1582年(後半) 東国 天正壬午の乱
天正壬午の乱(天正10年6月~10月)
信長の死後、空白となった旧武田領を狙い北条、上杉、徳川が争う。
※参考文献:『天正壬午の乱』平山 優 (著) 戎光祥出版、『歴史人 関東戦国争乱 2016年3月号』ベストセラーズ 80P
<徳川家>
天正10年(1582年)6月4日、徳川家康一行が伊賀越えを終え、三河大浜へ到着、深溝城の松平家忠が出迎える。その後、家康は岡崎城へ入る。
<以下、主に【家忠日記】に沿った時系列>
6月5日、深溝城の松平家忠に出陣準備が命じられる。伊勢・尾張の織田家から家康へ使者が来て、味方の確認をする。
6月5日、家康は遠江で匿っていた旧武田家臣の折井次昌・米倉忠継に、甲斐へ入り旧武田の武士を徳川につかせる工作を命じる。
6月6日、雨、松平家忠は一日待機。6月8日に東三河衆が岡崎へ到着すると伝わる。
6月6日、家康が武田旧臣の岡部正綱へ、甲斐へ入り穴山梅雪の領地を押さえ、菅沼城の普請を命じる。「下山へ移り、城を見立てて普請すべきである。」【寛永諸家系図伝】
6月7日、刈谷城主の水野忠重が京で討死との報せが届く(誤報)。 6月8日、去る5日大坂で織田信澄が切腹したと報せが届く。
6月9日、雨、家康が出陣を延期する。二条新御所から脱出して身を潜めていた水野忠重が岡崎へ帰還する。
6月10日、甲斐に留まっている織田家の河尻秀隆へ美濃に戻るよう伝えるため、使者 本多信俊を派遣する。【当代記】
6月10日、松平家忠に出陣は12日と伝わる。
6月11日、雨、出陣は14日まで延期となる。
6月12日、雨。
家康が甲賀の和田定教へ、伊賀越えの際に人質を出したことを褒め、身上を保証する起請文を送る。【6月12日付家康書状 和田文書】 ※家康は伊賀の喜多村出羽守にも感状を出しており、支援をした人物にそれぞれ感状を送ったと思われる。
6月13日、雨、松平家忠が岡崎城へ向かう。
6月14日、河尻秀隆のもとへ送った本多信俊が殺害される。
本多信俊は一揆が起きれば援軍を出すことを河尻秀隆に伝えるが、河尻秀隆は本多信俊が一揆を煽動して自分を討とうとしていると疑い、本多信俊をもてなした後の就寝中に長刀で突き殺した。【三河物語】
6月14日、家康・酒井忠次・本多忠勝・石川数正らが岡崎城を出陣、鳴海へ着陣する。
家康が美濃の織田家臣 吉村氏吉へ書状を送り、協力と人質提出を要請する。
「この度京都の様体、是非のない事です。それについて上様の御弔いとして我らは上洛します。そのようなことで今日十四日鳴海に至り出馬しました。然らばこの節に御尽力されることを水野長勝が口上しました。ますます喜ばしいことです。成就すれば本望です。」【6月14日付家康書状 吉村家文書】
美濃衆の佐藤六左衛門へも協力を要請する。
「仰るように、今度京都の成り行きは是非のない次第です。しかしながら若君様(三法師)がいらっしゃるので供奉致し、上洛し、かの逆心の明智を討ち果たす覚悟にて、今日十四日鳴海に出馬しました。殊にその地の日根野弘就、金森長近と相談されたこと、ますます専念してください。」【家康書状写 大日本史料】
伊賀者が家康のお供に参上する。
「六月十四日、家康が鳴海にて京都へ出発する時、伊賀者が鳴海に御出迎えして御供すべく申し上げた処、感激され、十五日に残らず御家に召し抱えられた。」【伊賀者由緒書】
6月15日、(織田信孝の)伊勢神戸家から、京都にて信孝・丹羽長秀・池田恒興が明智を討ち取ったと報せが入る。
6月17日、酒井忠次隊が津島へ進軍する。
6月19日、秀吉から上方を平定したので早々に帰陣されよとの書状が届く。津島の軍が鳴海へ引き返す。
6月21日、家康、遠江衆、東三河衆が帰陣する。
