定する。

織田軍が門前町である坂本の町を放火(当時僧は麓や町に集まっていた)、住民・僧兵が逃げ込んだ麓にある西教寺や日吉大社を放火する。山上では根本中堂を放火する。(フロイスは比叡山の東約2kmにある八王子山の山王での焼き討ちを記録)

※【信長公記】
「九月十二日、比叡山に取り寄せ、(山上の)根本中堂、(麓の)山王二十一社をはじめ、霊仏、霊社、僧坊、経巻など一棟も残さず、短時間で雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地となり哀れである。山下の老若男女、右往左往して何もかも忘れ、取るものも取りあえず皆裸足で八王寺山へ逃げ上り、社殿に逃げ籠もった。

兵は四方からときの声を上げて攻め上った。僧俗・児童・智者・上人を一人一人首を斬り、信長の前に差し出した。山頂では名のある高僧・貴僧・有智の僧であり、その他美女・小童が数をも知れず捕らえられ、連れられた。
信長の前で彼らは"悪僧の誅伐はしかたありません。しかし我らはお助けください"と口々に申し上げたが、信長は全く許さず、一人一人首を打ち落とした。目も当てられない有様であった。数千の死体が乱れ、哀れなる成り行きであった。信長は年来のうっぷんを晴らされたのであった。」

※【フロイス日本史】
「彼はきわめて著名な山王という寺院を焼却した。同社は比叡山に近く八王寺という山にあり、その麓には二十二の、非常に豪華で見事な眺めの神社を持った清潔な谷がある。またそこには、華麗で巧妙に作られた大きい一種の輿が7つあった。これらは年に一度、比叡山の全僧侶が出て、きわめて盛大な行列をする祝祭の折に用いられ、その際、彼らは同所の麓にあって二十二里の長さの湖上で、すべて武装して舟に乗るのであり、これを坂本の祭りとした。
これらすべては信長によって灰燼に帰した。…この山王の社で、彼に敵対して武器をとった1,120人の僧侶を殺戮し、近江国の三分の一なる比叡山の全収入を兵士たちの間に分配した。」

※【多聞院日記】
「比叡山・和邇・堅田・坂本、悉く信長より放火されたという。真実か否かわからない。黒煙が見え上がった。信長は在京したという。いかが成り行きになるのか、心細いものである。」

【多聞院日記】の著者 英俊が元亀1年(1570年)3月に比叡山延暦寺を訪れた記録
「根本中堂は二、三の明かりが灯るのみ、堂も坊舎も一円朽ち果てた有様、僧衆は概ね坂本の町へ下り乱行不法限りなし、修学廃怠ゆえこのようになっている、周辺の寺も同じ状態で悲しいことだ。」

 

比叡山焼き討ちの後、信長は明智光秀に近江志賀郡(滋賀郡)を与え、比叡山を監視させる。光秀は坂本城の築城を開始する。

光秀は山城国の高野蓮養坊、廬山寺など比叡山東西の山門領を自らの所領とする。
また坂本の復興を行い、焼け落ちた西教寺を再建する。

9月13日、信長が小姓衆・馬廻りを連れ上洛。妙覚寺へ入る。【言継卿記】
その後信長は永原城で宿泊し、20日、岐阜へ戻る。

10月、信長が細川藤孝へ勝龍寺城を普請するよう命じる。【米田氏文書】(この年の3月は細川藤孝は幕府衆として興行に参加している)

 

12月頃、明智光秀が曽我兵庫頭助乗へ手紙を送り、義昭へ暇乞いを申し出る。
「私の進退の事、御暇を申し上げたところ、いろいろ丁寧なお言葉、かたじけなく存じます。とにかく、行く末成り難い身の上のことですので、すぐにお暇を下さり、頭髪も剃るなどしますので、御取り成しを頼み入ります。」【神田孝平氏文書】

12月20日、明智光秀が義昭側近の曽我兵庫頭助乗へ、公儀取り成しのお礼として下京壺底分の地子銭二十一貫二百文を渡す。【古簡雑纂】

12月、京兆家 細川昭元が三好家を離れ、足利義昭に臣従。信長の傘下に入る。

 

 

元亀3年(1572年)

元亀3年(1572年)1月20日、公家の吉田兼見が年賀の答礼に普請中の坂本城を訪問する。
(明智光秀は吉田兼見と交流があり、父の吉田兼右と信長の面会の取次もしていた)

1月26日、三好三人衆の岩成友通が織田方につく。信長は岩成友通に山城の領地を与え、山城郡代とする。【信長文書の研究】(翌年義昭が謀反を起こすと岩成友通も同調して再び三好方につく)

 

3月5日、信長が岐阜城を出陣。7日、小谷城付近の村を放火する。

3月11日、信長が志賀郡の和邇へ着陣。浅井勢を木戸城(木戸山城)・田中城(田中氏の北比良城)へ追い込み、明智光秀、丹羽長秀らが砦を築き包囲する。

3月12日、信長が上洛、兵700で妙覚寺へ着陣する。【兼見卿記】
三好・本願寺との和睦が成立、細川昭元、岩成友通が使者として訪れる。本願寺から掛軸「万里江山」と茶器「白天目茶碗」が献上される。

朝廷から、上洛時の定まった屋敷を建てるよう通達があり、足利義昭が徳大寺殿御屋敷を普請する許可を出す。3月24日、着工となる。

 

4月、大和の松永久秀が三好義継とともに離反、信長包囲網に加担する。
4月16日、織田軍は佐久間信盛・柴田勝家・森可成・蜂屋頼隆・明智光秀・細川藤孝・池田勝正ら2万の兵で出陣、高屋城を包囲する。【兼見卿記】

しかし三好勢は包囲から城を脱出、三好義継は若江城、松永久秀は信貴山城、息子の久通は多聞山城へ籠城する。

 

5月13日、足利義昭が武田信玄に御内書を送る。信玄からの起請文を讃え、天下静謐に尽力するようにと伝える。

5月19日、信長が京から岐阜へ帰城する。

 

元亀3年(1572年)6月、再び浅井領を攻撃開始。

6月27日、信長は中川重政へ、打下城の林員清・堅田衆とともに江北の湊を舟で攻撃するよう命じる。【信長書状】
明智光秀や林員清ら湖西の軍勢が北上して浅井領を攻撃、堅田衆は囲舟(装甲船)で
湖上を進み、火矢・大砲・鉄砲で竹生島を攻撃する。【信長公記】

7月19日、信長が岐阜城から出陣、初陣となる嫡男 信忠も同行する。
7月21日、信長は虎御前山に陣取り、佐久間信盛らに小谷の城下町を放火させ、木下藤吉郎は山本山城下で交戦、勝利する。

7月27日、信長は上杉謙信へ書状を送り、武田家と和睦するよう伝える。(春に足利義昭から和睦の斡旋があり信長も協力していた)
7月29日、浅井勢の援軍として朝倉義景が兵15,000で到着、大嶽山に布陣する。

8月、信長が虎御前山に大規模な砦を築き、木下藤吉郎を配置する。(虎御前山は標高230m、小谷城から2km南西の位置にあり、四方の見通しがよいため前線基地とされた)

 

9月、信長は足利義昭に「十七ヶ条の異見書」を送り、義昭がいかに将軍としてふさわしくないか、愚かな行為を繰り返しているかなどの例を挙げ、義昭の行動を非難する。

 

10月、浅井方の宮部城主 宮部継潤が木下藤吉郎の調略により織田へ寝返る。【浅井三代記】(宮部継潤の家臣 田中吉政も織田方となる)

11月3日、朝倉・浅井軍が虎御前山砦を攻撃するが、木下藤吉郎が勝利する。

 

元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄が西上作戦を開始する。

10月5日、信長は武田信玄へ書状を送り、春に出された足利義昭による上杉・武田の和睦斡旋について、武田と上杉の和睦に尽力していることを伝える。(まだ信玄出陣の報せは届いていない)

