【フロイス1582年度日本年報追信】本能寺の変
「信長はいともたやすく征服したかの国々から戻ると、新しい市、安土山を拡張することに余念がなく、日々多数の家を新築させていた。建てる家が大きく立派であればあるほど、それだけ彼に奉仕したこととなった。毛利氏に打ち勝った羽柴(秀吉)殿も邸(の建築)に取り掛かり、胸壁用の右のみで12,000または15,000クルザードをすでに費やしている。
信長は先の戦さ(武田討伐)がきわめて順調に終わったのを見て、4、5年前から始まった毛利氏との戦さをも早く終結させることを望み、これを征服するためすでに羽柴殿を派遣していた。
彼は血筋こそ下賤であったが、思慮深く戦さに熟達した人物であり、すでに毛利氏から7、8カ国を奪って出世し、その才覚ゆえにたいそう重んじられている。彼が勝利を収め、毛利氏)の領国を占領するにつれ、信長はこれを彼に与えた。
毛利氏は山口の国主であり13カ国を領有していたが、今やかなり窮迫したことを悟ったので全力を尽して死に至るまで防戦する決意をし、このために多数の兵士を集めた。
そこで羽柴殿は25,000の兵を擁しているのみであったので信長に書状を認めて援軍を求めたが、さらに30,000の兵を得れば即座に毛利氏の領国を占領し、その首を彼の許に献上するであろうから信長自身は来ぬようにと伝えた。
ところが信長は、現に都へ来たように自ら出陣することに決め、同所から堺まで行くこととし、毛利氏を征服し終えて日本の全66カ国の絶対領主となったならば、シナに渡って武力でこれを奪うため一大艦隊を準備させること、および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた。
彼は息子たちの内、名を城介殿(織田信忠)という世継ぎの長子にはすでに美濃、尾張両国と、甲斐国の王から新たに奪った4カ国を与えていた。
この人は、他の一般書簡に認められていることによれば、元来良い人物であり我らの友人である。また、お茶筅(織田信雄の幼名)と称する第二子には他の2カ国を与え、彼が安土山より都へ発つ前に第三子を4ヵ国からなる四国に遣わし、今や全日本の君主となったようにこれらの諸国を与えた。
この第三子は名を三七殿(織田信孝)と称するが、常に我らの大いなる友人であり、デウスのことに好意を寄せていた。父は出発に先立って彼に黄金で14,000または15,000クルザード、その他立派な品々を贈り、彼の兄である世子もまた多数の品々を与えた。大身たちは皆、彼の良い資質を愛していたので、またこうすることが信長への奉仕になると解していたので黄金を贈った。
彼(織田信孝)は堺の市で乗船するために、14,000名を率いて都を通過する予定であり、兵馬はまことにきらびやかで、歓喜をもって迎えるに相応しいものであったという。
彼が我らの良い友人であることに加えて、政庁内にはすでに彼の寵臣で身分の高いキリシタンが数人おり、彼の母も異教徒とはいえ息子の勧めによって我らのことに好意を寄せており、数回、我らの修道院を訪問してその意を表わしている。
司祭が彼に別れを告げるためその邸に赴いた時、彼は次の通り明言した。
“私は父の命により、かの四国の国々を攻略するため阿波に向かうが、これを平定したならばかならずや私は汝が教えを広めるためかの地へ渡ることを希望し、これがために収入を与え、他の地方から収入を受ける必要のないようにするであろう。
汝が絶えず私に期待と信頼を寄せ、このような機会を待ち望んでいたことをよく承知しているが、今や汝の望みは叶えられるのであり、私がこれを実行するのは確かなことと思われよ”と言い、この他にも同様の言葉をもって別れを告げ、我ら一同を深い敬意と親愛の情をもって遇した。
また、ロレンソ修道士に対して、かの国々において多数のキリシタンを作ることに着手するため、彼ならびに司祭一人をただちに招くであろうと語ったが、右は多くの人の面前で述べられたことである。
この信長の息子がここ都を通過した時、彼の長兄ならびに信長の義兄弟になる三河の国主(徳川家康)、その他占領したかの国々の領主たちも当地に着いたが、これは彼らに都を観せるためであった。
都では三河の国主が我らの修道院に逗留を希望するであろうとの噂が立っていたので、同地の修道院にいた修道士たちと私もそう考えて心配していたが、我らの主(なるデウス)はかかる労苦を我らに与え給わず、国主は我らの修道院の側に宿泊し、2、3日を経て信長が来る前に、堺、奈良両市を観るため立ち去った。これは以下に述べる通り、その後に起こったことに対するデウスの大いなる御摂理であった。
