【イエズス会1599~1601年 日本諸国記】(2)関ヶ原の戦い

<諸奉行側の内府様に対する戦闘開始の経緯、また都の伏見城破壊について(第28章)>

内府様に背反する同盟が露顕すると、日本国中の諸侯のほとんどがそれに加わっていたので、多数の諸侯はただちに軍兵を率いて大坂の政庁に集結した。

その数はわずかの間に10万を超えた。天下すなわち君主国を構成する主要な国々のうち、内府様側に留まるのは都の伏見城のみであった。諸奉行はただちに同城を包囲して数度の攻撃を行なった。

城中の兵は果敢に防戦し、敵の多数を殺戮した。諸奉行はいっさいを焼き払い破壊しようと決意した。諸奉行はそのため、大量の材木をもって城の周囲の大きな濠を埋めた。そのため城を囲続する壮麗な家並や美しい宮殿は、すべて取り壊した。城の最初の外郭を占領すると、内部の城の周囲にかの材木をすべて集めさせた。

日本にかつてないほど豪奢で結構な太閤様の御殿があった。それは太閤様が生前に造営した最後のものであり、その内部は他のいかなるところより丹精がこめられ、余財のすべてが投入されていた。そしてまた、太閤様のあらゆる閑暇と享楽の場所でもあった。

しかし、この世の偉大なものがいかに永続することなく価値に乏しいものかを理解するには、これらのすべてが、きわめてわずかの間にあえなく灰燼に帰したのを見れば足りるであろう。外からはかのすべての材木に火が放たれ、諸邸宅の屋根にはおびただしい火前が射られたため、城はついにことごとく火焔に包まれ始めた。

もはや万策つきた城兵たちは、そこから脱け出て敵勢との一戦を決意した。もはや助かる術がないからには、可能な限り多くの敵兵を殺し、自らの命をせいぜい高価に売りつけようとした。こうして城兵らは全員野原に留まり、敵に多大の損傷を与えつつ討死した。

この城を破壊し、またそこから3里離れたところにある、さらに小さな大津の城をも陥れると、諸奉行は完全に天下の主となり、きわめて大きな権力を掌握するに至った。諸奉行は、ただちに内府様側の諸侯の他の諸城を攻囲し始めた。

そのうち伊勢の国のきわめて重要な三つの城を奪ったが、双方に多くの死者が出た。この後、諸奉行は、内府様が政庁に帰還する道筋に並ぶ重立った邸宅を占拠し、そのすべてを多数の兵士で固めた。

諸奉行の軍兵が都にあって伏見城と戦っている間、都の人々は城の近くに住んでいたため焼かれはすまいかと痛く不安と恐怖に陥っていたが、我らの主は、軍兵の多くがキリシタンであり、告白し、説教を聞き、他の者は新たに改宗したのを目されて住民たちを慰め給うた。

<内府様の軍勢が美濃の国岐阜城を奪取し、同城においてキリシタンの中納言(織田秀信)殿を捕えた次第(第29章)>

諸奉行(石田三成ら)の軍勢は、尾張の国を奪取することを企て、それに隣接する内府様(徳川家康)の伊勢、美濃両国に侵攻しつつあった。それには二つの理由があり、一つは尾張の国が内府様に味方していること、もう一つは福島殿と称する同国の領主が日本でも優れた城をそこに所有していることである。

内府様と関東の国へ出征していた諸侯は、戦闘の先陣を承りたいと申し出、内府様の将兵の一部を派遣してくれることを条件にした。全軍が尾張城(清須城)に集結して、内府様の軍が都へ向かう途上の障害をなくし、さらに敵の前進を抑制するのがその目的であった。内府様はこの進言を容れ、麾下の将兵数名とともに軍勢を進発せしめた。

それゆえ尾張の城には約30,000の兵が集結した。このなかに、内府様の諸将の他、主将として当国の領主福島殿(福島正則)、丹後の国の領主でキリシタンであるドナ・ガラシアの夫、長岡越中殿(細川忠興)、豊前の国の領主で、シメアン勘兵衛殿の子息甲斐守(黒田長政)がおり、彼らすべてが当地に集結し終えた。

