1585年 – 86年 家康が秀吉に臣従
<豊臣家>
天正13年(1585年)
天正13(1585)年初頭、毛利領との国境が画定。備中南部は高梁川を国境とし、備中高松城は羽柴領、備中松山城は毛利領と決まる。
羽柴秀勝(於次丸 信長の四男)と輝元養女の縁組が成立する。
1月17日、秀吉が毛利へ伊予・土佐の割譲を決定、その旨を蜂須賀正勝・黒田官兵衛が伝える。「四国の件、夏にてだてに及ぶので伊予・土佐両国を与えると命じられた。それにつき長宗我部がいろいろと懇願しているが、容認はされない。」【小早川家文書】
3月10日、秀吉が正ニ位内大臣に叙任される。
紀伊征伐 4月22日、太田城が降伏、開城する。 羽柴秀長は藤堂高虎、筒井定次、蜂須賀正勝、小西行長とともに南紀へ進軍、湯川直春ら豪族の征伐を続ける。御坊亀山城、7月には鬼ヵ城まで平定する。湯川直春は山に篭って抵抗を続けたが和議に応じる。 この戦いで筒井定次が活躍するも、その後大和は秀長が統治することとなり、定次は伊賀へ転封(減封)される。 |
天正13(1585)年4月、大坂城の天守閣が完成する。 <【フロイス日本史】による大坂城の様子> 「8層から成り、最上階にはそれを外から囲む廻廊がある。旧城の城壁や濠は新たに構築され、宝物を蓄え、武器や兵糧を収容する多数の大いなる地下室があった…天守閣は遠くから望見できる建物で大いなる華麗さと広大さを誇示していた。」 |
4月16日、丹羽長秀が死去(51歳)。 ※【武家事紀】【秀吉譜】などでは、「平静積聚(積虫とされる)の病に苦しみ、自ら刀を取って自害した。火葬の後、石亀のごとき物が出て来て、くちばしが尖っているような形だった。秀吉は奇妙な物と言い、医者の家である竹田法印に渡した。」と記載。
6月18日、秀吉が小早川隆景へ四国分国について伝える。
「この度長宗我部元親が阿波・讃岐を返上し実子(長宗我部信親)を出して子供を大坂で奉公させるとして既に人質を受け取っているが、伊予の件、その方が望んでいるので言うまでもなく、長宗我部に人質を返した上、伊予国をその方に与え、長宗我部を許したならば土佐一国を宛がうだろう。」【小早川家文書】
四国平定 羽柴秀長を総大将とし、筒井定次・藤堂高虎・増田長盛らが阿波へ、宇喜多秀家・黒田官兵衛・蜂須賀家政・仙石秀久が讃岐へ侵攻する。 長曽我部元親は攻撃に備え、白地城へ入る。 秀長軍が四国へ上陸、三好方の土佐泊城へ入る。木津城へ攻撃を開始。 7月5日、木津城を攻略する。秀長軍は讃岐から進軍した宇喜多軍と合流、一宮城へ向かう。 7月14日、毛利軍の吉川元長が伊予 丸山城を攻略、17日に高尾城を攻略する。 7月19日頃、秀次軍が牛岐城を攻略。脇城を攻撃する。 7月25日、長宗我部元親は秀長の和睦勧告に応じて降伏。 秀吉が戦後処理(四国国分)を行う。 長宗我部元親:土佐一国 |
7月11日、秀吉が従一位関白に叙任される。
8月、秀吉が前田利家、織田信雄らと出陣。小牧長久手の戦いで徳川・織田信雄についた佐々成政を攻撃するため越中へ侵攻する。
8月26日、佐々成政が降伏する。同時に越前 金森長近に飛騨の姉小路氏へ攻撃を命じ、飛騨を平定する。
秀吉は越中東半国の新川郡を佐々成政に与え、越中の残り3郡と加賀(金沢)・能登を前田領とした。また翌年に飛騨を金森長近に与える(越前大野から転封)。
天正13(1585)年閏8月~9月、秀吉が大規模な国替えを実施する。 紀伊・和泉・大和:羽柴秀長 ※播磨・但馬から転封(加増) 淡路:脇坂安治、加藤嘉明 若狭:丹羽長重 ※越前・加賀南半国二郡を没収