美濃岩村城では城主 遠山景任が5月に死去すると、妻のおつやの方(織田信定の娘。信長の叔母)が城主を務めていた。
11月、武田軍の秋山虎繁が岩村城を包囲。秋山虎繁は自身との婚姻を条件に城兵を助命するとおつやの方へ伝えると、おつやの方は降伏、岩村城が武田方となる。

11月20日、武田信玄の遠江侵攻を聞いた信長が、信玄に書状を送る。信玄は前代未聞の無道者であり、この遺恨を決して忘れず、未来永劫、手を結ぶことはないと伝える。【歴代古案】

11月下旬、武田軍が徳川領の二俣城を包囲したとの報せを受け、佐久間信盛・平手汎秀・水野信元らが援軍として出陣する。

11月、信長は武田牽制のため上杉家へ協力を依頼、濃越同盟を結ぶ。織田側のみが人質(信長の息子)を出す同盟となる。
(濃越同盟は天正4年(1576年)に謙信が本願寺顕如と同盟を結んだことで解消となる)

 

元亀3年12月、近江 坂本城が完成する。
「城中に天主が作られ全て見たが驚いた」【兼見卿記】
「日本人にとって豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」【フロイス日本史】

 

<徳川家>

三河国周辺地図

三河国、家康、城マップ
※海岸線や浜名湖の地形は明治時代古地図、江戸期の絵図を基に作成

 

永禄13年(1570年)2月30日、上洛した信長に同行するため家康も初めて上洛する。
3月17日、桜馬場で徳川衆が乗馬を披露、足利義昭と山科言継が見物する。群衆2万人ほどが見物する。【言継卿記】

 

信長から若狭攻めの援軍要請があり、家康が越前敦賀へ出陣する。
4月25日、家康は木下藤吉郎、柴田勝家とともに金ヶ崎城の東にある手筒山城を攻撃、1370名を討ち取り落城させる。【家忠日記増補】

4月26日、信長は敦賀郡の金ヶ崎城(城主 朝倉景恒)を攻撃、占領する。

しかし浅井長政の裏切ったとの報せが入り、急遽信長は金ヶ崎から撤退する。 家康は前線に残っていたが、木下藤吉郎の案内で退却を行う。【三河物語】

 

元亀1年(1570年)6月、家康が居城を岡崎城から浜松城(曳馬城から改称)へ移す。 岡崎城は信康(12歳)が城主となる。
(当初は国府があった見付の城を普請していたが、信長の指示により曳馬城に変更された)【当代記】
※浜松城は天正9年(1581年)まで城の拡張工事が行われる。

 

6月、浅井・朝倉勢と対峙する信長から援軍要請が入る。(姉川の戦い)
家康は酒井忠次、石川数正らと兵3,000で北近江へ進軍する。

6月27日、徳川軍が姉川に着陣する。信長は徳川軍に二番隊を伝えるが、家康は信長に一番隊を希望し、前線に配置される。【三河物語】
6月28日未明、攻撃開始。徳川軍は浅井・朝倉勢の陣に深く入って攻撃を行い、織田・徳川軍の勝利に貢献する。

 

9月14日、畿内では石山本願寺 顕如が蜂起、信長は野田・福島で一揆勢や三好三人衆と戦うが、この隙に浅井・朝倉勢が琵琶湖西岸を南下して9月16日に宇佐山城を攻撃する。
信長は急ぎ京へ戻り、浅井・朝倉勢と対峙する(志賀の陣)。また家康へ援軍要請を伝える。

家康は石川家成を援軍として派遣、10月初旬、徳川軍が近江 瀬田、草津へ到着。挙兵した六角・一揆勢と交戦する。

元亀1年(1570年)10月8日、家康が上杉謙信へ起請文を送り、上杉家と同盟関係となる。
徳川は武田と手切れすることを伝え、上杉と織田が入魂できるよう自分が信長へ意見を述べること、また織田と武田との縁談(信忠と信玄五女 松姫との婚約)がなくなるよう忠告すると伝える。【上杉家文書】

12月、甲斐に留めていた徳川の人質、松平康俊(家康の実弟)が家康の手配により甲斐を脱出する。
(永禄6年(1563年)に家康の命により今川氏真の元へ人質として出していたが、信玄の駿河侵攻時に武田に捕らえられていた)

元亀1年、武田信玄が駿河西部に田中城を築城、対立を強める。

 

元亀2年(1571年)2月16日、武田信玄が兵数20,000で甲府を出陣、駿河の大宮、田中城を経て遠江 小山城へ進軍する。
3月初旬に高天神城(城主 小笠原信興 兵2,000)を攻撃する。【甲陽軍鑑】

信玄は攻撃すると多くの兵が死傷するとして城を攻めず、内藤昌秀(昌豊)に命じ、城外にいる小笠原勢の足軽を城内へ押し込むと、武田軍は1日で高天神を離脱する。【家忠日記増補追加】

武田軍は西へ進軍、犬居城に北条の援軍を合わせた兵3,000を駐留させ、信濃へ撤退する。【甲陽軍鑑】【武徳大成記】

 

3月26日、滞陣していた信濃 高遠城より信玄が出陣、兵23,000で三河へ侵攻する。【甲陽軍鑑】
4月19日、武田軍は足助城を占領、次に野田城を占領する。

4月、武田に呼応して三河で一揆が起きる。家康は青山忠門に討伐を命じ一揆勢を追い払うが、青山忠門は歩行が困難な大怪我を追い、それにより死去となる。【武徳大成記】【寛政重修諸家譜 青山忠門】

4月29日、武田軍が吉田へ進軍、二連木に砦を作る。これに対し家康は吉田城へ兵を入れる。吉田城主 酒井忠次が山県昌景と交戦、家康も出陣して対峙する。
5月、信玄は攻撃を中止、長篠へ向かい甲斐まで撤退する。【甲陽軍鑑】【武家事紀】

7月にまた家康と交戦があり、信長は浜松へ使いを出し、本城を吉田城まで引き浜松城は家老を置くことを提案するが、家康はこれを拒否する。【甲陽軍鑑】※【武徳大成記】では信長の提案は岡崎城となっている。

※近年の研究では元亀2年の三河侵攻は天正3年の出来事であり、行われていなかったとも考えられている。【三河物語】【松平記】【当代記】には元亀2年の信玄による侵攻は書かれていない。

 

元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄の西上作戦が開始される。

※武田信玄は昨年松永久秀へ「今度遠江、三河に出陣すること、公儀の御威光をもって信玄も上洛しましたら、格別のお話をしましょう。」【五月十七日付 岡周防守宛武田信玄書状】と上方へ向かうことを伝え、また元亀3年の11月19日付朝倉義景宛書状で「至来年五月御張陣之事」と来年5月まで朝倉軍の滞陣を要望している。

武田信玄本隊(兵数30,000)は遠江へ向かい、別動隊の山県昌景・秋山虎繁(兵数5,000)は信濃伊那から遠江へ向かう。

別動隊が奥三河へ侵攻、山家三方衆(田峯城の菅沼定忠、長篠城の菅沼正貞、作手亀山城の奥平定能)が別動隊に加わる。(野田城の菅沼定盈、菅沼定利は徳川方に留まる)

武田軍が犬居城へ進軍、城主 天野景貫が武田方につき案内役をする。武田軍は徳川方の只来城、飯田城、天方城を攻略、久野城では城主 久野宗能が抵抗する。【武徳大成記】
その後武田信玄は木原に本陣を置く。

 

【西上作戦侵攻ルート】
武田信玄 西上作戦 ルート 
※街道は明治時代古地図を基に作成 ※紫色の進路は10月21日付武田信玄書状に基づく駿河ルート
※進路の記録
【甲陽軍鑑】【松平記】【武徳大成記】【改正三河後風土記】では信玄が犬居城の天野景貫に道案内をさせ、只来城、飯田城など諸城を落とす内容が記載。
【当代記】では「武田信玄が遠江へ出陣、高天神方面を通り、見付国府へ打ち出され」と記載。

