【フロイス1582年度日本年報追信】本能寺の変後の動き

宣教師オルガンティーノが沖島へ避難する

「右のことをなし終えて明智は朝の8時または9時頃、兵を率いて都を出てゆき、当地から4里の所にある城に向かった。この城は坂本と称し、安土山への道中にある。すでに述べた通り、都から安土山まで14里あるから、この悲しい知らせは同日の正午にはかの地へ届いた。

市に混乱が生じ、我が(会員たち)が事の真相を知らず、また何をなすべきか分らずにいたことを尊師らも察せられるであろう。その上、当日中、あまり確かなことが分らなかったのはこの都から5里の道中に、信長がごく最近造らせたもので日本中で最良と言われた立派な橋があり、この付近に城があって同所を守るため部将の一人が留まっていたが、信長の死を知ると、明智の兵がすぐには安土山へ行けぬようにするためにただちに右の橋を破壊させたからである。

それ故、土曜日までかの地に行くことができなかったが、明智の多大な努力によって橋はまたたく間にふたたび架けられた。川は至極流れが早く、また非常に深かったので、それは不可能に思われることであった。

木曜日と金曜日、修道院の司祭たちは明智がいかにして現われ、また安土山の市と城をことごとく一物も残さず焼き払うであろうとの話を幾度も耳にしたので、同地にいる少数のキリシタンたちと協議し、神学校にいる者は安土山から3里または4里離れ、長さ25里の湖の真中にある島に避難するのが良いと一同は考えた。

これを実行するに当ってかの地より一人の盗賊が現われ、善と友情を名目に己れの船を彼らに勧め、他に救いの道はないと言った。
結局、同木曜日に実行に移し、オルガンティーノ師は28名と共に船に乗り、修道院の番人としてヴィセンテ修道士とその他6、7名を残した。我らの司祭ならびに修道士たちがこの折の苦難を伝えるため、シメアン・ダルメイダ修道士が安土山からの脱出について語っていることを本(書簡)に記すであろう。

件の知らせが安土山に届くと市は最後の審判の日かと思われるほど騒然となり、諸人が家を棄て避難するのを見たので我らは終日大いに当惑した。翌朝、近江国出身の一貴族が事を知って暴君明智に与し、その証拠に信長の城の近くにある非常に立派な自邸にすぐさま放火した。

我らはこれが何事であるかも分らず神学校から眺めていたが、すでに敵が来て人を殺し始めたとか、(市を)ことごとく焼き払うであろうといったことを聞き、時間もなく救いの手立てもなかったので、他のことには構わず我らの生命を守らねばならなくなった。

(同日の)朝、我らは言葉に絶するほどいとも慌しく(同所を)出て盗賊の船に向かったが、私は聖像付十字架と聖母の小さな像を携えて行った。我らは日本人と同じ衣服をつけ、銀の燭台、釣り香炉、舟形香入れ、聖杯および巡察師が同所に残していった緋色のビロードの装飾を持って行くこととした。

ジョアン・フランシスコ師は長衣を着て後方から来たが、この時、市中には略奪者が溢れ(金品を)強奪していたのでたちまち捕われた。彼らは同師が銀を携えていると考えて彼の身体を改め始めたが、袖が重いことに気がついた。彼はそれが銀でないことを示すため神の中から祈蔵書を取り出すやいなやこれを奪われ、他には何も見つからなかったので彼らは立ち去った。

ディオゴ・ベレイラ修道士もまた後から来たので我らが辿った道からはずれ、街路の端に至ったところで別の略奪者たちに襲われた。彼らは修道士の帽子と、長衣の上に着ていた着物を奪い、彼(の身体)を改めたが、長衣を脱がせることができなかったので、その前後を剥ぎ取った。

こうして彼は難を逃れ、我らの主(なるデウス)の御計らいにより帯に入れていた銀は取られなかった。私もまた病身であり、他の人たちほどよく歩くことができぬために遅れたが、道行く人々の言葉を聞き私も襲われることを惧れたので前の人々を見失わぬよういっそう歩みを速め、こうして我らは一異教徒の船に到着した。

彼は従前、我らに対して友情を示したため信用した人であったが、彼とその仲間たちは我らから金品を奪い、できれば我らを殺すもくろみであるように思われたので、この男の手に委ねられた我らは欺瞞と裏切りを惧れ、正しく悔悛の修行を始めたのであった。