信長はここ都の市に到着すると、羽柴(秀吉)殿が急遽、援軍を求めてきたので多数の大身およびその兵を派遣した。その内の一人はジュスト右近殿(高山右近)で、信長が当地(京都)に着く1日、2日前に出発したが、もしそうしていなければ、彼もまた網にかかっていたであろう。
少数の兵が信長と共に当市に留まり、彼と世子は互いに3、4街離れた場所に宿泊していた。(信長が)堺へ赴くのは2、3日後と思われたが、その際、彼に随行するため同地にて待機していた大身たちもいた。
この時、安土山にはオルガンティーノ師、ジョアン・フランシスコ・ステファノーニ師、およびシメアン・ダルメイダ、ディオゴ・ペレイラ、ジェロニモ・ヴァス、日本人ヴィセンテの各修道士と神学校の少年たちがいた。
グレゴリオ・デ・セスペデス師は2、3日前、日本人修道士パウロと共に安土山から美濃国へ帰っていたし、(河内国)三ヶにはジョゼフ師と日本人修道士コスメがおり、ここ都にはカリオン師とロレンソ、バルトロメウ両修道士がいた。
信長の政庁に、名を明智といい、元は低い身分の人物がいた。すなわち、卑しい家柄の出であり、信長の治世の当初、或る貴族に仕えていたが、巧妙で如才なく鋭敏なことからたいそう重んじられるようになった。彼は諸人から嫌われ、裏切りを好み、残虐な処罰を行なう非道者であり、人を欺き狡猾な戦術を弄することに長け、気質は勇猛、築城術に精通していた。
このように卑しい歩兵であったが信長は丹波および丹後と称する2カ国を授け、比叡山の大学の全収入を与えたが、これは他国の収入の半ばを超えていた。
しかし、明智はその異常さゆえにさらに多くを求め、日本君主国の主となりうるか否か試みることを望んだ。正しくこの時、信長は毛利氏を滅すため、3万の兵を率いて羽柴(秀吉)殿の許へ援助に赴くよう彼に命じた。
彼は信長ならびにその世子がともに都にあって、さほど多くの兵を伴っていなかったことから、両者を殺害する絶好の機会と考え、己が全てを実行することに意を決したので、明智は兵をことごとく当地から5里の所にある丹波国の一城に集めた。
兵士たちは皆、それが戦場へ向かう道ではなかったので驚いたが、彼は賢明で何びとにも己れの決心を打ち明けなかったため、こうした大胆な企てに考え及ぶ者は一人もなかった。
聖体の祝日(から8日以内に来る)火曜日、軍勢が城に集結した時、彼は4名の部将を呼んで密かに信長とその息子を殺して天下の主となることに決心した次第を語った。皆一様に驚き、彼がすでにこれを行なうと決心している以上、その企てに力を注ぎ彼を助けるほかはないと答えた。彼はただちに実行方法について命令を発し、何びとも裏切らぬよう彼の面前で武具を身につけさせた。
こうして夜半に彼らは出発し、ほぼ夜明けと同時に都に到着した。明智はさらに、己れの留守中に不穏なことが生じぬようにするためといって諸城を整備し、絶えず警戒するように命じた。
都を前にして彼は、入洛の際、いかに立派な兵馬を率いて来たかを信長に示したいので十分に兵装を整えるよう全軍に伝えた。これは当1582年の7月(6月の誤り)20日水曜日のことであった。
さらに、すべての銃の火縄に火をつけて引き金に挟ませ、また槍を用意するように命じた。部下たちは何事かと疑い始め、或いは信長の命令によって明智は信長の義兄弟である三河の国主(徳川家康)を殺そうとしているのかも知れぬと考えた。
信長は都では本能寺と称する僧院に宿泊することを常とし、すでにそこから仏僧を追い出して相当な屋敷を建てていたが、件の3万の兵は同僧院の付近まで来ると、夜明け前にはこれを完全に包囲していた。市では思いも寄らぬ事であったので、ほとんど皆、何らかの騒ぎが起こったのだと考え、これが都中に伝わり始めた。
我らの教会は信長の所からわずかに一街しか離れていなかったため、ただちに数人のキリシタンが来て、私(カリオン師)は早朝のミサを行なうため衣服を着替えているところであったが、宮殿の前で騒ぎが起き、大胆にも同所で争う構えであり、由々しいことと思われるので待つようにと言った。
間もなく銃声が聞えて、火の手が上がり始めた。続いて、これは喧嘩ではなく、明智が信長を裏切って叛旗をひるがえし、彼を包囲したとの伝言が届いた。
明智の兵は門に達するとただちに内へ入ったが、このような謀叛にもはや疑いはなく、これに抵抗する者もなかったので、入るとすぐに信長を見出した。