 

10月21日頃、武田信玄が高天神城を攻略する。
※10月21日付 奥平貞勝宛武田信玄書状「当城主(高天神城)小笠原悃望候間、明日国中(国府=見付)へ進陣、五日之内越天竜川、向浜松出馬、可散三ケ年之鬱憤候」【山梨県史】
(【甲陽軍鑑】【三河物語】など各文献では西上作戦での高天神城に関する記述はない)

10月22日、東三河へ侵攻した山県昌景が柿本城(城主 鈴木重好)へ進軍する。鈴木重好は城を空けて撤退する。
山県隊は井平城へ進軍、城から井伊衆が出て迎え討ち、仏坂で戦闘となる。井伊衆は88名が討死となり武田軍が勝利する。(仏坂の戦い)

 

10月22日頃、浜松城から本多忠勝・内藤信成が武田軍の偵察に出陣し、天竜川を渡河する。

偵察隊が接近して来た武田軍と遭遇、徳川勢は兵が少ないため急ぎ退却を開始。
内藤信成と本多忠勝が殿軍となるが、武田の騎馬隊 馬場信春に一言坂で追いつかれ攻撃を受ける。本多忠勝の活躍により部隊は浜松城へ帰還する。(一言坂の戦い)
「本多忠勝は命を惜しまず敵味方の間に乗り入れ、無事に徳川勢を引き上げさせた。」【甲陽軍鑑】

このとき、本多忠勝の武者ぶりと三河武者の多くが装備していた唐の頭(ウシ科の動物ヤクの毛で飾った高価な南蛮渡来品の兜)を、家康の家には過ぎたるもの、と信玄が言うと、
近習の小杉右近助が"家康に過ぎたる物は二つある 唐の頭に本多平八"と歌い、見付坂に立札をたて落首する。【甲陽軍鑑】

※【甲陽軍鑑】【武徳大成記】【改正三河後風土記】では一言坂の戦いで家康は出陣していない。【三河後風土記】では家康は出陣したが渡河前に帰還、【三河物語】では交戦時の家康の会話が記述されている。

※【三河後風土記】では本多忠勝とともに殿軍を務めた大久保忠佐が、本多忠勝だけ良将であると褒美があったことに嫉妬し、一言坂から帰還した家康の馬の鞍に糞が付いていると大声で悪口を言う話が記載されている。(後の【改正三河後風土記】では削除されている)

 

武田軍はそのまま進軍を行い、二俣城(城主 中根正照・青木又四郎 兵数1,200)を包囲する。

武田信玄は合代島に本陣を置き、四郎勝頼、武田信豊、穴山信君が二俣城を包囲する。(二俣城の戦い)
家康は兵8,000で救援に向かうが、信玄は本隊の兵4,000と北条からの援軍(兵1,000)で浜松城を牽制していたため、家康は城へ引き返す。【甲陽軍鑑】

12月19日、武田軍は川に挟まれた要害に苦戦するが、天竜川の断崖に作られた二俣城の井戸櫓を、上流から筏を流して破壊する。水の手を絶たれた城主 中根正照は降伏する。

 

織田からの援軍 佐久間信盛・平手汎秀・水野信元ら兵数3,000(推定)が浜松城へ到着する。【信長公記】
※【改正三河後風土記】では援軍は11月上旬に到着。※史料により参戦武将が異なる。

 

三方ヶ原の戦い

武田信玄 西上作戦 三方ヶ原の戦い
※街道は明治古地図を基に作成 ※合戦場所は三方原古戦場碑の位置に設定(主戦場・進路は諸説あり)
※進軍経路や位置の記録
【三河物語】「(武田軍が)祝田へ引き下ろうとするところ、家康浜松より三里に及び出陣なされた(浜松から3里は三方ヶ原の北側)」
【信長公記】「早くも二俣の城攻め落とし、その勢いで武田信玄は堀江の城へ打ち廻り、攻撃した。家康も浜松の城より軍勢を出され、三方ヶ原にて足軽共が戦い、佐久間・平手を初めとして駆けつけ、互いに人数立ち合い、一戦に取りかかった。」
【当代記】「信玄都田を打ち越し、三方ヶ原に打ち上がり」
【甲陽軍鑑】「三方ヶ原合戦の折も、(中略)二,三里近くの二俣を攻め取り其の上合戦に勝ち(二俣城から2,3里は三方ヶ原の北側)」
【武徳大成記(1686年)】「十二月下旬、(武田軍は)陣を三方ヶ原に移して、浜松城外の村里を放火して、それより井ノ谷に入り長篠に出ようとして、まず大田に下ろうとする」 「(翌年)正月七日、或は三日、信玄は刑部を発し、本坂を経て三河に入り、十一日野田城を攻める」
【四戦紀聞 遠州味方原戦記(1705年頃)】では武田軍は大菩薩坂を上り三方ヶ原へ向かう。
【改正三河後風土記(1837年)】では浜松北の大菩薩を経て今日は刑部まで向かう。
【日本戦史 三方原役 旧参謀本部(1910年)】では野部を出て天竜川を渡り、大菩薩より三方ヶ原に上ろうとする。(また小豆餅付近での布陣図を掲載)

 

元亀3年12月22日、二俣城を攻略した武田信玄(兵数35,000)が進軍、三方ヶ原へ向かう。

三方ヶ原へ進軍したが、信玄は織田の大軍が来ており、敵の本城へ深く押し寄せて敗北すれば一人残らず討ち取られるとし、北の山際へ向かうことを命じる。しかし物見より徳川軍の備えを聞き、戦闘開始を決める。【甲陽軍鑑】

「(家康が家臣へ)我が国を踏み破って通るのに、多勢成りと言うて咎めないことがあろうか。戦は多勢無勢によるものではなく天道次第である、と仰されると、家臣各々是非に及ばずとして出陣した。」【三河物語】

家康は鳥居忠広に偵察に行かせるが、鳥居忠広は武田は大軍で何段にも備えており、徳川の先陣に引き上げるよう伝えると、家康は大勢の軍を見て腰が抜けたのかと大いに立腹した。【松平記】

家康(兵数10,000)は家臣の反対を押し切り浜松城から出陣する。武田軍は魚鱗の陣で待ち受け、徳川軍は鶴翼の陣を敷く。【三河物語】

申の刻(16時頃)、信玄は先陣の小山田信茂へ合戦開始を命じる。
武田軍は水役者という投石隊300名が投石攻撃を行い、襲いかかる。織田・徳川軍の一番合戦は平手汎秀、成瀬藤蔵、家康の旗本衆であった。【甲陽軍鑑】【信長公記】

家康の旗本が山県昌景を攻撃、三町(約330m)後退させ、その後酒井忠次も山県昌景を攻撃する。 石川数正が小山田隊・山家三方衆を攻撃して三町(約330m)後退させるが、馬場信春の反撃に合い敗北する。

酒井忠次が山県隊を崩していたが、勝頼隊が横から攻めかかったことで押し返されて劣勢となり、さらに信玄は小荷駄奉行の甘利隊も酒井隊へ攻撃させたため、酒井隊は敗走する。【甲陽軍鑑】【校訂松平記】

徳川軍は敗北となり、家康は浜松城へ退却する。

これを武田軍が追撃、犀ヶ崖付近で大久保忠世、本多忠勝、榊原康政らが食い止め家康が浜松城へ入る。
※【武徳大成記】では、大久保忠世が犀ヶ崖に軍旗を立てて敗兵を集めていると、大将がいると思った武田の兵が争い進んで大勢が崖から落ちたと記載。