備前・美作:宇喜多秀家 ※安堵 |
この国替えにより畿内は主に一門、直臣が統治することになる。
秀次には補佐役として田中吉政、山内一豊、堀尾吉晴、中村一氏、一柳直末がつく。
9月14日、秀吉が有馬温泉へ湯治に向かう。石田三成・増田長盛・大谷吉継も同行する。【宇野主水日記】
10月、長曽我部元親が上洛。大坂城で秀吉に謁見、臣従を誓う。
10月、九州の島津氏と大友氏に停戦命令を出す。(この後秀吉は大友氏を服属させ島津氏が停戦令に従わなかったことを理由に九州出兵を行う)
10月17日、秀吉が真田昌幸へ、昌幸から従属の申請を受け入れることを伝える。【真田家文書】
11月、徳川譜代家臣の石川数正が突如出奔、秀吉につく。
11月19日、秀吉は真田昌幸へ、翌年1月15日に家康討伐のため出陣すること、真田昌幸からも兵を出すよう伝える。【松丸憲正氏所蔵文書】
天正13(1585)年11月29日、天正大地震が起きる。北陸、東海、近畿で大きな被害が出る。
「11月29日子の刻、大地震があり住居が壊れんばかりに揺れ暫く止まなかった。(寺院の)祭壇や石垣の多くが崩れ、町では家屋が倒壊して死者が多数出た。丹後・若狭・越前では波が打上がり家屋を押し流し、死者の数はわからないほどだ。」【兼見卿記】
(【フロイス日本史】では美濃や伊勢での城の倒壊や地割れを記録している。)
12月10日、羽柴秀勝(信長の四男)が病死(18歳)。
天正13年、秀吉は顕如を呼び戻し、大坂城の北に天満本願寺を建設させる。
天正14年(1586年)
天正14(1586)年、里見義頼が北条から離反、秀吉に服従を申し出る。
1月9日、秀吉が上杉景勝へ、家康討伐のため2月10日に出陣すること、上杉からも兵を出すよう伝える。【出雲熊野神社文書】
2月8日、家康と和睦がまとまり、討伐中止を決定する。【一柳文書】
2月、聚楽第の建築が始まる。
「大坂城の工事に4万人以上が従事していたのと同時に、それと同じくらいの人たちが都での工事にいそしんだ。」
「強制労働の人々は遠国、僻地の者であり、莫大な経費や労苦を強いたのは、謀反や反乱を企てる機会を与えぬためである。己も家臣も滅び行くのに接し、絶望のあまり切腹して自殺する者もかなりいた。」【フロイス日本史】(要約)
2月、大坂城下で人夫への辻斬りが次々に起きる(千人斬り)。このとき大谷吉継が犯人との噂が流れる。【宇野主水日記】
3月4日、下手人の宇喜多次郎九郎ら5人が処刑となる。
4月6日、大友宗麟が上洛し秀吉に臣従する。大友領は島津の攻撃を受けていたため援軍を求める。大友宗麟は名物茶器 天下三肩衝の一つ「新田肩衝」を秀吉に献上する。
天正14年春、信濃国衆の小笠原貞慶が上洛、秀吉に謁見する。
5月4日、イエズス会日本副管区長ガスパル・コエリョが大坂城で秀吉に面会。秀吉は一行を天守閣最上階に案内する。
秀吉は日本を秀長に譲り、自身は朝鮮とシナを征服することに従事したいと宣教師に大船2船の援助を求める。征服後はシナ人をキリシタンにすること、将来は日本人の大部分がキリシタンになろうと伝える。また秀吉は宣教師の居住を自由に許可、教えを説くための特権を付与し布教に協力すると伝える。【フロイス日本史】
5月14日、秀吉は妹 朝日姫(異父妹という説も有り)を人質として家康に送る。浜松で婚礼の儀式を行い、朝日姫は家康の継室となる。
6月14日、上杉景勝が上洛、秀吉に謁見する。同時期に信濃国衆の木曽義昌も上洛、謁見する。
7月24、誠仁親王が急死(35歳)。