内府様の軍はただ一人の首領に指揮されていたために、多数の首領に指揮されている敵側の軍勢に比較して、この戦の全過程を通じてその行動がより敏捷であった。

彼らは美濃の国の、そこから近い岐阜城を急襲しようと決意した。美濃の国は信長の孫で、22歳のキリシタンの若い領主のものであった。かの会合に参加していたこの貴公子は、尾張からの敵の急襲など考えていなかった。

内府様の大軍がもはやそこまで来ていることすら知らなかったし、諸奉行の軍勢の大多数は依然尾張の国に隣り合う伊勢の国にあって、前記3つの城を占拠していたからである。さらにこの美濃の国には、奉行の治部少輔(石田三成)が6,000ないし7,000の兵を率いて、尾張に攻め入ろうと、今か今かと待機していた。
しかし諸奉行の軍勢の動きがかくも緩慢である間に、尾張にあった内府様の軍は、岐阜城を奪取するため美濃の国に突入して来た。

内府様の軍勢が岐阜城を一望する場所に到着すると、中納言殿(織田秀信)は兵とともにこれを迎撃した。敵側には、目に入った以上の人数はいないものと考えた。中納言殿が猛攻を重ねたので、敵は徐々に後退した。

しかし敵はかねて仕掛けておいた陥穽に中納言殿を陥れ入れることに成功した。伏兵らは突如岐阜の軍勢に襲いかかった。彼らはあまりの多勢に抗し切れず、徐々に城の方へ後退した。待受ていた敵は彼らとともに城内に入り多数を殺傷した。

かくて中納言殿は危うく1つの城閣に難を避けたが、たちまち多数の敵兵に包囲され、万策尽きて降伏せざるを得なかった。敵はただちに中納言殿を尾張に送り、城内に守備兵を残し、治部少輔がいた同国内の別の城へ進軍した。

途中、治部少輔の兵2,000と遭遇し、これを殺戮した。また別の進路では新たに1,000名を殺した。この時、治部少輔の城には、すでに薩摩の国王およびドン・アゴスチイノ(小西行長)が各自若干の兵を率いて来着していた。両者は事態の推移を知り、敵軍がある河を渡るのをくいとめるために、急遽2里先へ前進した。

これを見、その旗指物を認めた敵は、あの両名は高名な武将であり、勇猛果敢に抵抗するかもしれぬと考え、河の対岸に兵を留め、あえて渡河することを控えた。

もしそれを実行に移していたなら、極めて少数であった薩摩およびドン・アゴスチイノ(小西行長)の軍勢を容易に潰走させていたであろうし、ほとんどが抵抗なく城に入れたであろう。しかし両者の武勇を知っていたのと、かかる少数の兵で対峙するからには、なにがしの陥穽が設けられているに違いないという懸念があったので渡河しないことに決したのである。

<下の各地に生じたことについて(第30章)>

当国の戦さのことが(既述の)ようなので、(黒田)甲斐守(長政)はここからただちにきわめて軽量の一船舶を、新しい事態の報告とともに国主である父(黒田)シメアン官兵衛(孝高)殿のところに遣わした。官兵衛殿は豊前の自領にいた。彼はすでに内府様方に味方すると宣言し、8,000以上の兵とともに敵側についていた豊後の国へ出陣した。

そして、そこ(豊後)へは、同時に、奉行たちが、善良な国主(大友)ドン・フランシスコ(宗麟)の息子で豊後の日国主(大友)ドン・コンスタンチイノ(吉統)を派遣していた。この(大友)ドン・コンスタンチイノは、それまでは暴君太閤様によって追放されて都にいたが、かの(豊後)国の本来の国主であるし、隣国(主、黒田)官兵衛殿に対してよりよく防衛できるであろう(と考えたのであった)。

そこでこの国主は、4,000近い兵を率いて豊後に入り、また(黒田)シュアン官兵衛殿が入ったとほぼ同時に彼らの間で戦さとなった。この戦さで豊後の国主は多数の死者を出して敗北を喫した。そして官兵衛殿は豊後の国主を生捕り、豊前に遣った。彼はその勝利に引き続き、幾多の城を征服して数カ月にして豊後の国のほぼ全土の主となった。