家康は鳥居元忠に浜松城の玄黙口(北側の大手門)を守るよう命じ、渡辺守綱らが討って出て武田軍を退かせる。夜には篝火を焚いて守りを固める。【武徳大成記】【松平記】
※【三河後風土記】【四戦紀聞 遠州味方原戦記】には、家康が鳥居元忠に玄黙口を開けて遅れた味方を入れるよう命じ、山県・馬場隊は玄黙口が開いているのを見て謀り事かと留まっている間に、鳥居元忠らが攻撃する内容が記載。

この戦いで徳川軍の死傷者は2,000名ほどになり、鳥居忠広、本多忠真、中根正照、青木又四郎、夏目吉信、成瀬藤蔵ら有力家臣を失う。
また織田軍は平手汎秀が討死、水野信元と佐久間信盛は浜名湖の今切方面へ退却する。【三河物語】

 

【三河物語】【甲陽軍鑑】の三方ヶ原の戦いを開く(別ページ)

 

【信長公記】
「家康公は陣の中央を切り破られ、軍勢の中へ乱れ入り、左へ逃れ、三方ヶ原の岸の道を一騎で退かれたのを、敵は先に待ち受け道を遮った。家康公は馬上から弓で射倒し、駆け抜け、御通りされた。これに限らず、弓の御手柄は今に始まったことではない。」

 

三方ヶ原の合戦後、武田軍が浜松城へ押し寄せ、犀ヶ崖に陣を張る。信玄が首実検を行う。

12月22日夜、酒井忠次と石川数正が忍びの者を出して武田の陣へ夜襲の準備を始める。
武田軍は脇備えを前に出し、各隊ごとに捨て篝(陣から離れた場所に焚く篝火)と本篝を焚いて備え、徳川軍の出陣を防ぐ。【甲陽軍鑑】

その後、大久保忠世が諸隊から鉄砲を集め、鉄砲100挺で犀ヶ崖の武田陣を攻撃する。【三河物語】
※【甲陽軍鑑】には「大久保七郎右衛門と云う者、てっぽう衆をつれて出て、うち射たると申し候」と記載。

12月23日、武田軍が浜松から三方ヶ原へ陣を移す。
12月24日、武田軍が(三方ヶ原の北西にある)刑部へ移動して陣を張り、越年する。(滞陣は翌年1月7日まで)【甲陽軍鑑】

 

<武田家>

永禄13年(1570年)1月、駿府で越年した武田信玄が花沢城(城主 小原鎮実)を攻撃、占領する。この戦いで曽根昌世、真田昌幸が活躍する。その後徳之一色城も攻撃して降伏させる。

徳之一色城を馬場信春が普請し、田中城と命名する。(大井川の手前で拠点を作ったため、敵対行為となり家康との対立を強める。)

永禄13年2月、信玄は清水湊に入り、武田に従属した旧今川水軍の再編成を行う。また清水城、江尻城の築城を行い武田水軍の拠点を築く。(江尻城は馬場信春が普請を行い、城代は山県昌景が入る。)

永禄13年4月、北条氏康・氏政が兵38,000で武田方の駿河 深沢城を攻撃、占領される。

元亀1年(1570年)6月、昨年9月より攻撃していた武蔵 御嶽城の平沢政実が降伏。平沢政実は武田に従属し、長井政実と名乗り、武田家臣として武蔵 御嶽城を守る。

元亀1年7月28日、信玄の妻 三条の方が病死する(50歳)。

元亀1年9月、信玄が兵23,000で伊豆へ侵攻、北条領の韮山で苅田を行う。

これに対し北条氏政が兵38,000で三島方面へ進軍。
武田方も馬場信春・山県昌景・小幡信貞・真田昌幸・小山田信茂・内藤昌豊ら大軍で三島へ進軍する。
その後北条軍は夜に紛れて撤退する。これにより駿河侵攻を優位に進める。【甲陽軍鑑】

 

元亀1年10月8日、徳川家康が上杉謙信へ起請文を送り、徳川家と上杉家が同盟関係となる。

元亀1年12月、甲斐に留めていた徳川の人質、松平康俊(家康の実弟)が家康の手配により甲斐を脱出する。
(永禄6年(1563年)に家康の命により今川氏真の元へ人質として出していたが、信玄の駿河侵攻時に武田に捕らえられていた)

元亀1年12月、秋山虎繁が信濃伊那から三河方面へ進軍、東美濃の恵那郡上村で明知城主の遠山景行、三河衆の山家三方衆(作手奥平氏・田峯菅沼氏・長篠菅沼氏)と交戦となり勝利する。(上村合戦)
明知遠山氏が敗北すると、武田とも通じていた奥平定能ら山家三方衆は戦わずに撤退する。
この戦いで遠山景行は自害となり、明知遠山氏は遠山一行・遠山友治が後を継ぐ。

元亀1年頃、飛騨の江馬氏に越中 新川郡中地山を任せる。

 

元亀2年(1571年)1月3日、昨年末より武田軍が北条方の深沢城(城主 北条綱成)を攻撃。甲斐国内の黒川金山の金山衆を動員させて本丸へ坑道を掘らせ、北条綱成が降伏する。
(北条綱成は北条家に帰参するが、深沢城は以降武田の拠点となる)

2月、馬場信春の普請により小山城が築城される。

 

元亀2年(1571年)2月16日、武田信玄が兵数20,000で甲府を出陣、駿河の大宮、田中城を経て遠江 小山城へ進軍する。3月初旬に高天神城(城主 小笠原信興 兵2,000)を攻撃する。【甲陽軍鑑】

信玄は攻撃すると多くの兵が死傷するとして城を攻めず、内藤昌秀(昌豊)に命じ、城外にいる小笠原勢の足軽を城内へ押し込むと、武田軍は1日で高天神を離脱する。【家忠日記増補追加】

武田軍は西へ進軍、犬居城に北条の援軍を合わせた兵3,000を駐留させ、信濃へ撤退する。【甲陽軍鑑】【武徳大成記】

 

3月26日、滞陣していた信濃 高遠城より信玄が出陣、兵23,000で三河へ侵攻する。【甲陽軍鑑】
4月19日、武田軍は足助城を占領、次に野田城を占領する。

4月、武田に呼応して三河で一揆が起きる。家康は青山忠門に討伐を命じ一揆勢を追い払うが、青山忠門は歩行が困難な大怪我を追い、それにより死去となる。【武徳大成記】【寛政重修諸家譜 青山忠門】

4月29日、武田軍が吉田へ進軍、二連木に砦を作る。これに対し家康は吉田城へ兵を入れる。吉田城主 酒井忠次が山県昌景と交戦、家康も出陣して対峙する。
5月、信玄は攻撃を中止、長篠へ向かい甲斐まで撤退する。【甲陽軍鑑】【武家事紀】

7月にまた家康と交戦があり、信長は浜松へ使いを出し、本城を吉田城まで引き浜松城は家老を置くことを提案するが、家康はこれを拒否する。【甲陽軍鑑】※【武徳大成記】では信長の提案は岡崎城となっている。

※近年の研究では元亀2年の三河侵攻は天正3年の出来事であり、行われていなかったとも考えられている。【三河物語】【松平記】【当代記】には元亀2年の信玄による侵攻は書かれていない。

 

6月7日、四郎勝頼が遠江 犬居城の天野景貫へ功労を賞す。【武家事紀】

9月16日、四郎勝頼の正室 龍勝院(信長の姪)が死去。

10月3日、小田原で北条氏康が病死する(57歳)。

劣勢となった北条氏政が機能しなかった上杉家との越相同盟を破棄、武田家へ申し入れ、再び甲相同盟が結ばれる。
北条家との領土割譲は、駿河の興国寺城は武田領となり(戸倉城・大平城は北条領)、武蔵北端にある武田の御嶽城は北条領となる。
※駿河国は武田領と決まったことから、本来駿河国の東端にある戸倉城・大平城は伊豆国の扱いとされた。
(同盟関係は天正6年(1578年)の御館の乱で武田勝頼が上杉景勝につくまで続く。)