 

沖島を脱出

我らの案内人が住む沖ノ島(沖島)と称する島に着くとさっそく、海賊たちは(我らの)所持品の半分を取ると言い出し、我らはそのような約束を交わさなかったことを理由として拒み、運賃のみを支払うと言ったが、彼らはなおもしきりに引き渡すよう要求した。我らを連れて来た男がこの裏切りの首謀者であり、非常に狡猾で極悪な詐欺師であったので我らに味方し便宜を図ると見せてその場で(要求を)取り下げさせた。

この島にはかつて1または2タンガの(取るに足らぬ)値打ちしかなかったにもかかわらず、(同所に至るまでの)3里または4里のために我らは60クルザード以上を取られた。彼は我らが多くの財を隠し持っていると当りをつけていたが我らを同所に拘留したことによって、これを得るには後になって事が明るみに出ぬよう我らを一人残らず殺せばよいと考えたようである。

しかし、オルガンティーノ師は我らが教会より携えて来た銀をいっさい失う危険を冒すことに意を決し、我らが押し込められていた畜舎に他の地方からの盗品があったが、その日はこの中に件の物を隠した。翌日の夜、我らに同行する忠実で信用に足る日本人と共に荷を取り出し、彼に命じて山へ持って行かせ、事が鎮まったら取りにやる心積りであった。

デウスの大いなる御摂理により、主人たちは我らが金を所持していないことが信じられぬため、我らから衣服を奪うと伝えてきた。彼らは我らの居る場所をくまなく捜し、銀を見つけたならば事が明るみに出ぬよう我らを皆殺しにすることは必定であった。結局、彼らは我らのわずかな所持品をことごとく開けさせたが、目当ての銀とビロードの装飾品は、すでに隠してあったので奪うべき物を見出さなかった。

しかし、彼らは満足せず、我らもまた安全ではなかった。我らは銀を山へ運ばせた時、たとえこれを取り戻せぬとしても彼らに発見されぬことのみを願っていたが、我らと多数の少年たちの生命が銀よりも大切だったからである。このような場合に多大な危険を冒して装飾品と銀を運んだ青年は我らにとってデウスより遣わされた天使のようであった。

我らは大いに苦しめられ、少量の米と水のみを採って己が生命をデウスに捧げ、いかにして自由の身となるかも分らずにいたが、主(なるデウス)はキリシタンたちの祈りを聞き、その寄る辺なき身を隣れんで奇跡的に我らを救い給うたのであり、海賊たちの全てに抗すべき援助の手を差し延べ給うたのである。

すなわち、海賊は我らを別の船に乗せて、ある秘密の場所に運び、そこでいっそう安全に我らを殺すことに決めていたが、我らをその(魔)手より解き放つべくデウスが採り給うた手段は以下のようであった。

キリシタンの一人に異教徒の甥を持つ者があり、その甥は明智からたいそう寵愛されていた。彼は自ら甥に書状を認めて我らを助けるよう(請うた)。その甥は安土山に残っていたヴィセンテ修道士と共に手を尽し、この島まで我らを迎えに来るための安全な船を雇った。我らが同船を目にした時、我らの喜びがいかばかりであったか察せられよう。

なすべきことがまだ多くあったが彼らは止むを得ず船で来た人々に我らと、彼らの手にあった家財とを引き渡し、結局、我らは隠した物を一つ残らずふたたび手にしたのである。

右の若者と共に(我らが)明智の主な城である坂本に着くと、この小姓は明智の伝言を携えてジュスト(高山右近)の許に行き、味方となるよう請うことになったが、オルガンティーノ師もまたポルトガルの文字で彼に書状を認め、たとえ我らが全員が十字架に懸けられようとも決してこの暴君(明智光秀)と親交を結ばぬよう勧め、そうすることが我らの主のためになるからであると伝えた。

オルガティーノ師が明智の一子を訪ねるため城に赴いたところ、(この子息は)街道をすべて占領しているため非常に重立った彼の守役を都まで我らに同行させることを望んだが、司祭は書状のみで十分であると言って懇願し、彼はただちに(人に命じて)それを与えさせた。