その後11月7日に正親町天皇が和仁親王(誠仁親王の皇子)に譲位、11月25日、後陽成天皇として即位する。
7月17日、秀吉は上洛しない真田へ家康に攻撃させることを決定する。【家忠日記】
8月3日、石田三成・増田長盛が上杉景勝へ、真田昌幸は表裏比興の者であるため成敗を加えること、家康が攻撃を行うので景勝は一切支援しないようにと伝える。【杉原謙氏所蔵文書】
8月7日、家康へ真田攻撃を延期するよう伝える。【家忠日記】
天正14(1586)年8月、九州征伐を開始。先鋒隊として毛利輝元、黒田官兵衛、吉川元春、小早川隆景らが豊前、豊後へ侵攻。
10月初旬、黒田官兵衛・毛利軍が小倉城を占領、香春岳城(城主 高橋元種)を水攻めで降伏させる。また豊前の国衆を降伏させ上毛郡、築城郡、宇佐郡を平定する。
9月、朝廷より豊臣の姓を授かり、豊臣秀吉と名乗る。
秀吉はそれまでの羽柴筑前守の称号を前田利家に譲る。
9月9日、滝川一益が越前にて死去(62歳)。
10月、水軍の脇坂安治、加藤嘉明に下関へ兵糧を輸送させる。
10月5日、石田三成・増田長盛が上杉の直江兼続へ、景勝上洛の際に真田討伐後は真田領を与えるとしたが、成敗を中止することを伝える。【覚上公御書集】
家康の上洛 岡崎城で議論を行い、家臣一同は上洛を反対するも家康は上洛を決定する。【三河物語】 10月18日、秀吉は朝日姫に続き母(大政所 74歳)を家康のもとへ送り、大政所が岡崎城へ到着する。 10月20日、家康が酒井忠次、榊原康政らと大坂へ向かう。 |
11月4日、秀吉が上杉景勝へ書状を送る。上洛の際に伝えた通り、真田・小笠原・木曽は家康に服属させること、真田討伐は景勝のために中止したこと、景勝からも真田へ赦免を伝えるようにと伝える。【上杉家文書】
11月21日、秀吉が真田昌幸へ、曲事であったが赦免するので上洛するようにと伝える。【真田家文書】
天正14(1586)年12月12日、戸次川の戦い。
長宗我部元親・仙石秀久・大友義統(兵数5,000)が海路より豊後に上陸。
秀吉は自身の出陣で島津を攻撃するため、長宗我部・仙石に府内城での籠城を指示。(秀吉は黒田・中国勢、淡路・阿波勢の兵30,000を合流させる予定だった)
しかし仙石秀久は攻撃を決定、鶴賀城へ救援に向かう。
戸次川を挟んで島津家久軍(兵数10,000)と対峙。秀吉軍は渡河中に伏兵の鉄砲攻撃を受け、大敗する。この戦いで長宗我部元親の嫡男 信親(22歳)、石谷頼辰、十河存保(33歳)と十河存之が討死する。
【フロイス日本史】戸次川の戦いを開く
天正14(1586)年12月25日、秀吉が太政大臣に叙任される。
<徳川家>
天正13(1585)年2月5日、引き続き秀吉軍に備えるため領国の百姓を動員し、吉良城(東条城)の普請を行う。その後も岡崎城、東部城の普請を行う。
8月、駿府城の普請を開始する。
天正13(1585)年閏8月2日、第一次上田合戦。鳥居元忠、大久保忠世ら(兵数7,000)が上田城の真田昌幸(兵数2,000)を攻撃。
真田昌幸が城外へ討って出た後退却、徳川軍は追撃して城内へ侵入するも伏兵攻撃を受ける。徳川軍は城から退却、砥石城から信幸の追撃を受け、神川の増水により多くの溺死者を出す。
沼田城(城主 矢沢頼綱)へは北条氏規が攻撃を行う。
その後徳川軍は支城の丸子城攻略に向かうも真田軍と交戦し落城できず。
11月に上田から撤退する。
11月、譜代家臣の石川数正が突如出奔、秀吉につく。
11月28日、秀吉から織田長益ら講和の使者が来るがまとまらず。
11月28日、家康が北条氏規へ書状を送る。
