【フロイス日本史】耳川の戦い(1)

その頃、薩摩の国主(島津義久)が、豊後と一部分国境を接している日向を攻略したので、敗北した日向国主(伊東義祐)は、孫や息子の嫁を連れて豊後に避難して来た。

なぜならその長男はすでに死亡し、その嫁は、豊後国主の妹の娘であったからである。日向の老国主は、家臣たちから好感をもたれておらず、政治における乱行によって万人から気違い扱いを受け、ついには国を失うに至った。

彼はまたキリシタンの名の敵であり、深く悪魔に帰依していて、毎日、悪魔と語っていたと言われ、こうして悲惨の中に生涯を終えたのである。豊後国主の嫡子(大友義統)は、薩摩国主の日向制圧と侮辱を己れに対するものと受けとめ、薩摩勢が奪った日向国を武力で奪還しようとして、ただちに準備を固めた。

彼は、臼杵において自分の庇護の許にあるまだ少年の従兄弟を味方に加え、当時彼が国主であった五ヵ国から40,000の兵を召集した。

この日向の国は、そこを流れる耳川と呼ばれる大河によって二分されている。嫡子が戦場へ出発するに先立って、その河川から豊後の国境の間にあった17の城は、豊後の嫡子の名と勢力を耳にしただけで降伏した。

豊後との国境地帯には、やはり薩摩と同盟していたある殿がおり、その領地は土持と呼ばれたが、戦禍を受けて破壊され、その殿も戦死した。豊後の国主と嫡子は、そこにある僧院や神や仏の寺社を焼却し蹂躙するようにと命じ、事実そのように行なわれていった。

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豊後国主の軍勢は、日向の国内深くに侵入し、幾つかの城は流血を見ず、なんの苦労もなしに明け渡された。豊後の軍勢が、日向国の中の征服地と非征服地を分つ耳川を渡ると、それは薩摩方を大いに驚愕させた。

なぜならば彼らはこの川を自分たちの防衛線としていたからである。豊後の兵士たちは、薩摩から援助に来る者に比べると少数であったが、高城という城を包囲することに決めた。

この城は敵の要衝であり、きわめて利点に富んでいて、そこでは薩摩国主の兄弟の中務(島津家久)が、諸国からの自らの精鋭を率いて守備にあたっていた。豊後の兵士たちは、同城をまず獲得することを望んでいたので、城の麓まで来ると、侵入しようとして見境なく攻撃を開始した。だが彼らは猛烈な抵抗に遭い、その果敢な企ては徒労に終った。

とはいえ、その攻撃は熾烈をきわめたので、城内の者はいくらかの侵入を許さざるを得なくなって、敵方に、彼らが狙っている次の攻撃への好ましい拠点を与える結果になった。ところで豊後勢の一部の隊長たちは、嫉妬心から前線に進む者を援助せず、他の仲間たちを妨害した。事実彼らがそうしなかったならば、豊後勢は後に生じたよりもわずかな損失で、その日のうちに一挙にその城を占領していたはずであった。

だが豊後の隊長たちはそういう無能な連中であったから、この混乱や無秩序が生じたのも驚くに価せぬことであった。否、事があのように運ばれたのは奇跡的な業とさえ思われた。そこで豊後の兵士たちはわずかな損失を被ったままいったん退却した。

そして最初の攻撃で城を陥落できなかったことが判ると、城全体を包囲し、少なくとも飢餓によって陥落させるほうが得策であると考えた。それは絶えず用いられる一つの戦法で、時に城中の食糧や弾薬が不十分であったり、侵入することがきわめて困難で、しかも突入する道を拓くための大砲を有しない場合、こうした飢餓戦法によって城の攻略を試みるのである。

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<第四五章(第二部一〇章)>
豊後軍が薩摩国主によって撃破された次第

日向国の情勢が既述のような状態にあって、豊後の軍勢は日向国の鍵をなす高城を包囲するに至ったので、同城はかなりの苦境に陥った。

この有様を見た薩摩の国主(島津義久)は、その城を失えば、新たに征服した日向国を失うのみならず、自らの薩摩国すら失う危険にされると判断したので、できうる限り最大の迅速さと準備をもって、同城を援助することを決意し、それがために自らの最後の勢力を投入することに決めた。

ところでこのたび豊後勢が敗北した最大の原因は、我らの主なるデウスが、豊後の人々を罰することを望み給うたことにある。なぜならば、これら同国の指揮官や一般兵士らの罪は積りに積り、デウスはこれ以上、厳罰、ならびに恥ずべき屈辱を彼らに与えずに見過すことを許し給わなかったからである。

