【フロイス1582年日本年報追信】賤ヶ岳の戦い

「三七殿(織田信孝)は柴田(柴田勝家)と滝川(滝川一益)に与すれば望み通り天下の主君となることができると考え、欲に駆られて人質となっている己の母と娘、および家臣らに対する愛情を忘れ、再び羽柴(羽柴秀吉)に敵対しようとして、そのように名乗りを上げたが、美濃国では彼に与する者はほとんどいなかった。

これを知った羽柴は時を移さず手勢を整え、すでに彼の味方になっていた美濃国の大垣の城に入ったが、ここより岐阜の市へ進撃して三七殿を滅ぼす狙いであった。
そして彼は越前との国境にある諸城(賤ヶ岳)に4名の部将を多数の精鋭と共に配置した。部将は彼の兄弟になる小一郎(羽柴秀長)と柴田の養子の伊賀(柴田勝豊)、および敵方にもっとも近く配置された瀬兵衛(中川清秀)とジュスト(高山右近)であった。

5月19日(和暦では4月8日となり秀吉書状の記録と異なる)、越前の軍勢は陣営を出て、2,000余の兵を率いる瀬兵衛とジュストの許へ接近してきた。この頃、柴田はすでに数日前、越前から残りの軍勢を伴って同所に到着しており、甥の佐久間(佐久間盛政)と合流し、その兵力は15,000から16,000となっていたであろう。

瀬兵衛とジュストは協議し、ジュストは2,000の兵をもって敵と対戦するのはとても無謀であると当初から考えていたが、瀬兵衛はどうあろうと開戦すべきことを主張した。ジュストは彼に勝るとも劣らぬ勇猛な武将であり、戦においては果敢な人であったので彼の主張を受け入れ、両者の軍勢のみで越前の全軍を攻撃した。

戦闘は長時間に及び、互いに勇ましく攻め合ったが、敵は多勢であり、頻繁に新手を送り出してくるので2人の部将は疲労の末、戦いに敗れて退却した。
瀬兵衛は脆弱な己の城に逃れ、ジュストは後に多数の兵が彼に加わったとはいえ、初めは2、3名を従えるのみで、はなはだしい困難に陥っていたが、人力というよりも不思議な計らいによって生き延び、近くにあった羽柴の兄弟の城へ入った。

柴田の軍勢はただちに瀬兵衛の城を囲んで、たいした困難もなく城内に攻め入り、多数の兵もろとも彼を殺し、数人はこれを免れ逃げ延びた。
このように、その日の勝利を得、戦場を制圧したのは越前側であり、同日の戦闘においてジュストの義兄弟2人と義父、および高槻の位の高い貴人が多数死んだ。(中略)

 

右の知らせが羽柴の許に達した時、彼は美濃に在って三七殿と戦う準備をしているところであったが、顔色一つ変えず、むしろ戦においては常に勇猛なのでただちに10,000の兵を同所に留め、彼自らは残りの手勢と共に一戦を交えるための敵を求めて出陣した。

聞くところでは、2昼夜行軍して敵前に至ると彼の兄弟の城に入ったという。ここにはジュスト右近殿もいたが、羽柴は彼と多くの言葉を交わし、彼が己れに尽くすため大いなる危険に身を投じ、多数の兵士が死に至ったことについて、慈悲深い言葉と表情をもってその労をねぎらった。

彼らの第一月の21日、すなわち我らの1月1日(6月1日の誤りか)、勝利を得た地点に留まっていた越前軍は夜が明けるやいなや、当初、陣を張っていた山に退いたが、羽柴はこれを見ると急遽、6,000の兵を出陣させた。柴田の甥で主将の佐久間はこれを見たのではなはだ果敢にも彼らと戦うために引き返した。

この戦闘は凄惨なものとなり、双方ともに夜明けから正午まで戦い、槍をもって殺し合ったが、あまりの激しさに勝敗はかの時刻になるまで決しなかった。結局、羽柴の諸城から全軍が出動し、20,000の兵が一団となり、すでに疲労していた敵を激しく攻めてこれを破った。

彼らは樹木の密生する山中に逃げ込み、旗の頭が幾つか見えるほかに人影はなかった。羽柴の兵が彼らを激しく駆り立てたため、彼らは武具や剣を道に捨てざるを得ず、また衣服すらも彼らには重く、身軽になって生き延びるためこれを棄てたので、山上に突如として1,500の半裸の人々が姿を現した。

