【信長公記】長篠の戦い

【信長公記】巻八「三州長篠御合戦の事」(現代語訳)

「五月十三日、三河長篠城の後詰(援軍)として、信長、嫡男菅九郎(信忠)が出陣され、その日に熱田に着陣なされる。熱田神宮の摂社八剣宮が廃墟となり本来の姿でないのをご覧になり、造営を大工頭岡部又右衛門に命じられた。

五月十四日、岡崎へ御着陣。次の日は留まり、十六日は牛窪城に泊まり警護として丸毛長照・福田三河守を置く。十七日、野田原に野陣を張り、十八日に軍を押し進め、志多羅の郷(設楽原)にある極楽寺山に陣を置かれ、信忠は新御堂山へ陣を取られた。

設楽原は一段地形が窪地になっている所である。敵方へ見えないように、段々に軍勢三万ほどを配置する。先陣は国衆が務める事になっているので、家康はころみつ坂の上、高松山(弾正山)に陣を取った。
滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀の三人は有海原へ打ち出て、武田勝頼に向かい東向きに陣を備えた。家康・滝川の陣前には馬防ぎのための柵を付けられた。

この有海原は、左手は鳳来寺山から西に太山が連なり、また右手は鳶の巣山から西に続く深山があった。岸をのりもと川(宇連川)が山に沿って流れ、両山の南北の間はわずか三十町(約3.3km)もなかった。(北にある)鳳来寺山のふもとから滝沢川(寒狭川)、北から南へ宇連川に合流している。長篠は南西は川が流れ平地の所である。

川を前にして、武田勝頼は鳶の巣山に上り居陣していれば、(信長は)どうしようもできなかったものを、長篠へは攻撃衆七人を差し向けて残し、勝頼は寒狭川を越えてきた。
有海原へ三十町(約3.3km)ほど踏み出し、前方に谷を当て、甲斐・信濃・西上野の小幡・駿河衆・遠江衆・三河の作手衆・田峯衆・武節衆を加え一万五千ほど、十三ヶ所に分かれ西向きに軍を備えた。互いの陣の間は、二十町(約2.2km)ほどであった。(※家康の陣までは数百mのため、どの距離か不明)

この度(武田軍と)近くに寄り合ったことは天が与えたものなので、ことごとく討ち果たす旨を信長はお考えになり、御味方を一人も失わないように賢察を加えられた。

酒井忠次を召し寄せ、徳川軍から弓・鉄砲の兵を出させ酒井忠次を大将として二千ほど。信長の馬廻衆の鉄砲五百挺、検使として金森長近・佐藤六左衛門・青山新七子息・賀藤市左衛門を添え、都合四千ほどの軍勢を率い、五月二十日戌刻(20~22時 ※夏至時刻)に宇連川を越え、南の深山を廻り長篠の鳶の巣山へ向かう。

五月二十一日辰刻(6~8時 ※夏至時刻)、鳶の巣山へ攻め上がった。旗を押し立て、凱声を上げ数百挺の鉄砲を轟然と撃ち放ち、敵の攻撃衆を追い払い、長篠城へ入る。(徳川の)城中の兵と一手となって敵陣の小屋という小屋を焼き払った。籠城兵はたちまち運を開き、(武田の)七手の攻撃衆は予想外の出来事に癈忘し、(北東にある)鳳来寺を目指して敗北した。

信長は家康陣所の高松山(弾正山)という小高い山があって上られ、敵の動きをご覧になり、命令があり次第行動するように前から命じられていた。
鉄砲千挺(※池田家本では「鉄炮千挺計」に「三」を追記して三千挺と記載)ほどを、佐々成政・前田利家・野々村三十郎・福富秀勝・原田直政を奉行として持たせ、近々と足軽を懸けさせられ、それをご覧になる。前後から攻められ、敵も軍勢を出してきた。

一番に山県昌景が推太鼓を鳴らして攻めかかってきた。しかし鉄砲で散々に撃ちたてられ、引き退く。二番に、武田信廉が入れ替わり攻撃するが、敵がかかれば引き、退けば引きつけ、命令の通り鉄砲攻撃で過半を討ち取られたので、そのとき引き下がった。三番手に、西上野小幡一党の赤武者が入れ替わり攻めかかる。関東衆の馬上巧者として、これまた騎馬で突入をしようと、推太鼓を打って攻めかかった。

軍勢を備え、身を隠して鉄砲で待ちうけ、撃たれたところ、過半が討ち倒され、無人になって引き退いた。四番手に武田信豊の黒武者が攻めかかった。このように、敵は入れ替わったが、織田・徳川の軍勢は一人も出ず、鉄砲攻撃だけを加え、足軽にてあしらい、敵はねり倒され、軍勢を討たれ、引き退いた。五番手に、馬場信春が推太鼓の音とともに攻めかかってきたが、兵を備え、先と同様に敵衆は討たれ、引き退いた。

五月二十一日、日の出から、(織田・徳川軍は)寅卯(東北東)へ向けて未刻(13~15時半)まで、入れ替わり戦い、諸卒を討ち取られ、次第に無人になっていずれも武田勝頼の旗元に馳せ集まり、叶わないと判断した。敵は鳳来寺を目指して敗走した。そのとき、軍勢を乱して追撃された。

討ち取った首で見知られた者は、山県昌景、小幡信貞、横田康景、川窪詮秋、真田信綱、土屋宗蔵、甘利昌忠、杉原日向、名和無理介、仁科、高坂又八郎、奥津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場信春などであった。

中でも、馬場信春の働きは比類なきものだった。この他、宗徒の侍・雑兵一万ほど討死した。あるいは山へ逃げ上って餓死、あるいは橋から落とされ川へ入り水に溺れるなど際限がなかった。

武田勝頼の秘蔵の馬は小口(城の入り口)に乗り損じ捨てられていた。一段と乗り心地が比類のない駿馬ということだったので、信長は厩舎に入れ置かれた。三河のことを仰せ付け、五月二十五日、美濃岐阜へ帰陣された。(後略)」

※地名は現在の名称、主な人名は一般名称で記載