 

元亀2年、昨年12月の秋山虎繁による東美濃上村での合戦の後、山家三方衆(作手奥平氏・田峯菅沼氏・長篠菅沼氏)が武田方につく。

 

元亀3年(1572年)閏1月、上杉謙信が武田の上野 石倉城を攻撃。武田信玄が救援に向かい、利根川を挟んで上杉謙信と対陣するが双方退却する。(第一次利根川の対陣)

元亀3年閏1月、昨年四郎勝頼の正室 龍勝院が亡くなったことで織田家との縁戚関係が切れたため、永禄10年より進めていた織田信忠と松姫の婚姻交渉を再び進める。

4月7日、武田信玄が福寿院・普門院へ、この一年は上杉が信濃・上野の二国へ兵を動かさないようにと祈願文を出す。

5月13日、足利義昭が武田信玄に御内書を送る。信玄からの起請文を讃え、天下静謐に尽力するようにと伝える。(畿内では松永久秀が信長・足利義昭から離反、朝倉義景、浅井長政、本願寺も敵対しており、信玄に協力を求めていた。)

 

この頃本願寺顕如と連携し、越中で一向一揆を起こさせ、上杉方を攻撃させる。しかし9月初旬、尻垂坂で上杉軍と加賀・越中一向一揆勢が交戦し、上杉軍が勝利する。

10月1日、武田信玄・勝頼が、反上杉方 越中一向一揆の勝興寺顕栄へ援軍を出せなかったことを伝える。
「信玄自身が越後へ乱入することは、遠江・三河への働きのためやむなく遅れ、それ以後こちらの方面は時間を空け帰陣しています。
直に越後へ向かい攻撃することは確かで、既に信濃越中の境まで先手衆を遣わしたところ、途中病気になり進軍できなかった頃、輝虎が撤退したことで、兵を引きました。
信玄の煩いも治ったので、後詰の援軍は容赦なく行います。」【勝興寺所蔵文書 10月1日付武田信玄・勝頼連署状】

 

西上作戦
元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄本隊(兵数30,000)が甲府を出陣、遠江へ向かう。
信玄は朝倉義景・浅井長政へ書状を送り出陣を伝える。

※武田信玄は昨年松永久秀へ「今度遠江、三河に出陣すること、公儀の御威光をもって信玄も上洛しましたら、格別のお話をしましょう。」【五月十七日付 岡周防守宛武田信玄書状】と上方へ向かうことを伝え、また元亀3年の11月19日付朝倉義景宛書状で「至来年五月御張陣之事」と来年5月まで朝倉軍の滞陣を要望している。

 

別動隊の山県昌景・秋山虎繁(兵数5,000)は信濃伊那から奥三河へ侵攻、山家三方衆(田峯城の菅沼定忠、長篠城の菅沼正貞、作手亀山城の奥平定能)が別動隊に加わる。

武田軍が犬居城へ進軍、城主 天野景貫が武田方につき案内役をする。武田軍は徳川方の只来城、飯田城、天方城を攻略、久野城では城主 久野宗能が抵抗する。【武徳大成記】
その後武田信玄は木原に本陣を置く。

 

【西上作戦侵攻ルート】
武田信玄 西上作戦 ルート 
※街道は明治時代古地図を基に作成 ※紫色の進路は10月21日付武田信玄書状に基づく駿河ルート
※進路の記録
【甲陽軍鑑】【松平記】【武徳大成記】【改正三河後風土記】では犬居城の天野景貫に道案内をさせ、只来城、飯田城など諸城を落とす内容が記載。
【当代記】では「武田信玄が遠江へ出陣、高天神方面を通り、見付国府へ打ち出され」と記載。

 

10月21日頃、信玄が高天神城を攻略する。
※10月21日付 奥平貞勝宛武田信玄書状「当城主(高天神城)小笠原悃望候間、明日国中(国府=見付)へ進陣、五日之内越天竜川、向浜松出馬、可散三ケ年之鬱憤候」【山梨県史】
(【甲陽軍鑑】【三河物語】など各文献では西上作戦での高天神城に関する記述はない)

 

10月22日、東三河へ侵攻した山県昌景が柿本城(城主 鈴木重好)へ進軍する。鈴木重好は城を空けて撤退する。
山県隊は井平城へ進軍、城から井伊衆が出て迎え討ち、仏坂で戦闘となる。井伊衆は88名が討死となり武田軍が勝利する。(仏坂の戦い)

10月22日頃、信玄の本隊が偵察に出ていた徳川軍の本多忠勝・内藤信成と遭遇。撤退する徳川軍を追撃し、一言坂で交戦する。殿軍の本多忠勝の活躍により、部隊は浜松城へ退却する。(一言坂の戦い)
「本多忠勝は命を惜しまず敵味方の間に乗り入れ、無事に徳川勢を引き上げさせた。」【甲陽軍鑑】

このとき、本多忠勝の武者ぶりと三河武者の多くが装備していた唐の頭(ウシ科の動物ヤクの毛で飾った高価な南蛮渡来品の兜)を、家康の家には過ぎたるもの、と信玄が言うと、
近習の小杉右近助が"家康に過ぎたる物は二つある 唐の頭に本多平八"と歌い、見付坂に立札をたて落首する。【甲陽軍鑑】

※【甲陽軍鑑】【武徳大成記】【改正三河後風土記】では一言坂の戦いで家康は出陣していない。【三河後風土記】では家康は出陣したが渡河前に帰還、【三河物語】では交戦時の家康の会話が記述されている。

 

武田信玄本隊はそのまま進軍を行い、二俣城(城主 中根正照・青木又四郎 兵数1,200)を包囲する。
11月、山県昌景の別動隊が合流する。

 

信玄は合代島に本陣を置き、四郎勝頼、武田信豊、穴山信君が二俣城を包囲する。(二俣城の戦い)
徳川家康は兵8,000で救援に向かうが、信玄は本隊の兵4,000と北条からの援軍(兵1,000)で浜松城を牽制していたため、家康は城へ引き返す。【甲陽軍鑑】

12月19日、武田軍は川に挟まれた要害に苦戦するが、天竜川の断崖に作られた二俣城の井戸櫓を、上流から筏を流して破壊する。水の手を絶たれた城主 中根正照は降伏する。

 

11月12日、信玄は織田方の郡上八幡 遠藤氏(木越城主 遠藤胤基の家臣宛)へ、遠江国の過半の平定と、来年春は美濃へ出馬し岐阜へ向かうことを伝える。【鷲見栄造氏所蔵文書】
※その後も信玄から信長に敵対するよう催促を受ける。

織田方の美濃岩村城では城主 遠山景任が5月に死去すると、妻のおつやの方(織田信定の娘。信長の叔母)が城主を務めていた。
11月、秋山虎繁が岩村城を包囲。秋山虎繁は自身との婚姻を条件に城兵を助命するとおつやの方へ伝えると、おつやの方は降伏、岩村城が武田方となる。
11月14日、信玄は下条信氏を派遣して岩村城を接収する。

 

11月19日、信玄が朝倉義景へ書状を送り、共同作戦を求める。
「殊に三河山家、美濃岩村は味方に属し、信長に対して敵となり、戦を始めています。このところご理解することが肝要です。」
大坂本願寺へ蜂起を催促すること、来年5月まで陣をお張りになるようにと伝える。【徳川黎明会所蔵文書】
(しかし朝倉・浅井軍は11月3日に近江の虎御前山砦で秀吉に敗れており、朝倉義景は12月に入ると越前へ撤退することになる)

 

浜松城では織田からの援軍 佐久間信盛・平手汎秀・水野信元ら兵数3,000(推定)が到着する。【信長公記】
※【改正三河後風土記】では援軍は11月上旬に到着。※史料により参戦武将が異なる。

 