柴田は右の戦闘が始まった時、戦場には向かわなかった。というのは彼と共に1,000余の兵が久太郎殿(堀秀政)の城を囲み、その城内の兵が主君羽柴の救援に出られぬようにするため警戒していたからである。羽柴は倒すべき己の主たる敵がまだ残っていることに気づいたので、山上に逃れた者を追っていた己の軍勢に、急ぎ引き返して全軍により柴田を攻めることを命令し、その通りに実行された。

柴田は大いなる難に見舞われつつ逃走し、追手は彼の兵を多数殺したが、非常に狭い越前の道に入ったため、追跡にもかかわらず逃げ延び、はなはだ少数の兵と共に越前の主要なる市、北庄に着いた。彼はその市の城に難を逃れたが、城の屋根は全ていとも滑らかで、あたかも轆轤(ろくろ)で作ったかのように形の良い石で葺いてあった。

入城する前に追手が市の食糧と富を利用できぬようにするため放火させ、風が吹いていたのでほとんどの市が焼けた。越前国の他の軍隊も生命は助かったが武器はなく、山中で散り散りになり、兵士らは山に身を隠していたが、佐久間も彼らと共にあった。

 

6月3日(和暦4月23日)、羽柴は勝利を保ちつつ全軍をもって越前国に侵入し、柴田がわずかな手勢と共に逃げ込んだ北庄の城を包囲するに至った。

彼はすでに60歳になるが、はなはだ勇猛な武将であり、また一生を軍事に費やした人である故、広間に現れると彼に仕えていた武士たちに向かって、予がここに入るまで逃れてきたのは武運によるものであって、予が臆病なためではないが、もし予の首が敵に斬られ、予と汝らの妻子や親戚が侮辱を受けるならば、我が柴田の名と家を永久に汚すこととなる故、予はただちに切腹し、この身は敵に発見されぬよう焼かせるであろう。もし汝らに敵の赦しを得る術があるならば、その生命を永らえさせることを予は喜ぶであろう、と簡明に語った。(中略)

そして彼は数多くのご馳走を運ばせて彼ら(わずかな手勢の武士)に振舞い、酒を飲んでは楽器を演奏して歌い、大いに笑い楽しむ様はあたかも戦勝祝いか、夜を徹しての宴のようであった。

城の各部屋と広間にはすでにたくさんの藁を積み、戸や窓もことごとく堅く閉じ、城を包囲する敵に向けて城内から銃を一発も撃たなかった。城外の兵士らは内からまったく武器の音がせず、陽気な歌声が盛んに聞こえてくることに驚いた。

事ここに至って柴田は藁に火薬を撒き、家屋が燃え始めると誰よりも早く信長の姉妹で数ヶ月前に娶った妻(お市の方)とその他一族の婦人たちを殺し、続いて短刀で己れの腹を十字に切り、その場で息絶えた。他の武士および彼と共に城内にいた残る人々も皆、同様にまず己の愛する妻子を殺した。

すぐさま、前述の歌に代わってはなはだ大きな悲鳴と泣き声が聞こえ、燃え広がる炎が生ずる音よりも高く恐ろしげであった。彼らは幼い子供たちの年齢や涙を少しも顧みず、全員を殺した後、或る者は自らの手で、また或る者は互いに刺し違えた。そして、この痕跡を消すべくただちに火の手が回り、同所にあった憐れむべき亡骸を焼き尽くした。

羽柴やその他の敵に、城内で起こったことを完全に知らせるため、柴田は死ぬ前に諸人から意見を求めた上で、話術に長けた身分ある老女を選び、右の出来事のいっさいを目撃した後、城の裏門から出て敵に事の次第を詳しく語らせた。
こうして、信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人がこの地で滅び灰に帰した。(中略)

 

先に述べた柴田の軍の大将で彼の甥になる佐久間は、越前国において彼の臣下の農夫たちに混じって身を隠していたが、そのうちの一人が己の利益のため彼を敵に渡し、柴田の唯一一人いた嫡子も同様に捕らえられた。(中略)そして羽柴は都の郊外にある定まった場所において両人の首を斬らせた。

(織田信孝は)城内にいた少数の兵と共に城を発ち、所領であった美濃国を出て、羽柴の敵である滝川の傘下に入る決心をした。彼に随行した者たちは、これが有利な策とは思えず、途中で協議し、彼を殺して自分たちは羽柴を頼り、召し抱えるよう願い出るのが良いと考え、その通り実行した。かくして彼の一生は憐れにも路上に消えた。」