[一般庶民のことにもはや言及しないとして]、豊後側の指揮官や宿老たちは、ふつう皆、すべての者がキリシタンとデウスの教えの敵であった。したがって彼らは、いかにして陣営を補強すべきか、いかに警備兵を配置すべきか、どこから敵を攻撃すべきか、どこから敵が侵入して来るかを見極めることなどを協議するどころか、そうしたことをいっさい忘れ、あまつさえ味方の防禦を固める矢来を張ることすら忘却して、たらふく飲み食いした後で、

日々に催す協議と言えば、すべてそれらは、キリシタンの教えがこれ以上弘まらないようにするのにはどうしたらよいか、とか、いかにしてキリシタンになった者を棄教させるか、いかにしてキリシタンになりたがっている者の邪魔をするか、いかにして(国主の)嫡子をして、その受洗の計画を断念させるか、いかにしてキリストの福音を説く人々を殺害するか、その他これに類したことばかりであった。

だが我らは知っている。デウスこそ、敵の主要な目論見を消滅させ、天国に住まい給うお方は愚かな者どもを嘲笑し給うことを。さればデウスは、少なくともその規模において彼らが夢想だにしなかったような屈辱を彼らに与え給い、しかも薩摩軍という、彼らに劣らず罰せられるに価する者どもをそのための道具に選び給うたのであった。

そこで薩摩の国主島津殿は、自国に危険が切迫しているのを見ると、国内の全地方から人々の召集を図り、老幼男女を問わず、ついには武器を手にし得る者はことごとく、いかなる逃げ口上も許さず、領国の自由のために参集するように命令した。

その際、彼は、各人は、ただ四、五日分の米を帯に入れて携えよ、その糧食が尽きる時までには、戦の勝敗は決していなければならぬと伝達した。このようにして、人々が確信するところによれば、薩摩の国主は五万名近い人を召集した。それは何も驚くに足りぬことである。

それには以下のような事情がある。日本では、国主、または大名が、他と戦を始める時、彼は兵士たちになんら支払いはしない。彼はせいぜい特殊な家臣に対して費用を払うくらいであって、軍隊にはほとんど費やさない。というのは、各大名は、自らの封禄や領地に応じて、家臣である一定数の兵士を差し出す義務があるからである。

領土はすべてこのように分割されているので、ヨーロッパの大公たちに比べると、日本の王侯にはわずかの収入しか残りはしない。戦争に際しての将兵の常食は、金銭的にわずかしか費用がかからず、かつ驚くほど少量である。彼らは、ほんのわずかの米と、ごく軽い、ありあわせの物を米に添えて食べることで満足している。

されば、多くの兵士を召集することは、たいした難事ではないのである。大軍を率いた薩摩国主は、豊後の山岳からあまり距たっていないある嶮山に設けられた自らの陣営にほどなく到着すると、部下のもっとも機敏で有能な指揮官らに、それぞれ配置した分隊をして敵を攻撃させるように命じた。それは1578年の12月2日(表記はユリウス歴。旧暦では11月4日となり誤りと思われる)、火曜日のことであった。

薩摩勢は、豊後勢を誘き出せるかどうか見ようとして、若干の回の兵をもって出動し始めた。二回にわたってこうした行動が繰り返されたところ、豊後勢の無秩序はこの上ない有様であったから、彼らはもはや我慢しきれなくなり、味方の優位を信じきって出陣することを欲した。

彼らはそれが敵の策略であることに気づくことなく、計略的に逃げるふりをして走る敵を追跡し、ついには自分たちに対して仕掛けられていた罠に陥るに至った。すなわちすでに豊後勢がその陣地から出てしまうと、薩摩勢の全主力は、恐るべき勢いと果敢な気力とをもって彼らの上に襲いかかった。

薩摩勢は、明日の幸がどうなるやも知れぬ領国の運命を救おうとの激しい望みに燃え、敵に対する怒りを爆発させながら、一挙に敵を殲滅するか、さもなくば全軍が討死する覚悟でこの場に臨んで殺到した。その勢力をいっそう強化するために、それまで包囲されていた城内の者も同時に脱出して哀れな豊後勢の中を通り進んだが、豊後勢は指揮が乱れていてそれにも気がつかぬほどであり、もはや敵方より劣勢となっていた。

豊後勢敗北の兆しはまもなく現われるが、ともかく戦闘はこのようにして開始された。兵士の勇気と軍隊のあらゆる規律は、これを率いる指揮官の巧みな統率と果敢な精神いかんによるものであるが、豊後勢はそれらすべてにおいて欠けていた。

