【フロイス日本史】耳川の戦い(2)

<第四六章(第二部一二章)>
国主フランシスコが土持より豊後へ、そしてフランシスコ・カブラル師およびその同僚が国主とともに帰った次第

合戦の二日後数名が、敗走の末悲しく予期せぬ報せを携えて、国主(大友宗麟)、ならびにフランシスコ・カブラル師、修道士たち、およびほかに兵士たちがいるところに到着した。

これらの使者はひどい恐怖心にとりつかれ、味方の敗北に呆然自失の態で、それは国主、およびともにいた人々に深い恐怖心を起させるところとなった。これらの人々の顔色には、足を頼って逃げるよりは翼で飛んで行きたい気持がありありと窺われた。

敵軍はまだ一日旅程も離れた地点にいたが、彼らには、掩うべくもない恐怖心から、敵が今にもかならず襲って来ると考えられ、もはや施す術はないものと思われた。この事情を知った国主は、実際の戦況をより正確に知らせるようにと命令し、戦場から逃れて来た兵士らを自分の許に集め、必要な善後策を講じることを決意した。

そして自分がより自由に行動できるように、夜が明けるとすぐに、奥方のジュリアと家族を豊後に送り返すことに決めた。そのため彼はフランシスコ・カブラル師のところに使者を遣わして、司祭が修道士たちとともに、妻その他の者と同行して豊後に行く準備をするように依頼した。

司祭は国主に答えて、殿の御決定はごもっともに思う。奥方のお伴をして行くことは、修道士たち、その他、司祭館の者に命じることにする。でも私は死ぬまで殿のお伴をする、と述べた。

国主のところへ遣わされたこの使いが立ち去ると、司祭と修道士たちは、翌朝、修道士たちが奥方らといっしょに出発する際に、家にある品で救えるものは救い出そうと、とりあえずまとめるため整理し始めた。

彼らは、師はなおそこに留まることでもあるし、翌朝ゆっくり落ち着いて仕事ができると考えていたので、その後、突如として生じた変更に対応することなく、出発のための身仕度はまだしていなかった。

国主の側近者たちが国主の耳に吹きこんだ恐怖は非常なものであったし、また彼らは次から次へと(悲観的な)情報を国主に聞かせたので、人々が語るところでは、国主は放心状態に陥ってしまい、敵がもう二、三里のところに迫っている、との家臣たちの執拗な言葉に、もはや堪えられなくなって、あらかじめ司祭と打ち合わせていた時間を待つこともなく、できうる限り迅速に、全家族と兵を伴って天明に出発してしまった。

かくて国主は、家臣から急き立てられた結果、その財宝の大部分と、その場に持っていた非常に優秀な大砲を放棄したまま出発して行った。ところでこのような周章狼狽は、実は、国主に早く退去するように説得した家臣らの策略に基づくもので、彼らは後に残って、残りものを盗むことを目論んだのであり、事実確かにそのように行動したのであった。

とりわけ国主が身辺の護衛のために配置していた日田の兵士らがそのように振舞った。国主がもっとも悲しんだのは、しばらく前までは征服したものと信じこんでいた日向国を失わねばならぬことであった。

そこで国主はカブラル師に次のように伝えさせた。「予としては大いに心苦しいことであるが、やむなく当地を出発する。主なるデウスは予にかくも大いなる鞭を送ることを嘉されたが、予は万事につけてデウスの御旨に従う所存である。予としてはデウスの聖なる教えが名誉を得、高揚されることのほか何も求めるものはなく、

予の貧弱な思考をば、流血を好み給わぬ主デウスの高度の御判断に委ね、その聖なる御手にこの身をおまかせする決心である。このたびの敗北が、予の指揮官の罪過であったことは予の熟知するところである。それゆえ熟慮して、予はそれを喜ばしく思わぬでもない。

なぜならばその敗北の結果予の周辺から、キリシタンへの改宗に甚大な害を及ぼしていたかの聖なる教えの大敵たちが、この環境から除かれてしまったからである。よって尊師は、なるべく迅速に出発の用意をし、携えて行けると思われる家財だけを携行されるように。

予には、教会にある大きな十字架を与えていただきたい。予は常々その十字架に深い信心を抱いて来たことなれば、たとえ予が自分の他の貴重品を放棄せねばならぬようなことがあっても、そのあまりにも立派で信心に満つる品だけは決して失わぬように努めるであろう」と。

司祭はその十字架を国主のところに送り、同時に次のように伝言した。

「殿は、こうしたあまりにも突然の退却から、どんなに形大な損害が生じるかを考慮なされる必要があります。戦場から引き揚げて来る兵士たちをそこに集結させておくほうがどれほど有利かをお考えいただきたい。なぜならそうすれば敵は、殿がまだそこに大軍を擁して待機しているときっと考えるに違いなく、そうして少なくともそんなに早く襲撃しようとはしないでしょう」と。