これは我らの役に立った。というのも、司祭が20名を先に行かせた時、彼らは道中で捕われたが書状を見せると通行を許されたからである。明智の小姓と共に都に着くと我らは彼の善行に感謝し、オルガンティーノ師は彼にポルトガルの帽子を一つ贈った。主(なるデウス)の御恵みと彼の尊い恩恵により我らは生命と、携えていた教会の銀および装飾品を救われたのである。

都の司祭や修道士は我らが皆、死んだものと考えていたので彼らの歓喜と満足は大変なものであった。また、明智がここから1里の所にいたにもかかわらず我らのことを知らなかったのはデウスの大いなる御摂理であり、明智はキリシタンの諸侯、とりわけジュストが敵であることを知っていたが、主(なるデウス)は我らをいっさいの陰謀から救い給うた。

 

安土の様子

ふたたび事件の経緯に話を戻せば、司祭たちと神学校の少年たちが出立した直後の土曜日、明智は安土山に到着したが、皆逃げ去っていたので抵抗には遭わなかった。こうして信長の邸と城を我が物とし、ここには日本の逸品がすべて集められてあったので城の一番高い所に上がり、金、銀、ならびに各種の貴重な品々を多数納めたと言われる信長の蔵を開け、ほとんど労せずして得たものであったため家臣たちに広く分け与えた。

信長が多大な労苦と戦さにより15年または20年かけて手に入れたものを彼は2、3日の間に、貴人にはその位に応じて、また低い身分の者には彼の好みに従って黄金を分配した。幾人かの身分の高い人々に各々、黄金一千両、すなわち7,000クルザードを与えたが、この黄金はすべて一定の目方の棒にしてあり、他の人々には3、4クルザードを与えた。

都には禅宗、すなわち現世の後には何も無いと説く宗派の主な5僧院があり、五山と呼ばれているが、信長の葬儀を盛大に行なうために右の各僧院に7,000クルザードを贈った。都の住民、ならびに同地にいた彼の友人たちには多数の黄金や価値ある品々を贈った。

また、このような莫大な富をほとんど享受せぬであろうとあらかじめ述べていた通り、彼はいともたやすく貧者や見知らぬ者にも分け与え、この香りに多数の人が引き寄せられて来たが、或る者には200クルザードを、また或る者には300クルザードを与えた。

これは身分の低い人々に分与した最少額であった。彼は(市の)いずこにも火を放たなかったが、重臣を一人、幾らかの兵と共に同所に残して彼は予期していた戦さを始めるため、2、3日後、都と境を接する河内国と津の国(摂津国)へ引き返した。

この時、安土山では略奪が行なわれ、家々を荒らして家財を盗み、路上では追割を働くことのみが横行していたが、このことは同所ばかりでなく堺の市から美濃国および尾張国まで道程にして6、7日の所でも同様であり、ここかしこで殺人が行なわれた。

それ故、これほどの甚大なる荒廃をもたらすため地獄がことごとく(この世に)出現したかに思われたほどであり、わずか一人の人間の死によって諸国がこんなに混乱するとは尋常ならぬことである。

我らもまたこれらの多大な苦難と損失を免れることはできず、我が安土山の修道院と神学校はすべて新築で、未だに工事中であったが、ここに兵士たちが侵入して略奪を始め、修道士や下僕らが都へ(逃れて)来ると繰り返し略奪を被った。

修道院は信長の城と邸の下にあってもっとも安全と思われたので、(イエズス)会が当地方に有する家財や装飾品の大半が同所に集められ、神学校の求めに応じたあらゆる物が十分に備わっていた。

既述のように、ビロードおよび銀製の祭壇飾りを除いてその他いっさいの物が奪われ、家財のみならず、窓、戸、部屋の内装、および新たに教会を建てるため同所に買い集めておいた約400クルザード相当の木材までもが一つ残らず持ち出された。
同所に居住していた人々の話によれば、盗まれたものは2,800クルザード以上に値し、運び出せなかった柱と屋根以外には何も残らなかった。

 

家康の伊賀越え

この時、先に述べた信長の三七殿と称する第三子は己が兵と共に堺に在って、父から贈与されたかの四ヵ国を占領しに行くため準備をなしていたが、父と兄の死を知るとただちに引き返して報復の準備を始めた。