というのは、各指揮官は、他の指揮官の言を受け入れることも互いに援助することもなく、自分だけで戦うことを欲した。そのため彼らは支離滅裂で、一人の上長に全員が従うべき服従心なるものが欠如していた。彼らは他の仲間連中が滅ぼされることを欲し、彼らの名が失敗によって消され、戦功者と見なされないことを願っていた。

さらに彼らの不幸な戦果をいっそう不幸なものにしたのは、一同が早くからイザベルの兄弟なる(田原)親賢に見出した、驚くべき臆病さと軟弱な気構えであった。人々はただちに、あらゆる敗北と災難、ならびにこのあまりにも災害に満ちた不運を親賢の責任に帰した。

というのは、敵と最初に遭遇した時のこと、親賢はまだ自分の陣営に籠っていたが、槍や刀の喋音、鉄砲の轟音、襲撃する者どもの城声を聞くと、彼は一同からこの上もなく嫌われていたとはいえ、国主の奥方の兄弟、国主の義兄弟、嫡子の伯叔父、また国の全老中のうち統治上の最高権威者といった高貴な身分にある者として、合戦においては真先に立ち向かい、

そして上記の身分からしても、ふつう日本人が戦において示すように、あらゆる英雄的行為において万人に秀でるよう務めるべきところ、そうするどころか、心の底まで卑劣で下賤な恐怖心にとりつかれており、己れに課せられているあらゆる義務のことも、衆人の目が自分に注がれていることも忘れ果てた。

彼は、兵士たちがいたるところで血を流しているのを助けに行き、国主の名誉と地位を守るために駆けつけるどころか、彼にとってはまるで戦場での数秒は数日のように、数時間は数年のように長く思える始末であった。彼は巨体の持主で、すでに40歳を越えているのに、あたかも足に羽が生えたように驚くほどの軽快さと敏捷さをもって、空を切って逃走し、その年若い家来たちがやっと付いて行けるほどであった。

すでに危険から遠ざかったばかりか、鉄砲の音すらかすかに聞こえるくらいの地点にまで来た時には、彼の心は挫けてしまっており、後ほどその友人である臼杵の一キリシタンにその時の心境を語ったが、それによると、当時彼は恐怖のため胆をつぶし怯え切り、少しばかり脇道に入って血尿をもよおしたくらいであった。

この親賢なる人物こそ、先にはシモン(田原親虎)が洗礼を受けたとの理由で彼の禄を奪い取り、司祭たちがシモンを棄教させることに同意しなかったとの理由から、司祭たちを殺し臼杵の教会を焼かせようとした男である。彼こそは国主フランシスコの次男(大友親家)を棄教させようと、また姉妹のイザベルとともに、キリシタン宗団に対して絶えず謀略を企て紛争をけしかけた人物である。

さらに彼こそは、つねにデウスの教えが豊後において有した不倶戴天の敵であった。だが今や彼に残された名誉と名称とは、その子孫においても決して消えることのない不面目という汚名と、万人の許における憎悪くらいのものであった。

豊後の軍勢は、大将の親賢が敵と一戦を交えることもなく逃亡したのを見て、その時までは敵を向うに廻して渡り合い、いくらか勝利の希望さえあったのであるが、彼のあの臆病で卑劣な気構えを如実に示した情景を目撃しただけで意気消沈してしまい、敵方は彼らを十分制圧することができた。

こうして敵は豊後勢に対して勝利を博し、彼らに莫大な損失を与えた。敵方の戦闘における攻撃ぶりはすさまじく、哀れな豊後勢はまたたくまに背を向けて逃走し始めた。かくて彼らも、親賢の哀れな運命と大いなる屈辱的行為にならうこととなった。

敵方は豊後の将兵を殺害しながらなおも追跡の手をゆるめなかったので、豊後の将兵たちは、ついには差し迫った危険と死の追跡から免れようと、水量豊かな甲川こ身を投ずるほかはなく、ほどなく水中に没し溺死した。

この戦争における戦死者の数は甚大で、敵の行なった残虐さはまた異常なばかりであった。こうして豊後の人々は、いとも速やかに地獄の住人となり果てた。というのも、すべての、かの権力者や大身や国の老中たちは、デウスの教えの有害きわまる敵であり、キリシタン宗門のあらゆる順調な進歩や好意に対して頑固な心を保持して来たのであって、それがために彼らはこうした死とか、その罪にふさわしい罰を受けるに十分価していたのである。