カブラル師のこうした進言も、家臣たちの強引な要求のために国主の考えを変えさせるのには十分でなかった。

その朝、このような際にいつもつきまとう光景ではあるが、すでに逃走し始めた人々の大声、叫喚、流言、周章狼狽が始まった。だがそうした騒動をよそに、司祭や修道士たちは、定められたとおり祈祷の全時間を過し、その後、司祭はミサを捧げ、終りに連祷を唱えた。そしてそれらの務めがすべて終った時には、もう朝になっていた。

カブラル師は、そこから離れた土地にルイス・デ・アルメイダ修道士を連れて来るために、ほかに適当な馬がいなかったので、ただちに偶然そこにいた一頭の駄馬を遣わした。修道士は老齢と病気のために、そうしなければ来ることができなかったからである。

ただし司祭も、その年齢と体力においては、修道士に劣らず乗馬の助けを必要とする身であったが、修道士のことを慮って、自分のことはほとんど何でもないように見せかけたのであった。

教会では最良の家財をそこにいた四名の若者だけで運べるように、ただちに荷造りが始められた。ちょうどその準備をし始めた時に、国主の使者が来て、殿はすでに旅立たれたと告げた。

司祭はこの唐突な報せに急遽出発せざるを得なくなり、若者たちは、教会の銀、およびそにあった一番上等な祭服の中からわずかばかりのものを選んで運搬した。彼らは、事があまりにも急で、荷物をくくる縄を見出せなかったので、十ないし十五クルザードもする高価なダマスコ布を縄代りに使用する始末であった。

司祭たちにとって数々の貴重品や立派な品々が入った箱や籠が地面に並べられているのを見ることは、疑いもなく深い悲哀であり、この上なく辛いことであった。

そこの一方には祭壇用の額があり、他方には書物や新築の司祭館用の数々の祭服がその付属品とともにあって、それ以外に司祭館には、大量のダマスコ織の反物、綿子、絹織物、ビロード、香、それに当地ではきわめて貴重品である、ミサ用の葡萄酒があった。この葡萄酒はポルトガルから、インドとシナを経て日本に届けられるというように、途方もなく地球を遠く廻って来た品であった。

司祭たちにとってこれらの品は、今ではただ眺めるばかりでどうしようもなく、すべて置いて行かねばならず、しかもまもなくそれらは、(豊後)国主とデウスの教えの敵である異教徒たちの、汚らわしく、かつ所持するにふさわしからぬ車中の手に帰して汚されて行くことは堪え難いことであった。

カブラル師は、敵にそれらを利用する機会をなるべく与えまいとして、司祭館と新しい教会に放火するように命じたが、人々は火をつけることができぬほど忙しく、かくてそれらはすべて敵の掌中に陥ってしまった。

我らの仲間たちは、国主がすでにかなりの道を先に進んでしまっていたので、その慌てようはこの上もなく、何かを食べておく暇はおろか、道中の食事を用意しておく心がけにも欠けていた。その道中は、後に彼らに少なからぬ労苦をもたらすところとなるのだが、徒歩で行かねばならず、距離が長い上に人気のない山道であった。

これほど司祭たちがひどく急き立てられた原因は、敵によるものではなく、実は後方に残った豊後国主の家臣たち自身、および戦場から敗走して来た連中が、司祭や修道士たちの生命は危険に曝されていると司祭に伝えたことにあった。

悪魔は、人々の間で収められていた改宗の成果を妨げようと、その悪辣な意向を実現するのに好機至れりと見ると、その我らに対して現わし始めた憎悪はいとも恐るべきもので、ほとんど言葉では説明できぬくらいであった。

もしも主なるデウスが我らの同僚たちを守護し給わねば、彼らはこの旅路の間に、かの同じ豊後の兵士たちによって殺され寸断される危険に陥っていたことは疑いの余地がない。

これらの兵士たちは、このたびの破滅と敗戦に心を悩ませ、(多大の)損害によって頭が狂ってしまい、そのすべての破滅をば我らイエズス会員の責任にし始めた。そして彼らは、「国主フランシスコがキリシタンになり、神や仏の崇拝をやめてしまったために、豊後は恐るべき神仏の罰を受けたのだ」と言い触らし始めた。