「去る二十二日の御状を拝見しました。石川数正の出奔後、こちらの処置は領内へ堅固に守るよう申し付けました。上方(秀吉)のことは、今のところ変わったことはありません。状況は安心できると思います。」【高岡市立博物館】
また家康は氏規の加勢についても感謝を述べる。
天正13(1585)年11月29日、天正大地震が起きる。
天正14(1586)年2月8日、秀吉と和睦がまとまり、秀吉は家康の討伐中止を決定する。【一柳文書】
2月26日、家康が北条氏政と対面するため駿河へ出発。
3月9日に北条領の三島、11日に徳川領の沼津で氏政と対面する。【当代記】
5月14日、秀吉から妹 朝日姫(異父妹という説も有り)が人質として送られる。浜松で婚礼の儀式を行い、家康の正室となる。
7月17日、真田攻撃のため家康が駿府へ出陣することが決まる。【家忠日記】
しかし8月7日、真田攻撃を延期するよう伝えられる。【家忠日記】
家康の上洛 岡崎城で議論を行い、酒井忠次ら家臣は上洛を反対するも家康は上洛を決定する。【三河物語】 10月18日、秀吉は朝日姫に続き母(大政所 74歳)を家康のもとへ送り、大政所が岡崎城へ到着する。 家康は大政所を任せた井伊直政と大久保忠世へ、自分に万一のことがあれば大政所に腹を切らせること、妻の朝日姫は助命して返すことを伝える。【三河物語】 10月20日、家康が酒井忠次、榊原康政らと大坂へ向かう。 11月5日、京に入り、正三位に叙任される。 |
12月4日、家康は17年間居城とした浜松城を離れ、駿府城へ移る。(駿府城は前年より今川館跡地に工事を開始)
駿府城の普請は続き、1589(天正17)年2月に松平家忠が「小天守」を普請、4月に完成となる。【家忠日記】
<北条家>
天正13(1585)年1月、北条が上野 由良氏の金山城・館林城を占領、直轄領とした。由良国繁、長尾顕長は桐生城、足利城へ移る。
1月、長尾顕長が唐沢山城の佐野宗綱と戦い、佐野宗綱は戦死。これにより唐沢山城を支配下に置く。佐野領には氏康の六男 氏忠が養子として入り、佐野氏忠として統治する。
12月、北条氏照が下野 宇都宮城を包囲するも落城できず。
天正13年、下総の千葉邦胤が家臣に暗殺され、北条氏政の七男 直重が下総 佐倉城に入り当主となる。邦胤の嫡男 重胤は人質として小田原に入る。これにより千葉氏が正式に北条の家臣となる。
天正14(1586)年3月、氏政が家康と対面。3月9日に北条領の三島、11日に徳川領の沼津で対面する。
5月、北条軍が下野 皆川城を攻撃、占領。これにより下野西部を支配下に置く。
<上杉家>
天正13(1585)年、真田家が服従し家臣となる。真田昌幸の次男 信繁を人質に取る。
8月、秀吉が越中の佐々成政を攻撃。越中を前田利家、佐々成政に与えたため、上杉軍は越中から兵を引き上げる。
閏8月、徳川軍が真田の上田城を攻撃(第一次上田合戦)。真田へ援軍を出す余力はなく、家康の侵攻に備え北信濃の諸城を普請する。
天正14(1586)年5月20日、上杉景勝が上洛のため春日山城を出発。【上杉家文書】
6月14日、景勝が上洛。大坂城で秀吉に謁見する。秀吉から黄金の茶室や天守閣を案内され、茶会が催される。
7月6日、春日山城へ帰還する。
8月3日、石田三成・増田長盛が上杉景勝へ、真田昌幸は表裏比興の者であるため成敗を加えること、家康が攻撃を行うので景勝は一切支援しないようにと伝える。【杉原謙氏所蔵文書】
10月、新発田領の新潟城、沼垂城を攻略する。