天正壬午の乱 甲斐では6月18日に河尻秀隆が一揆に殺害される。一揆は北条方だったため、家康は穴山家来に命じて一揆を鎮圧させる。 6月22日、家康が甲斐の一揆を鎮圧した穴山家来の有泉大学助の戦功を称える。 6月下旬、武田討伐後に木曽義昌に与えられた深志城(松本城)を、上杉景勝が小笠原洞雪斎(小笠原貞慶の叔父)に攻撃させ、占領する。
6月27日、酒井忠次が信濃 伊那郡へ侵攻開始。伊那郡の下条頼安が徳川方につく。 7月2日、家康が浜松城を出陣する。 7月、家康は織田政権(信雄・信孝)に旧織田領へ侵攻するための同意を求める。
7月、酒井忠次が北上するが、北条方についた諏訪郡の高島城 諏訪頼忠を調略できず、進軍できなくなる。 7月中旬、徳川が支援する小笠原貞慶が、上杉方となっていた深志城を攻撃、府中小笠原氏の本拠を奪還する。 小笠原貞慶は家康に長男の貞政 (小笠原秀政) を人質として差し出し、貞政は石川数正に預けられる。※後の石川数正出奔時に小笠原父子も同行することになる。
7月19日頃、千曲川で上杉と対峙していた北条軍(兵数43,000)が上杉軍と停戦。7月29日、北条軍が甲斐方面へ進軍する。 佐久郡で唯一徳川方の国衆 依田信蕃は春日の三沢小屋砦に籠城する。 高島城 諏訪頼忠、保科正直、内藤昌月らの旧武田家臣は北条方となり、北条氏直が南下したため酒井忠次・大久保忠世ら徳川七手衆は甲斐へ、奥平信昌・下条頼安らは伊那郡 飯田城へ撤退する。 8月1日、徳川七手衆が北条軍の追撃を逃れ甲斐へ撤退する。
8月7日、北条氏直本隊が甲斐へ侵攻、若神子城に陣を構える。 8月12日、鳥居元忠(兵数2,000)が背後から侵攻してきた別動隊 北条氏忠(兵数10,000)と合戦。兵力が分散していた北条軍を攻撃、勝利する(黒駒の戦い)。 家康は討ち取った首500を槍に刺し、物見場へ並べて北条軍へさらし首とした。【三河物語】 8月28日、若神子城南の北条の兵糧庫である大豆生田砦を落とす。 9月、依田信蕃が北条についた真田昌幸に、領土の安堵を条件に徳川方に寝返らせる。 9月13日、家康が宇都宮国綱へ、織田政権から援軍として秀吉・丹羽長秀・柴田勝家が来ることを伝える。(その後秀吉と柴田勝家の対立により派兵はなくなる。)
10月、佐久郡で徳川が優勢となる。徳川軍、真田昌幸、依田信蕃が佐久郡の内山城や岩村田城、碓氷峠を占領、北条本隊の補給路を断つ。 10月15日、京では秀吉により信長の葬儀が行われる。しかし織田信雄・信孝・柴田勝家は参列せず秀吉と対立が深まる。 10月28日、織田政権(信雄・信孝)から北条家と講和するよう指示を受ける。【水谷勝俊宛 家康書状 譜牒余録】 10月29日、北条家と講和が成立する。 講和条件として、信濃・甲斐は徳川領、上野は北条領(真田の沼田領は切り取り次第)とし、家康の次女 督姫を北条氏直に婚約させて同盟を結ぶ。 |
和睦後も信濃では交戦が続き、12月、酒井忠次が北条方の高島城の諏訪頼忠を降伏させる。(諏訪頼忠は徳川家臣となる)
<北条家>
天正10年(1582年)6月11日、本能寺の変の報せを知った北条氏政が滝川一益へ、遠江より京都の様子が連続で報せが入っているが、北条には毛頭疑心はないこと、協力することを伝える。【戦国遺文後北条氏編】
6月12日、当主 北条氏直が領国から軍勢を召集する。
6月15日、北条氏政が甲斐南部 忍野村の渡邊庄左衛門へ、甲斐 都留郡へ早々に移り、武田旧臣や因縁のある者を集め北条方へ決起するよう促す。