同じ頃、また(黒田)官兵衛殿と連合していた肥後国の半領の領主(加藤)主計殿(清正)も武器をとって豊後の地に侵入した。主計殿は肥後の残りの半分の領主(小西)ドン・アゴスチイノ(行長)の敵であることから内府様の側についていたのであった。

見つけたものは焼き払い、打ち壊し、(小西)ドン・アゴスチイノの本城であった宇土城に直進してこれを包囲した。(黒田)シメアン(官兵衛)と(加藤)主計殿、この二人の主将の戦況に接して、下の9カ国の領主たちの、或る者は一方、或る者は他方に味方し、また或る者は態度を保留したり中立の立場をとったりして派閥に分かれた。

彼らの間では、我らの主はキリシタンである有馬と大村の領主を導かれた。この二人は、家臣とともに都へ召集されながらも赴かなかったばかりか、ついには内府様側についた。これは主の大いなる御計らいであり、この二領主の領国のすべてのキリシタンの幸福と、日本におけるイエズス会の保持のためであった。

(加藤)主計殿の宇土城包囲とともに、同じく(小西)ドン・アゴスチイノの所領であった志岐と天草の島々においても大いなる叛乱があった。なぜならば、敵勢が島々に侵攻し、数カ所を焼き払い蹂躙したからである。そしてその島々はまったく無防備であったので、そこにいた司祭たちは有馬や長崎に避難せざるを得なくなった。

そしてこの間を通じ、司祭たちと、彼らが世話をした、ともにいる全てのキリシタンたちが味わった苦悩と危険ははなはだしいものがあった。(小西)ドン・アゴスチイノの主な三つの城に肥後のキリシタンたちとともにいた司祭たちは、デウスの御旨である全面的な成功のために準備して、城に閉じ籠った。

またポルトガル人の定航船も長崎港ではなはだしい困窮に陥り、商取り引きも不可能であった。けだし、この戦さで商人たちはすべて自宅に帰り、道には人が通行しなくなったからである。このため、ポルトガル人たちは2,500ピコの絹をかかえて長崎で越冬するという大いなる危険な状態にあった。

昨年にシナ(マカオ)に向かうジャンクのことで生じた損失とともに、都にいるポルトガル人たちにとっては壊滅的な打撃であった。

<内府様と諸奉行両軍間の野戦、およびその結果について(第31章)>

下の諸地方におけるこのような事態の推移の間、各自の軍勢を諸地方に分散させていた諸奉行は、その軍勢を可能な限り美濃の国に集結させようとした。その結果、80,000の兵を集めることができた。

それだけの兵力があれば、わずか数時間のうちに内府様の軍勢を撃退するに十分であったであろう。しかしながら、我らの主なるデウスは、その聖なる御摂理によって、それとは異なることを命じ給うた。

諸奉行の団結の悪さは知られていたが、彼らは30日近くもなすことなく、当時まだ3,000名(※30,000名の誤り)にも満たなかった敵兵を攻めもせずに日々を送っていた。そこで内府様は、上杉景勝との戦闘について、最良の命令を下した。すなわち、これと対抗するため、その一子を多数の兵とともに残し、自ら残りの全軍勢を率いて、配下の待つ尾張の国へ来着した。

一方、上杉景勝のような強大な敵と対峙している時に、内府様がこれを放置し、自らの目的を遂げるに十分な兵を率いて都へとって返すなど、諸奉行の側にとっては思いもよらぬことであった。結局、内府様が尾張に到着したその日、彼はいささかの遅滞もなく、味方の軍勢と合流しておよそ50,000の軍団を結成し、翌日の戦闘開始を命じた。

戦闘は、初め内府様にとって手薄な兵力で始まった。しかし、当初諸奉行の側にあった一部の諸将が、突如、内府様側につくことを宣言した。たとえば太閤様の正室の甥で、太閤様から筑前の国を与えられていた筑前の中納言殿(小早川秀秋)、その他3、4名の中程度の権力を持つ領主たちである。彼らは内府様と交戦するかわりに、武器を諸奉行側へ向けたのである。

内通の声が軍勢の中に起きると、たちまち全軍に動揺が始まり、同時に毛利殿の軍もまた戦闘を欲せず撤退した。わずかの間に諸奉行の軍は総崩れとなり、戦場の勝利は内府様のものとなった。多くの領主たちが戦死し、切腹をする者もあり、治部少輔やドン・アゴスチイノのように捕らえられる者もあった。