10月5日、石田三成・増田長盛が直江兼続へ、景勝上洛の際に真田討伐後は真田領を与えるとしたが、成敗を中止することを伝える。【覚上公御書集】
11月4日、秀吉より景勝へ書状が届く。上洛の際に伝えた通り、真田・小笠原・木曽は家康に服属させること、真田討伐は景勝のために中止したこと、景勝からも真田へ赦免を伝えること、また新発田の討伐に専念することを伝えられる。【上杉家文書】
新発田方の新潟衆・沼垂衆が離反、景勝につく。
<真田家>
天正13(1585)年7月、真田昌幸は家康と決別し、上杉の配下に入るため真田信繁を人質として上杉家に送る。
閏8月2日、第一次上田合戦。鳥居元忠、大久保忠世ら(兵数7,000)が上田城の真田昌幸(兵数2,000)を攻撃。
昌幸は城外へ討って出た後退却し、徳川軍を城内へ侵入させ伏兵攻撃を行う。退却する徳川軍に砥石城から真田信幸(昌幸の嫡男)が追撃を加え、神川の増水で徳川軍は多くの溺死者を出す。
徳川軍は支城の丸子城攻略を行うも防ぐ。11月、徳川軍が上田から撤退する。
上田合戦後、徳川方の祢津氏が上杉方についたため、真田昌幸が小県郡を統一する。
10月17日、秀吉が真田昌幸へ、昌幸から従属の申請を受け入れることを伝える。【真田家文書】
11月、昌幸の次男 真田信繁が秀吉に仕える。
天正14(1586)年5月頃、北条軍が沼田城を攻撃するが撃退する。【加沢記】
8月、秀吉から、上洛しなければ家康に真田を攻撃させるとの書状が届く。
8月7日、秀吉は家康へ真田攻撃を延期するよう伝える。【家忠日記】
8月27日、矢沢頼綱が北条方の中山城を攻略する。【吾妻記】
11月21日、秀吉が真田昌幸へ、曲事であったが赦免するので上洛するようにと伝える。【真田家文書】
天正14年、北条領の中山城を占領。
<伊達家>
天正13(1585)年4月、婚姻関係にあった大内定綱が蘆名方につく。
5月、伊達政宗がが南進、蘆名氏を攻撃するも敗北。
閏8月、大内領の小手森城を攻撃、城内の住民も含め800余名の撫で切りを断行。大内定綱は居城の小浜城を捨て、畠山氏の二本松城へ逃亡、その後蘆名氏に頼る。小浜城が伊達領となる。
10月、政宗は畠山氏の二本松城を攻撃、畠山義継は降伏。畠山義継は政宗の父輝宗の拉致を謀り、政宗が父もろとも畠山義継を射殺。※政宗は現場におらず射殺したのは別人という説もあり。
11月、人取橋の戦い。畠山義継の息子 国王丸が佐竹・蘆名と組み伊達家に対抗。政宗軍(8,000)と佐竹・蘆名軍(30,000)が人取橋で合戦。伊達軍は敗北、殿を務めた鬼庭良直により政宗は戦場を脱出、鬼庭良直は討死となる。
その隙に佐竹氏の常陸に里見氏らが攻撃、佐竹軍は撤退する。
天正14(1586)年4月、政宗が畠山氏の二本松城を攻撃。7月、調停により双方が和睦。二本松城は伊達領となる。
<最上家>
天正14(1586)年、庄内地方で内乱、大宝寺氏と東禅寺義長が戦闘。最上義光は東禅寺義長を支援、庄内北部の飽海郡を占領する。
<毛利家>
天正13(1585)年初頭、羽柴領との国境が画定、講和が成立する。備中南部は高梁川を境とし、備中高松城は羽柴領、備中松山城は毛利領と決まる。
1月、蜂須賀正勝・黒田官兵衛が毛利に、秀吉が紀伊と四国攻撃をすること、元親から連絡があるが秀吉は受け入れないこと、毛利に土佐と伊予を与える、と伝えられる。【小早川家文書】
天正13年、秀吉による四国平定後は伊予に小早川隆景、安国寺恵瓊らが入る。(小早川隆景は伊予の国衆 河野氏、西園寺氏と婚姻関係にあった)