三方ヶ原の戦い

武田信玄 西上作戦 三方ヶ原の戦い
※街道は明治古地図を基に作成 ※合戦場所は三方原古戦場碑の位置に設定(主戦場・進路は諸説あり)
※進軍経路や位置の記録
【三河物語】「(武田軍が)祝田へ引き下ろうとするところ、家康浜松より三里に及び出陣なされた(浜松から3里は三方ヶ原の北側)」
【信長公記】「早くも二俣の城攻め落とし、その勢いで武田信玄は堀江の城へ打ち廻り、攻撃した。家康も浜松の城より軍勢を出され、三方ヶ原にて足軽共が戦い、佐久間・平手を初めとして駆けつけ、互いに人数立ち合い、一戦に取りかかった。」
【当代記】「信玄都田を打ち越し、三方ヶ原に打ち上がり」
【甲陽軍鑑】「三方ヶ原合戦の折も、(中略)二,三里近くの二俣を攻め取り其の上合戦に勝ち(二俣城から2,3里は三方ヶ原の北側)」
【武徳大成記(1686年)】「十二月下旬、(武田軍は)陣を三方ヶ原に移して、浜松城外の村里を放火して、それより井ノ谷に入り長篠に出ようとして、まず大田に下ろうとする」 「(翌年)正月七日、或は三日、信玄は刑部を発し、本坂を経て三河に入り、十一日野田城を攻める」
【四戦紀聞 遠州味方原戦記(1705年頃)】では武田軍は大菩薩坂を上り三方ヶ原へ向かう。
【改正三河後風土記(1837年)】では浜松北の大菩薩を経て今日は刑部まで向かう。
【日本戦史 三方原役 旧参謀本部(1910年)】では野部を出て天竜川を渡り、大菩薩より三方ヶ原に上ろうとする。(また小豆餅付近での布陣図を掲載)

 

元亀3年12月22日、二俣城を攻略した武田信玄(兵数35,000)が進軍、三方ヶ原へ向かう。

三方ヶ原へ進軍したが、信玄は織田の大軍が来ており、敵の本城へ深く押し寄せて敗北すれば一人残らず討ち取られるとし、北の山際へ向かうことを命じる。しかし物見より徳川軍の備えを聞き、戦闘開始を決める。【甲陽軍鑑】

「(家康が家臣へ)我が国を踏み破って通るのに、多勢成りと言うて咎めないことがあろうか。戦は多勢無勢によるものではなく天道次第である、と仰されると、家臣各々是非に及ばずとして出陣した。」【三河物語】

家康は鳥居忠広に偵察に行かせるが、鳥居忠広は武田は大軍で何段にも備えており、徳川の先陣に引き上げるよう伝えると、家康は大勢の軍を見て腰が抜けたのかと大いに立腹した。【松平記】

家康(兵数10,000)は家臣の反対を押し切り浜松城から出陣する。武田軍は魚鱗の陣で待ち受け、徳川軍は鶴翼の陣を敷く。【三河物語】

申の刻(16時頃)、信玄は先陣の小山田信茂へ合戦開始を命じる。
武田軍は水役者という投石隊300名が投石攻撃を行い、襲いかかる。織田・徳川軍の一番合戦は平手汎秀、成瀬藤蔵、家康の旗本衆であった。【甲陽軍鑑】【信長公記】

家康の旗本が山県昌景を攻撃、三町(約330m)後退させられる。その後酒井忠次も山県昌景を攻撃。 武田軍は石川数正の攻撃により小山田隊・山家三方衆が三町(約330m)後退するが、馬場信春が反撃して勝利する。

山県隊は崩れていたが勝頼隊が横から攻めかかって徳川軍を押し返し、また信玄は小荷駄奉行の甘利隊も酒井隊へ攻撃させ、武田軍の勝利となる。【甲陽軍鑑】【校訂松平記】

武田軍は敗走する徳川軍を追撃するが、犀ヶ崖付近で大久保忠世、本多忠勝、榊原康政らが食い止め家康は浜松城へ入る。
※【武徳大成記】では、大久保忠世が犀ヶ崖に軍旗を立てて敗兵を集めていると、大将がいると思った武田の兵が争い進んで崖から落ちたと記載。

家康は鳥居元忠に浜松城の玄黙口(北側の大手門)を守るよう命じ、渡辺守綱らが討って出て武田軍を退かせる。夜には篝火を焚いて守りを固める。【武徳大成記】【松平記】
※【三河後風土記】【四戦紀聞 遠州味方原戦記】には、家康が鳥居元忠に玄黙口を開けて遅れた味方を入れるよう命じ、山県・馬場隊は玄黙口が開いているのを見て謀り事かと留まっている間に、鳥居元忠らが攻撃する内容が記載。

 

【三河物語】【甲陽軍鑑】の三方ヶ原の戦いを開く(別ページ)

 

【信長公記】
「家康公は陣の中央を切り破られ、軍勢の中へ乱れ入り、左へ逃れ、三方ヶ原の岸の道を一騎で退かれたのを、敵は先に待ち受け道を遮った。家康公は馬上から弓で射倒し、駆け抜け、御通りされた。これに限らず、弓の御手柄は今に始まったことではない。」

 

三方ヶ原の合戦後、武田軍は浜松城へ押し寄せ、犀ヶ崖に陣を張る。信玄が首実検を行う。

高坂昌信(春日虎綱)が信玄へ、浜松城の落城は30日でも難しいこと、織田から数万の大軍が来ること、上杉謙信も信濃へ攻め込むのは間違いないので深追いしないようにと提言する。【甲陽軍鑑】

12月22日夜、浜松城の酒井忠次と石川数正が忍びの者を出して武田の陣へ夜襲の準備を始める。
武田軍は脇備えを前に出し、各隊ごとに捨て篝(陣から離れた場所に焚く篝火)と本篝を焚いて備え、徳川軍の出陣を防ぐ。【甲陽軍鑑】

その後、徳川軍の大久保忠世が諸隊から鉄砲を集め、鉄砲100挺で犀ヶ崖の武田陣を攻撃する。【三河物語】
※【甲陽軍鑑】には「大久保七郎右衛門と云う者、てっぽう衆をつれて出て、うち射たると申し候」と記載。

 

12月23日、武田軍が浜松から三方ヶ原へ陣を移す。
12月24日、武田軍が(三方ヶ原の北西にある)刑部へ移動して陣を張り、越年する。(滞陣は翌年1月7日まで)【甲陽軍鑑】

 

12月28日、朝倉義景から使者が来る。信玄は戦勝報告と朝倉軍が越前へ引き上げたことを非難する。
「噂で聞いたところでは、そちらの衆は過半が帰国したと聞き驚きました。兵を労わるのはもちろんですが、しかしこの信長滅亡の時期が到来しているところ、今寛大な備えでは労多くして功なしでしょうか、ご判断を誤られないように。」【伊能文書】

 

<北条家>

永禄13年(1570年)3月、上杉家と同盟の条件について交渉が続いており、再度北条家と上杉輝虎との間で血判起請文が交わされる。(ただ互いに行動を非難し合っており、関係は良くなかった。)
4月10日に氏康の七男 三郎が輝虎のいる沼田城へ入り、輝虎とともに越後へ入る。三郎は謙信より景虎の名を与えられ、上杉景虎と名乗る。

永禄13年4月、北条氏政が兵38,000で武田が占拠していた駿河 深沢城を攻撃する。
城を占領して城代に北条綱成を置く。

 

永禄13年(1570年)4月、昨年の駿河掛川城の開城後、伊豆へ入っていた今川氏真の妻 早川殿(氏康の娘)が小田原に到着。氏康は西にある早川の地(伊勢宗瑞の息子 北条幻庵の知行地)に屋敷を用意する。
8月頃、氏真も伊豆から早川へ移り居住する。

元亀1年6月、越相同盟の条件に従い、流浪していた足利義氏が古河城へ帰還する。

 