そして、「伴天連たちこそ、この新しい教えを弘めた張本人ではなかったか。なぜ、あのような人間がこの地にいることを許しておくのか。伴天連たちはかねがねデウスを信頼せよと言っていたが、あれはいったいどういう約束だったのか。真心から仕え始めた者を見捨てるようなデウスの立派な計らいなんて、何が立派な計らいであるものか」などと、悪魔に唆され、鬱積する憤薄と激怒に駆られて冒漠の言葉をぶちまけた。

我らの同僚たちは、これら兵士たちの自分たちに対する嫌悪と憎悪のため、国主の傍におれば、兵士たちも自分たちに手を下すことはあるまいと考えて、国主の近くに到達しようと足を速めた。

しかしその道はあまりにも嶮しく、騎馬の者は馬から降りても多大の危険なしに進めぬほどであった。そこは何ものをも寄せつけない道であったから、同所では多数の馬が死ぬ羽目に陥った。

さらに前日の豪雨が、これらの苦労にいっそう拍車をかけた。その雨のために、道は格段と通行困難となり、その道に馴れている土地の人たちですら尋常ではないと感じるほどであった。

そのうえ、しばしば多くの小川や谷を渡らねばならず、それらの川は急流ですさまじい音をたてており、冬のこととて、足を入れれば全身を鋭利な剃刀で切られる思いがした。激流に変われそうになることもしばしばで、そうならないためには、前を行く人の乗馬の尻尾を握ったり、一同が身体を寄せ合って水流に完するほかはなかった。

司祭と修道士たちは、既述のような人々の助けを得て困難な旅についたのであるが、最初の日は終日徒歩で、一人ずつ後にくっついてようやく通れるほどの恐ろしく高くて狭い山道を何も食べずに進んだ。

最初の夜は人里離れた、ある野原で過した。そこでは天よりほか身を捧うものとてはなく、苛酷な寒さがあるのみであった。国主は自分と家族のために細く小さい竹で小屋を作らせ、司祭と修道士たちのためにもう一つの小屋を建てさせたが、それらは夜露すら防ぎかねるほど粗末なものであった。

そこには、やっとその夜の足しになるわずかばかりの玄米があるばかりで、まだこれから先彼らに残されている三、四日の僻地の旅については何もあろうはずがなかった。

米を炊くための深鍋や浅鍋を求めたが、それらは見つからなかったので、必要に迫られ、当座の策として考えついたのは、米を青竹の中に入れて火にあてることであった。

こうして彼らは、よく炊けても煮えてもいない米を食べ始めた。それも各自が必要量を食べるわけではなく、残りの旅路を考えた上で許された量に留まった。その制限された質素な夜食がすむと、一同は濡れた土の上に横たわって睡眠をとった。

皆は着のみ着のままの姿で歩いて行かねばならぬ身とて、着物は少ししかまとっておらず、その上に河川を渡ったために濡れていた。

その翌日も前日同様に旅を始めた。朝方、前夜に残した少しばかりの米を食べ、竹筒で温めた水を飲んで旅を続けた。

前夜過したところから遠くないある小川のところに来ると、国主(宗麟)は家臣一同の前で跪き、我らの主なるデウスに、このような苦悩と労苦を授け給うたことを感謝しつつ祈りを捧げた。

そしてフランシスコ・カブラル師を呼びにやり、招いて少しばかりの米を食べさせた。今度の土持からの脱出はあまりにも慌しかったから、国主が必需品に事欠くことは、我らの同僚たちに劣らぬものがあったのである。国主があえてこのような態度をとったのは、すでに悪魔が入りこんでいた、かの気違い兵士たちに、自分が今なおキリシタンであり、心の中は、かの過ぎ去った幾多の不幸によってなんら変っていないことを示すためであった。

事実この苦悩する国主の信仰心は、火に試されることによって、金のようにますます深まり鍛えられていった。

二日目の旅も、道が険難であるのと、その嶮しくそそり立つ路をば負傷し痛めつけられた足で登らねばならぬために、前日に劣らず困難であった。これらの山路は、足をすべらせて谷底に転落しないためにも、異常な注意を払ってたどらねばならず、その谷底は頂上からしか見えぬほど深かった。

すでに時間は遅く、人々はまだ渡らねばならない激流の小川を目にして互いに顔を見合わせ、疲れと飢えのために渡る気力もなく、川岸に腰を下ろしてしまった。といって、口に入れる食物を何か見つけることもできなかった。

でも彼らは最後の力をふりしぼって川を渡る決心をし、そして渡り終えた。太陽はすでに沈もうとしていたが、目をはるかな地点に向けると、そこからかなりへだたった野原で、二、三名の農夫が火にあたっているのが見つかった。

そして彼らのところに行ってみると、ちょうど豆と黍(きび)と、その他の野菜を混ぜたものを着ているところであった。そこで農夫たちにせっかく自分のために作ったものだが、その半分を売ってほしいと切に願った。