このようにして豊後の国主は、何年もかかって獲得したものを一日にして失い、とりわけ彼は、名声、信用、それに一同の許における畏怖の念を失ってしまった。この戦のために大勢の人々の上に生じた不幸で不運な結果について個々に述べることは差し控え、また豊後の各地における、死者のために泣き悲しむ人々の働犬、悲嘆、嗚咽についても割愛する。

これらの死者は、たびたび私が聞いたところでは、二万を超えたという。薩摩の軍勢とても、まるで自分たちには悲しみがなかったかのように勝利を誇るわけにはいかなかった。なぜならば彼らもまた、多数の負傷者のほかに八千名近い死者を戦場に残すことになったからである。

次にはただ一件だけ、かの戦場で生じたある注目に価することを述べることにする。

豊後では、府内から2里ばかり離れた大在と称する地に、家屋と収入を有する一人の既婚の若い貴人がいた。この若者は、このたびの日向の戦に参加したが、深手を負い、意識を完全に失ったまま、多数の死体の中に入りこむか、またはその下敷きとなって戦場に放置され、ある意味ではもうこの世を去った者と言えた。

彼が陥った次の三つも四つもの事情は、その一つだけでも十分死に価することであった。第一に、彼は多くの深手を負っていた。第二に、多数の屍の下になってまさに窒息せんばかりであった。第三に、彼が横たわっていたところには死体から流出した血が溢れていた。第四に、それは十二月の出来事であり、厳寒の折で、しかも健康で元気な者ですら寒気から身を防ぐ術もない人里離れた場所においてであった。

この貴人には一人の若い家来がいた。彼は戦において命拾いをしたが、すでに戦の嵐が過ぎ去ると、主人への愛情と同情に堪えられなくなり、両名とも異教徒であったにもかかわらず、日本人の間ではごく稀にしか見られない、ある英雄的な行為を敢行することを決意した。

それは、己が生命を大いなる危険に曝しつつ、夜間に月明りを頼り、単身で無数の屍の中から主人の身体を探し出しに行くことであった。我らの主なるデウスは、この善良な男の意向を励まし助け給わずにはおかなかった。

彼は幾多の苦労を重ね、また屍の傷や血で全身を赤く染めながら、それらの屍をひっくり返し、そこかしこの死体を引っ張ったりした後に、その数が何千とあまりにも多いので、すでに疲れ果て、ほとんど望みを失った。しかるに主なるデウスの御扶助によって、彼はまったく思いもよらぬ時に、ついに探し求めていた主人の身体に出くわしたのであった。

それは夜のことであり、しかも実におびただしい人体の中でのことだったから不可解に思えるほどであった。彼が発見した時に、その主人はまったく意識不明の状態にあって、全身に受けている深い傷、上に重なり合った屍の重さ、真冬の厳しい寒さを伴う苛酷な気候など、どう考えてももう死んでいるとしか思えなかった。

だが入念に調べ、頻繁に身体を揺り動かしているうちに、微かながらまだいくらか息をしていることが判明した。その家来は深い慈悲心に駆られ、かくも惨めな状態にあって死の苦しみを味わっている主人を見て悲しみに打たれ、口に含んだ少量の水を主人の顔に吹きかけ、また主人の口を開いて、口伝てに数滴の水をその中に入れた。すると相手は少しずつ気を取り戻し始め、両眼を開き、身体を動かそうとしたが、何も言うことはできなかった。

その家来は今や主人を前になんらなす術もない身の悲しさに心を痛め、いかにしたものかと思案したが、結局主人を肩に背負って、豊後領までかなり遠い道のりを運んで行くことにした。彼は主人が生きていてくれるというよりも、むしろ埋葬するつもりでそのように決心したのである。

折から夜のことであり、しかも彼は他郷の者でその土地のことに疎く、敵はいたるところにいて勝利を祝い、相手に対する大量の虐殺を誇り自慢していた。彼は不幸なことにその敵勢がいる場所に来てしまい、敵は彼が豊後の者であると見るやいなや、ただちに両名を捕えるに至った。

だが我らの主なるデウスは、敵兵がその若者を殺さぬのみか、彼らに同情の念を抱かせることを嘉し給うた。かくてその若者は敵兵たちに向かい、涙ながらに憐れみと同情心を乞うてこう訴えた。