元亀1年(1570年)9月、武田信玄が兵23,000で伊豆へ侵攻、北条領の韮山で苅田を行う。

これに対し北条氏政が兵38,000で三島方面へ進軍。
武田方も馬場信春・山県昌景・小幡信貞・真田昌幸・小山田信茂・内藤昌豊ら大軍で三島へ進軍する。
その後北条軍は夜に紛れて撤退する。【甲陽軍鑑】

元亀1年10月20日、結城晴朝が常陸 小田領へ侵攻。これに対し小田氏治も出陣、新治郡平塚原で合戦となる。小田軍は夜襲攻撃を行い、勝利する。(平塚原の戦い)

 

元亀2年(1571年)1月3日、昨年末より武田軍が北条の深沢城(城主 北条綱成)を攻撃。武田信玄は甲斐国内の黒川金山の金山衆を動員させて本丸へ坑道を掘らせ、北条綱成が降伏する。
(北条綱成は北条家に帰参するが、深沢城は以降武田の拠点となる)

元亀2年10月3日、北条氏康が病死する(57歳)。次男 氏政が家督を継ぐ。(氏政は永禄2年(1559年)に形式上の当主となっている)

北条氏政は機能しなかった上杉家との越相同盟を破棄、攻勢を強める武田家と再び甲相同盟を結ぶ。
武田家との領土割譲は、駿河の興国寺城は武田領となり(戸倉城・大平城は北条領)、武蔵北端にある御嶽城は北条領となる。※駿河国は武田領と決まったことから、本来駿河国の東端にある戸倉城・大平城は伊豆国の扱いとされた。
(同盟関係は天正6年(1578年)の御館の乱で武田勝頼が上杉景勝につくまで続く。)

 

元亀3年(1572年)5月、今川家滅亡以来、小田原の早川に居住している今川氏真が、小田原郊外の久翁寺で今川義元の13回忌を行う。

元亀3年10月、武田信玄の西上作戦に合わせて、北条からも援軍の兵2,000を派遣する。

元亀3年12月、北条軍が上杉方の下野 栗橋城を攻撃、占領する。その後12月29日、救援に来た佐竹軍と多功原で交戦し、敗北する。

 

<上杉家>

永禄13年(1570年)3月、北条家と同盟の条件について交渉が続いており、再度北条家と上杉輝虎との間で血判起請文が交わされる。(ただ互いに行動を非難し合っており、関係は良くなかった。)
4月10日に北条氏康の七男 三郎が輝虎のいる沼田城へ入り、輝虎は三郎を連れ越後へ帰還する。謙信は三郎に景虎の名を与え、上杉景虎と名乗らせる。

元亀1年6月、越相同盟の条件に従い、流浪していた足利義氏が古河城へ帰還する。

元亀1年(1570年)9月~12月、第十回関東遠征。輝虎が武田の上野 和田城(城主 高崎城)を攻撃する。

12月、上杉輝虎が出家して上杉謙信と改名する。

 

元亀2年(1571年)2月、上杉謙信が越中国へ進軍。一揆方に離反した椎名康胤の松倉城や富山城、新庄城、守山城を攻撃、占領する。

元亀2年10月3日、小田原で北条氏康が病死する(57歳)。

北条氏康の病没後、北条氏政は援軍を出さなかった上杉家との越相同盟を破棄する。
これに謙信は北条家へ抗議の手紙を送る。また武田信玄へ和睦を伝えるが拒否される。
北条家との同盟は破棄となったが、北条家から預かった上杉景虎は戻さずに上杉家で預かる。

 

元亀2年11月~元亀3年(1572年)4月、第十一回関東遠征。上杉謙信は厩橋城で越年する。

元亀3年閏1月、謙信は厩橋城西側の石倉城を攻略後、武田信玄が救援に進軍する。利根川を挟んで上杉軍と武田軍が対陣するが、双方退却する。(第一次利根川の対陣)
その後武田方の上野 倉賀野城を攻撃する。

 

元亀3年(1572年)5月、加賀一向一揆が謙信に対して挙兵、越中一向一揆も蜂起し、加賀・越中連合の一揆勢30,000が富山城を攻撃、占領される。
一揆勢は攻勢を続け、越中の西部から中部へ進軍する。

8月10日、謙信が越中へ向け出陣。9月初旬に尻垂坂で加賀越中一向一揆と交戦して大勝、10月1日に富山城を奪還する。(尻垂坂の戦い)

11月、武田信玄の西上作戦により、武田と対立した織田信長が上杉家へ協力を依頼、濃越同盟を結ぶ。織田側のみが人質(信長の息子)を出す同盟となる。
(濃越同盟は天正4年(1576年)に謙信が本願寺顕如と同盟を結んだことで解消となる)

 

 

<南部家>

元亀1年(1570年)、当主 南部晴政に男児の晴継が誕生する。養子で跡継ぎの予定だった信直(石川高信の子)との間に確執が生じる。
南部晴政と津軽の石川家が対立して内部抗争が起きる。

元亀2年(1571年)5月5日、南部氏族の大浦為信(後の津軽為信)が謀反を起こし、和徳城(城主 小山内讃岐)を攻撃、占領される。
また石川城を攻撃して城主 石川高信(南部信直の父)が討ち取られる。※生き延びたとの記録もあり。

その後も大浦為信は津軽地方の諸城を攻撃する。

元亀3年(1572年)、南部晴政が川守田村の毘沙門堂へ参拝した信直を襲撃。信直は鉄砲で応戦、晴政を落馬させ逃れる。
南部信直は南部家臣の北信愛(剣吉城)や八戸政栄(根城)を頼る。

 

 

<伊達家>

元亀1年(1570年)4月、当主伊達輝宗に不満があり、家中の実権を握る中野宗時・牧野久仲父子の小松城を伊達輝宗が攻撃、中野父子を追放する。

元亀1年、相馬氏が伊達稙宗の隠居領へ侵攻、丸森城を奪われる。

 

 

<最上家>

元亀1年(1570年)頃、最上義守と嫡男 義光が対立。最上義守が隠居して最上義光が家督を継ぐ(25歳)。
※最上義光の家督相続は永禄4年(1561年)から翌5年(1562年)に行われたとの説もあり。

(最上義光の実質的な支配地域は山形城、長谷堂城であり、その他の最上郡・村山郡は天童・延沢・楯岡氏などの国衆連合 最上八楯が最上義光と対立していた。)

 

 

<三好家>

元亀1年(1570年)7月、三好康長と三好三人衆が四国阿波から摂津へ上陸。野田・福島の砦を城へ拡張し、占拠する。これにより第一次石山合戦が始まる。
9月23日、織田信長と和睦、休戦となる。

元亀3年(1572年)3月、三好家・本願寺が正式に信長と和睦する。

元亀3年頃、大和の松永久秀が三好義継とともに離反、信長包囲網に加担する。

 

 

<毛利家>

永禄13年(1570年)1月、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは尼子再興軍の鎮圧へ出陣する。
2月14日、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景(兵数25,000)は布部山にて尼子再興軍(兵数7,000)と交戦、毛利軍が大勝する。
敗れた山中幸盛は織田信長の援助を受けるため京都へ向かう。

毛利軍は尼子再興軍に占領されていた城を次々に奪還する。
しかし吉田郡山城で元就が病気になり各将が帰国すると、再び再興軍が挙兵、島根半島を制圧する。再度毛利軍は鎮圧に向かう。

 

10月、昨年から美作の三浦氏・尼子再興軍が攻撃していた高田城が落城、奪われる。城主に三浦貞広(一昨年高田城の落城で自害した三浦貞盛の甥)が入る。

元亀1年(1570年)、能島村上水軍が大友方につく。(1573年に再び毛利方につく)

元亀1年(1570年)、尼子方につく宇喜多直家・浦上宗景が備中へ侵攻。幸山城など備中南東部を制圧される。

 