天正壬午の乱 天正10年(1582年)6月16日、滝川一益に宣戦布告する。 6月18日、先手の北条氏邦が上野へ進軍。金窪原で滝川軍と交戦し敗北する。 6月19日、北条氏直(兵数50,000)が厩橋城から迎撃に出た滝川一益(兵数18,000)を攻撃、勝利する(神流川の戦い)。追撃により滝川隊を壊滅させる。(滝川一益は本拠の伊勢長島まで撤退する。) 元厩橋城主の北条高広を北条に服属させ、また安中、一宮、箕輪、国峰領も北条家に従属する。 滝川一益傘下に入っていた金山城の由良国繁、館林城の長尾顕長は再び北条方につく。 6月下旬、武田討伐後に木曽義昌に与えられた深志城(松本城)を、上杉景勝が小笠原洞雪斎(小笠原貞慶の叔父)に攻撃させ、占領する。
7月2日、家康が浜松城を出陣する。
7月9日、真田昌幸が北条方につく。 7月13日、木曾義昌から北条に従属すると伝えられる。 7月14日、氏直軍(兵数43,000)が川中島の千曲川で上杉景勝軍(兵数8,000)と対峙する。上杉方の海津城主 春日信達(高坂昌信の次男)が内通して寝返る計画だったが上杉方に露見し、春日信達は処刑されてしまう。 7月中旬、小笠原洞雪斎が占領した深志城を、徳川の支援を受けた小笠原貞慶が奪う。 7月29日、氏直は北信濃攻略を諦め、真田昌幸・松田憲秀に殿軍を任せて甲斐方面へ進軍する。
8月7日、氏直本隊が甲斐に入り、若神子に本陣を置く。新府城の徳川軍(兵数8,000)と対峙する。 8月12日、北条氏忠(氏康の六男)が兵力を分散していたところを徳川軍の鳥居元忠(兵数2,000)に攻撃され、敗北する。(黒駒の戦い) この敗北により、北条方となり高遠城を奪っていた保科正直が徳川方につく。(保科正直の弟 内藤昌月は甲斐へ移動しており北条方として残る) また8月22日、織田政権が木曽郡の木曽義昌の要請を受け入れ、領地安堵と派兵を認める。これにより木曽義昌が徳川方につく。 8月28日、若神子城南の兵糧庫としていた大豆生田砦が徳川軍に落とされる。
9月、若神子城北東の獅子吼城が徳川軍に落とされる。 9月、依田信蕃が北条方の真田昌幸を調略し、徳川方へ寝返らせる。 9月、家康の呼びかけにより、佐竹義重・宇都宮国綱が北条方の館林城を攻撃する。さらに古河領も侵攻される。 9月25日、氏政が小田原から出陣、武田攻め後の知行割で徳川領となった沼津城(三枚橋城)を攻撃するが、敗北する。
10月、徳川軍、真田昌幸、依田信蕃が佐久郡の内山城や岩村田城、碓氷峠を占領、補給路を断たれる。 10月29日、織田信雄・信孝より和睦するよう家康へ勧告があり、家康と講和が成立する。 講和条件として、信濃・甲斐は徳川領、上野は北条領(真田の沼田領は切り取り次第)とし、家康の次女 督姫と北条氏直を婚約させることが決まり同盟を結ぶ。 |
和睦後も信濃では交戦が続き、12月、酒井忠次が北条方の高島城の諏訪頼忠を降伏させる。(諏訪頼忠は徳川家臣となる)
12月、上野 厩橋城の北条高広が上杉方へ離反する。(翌天正11年9月、北条氏直が出陣、厩橋城を攻撃して北条高広を降伏させる。)
12月、真田領の中山城を攻略、城の拡張工事を行う。
<上杉家>
天正10年(1582年)6月3日、織田軍の攻撃により魚津城が落城する。
「魚津城を四方より攻め寄せる。城兵が話し合うには、たとえ防戦しても景勝公はすでに馬を収められ、再度の出馬も間がない。そのうえ兵糧も絶え力戦も叶わず、然る後は敵に生け捕られ武名を汚すのも口惜しい。各一同腹をかき切って名を後世に残そうと言う。 それぞれが尤もと一決し、板札に姓名を書き、耳輪に穴を空け、姓名札を結びつけてそれぞれ腹十文字にかき切って同じ枕にて死んだ。 忠死した者は中条景泰、竹俣慶綱、吉江信景、寺嶋長資、蓼沼泰重、藤丸勝俊、亀田長乗、若林家吉、石口広宗、安部政吉、吉江宗信、山本寺景長などである。」【上杉家御年譜】
6月5日、柴田勝家が宮崎城を攻略する。
6月6日、本能寺の変の報せが織田軍に伝わる。【柴田勝家書状】
春日山城へ進軍していた織田の森長可、宮崎城を攻撃後の柴田勝家は撤退を開始、危機を脱する。