「私が肩に背負って遠くから運んで来たこの男は、貴殿ら御覧のとおり深手を負って瀕死の状態にある。実は私の兄弟なのだ。私は兄弟愛から堪えられなくなって、あの多くの死の中に探しに行き、見つけ、そして埋葬するためにこうしてここへ来たのだ」と。

かくて敵はついにその男に愛情を覚え、捕えはしたものの、傷ついた兄弟の世話をすることを許してくれた。彼はできうる限り入念にかつ手段を尽して看護した結果、主人は意識を回復するに至った。そこで主人はただちにその忠実きわまる善良な家臣からいっさいの経過を報告されるとともに、自分からも敵に対しては彼の兄弟であると言って本名を明かさぬように注意された。

主人は言われるままに振舞った。こうして我らの主なるデウスは、主人がそこで何とかなったわずかばかりの治療で傷が回復するよう取り計らい給った。ところで彼は傷が癒えて後は家来の男と同様に捕虜として留め置かれたが、敵はその人物が誰であるか知らないままに、別の敵に売り渡してしまった。

こうして両名は別れ別れになってしまったが、件の家来はここでもまた懸命に探索し、調べた結果、主人がどこにいるかを突きとめた。そこで彼は一計を案じ、他国の一商人に連絡し、その者が反物を携えて薩摩の国に行き、某所に至り、品物を売るように見せかけて、実際には某家にいる、今は奴隷の境遇に陥っている主人を買い戻す機会を窺うようにと依頼した。

そしてその人物は実は奴留湯殿であることを御承知ありたいと言い添えた。その商人は奴留湯殿を熟知していたので、その家来が言いつけたとおりに行動し、よい価格でかの主人を買い戻すことをやりとげた。

豊後では皆、この若者(奴留湯殿)は死んだものと思ていたが、彼がその地に帰って来ると、その日のために生き長らえることを得しめ給うた我らの主デウスは、彼に光明を授け給い、彼は妻子、および家人を挙げてキリシタンになった。

そして彼にはパンタリアンという教名が与えられた。奴留湯殿はさらに父や兄弟をもキリシタンにしたが、彼らの間ではキリシタン信仰熱が大いに
高まって、家臣、親族、友人、知人などがその後短期間に改宗して、府内から七里のところにある由布の地では千名を超えるキリシタンが誕生した。

そこには聖ミゲルに奉献された教会が建立され、そこを基点としてデウスの教えが弘まって行き、ただに由布地区のみならず、玖珠という一旅程先の地も、すでに数年前からイエズス会の司祭が一人の修道士とともにそこで作ったキリシタン宗団の育成にあたっており、新たに信者の数をふやしている。

このパンタリアンは、デウスのことに大いなる喜びと深い知識を持つようになり、イエズス会に対しても並々ならぬ愛情を抱き、その生活ぶりと改宗への熱意は、人々に徳の香りと深い感化を及ぼさずにはおかなかった。大在地区には七名の頭がいたが、彼はその重立った一人であったので、その談話と説得とによって、他のほとんど全員が、わずかの間に家族もいっしょにキリシタンとなるに至った。

パンタリアンは、自宅の近くに一つの教会を建てたが、そこへは府内の学院から都合のつく限り、日曜日にはいつも司祭たちが彼のためにミサを捧げに行った。彼は身分の高い貴人であり、若者であったのに、イエズス会に対して深い愛情を抱いていたので、土曜日と日曜日には、自宅で料理人となり、手ずから食事を調理して、ミサに来てくれる司祭たちを招きもてなした。

彼はまた教理に精通していたので、彼が先に説得して来させた異教徒たちに対して説教する修道士を学院が差し向ける都合がつかぬ時には、パンタリアン自らが彼らに教理を教え、立派に仕込み、後には洗礼を授けてもらうために彼らを学院に連れて来た。

パンタリアンは先に自分の生命を助けてくれた家来が、どこに捨てられ、どこに奴隷として連れて行かれたか万策を尽して知ろうとし、彼を買い戻し、自分に尽してくれた恩に報いたいと望んだ。

だがその後、彼のことでは何一つ知れなかった。そこで彼はすでに死んだものと思われた。奴留湯殿はこの家来の話をする時には、たとえひとり息子しかない母親でも、この家来が自分に示したほどの深い愛情を表わすことは不可能であろうと言っていた。

彼は戦時中、帯の間に少量の生米を携えていて、それで生命をつなぐことを常としていたが、かの家来は、あの時主人に何も食べさせるものがないと見ると、まるで乳母が赤子に、口移しにしてお粥を食べさせるようにして、生米を口に入れ、よく噛み、それを口移しに主人の口に入れたのであった。