元亀2年(1571年)2月、毛利元清(元就の四男)と三村元親が宇喜多軍に奪われた備中松山城を攻撃、奪還する。毛利輝元も加わり、備中から宇喜多軍を撤退させる。

元亀2年6月、毛利元就が死去(75歳)。嫡孫の輝元(19歳)が家督を継ぐ。(永禄6年(1563年)に元就の嫡男 隆元が死去、輝元が形式上の当主となっていた)

吉川元春は出雲の高瀬城攻撃後に元就の訃報を聞く。7月、吉川元春は尼子再興軍が籠る伯耆の八橋城、末吉城を攻撃、占領する。

また尼子再興軍の拠点である新山城を落城させ、出雲・伯耆を平定させる。尼子勝久は落城前に脱出、山中幸盛は吉川元春に捕らえられるが隙をつき脱出する。

 

元亀3年(1572年)10月、浦上宗景(宇喜多家含む)が足利義昭・織田信長に仲介を依頼、これにより毛利家と浦上家・宇喜多家の和睦が成立する。

 

 

<宇喜多家>

永禄13年(1570年)、三村氏との合戦で降伏させた石山城(岡山城)の金光宗高が毛利と内通したとして、切腹させる。

元亀1年(1570年)、尼子を支援する宇喜多直家・浦上宗景が備中の毛利領へ侵攻。幸山城など備中南東部を制圧する。

 

元亀2年(1571年)2月、毛利元清(元就の四男)と三村元親が宇喜多軍に奪われた備中松山城を攻撃、奪還される。毛利輝元も参戦し、宇喜多軍は備中から撤退する。

元亀2年(1571年)9月、毛利・田村軍が宇喜多領の備中 佐井田城を攻撃するが、撃退する。

元亀3年(1572年)10月、毛利軍が東へ侵攻してきたため、浦上宗景(宇喜多家含む)が足利義昭・織田信長に仲介を依頼、これにより毛利家と和睦する。

 

 

<長宗我部家>

元亀3年(1572年)頃、土佐西部の一条氏(摂関家一門)へ調略をかける。一条氏家臣の土居宗珊へ調略をかけ、それを疑った一条兼定(土佐一条氏5代目)が土居宗珊を処刑する。
これにより一条兼定は家臣から隠居を強制される。

 

 

<大友家>

永禄13年(1570年)3月、今山の戦い。毛利との戦いが集結した大友宗麟は、毛利方についた龍造寺を攻撃する。
大友軍には有馬氏、大村氏、西郷氏、平井氏、後藤氏も加わり大軍となる。

大友宗麟の弟 大友親貞が大軍(兵数30,000)で肥前 佐嘉城(兵数3,000)を包囲。大友宗麟は後方の高良山に布陣する。
8月20日未明、鍋島直茂が大友軍の背後にまわり夜襲をかけ、今山に布陣する総大将 大友親貞が討ち取られる。
9月末、龍造寺から和睦提案があり、龍造寺信周を人質として講和する。

 

元亀2年(1571年)、戸次鑑連が立花家の名跡を継承、立花山城主となる。(出家して道雪と名乗るのは天正3年(1575年))
戸次鑑連は2年前に高橋家を継承した高橋鎮種(紹運)とともに筑前国を治める。

元亀2年(1571年)6月、安芸の毛利元就が死去(75歳)。

元亀3年(1572年)、筑前 柑子岳城主の臼杵鎮氏が、今津毘沙門天を参拝する高祖山城主 原田隆種(了栄)を待ち伏せして襲撃するが失敗、その後原田隆種と交戦し臼杵鎮氏は自害する。(以前から原田氏と臼杵氏は対立していた)
大友宗麟は柑子岳城主に木付鑑実を置く。

 

 

<龍造寺家>

永禄13年(1570年)3月、今山の戦い
大友宗麟の弟 大友親貞が大軍(兵数30,000)で龍造寺の佐嘉城(兵数3,000)を包囲。 8月20日未明、鍋島直茂が背後にまわり夜襲をかけ今山に布陣する総大将 大友親貞を討ち取る。
9月末、龍造寺隆信が和睦を申し入れ、龍造寺信周を人質に差し出し終戦となる。

 

元亀2年(1571年)、昨年の大友軍による肥前侵攻の際、大友方についた勢福寺城の江上武種を攻撃、翌年に攻略する。

元亀2年、龍造寺隆信が三瀬城の神代長良へ鍋島直茂を使者として派遣、和睦する。神代長良は龍造寺配下となる。

 

 

<伊東家>

元亀2年(1571年)1月、伊東・肝付・禰寝・伊地知の四家の水軍が桜島を攻撃。内城近くの竜ヶ水で島津軍に敗北する。

元亀3年(1572年)5月、島津に奪われた日向 真幸院奪還のため、伊東祐安(兵数3,000)が小林城(三ノ山城)から出陣。
しかし島津軍の伏兵攻撃に合い、木崎原の戦いで敗北する。※詳細は島津家を参照。

この戦いで伊東軍は伊東祐安、伊東祐信ら5名の大将、殿軍となった落合兼置、米良重方、また多くの国衆が討ち取られる。領内の国衆も島津方につくなど国力が弱まるきっかけとなる。

 

 

<島津家>

永禄13年(1570年)、島津貴久が甑島の小川氏の所領を安堵する。

永禄13年1月、薩摩 清色城の入来院氏、同族の東郷氏を降伏させる。これにより出水の島津薩州家を含め薩摩国を統一する。

元亀2年(1571年)1月、伊東・肝付・禰寝・伊地知の四家の水軍が桜島を攻撃。内城近くの竜ヶ水で島津軍が撃退する。

6月23日、島津貴久が、肝付氏との戦いの最中に加世田で死去(58歳)。

 

元亀3年(1572年)5月、木崎原の戦い
5月3日深夜、伊東家臣の伊東祐安(兵数3,000)が小林城(三ノ山城)から島津方の加久藤城攻撃のため出陣する。

伊東軍は二手に分かれ、別動隊の伊東祐信(兵数2,000)が加久藤城(兵数50)へ進軍。
飯野城の島津義弘(兵数300)は事前に忍び込ませた女間者より情報を得ており、伊東軍を動きを受け出陣、飯野城と加久藤城の間の二八坂に布陣する。また兵300を分け、加久藤城攻撃に合わせた伏兵を配置する。

伊東祐信が加久藤城を攻撃開始。そこへ島津の伏兵攻撃が行われ、混乱した伊東祐信は攻撃を中止、城を離脱する。

その頃、伊東の援軍として相良軍(兵数500)が堀切峠を南下しようとするが、待機していたわずかの島津兵が旗を50本立て鉄砲を打ち鳴らすと、警戒した相良軍は撤退する。

伊東祐信の軍は池島川で休息を取っているところを、島津義弘が攻撃。島津義弘と伊東祐信が一騎打ちとなり、伊東祐信を討ち取る。

敗戦を見て伊東祐安の本隊が別動隊と合流。
翌朝、伊東祐安は撤退を開始するが、島津義弘が指示しておいた退路にある白鳥神社の座主・光巌上人が僧侶・農民300名で太鼓を鳴らして旗を立て、伊東軍を警戒させる。

それを見て引き返す伊東軍に島津義弘隊が突撃、兵の少ない島津義弘は敗走して木崎原へ移動、そこへ島津の伏兵が追撃してきた伊東軍を攻撃する。
この攻撃で総大将の伊東祐安を討ち取り、島津軍の勝利となる。(島津義弘も兵300のうち257名が討死となる)

この戦いで伊東軍は伊東祐安、伊東祐信ら5名の大将と多くの国衆が討ち取られる。領内の国衆も島津方につくなど国力が弱まるきっかけとなる。

 

元亀3年(1572年)9月、島津歳久が桜島の東対岸にある伊地知氏の小浜城を攻略。