11月、小早川隆景が能島水軍の村上武吉・元吉父子に、拠点である能島務司城・中途城の退去を命じる。(村上武吉・元吉は屋代島、能美島へ移り、その後小早川隆景の筑前移封とともに長門へ入る)
天正14(1586)年8月、九州征伐の先鋒隊として毛利輝元、黒田官兵衛、吉川元春、小早川隆景らが豊前、豊後へ侵攻。
10月初旬、黒田官兵衛・毛利軍が小倉城を攻略、香春岳城(城主 高橋元種)を水攻めで降伏させる。また豊前の国衆を降伏させ上毛郡、築城郡、宇佐郡を平定する。
11月15日、吉川元春が豊前小倉城で死去(57歳)。
<宇喜多家>
天正13(1585)年、宇喜多秀家が秀吉に従い、紀伊征伐、四国征伐に参加。
天正14(1586)年、秀家が九州征伐に参加。
<長宗我部家>
天正13(1585)年4月、西園寺公広を降す。
天正13年、長宗我部元親が四国を制覇。※阿波 土佐泊城、讃岐 虎丸城、伊予 湯築城は戦闘中で落城していないという説有り。参考文献:津野倫明(著) 『長宗我部元親と四国』 吉川弘文館
6月、秀吉と交渉を続け阿波・讃岐の割譲と嫡男 信親の人質を提案するが秀吉は毛利に伊予を与えることを優先。四国攻めが開始され、秀吉軍・毛利軍が四国へ侵攻する。
7月25日、元親が降伏。土佐一国を安堵、信親を人質として大坂へ送る。
10月、元親が上洛。大坂城で秀吉に謁見、臣従を誓う。
天正14(1586)年7月、秀吉が九州征伐を決定し、元親・信親に先手として出陣させる。
12月12日、戸次川の戦い。元親、仙石秀久(兵数5,000)が海路より豊後国に上陸。秀吉は長宗我部・仙石に府内での籠城を指示するが、仙石秀久は攻撃を決定。島津の攻撃を受けている大友領の鶴賀城へ救援に向かう。
戸次川を挟んで島津家久軍(兵数10,000)と対峙。渡河中に伏兵の鉄砲攻撃を受け、大敗する。この戦いで信親(22歳)、石谷頼辰、十河存保(33歳)と十河存之が討死する。
<大友家>
天正13(1585)年2月、立花道雪(戸次鑑連)・高橋紹運が龍造寺政家らと交戦を続ける。4月、龍造寺領の城島を攻撃して敗北する。
9月11日、柳川城の攻撃中に立花道雪が病死(73歳)。養子宗茂が跡を継ぐ。
9月、肥前勝尾城の筑紫広門が高橋紹運の留守をつき宝満山城を攻撃、占領する。秋月氏、原田氏も島津方につき大友領を攻撃する。
天正14(1586)年3月、筑紫広門が島津から大友につく。
4月6日、大友宗麟が上洛し大坂城で秀吉に臣従、援軍を求める。名物茶器 天下三肩衝の一つ「新田肩衝」を秀吉に献上する。
天正14(1586)年7月27日、岩屋城の戦い。北上した島津軍の攻撃を受け城主 高橋紹運が討死、落城する。立花山城では立花宗茂が島津軍へ徹底抗戦を続ける。
その後秀吉の大軍が接近、これにより島津軍は撤退する。
島津軍の撤退後、立花宗茂が高鳥居城を攻撃して占領、宝満山城、岩屋城を攻撃して奪還する。
天正14(1586)年12月、戸次川の戦い。援軍の豊臣軍とともに島津軍と戦うが大敗。
島津軍が鶴賀城を落とし府内へ侵攻、大友義統は家臣を置いて竜王城へ撤退する。
<龍造寺家>
天正14(1586)年4月13日、龍造寺政家が家臣へ、今後の政治を鍋島直茂へ任せることを伝える。【藤龍家譜】<島津家>
天正13(1585)年6月、島津義弘が肥後八代へ名代として入る。
7月、阿蘇氏の甲斐宗運が死去(77歳)。(1583年の説も有り)
閏8月、阿蘇氏が島津方の城を攻撃したため、阿蘇氏の堅志田城を攻撃、落城させる。その後甲斐氏は御船城を放棄、岩尾城の阿蘇惟光は降伏する。
これにより肥後国を平定する。
9月、筑後の大友領へ侵攻。山下城の蒲池氏が服従する。