まず最初に七兵衛殿(織田信澄)と称する彼の従兄弟を殺して我が身の完全を図ろうとした。彼は、信長が数年前、父の跡を継ぐため殺した兄弟(弟の織田信行)の一子であった。この青年は信長に父を殺され、また明智の一女と結婚していたので彼が義父と共に信長殺害を企てたと誰もが考えていた。その時、青年は信長の命によって丹羽五郎左衛門(丹羽長秀)という他の部将と共に堺から3里の所にある大坂の城を守っていた。

堺を見物に行った既述の大身二人の内、一人は信長の義兄弟で三河の国主(徳川家康)であり、もう一人は穴山(梅雪)殿と称したが、知らせに接するとその日のうちに急いで自国に向けて引き返した。

三河の国主は多数の兵と、賄賂とするための黄金を持っていたので何とか(街道を)通行し折よく避難した。穴山殿はやや出遅れたようであり、兵も少なかったため、途中で略奪に遭い、財物のいっさいを奪われたうえに兵をことごとく殺され、彼は辛うじて逃れた。

この穴山殿はかって信長とその息子が占領した甲斐国の太子であり、ヴィセンテ修道士が我らに通信してきたところによれば、このたびの反乱が起こる以前、彼はデウスのことについて良い評判に接したため説教を聴き始め、(続いて)聴聞すべく好機の到来を望んでいたが、後になって彼もまたその途上で殺されたのである。

 

織田信澄を攻撃

さらに話を進めれば、まだ乗船していなかった三七殿(信孝)は知らせを受けると2時間後には明智と一戦を交える覚悟で出発しようとしたところ、彼の兵は各地から集まった人々であったから反乱を知るとたちまち大半の兵は彼を見棄てた。彼はこれに当惑し、己れの望みを達することは叶わぬと考え、彼の従兄弟の七兵衛殿(信澄)がいる大坂へと向かった。

この人は彼の父の殺害に同意したと言われていたが、彼と共にいた五郎左衛門(丹羽長秀)と称する部将はこの信長の息子と非常に親しかった。そして、城内に在った従兄弟(信澄)は三七殿(信孝)をひたすら入城させまいとして大いに尽力していたので三七殿は右の部将と多数の伝言を交わした後、その助けを借りて大坂に入った。従兄弟(信澄)は彼を大いに恐れていたので彼が兵と共に入城することを決して許さず、己れの兵を町に留め置いた。

同所に2日滞在した後、彼(信孝)は五郎左衛門と協議し、大いに警戒して塔の最上層から決して降りない従兄弟を殺す手立てを決定した。彼を殺すため彼らが考え出した策略とは以下のようであった。

すなわち、城の第二の部将である五郎左衛門が乗船するかのように船まで三七殿に同行すると見せかけ、三七殿の兵と五郎左衛門の兵との間で偽りの争いを起こすことが申し合わされていた。

従兄弟の兵は城外に出ず、彼もまた殺されることのみを惧れていたので、示し合わせた通り両者の間で争いを起こし、五郎左衛門の兵が負けたふりをして城内に逃げ込み、これに続いて三七殿の兵が入城した。その後両者は一団となって従兄弟の兵を多数倒した。塔内にいた従兄弟は自害したとも、また青年武士たちに殺されたとも言われている。

三七殿は好評を博し、河内の諸候がさっそく、彼を訪ねて主君と仰いだ。三七殿は従兄弟の首を堺においてさらしたが、正しく残虐の故のことであり、諸人は彼を暴君と見なし、彼が亡びることを望んでいた。

 

高山右近が高槻城へ帰還

明智が信長を殺した時、都に接する津の国(摂津国)の殿たちならびに重立った貴族は毛利との戦争に出かけていたので、同国の諸城をただちに占領させなかったことは明智の不明とするところであり、自らの滅亡の原因となった。それらの城は信長の命によって破壊されており兵もいなかったので、500名をもってすれば諸城から人質を取り、己れの兵を城に入れることはいとも容易であった。これはキリシタンがいっさいを司る高槻の城にとっていとも不安なことであった。

というのも、ジュスト右近殿は毛利氏との戦さに出かけており、二人の子を抱えた彼の妻ジュスタは寄る辺ない身となっていたからである。それから2日後、三ケから高槻に戻ったジョセフ師が言う通り、右のことは明らかに主(なるデウス)の御摂理であった。