こうして野菜料理は全員にまるで祝別されたパンのように配られたが、一同がその時に味わった味は、まさしく天から降ったマンナ(1)のようであった。

一行は同夜、豊後国の某所に到着した。国主はそこでは、費用さえ出せば炊くための米に不自由することはあるまいと考えて、ある寺院に宿泊することを命じた。だが、ふつうこのような場合には、誰でも同情と善意をもって我らを助けてくれるものなのだが、そこの仏僧は、銀子によっても同情心からも米を与えようとしなかった。

そのため一同にはせっかくの期待も外れてしまった。その夜、既述の理由から後続していたルイス・デ・アルメイダ修道士が、司祭と修道士たちのところにたどり着いた。彼は国主から離れて道をたどっていたので、かの仏僧からも少なからぬ危険と侮辱を被ることとなった。

それより先かの兵士たちの一人は修道士に近づき、大いなる怒りと憎しみを示しながら、「貴様は豊後の国を滅茶滅茶にし、恐ろしい破滅をもたらした伴天連屋敷の頭なのか」と訊ねた。修道士は、「私ではない。私は伴天連の位など持たぬ者だ。上長は国主と御いっしょに先の方においでになる」と言い、こう述べたことでようやく彼の怒りをなだめることができた。だが兵士はなおも多くの脅迫と侮辱を加えた上で修道士を解放した。

そこから先の旅は、小川の数も以前に増し、厳寒のためにほとんど歩行困難になっていたとはいえ、すでに豊後領内を進んでいるので、苦労や食糧不足、それに恐怖も、たいしてひどくはなかった。ところでフランシスコ・カブラル師が、全員疲れ果て弱りきっていた修道士たちを伴って野津への道をたどっていたところ、宇目の地にいる国主フランシスコの許へ、嫡子(大友義統)の命を帯びて協議に行くルイス・フロイス師と途上で出会った。

一同がこの遭遇で受けた慰めはいとも大きかった。とはいいながら、この道中、フランシスコ・カブラル師を心配させ苦悩させていたことがただ一つあった。それは嫡子が心変りしたのではないかということであった。嫡子はまだ若者であり、傍には、よろしからぬ側近者を侍らせていたので、過ぐる敗戦の苦悩が彼を変心させたのではないかと、ひどく憂慮されていた。

ちょうどその同じ頃、久我殿なる(豊後国主の)嫡子の義兄弟が嫡子に会いに来た。彼は当初僧籍にあり、法華宗の都における総長を務めた身で、つねに我らイエズス会員の心からの敵であった。彼は嫡子に、「戦でさんざん不利な状態が続いているにもかかわらず、なぜ御身は、そのような時にデウスの教えなどにこだわっているのか。そんな教えなどを援助すべきではない。そのことで家臣らがどんなに愛想を尽かしているかを見るがよい」と言って、説得を試みた。

それに対して嫡子は答えて言った。「私は、従来は自分の霊魂の救いということに関しては、親戚の者、とりわけ私の母と折合いをつけながら、自分のしたいことを気にすることもなしにやって来た。だが、我が望みを妨げていた人たちの多くが戦死したことでもあり、もはや今後は誰憚ることもないのだ。

臼杵に帰り次第、仕事の都合がつき、フランシスコ・カブラル師が同意して下さるならば、誰の承諾を得ることもなく、ただちに洗礼を受ける覚悟である。私は、この決意のもとに、今からは特に、キリシタンになったつもりでいるのだ」と。

そしてその気持が本当であることを表わす印しとして、嫡子はカブラル師が彼に与えたコンタッを取り出し、一同の面前でそれを顔に掛けた。彼は、こうした返事をすることによって義兄弟を帰らせた。

過ぐる戦いでは、デウスの正しいお裁きによって、次のような出来事もあった。かの我らの大敵である占い師の石宗は、日向にある豊後勢の陣営に顔出しすることを不思議なほど希望した。彼は軍勢の指揮官たちに、人々のキリシタンへの改宗につき強硬に反対するよう説得することを目的としていた。

だがこのような企てなり悪辣な心情が、デウスの聖なる正義の御手で裁かれぬわけがなく、はたして彼がその悪しき考えにひかれて陣営に赴いた時には、まさにちょうど戦闘が開始されようとしており、彼はすでに年老いてもいたので武器の扱いが下手だったところへ、一人の敵が、敵の目を避けていた彼を発見し、ただちにあの世へ送ってしまった。こうして彼は、その悪行の報いを受けに行った。

(1)旧約時代に、モイゼがエジプトから神の選民を約束の地に導く時に、砂漠で神が降らせた食物をいう。