9月、肥前勝尾城の筑紫広門が高橋紹運の留守をつき宝満山城を攻撃、占領する。秋月氏、原田氏も島津方につき大友領を攻撃する。
その後島津家では豊後への侵攻が協議される。
天正14(1586)年1月、秀吉から惣無事令(停戦命令)が届く。島津義久は軍議を行い、3月の豊後侵攻予定が延期される。
3月、筑紫広門が大友方に寝返る。秋月種実が立花山城の攻略を提案、島津本隊の出陣を求める。
5月、大坂で秀吉に面会していた鎌田政広が帰国。秀吉は九州国分を提案し、島津家は薩摩・大隅・日向・肥後半国・豊前半国と伝えられる。
義弘や家臣は豊後侵攻を提案していたが、義久は筑後侵攻を決定する。島津忠長・伊集院忠棟が先手として出陣。
6月26日、義久が出陣。
7月10日、島津忠長・伊集院忠棟が筑紫広門の本城 勝尾城を攻撃。筑紫広門は降伏する。
天正14(1586)年7月27日、岩屋城の戦い。島津忠長ら島津軍(原田氏・龍造寺・長野氏も加勢)が岩屋城(城主 高橋紹運)を包囲。総攻撃を行い、高橋紹運は討死する(39歳)。
8月6日、島津軍は宝満山城を攻略する。
天正14(1586)年8月24日、立花山城の戦い。島津忠長が立花山城(城主 立花宗茂)を攻撃中に秀吉軍の先鋒隊が接近している報告を受ける。
この時島津義久・義弘・歳久ら主力は肥後八代にいたため、島津忠長・伊集院忠棟の島津軍は立花山城の包囲を秋月種実らに任せて撤退する。
10月、義久が豊後侵攻を決定。
義弘(兵数30,000)・家久(兵数10,000)が肥後から豊後へ侵攻する。
10月14日、義久が鹿児島を出陣、日向の塩見城へ入る。日向の家久は縣から豊後へ侵攻する。
11月頃、義弘は豊後南郡へ侵攻。津賀牟礼城を攻略するが、岡城では抗戦に合い撤退する。
家久は府内占領のため北へ進軍、松尾城を拠点として諸城を攻略する。島津軍は大友宗麟が籠もる臼杵城攻撃と、鶴賀城攻撃の二手に分かれる。
12月6日頃、利光宗魚が守る鶴賀城(兵数3,000)を家久が攻撃開始。(利光宗魚は12月10日に流れ弾による戦死)
天正14(1586)年12月12日、戸次川の戦い。
長宗我部元親・仙石秀久・大友義統(兵数5,000)が海路より豊後に上陸。
秀吉は自身の出陣で島津を攻撃するため、長宗我部・仙石に府内へ入り籠城を指示。(秀吉は黒田・中国勢、淡路・阿波勢の兵30,000を合流させる予定だった)
しかし仙石秀久は攻撃を決定、鶴賀城へ救援に向かう。
戸次川を挟んで島津家久軍(兵数10,000)と対峙。秀吉軍は渡河中に伏兵の鉄砲攻撃を受け、大敗する。この戦いで長宗我部元親の嫡男 信親(22歳)、石谷頼辰、十河(三好)存保(33歳)が討死する。
その後島津軍は杵築城を攻撃するが落城せず(翌年2月に撤退)。
12月13日、家久は府内へ入り越年する。
フロイスが島津軍の人身売買を記録する。
「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、我が身を養うことすらおぼつかない状態にあったから、買いとった連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高米(島原半島)に連れて行かれた。かくて三会や島原の地では、時に四十名もが一まとめにされて売られていた。豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。」【フロイス日本史】
(人身売買・奴隷狩りは武田・上杉など関東でも記録されている)