彼は手と顔を洗い終えて手拭で清めていたところであり、兵士たちはすぐさま彼の背に矢を射かけた。信長はこれを引き抜き、長刀すなわち鎌に似た柄の長い武器を手にしばらく戦ったが、一方の腕に銃弾を受けたので自室に退いて戸を閉めた。
彼は切腹したと言う者も、邸に放火して死んだと言う者もあるが、我らが知っているのは、かつては声はおろかその名を聞くだけで諸人を畏怖させていた人が毛髪一本残すことなく灰塵に帰したことである。
明智勢はこのように迅速に信長を倒した後、同じく宮殿内に宿泊していた青年武士数人を殺害し、また僧院をことごとく焼き払ったが、これはたちまち都中に知れわたり、内へ入ろうとして駆けつけた数人の殿は街が占領されていたために入ることができず、世子(信忠)の邸へと向かった。
世子はまだ就寝中であったが、知らせを聞くと起き上がり、彼が宿泊している僧院も安全ではないと考えたので駆けつけた兵士ともども同僧院に近い内裏の御子の邸(二条新御所)へ移った。これは安土山の邸に次ぐ立派なもので、3、4年前、信長が建て、内裏の御子(誠仁親王)の住まいとするため贈った邸であった。
世子は同邸に身を落ち着けたがいとも急なことであったので刀以外には携えておらず、また同所は内裏の御子の住居なので、ほとんど武器は無く、ただ女性がいるのみであった。
このような人物を迎えたことは御子にとっていとも迷惑であり、都の所司代、村井(貞勝)殿が世子に同伴していたので、彼の勧めによって、武具を付け馬に乗って件の街に来ていた明智に使者を送り、如何に処することが望みか、また御子も同様に切腹すべきかと問うた。
明智は「御子に何も求めはしないが、信長の世子を逃がさぬため、馬にも、また駕籠にも乗らず即刻、邸から出るように」と答えた。 この伝言によって内裏の御子は婦人たちと共に(邸を)出で、都の上方(御所)に向かいその父(正親町天皇)の邸(内裏)に入った。
(信忠の)邸内の人々は選りすぐった大身たちであったのでよく防戦し、1時間以上に及んだが、邸外のほうがきわめて多勢でよく武装しており、鉄砲を多く備えていたため、これに抵抗することは困難であった。
しかし世子はきわめて勇敢に戦い、鉄砲と矢によって幾つもの傷を受けた。ついに明智の多数の軍勢が勝って(邸内に)入り、放火して多くの者が焼け死んだが、彼らに混じって世子もまた、その他身分ある武士や兵士たちと共に同じ最期を辿ったのである。
明智の兵は多数であったので、街路や家屋ごとに巡回して信長の家臣や貴人、殿たちを見つけ出したが、彼らの首を斬り明智に差し出すためであった。明智の面前には今や首が山と積まれ、死体は街路に放置された。
都の住民は皆、事件が終結するのを待ち望み、家に隠れている者をさらに手堅く殺すため明智は都に火をかけるであろうと考えた。
だが、修道院にいる我らがいっそう危惧したのは、右の諸人に共通する恐れのため、かつまた、我らの知るところではないが、もし明智が悪魔とその偶像を大いに好み、我らに馴染まなければ、我らおよびデウスの教えに反感を抱くことは確実と思われるからであった。
また、我らは信長の所有物のようなものであるから、明智は我らに火をかけさせ、その家臣たちが教会の財産について噂を聞き略奪しようとすることを惧れたが、
そのさなか明智は「市に放火せぬから、都の住民は何びとも案ずるには及ばぬ、むしろ予が己が企てにおいてこのような成果を収めたことを歓喜せよ、もし兵士のなかで何事か(不逞)を働く者があればこれを殺すがよい」、と布告を発したので我らは気を取り直した。
信長の求めによって巡察師が彼の許に残していった黒人が信長の死後、世子の邸へ行き同所で長い間戦っていたので我らは少なからず心配していたが、明智の一家臣が彼に近づき、恐れずに刀を棄てるよう求めたところ、彼はこれを差し出した。
別の家臣が明智の許に行き、黒人をいかにすべきか問うたところ、その黒人は動物であって何も知らず、また日本人でもないから彼を殺さず、インドの司祭たちの教会に置くように命じた。
これによって我らは幾分落ち着き始めたが、数日前、信長の義兄弟(徳川家康)が堺へ立ち去ったのは主(なるデゥス)が当修道院にかけ給うた大いなる御恵みであったと知ってからはなおのことそうであった。
なぜなら彼もまた殺されるべき一人であり、彼を殺すには当然、彼の(宿としていた)邸に隣接する我らの修道院にも火をかけねばならぬからであり、或るいは彼の邸よりも我らのほうが堅固なため彼がここへ避難し、したがって我らの修道院はいっそう破壊され焼き払われることになっていたからである。」