明智は、ジュスト右近殿は(戦さから)帰還すればかならず己れに与するであろうと思い違いをしていたので、ジュストの許に人を遣わし、案ずるには及ばず城は彼に味方するようにと伝えたが、この時、高槻の家臣たちは都合の良いように偽った返答をした。

明智は十分納得したので人質として子を要求することも、また同じ目的で我らを利用することもなかった。さらに、ジュストが己れの敵と判った後も、これを実行し我らを難なく捕えるだけの力があり、信長もかつて荒木の時に同様に処したことを知っていながら行動に出なかった。

司祭および修道士たちが明智に人質として取られることはかの都地方のキリシタン一同にとっては明智が死ぬまで抱き続けていたもっとも大きな損れの一つであったが、我らの主(なるデウス)はすでに暴君を盲目になし給い、彼の家臣までが事の次第をよく知らなかったにもかかわらず、ジュスト右近殿は司祭たちの手の内にあると言いふらすほどであった。

オルガンティーノ師はジュストに書状を認め、彼が戦さから戻った後、我らの主なるデウスのためなおいっそう善行と奉仕を行ない、たとえ明智が我らをことごとく十字架に懸けるとしても我らは己が聖務において死ぬのであるから、我らのことにはいっさい気を留めぬよう伝えた。

毛利氏の征服者、羽柴(秀吉)殿の陣中においても信長の死が伝えられるやいなや、毛利氏がそれを知るよりも早く己れに有利な和睦を結んだ。殿たちは即刻、各自の城へ急いで戻り、羽柴殿自身も明智と一戦交える準備をした。

ジュスト右近殿は徳、身分、武勇、その他望みうるいっさいのことにおいて都地方の全キリシタン宗団の中心をなす柱であり、彼もまた急遽、出発したものの、到着する頃には高槻の城と自領はすべて敵の手に落ちているであろうと心配していたが、我らの主は御慈悲により既述のように敵のみならず、その他の差し迫っていた大なる危険からも城を守り給うた。

すなわち、他の異教徒の諸城では領主が帰らぬ間にまさにその家臣や農民が略奪を働いたが、高槻の城では決して起こらなかった。ここ(都)地方におけるもっとも大きな荒廃にして悲惨な光景は各地で生じた略奪であったが、高槻城下はことごとくキリシタンであったので香気を放ち、異なる様相を呈していた。

ジュストが高槻に帰着するとキリシタンたちは皆生き返ったかのように見え、ただちに彼は自ら明智の敵であることを公言し、能うる限り迅速に城を整えて信長の第三子三七殿および毛利氏の征服者羽柴殿と手を結んだ。

両人は信長殺害に対して復讐することですでに意見の一致を見ていたのであり、彼らは共に、なるだけ優れた軍勢を率いて明智に立ち向かうことに意を決したが、当地方の重立ったキリシタン宗団がある河内国と津の国の身分の高い武士らがことごとく彼らに加わった。

ただし、三ヶ殿(三箇頼照)は明智が河内国の半分と兵士に分与するための黄金を積んだ馬一頭を約束していたので彼の側に立った。

羽柴殿は強大なる力を有し、(多数の)国々を所領としているため諸人から恐れられているが、三七殿をたいそう重く見ており、庶民は彼が三七殿を父に代わる殿様として擁立するであろうと考えるほどであった。
我らにはいかになるのか分らぬし、また異教徒は生来傲慢であるため、彼が自ら王国の主となりうるにもかかわらず他の者に政治を譲るほどの謙虚さを持ちあわせているのか否かも分らない。

 

光秀が摂津へ進軍

明智は安土山において信長から奪った多大な財宝を思いのままに分配した後、引き返して都から1里離れた鳥羽と称する所に身を置き、都から3里の所にあって信長の義兄弟が部将を務める勝竜寺と称するきわめて重要な城を我が物とした。

そして同所で味方となる者を待っていたが、これは羽柴殿の決意がいかなるものか見定めるためでもあった。彼は五畿内でもっとも智慮があり勇猛な武将であったにもかかわらず、はなはだしい悪行と非道を行なったため、たちまち分別を失い、幾度か好機を逃したことにより事態は徐々に悪化し、これが彼の滅亡の原因となった。

その時、彼は8,000または10,000の兵を有していたが、津の国の軍勢が味方につかないのを知って数カ所の城を包囲することとし、徐々に高槻に迫っていった。」