治部少輔は、彼自身告白したように、切腹はしなかった。ドン・アゴスチイノは大いなる勇気をもつ偉大な武士であったが、キリシタンであることと、キリストの掟が自殺を禁じているために、日本の領主のしきたりに従った切腹はしなかった。それは彼自身、後日(処刑直前に)語ったとおりである。

この甚大な壊滅状態のうちに、毛利殿の軍は領主のいる大坂城へただちに撤退した。この勝利に続き、内府様は美濃城を奪ったばかりでなく、治部少輔の所有であった近江の国佐和山城をも奪取した。そこには守将として治部少輔の兄がいた。彼はまず部下の兵に財宝を分かち与え、治部少輔の妻子、および自分自身の妻子を殺した上、城に火を放って切腹した。

内府様はそこからさらに大坂に向かい、自らの野戦軍を率いて前進した。大坂で諸奉行の首長となり、自分のかつての地位についた。彼の同じ城内に住む9ヵ国の領主毛利輝元殿は、事態を知って大いに怖れ怯えた。

毛利殿は大いなる権勢家で、日本第一の城大坂にいた。太閤様の息子である貴公子(秀頼)を擁し、日本の全大名の財宝や富、さらには内府様の財宝や富のいっさいを押さえていた。およびその諸領主から来た兵すべて40,000、さらに多年にわたる戦を支えるに十分足りる食糧、武器の備蓄も手元にあった。

しかし毛利輝元殿には最良のもの、すなわち自らを防衛する努力と意欲が欠けていた。彼はいともいやしい危惧におそわれ、戦うでもなく、自領に撤退もしなかった。これは、その気になれば何らの不安もなく実行し得たことであろう。

毛利殿は内府様と和平の協定を結ぶことも知らずまるで思慮も意見も持たぬ人のように部下全員とともに城を出て、城外に所有していた自分の御殿に入って、内府様の慈悲にすがり、いとも容易にすべてを委ねてしまった。

内府様は大坂城に入り、これを占有し、わずか数日にして日本はことごとく彼に服従した。さらに、(上杉)景勝は遠く関東の辺境でなお応戦の構えはしているものの、軍勢を率いて自領を出ることはできまいと思われる。

毛利殿と異なるのは薩摩の国王(島津義弘)の努力と勇気である。彼は自分が参加していた諸奉行の軍勢の潰走に接してわずか70名の兵とともに並々ならぬ努力をもって敵陣を中央突破した。

やがて500名に達するであろう自軍の一部と合流し、秩序整然として敵軍をものともせず大坂に撤収した。しかも内府様がそこに到着するに先んじてである。このことは、内府様のみならず、このような驚嘆すべき努力と果敢さを耳にしたすべての人々を大いに讃嘆させた。

彼は常に戦闘態勢を整えたわずかな兵とともに大坂に着くと、帰国に必要な船艇を雇い入れた。あえて彼に手出しをしようとする者もいなかった。彼は自軍全員とともに乗船し、中央には婦女子、使用人の乗った舟を、前衛と護衛には兵士の乗る舟をそれぞれ配置した。こうして大坂を出発し、自領国の首都薩摩に至る約200里を航行した。

彼はそこに防衛のため築城した。かの同盟に加入していたことで、内府様が彼の斬首を考えるという事態に備えたのである。しかしながら、ただちに和平の協定を結んだ。

かくて内府様は日本では未曾有の最大の権力者となった。ただちに毛利輝元殿から7ヵ国を、そこの銀山ともども没収し、わずかに2ヵ国のみを残し、この2ヵ国もいずれ没収するやも知れぬという含みをもたせた。内府様は己の関東8ヵ国、および太閤様の領有であったすべての諸国をおさめた。

かくて太閤様を凌いで強大化し、他の大名の畏怖を一身に集めて今日に及んでいる。内府様は欲することすべてをなし得るし、(他に)恐るべき領主なるものはいない。かつて太閤様は、内府様に対し、また毛利殿に対して、両者とも大国の主であるから、それなりの敬意を払っていた。しかし、今の内府様には、そのような敬意を払うべき相手すらもはいないのである。