6月8日、上杉景勝が家臣の色部長実へ、上方で凶事があり織田諸将は悉く敗軍になったと伝える。【上杉家御年譜】
天正10年6月9日、景勝が蘆名氏の使僧 游足庵淳相へ上方の情報を伝える。播磨・摂津の境で秀吉が対峙しているところ後詰が来て秀吉を捕らえた、救援に来た信長は敗軍し、織田信澄の心変わりにより信長は切腹した、と伝える。【平木屋文書】
(遠方のため正確な情報が伝わっていなかった)
また家臣の蓼沼藤七郎へも上方の様子は事実だと伝える。【蓼沼文書】
6月、本能寺の変後、旧武田家臣で織田傘下となっていた上野国の藤田信吉が上杉方に寝返り、沼田城(城主 滝川益重(一益の甥))を攻撃する。 しかし6月13日、滝川一益が援軍(兵数20,000)を送り敗北、藤田信吉は城を退去して越後へ入る。
春日山城の河隅忠清が信濃へ出陣した直江兼続へ書状を送る。
「一昨日、須田満親の家来が申すには、"明智の所より魚津まで使者が越し、当方に無二の尽力を申し上げると申し来られた"と承りました。
誠の事であるならば…そちらを大方仕置を命じられてすぐに馬を納められ、能登・越中両州の仕置をされるのがもっともと存じます。」【覚上公御書集 6月3日書状】【歴代古案(日付不詳)】
(6月3日の記録である場合、光秀が使者を出したのはまだ坂本城にいる5月24日頃となり謀反を決意できない信長の上洛前であること、変後に景勝は織田信澄の謀反で信長が自害したと把握していることから、この記録は日付違いが考えられている。)
天正壬午の乱 天正10年(1582年)6月中旬、景勝が北信濃の国衆へ調略を開始。 海津城(城主 春日信達)、長沼城、飯山城を支配下に置く。景勝が春日山城から出陣、川中島四郡を抑えて海津城へ入る。 6月下旬、真田昌幸が服従を申し出る。
7月9日、真田昌幸が北条方につく。 7月12日、北条軍が碓氷峠を越え信濃へ侵攻する。 7月14日、景勝は北条氏直軍と川中島の千曲川で対峙。春日信達の調略に失敗した北条氏直は上杉軍との停戦に合意。7月29日、北条軍は引き返し甲斐方面へ進軍する。 8月9日、景勝は北信濃の諸城を抑え、新発田重家の乱鎮圧へ向かう。 |
景勝は新発田城を包囲するが、新発田城周辺は湿地帯で攻撃は困難なため、退却する。
その後上方では秀吉と柴田勝家が対立、両者から協力を要請される。
<真田家>
天正壬午の乱 天正10年(1582年)6月、本能寺の変後、藤田信吉が上杉方に寝返り沼田城(城主 滝川益重(一益の甥))を攻撃するが、6月13日、滝川一益の援軍に敗れ城を退去、上杉家を頼り越後へ向かう。 沼田城は滝川一益から真田昌幸へ引き渡され、6月13日、昌幸が城を請け取る。 6月末、上杉へ服従を申し出る。 7月13日、春日信達の寝返りが上杉方に発覚し、春日信達は処刑される。その後北条軍は甲斐へ進軍する。 9月、真田昌幸は家康から領土の安泰を提案され、北条を離反する。 10月、真田昌幸は旧武田家臣 依田信蕃とともに碓氷峠を占領。信濃国に侵攻している北条軍の補給路を断つ。 |
天正10年12月、北条軍が徳川についた真田の中山城を攻略し、城を拡張する。 沼田城と岩櫃城が分断される。
<南部家>
天正10年(1582年)、当主 南部晴政が死去(66歳)。家督を継ぐ嫡男 南部晴継もその後暴漢により殺害される(13歳)。※疱瘡による病死とも言われる
南部家で後継者を選ぶ大評定が開かれ、八戸氏の八戸政栄、九戸氏の南部政実が候補となる。
しかし信直派一門の北信愛・八戸政栄により田子氏で養子の南部信直 (田子信直) が推薦され、南部信直が第26代当主として家督を継ぐ。南部信直は三戸城へ入る。
家督争いが起きている際、傘下の斯波詮直が挙兵、志和郡に侵攻して占領する。