【甲陽軍鑑】長篠の戦い

【甲陽軍鑑】品第五十二「長篠合戦の事」(現代語訳)

「その後勝頼公は信州より遠州平山越えをして、三州のうりというところにお着きになり、長篠の奥平が籠もる城へ攻められた。家康は後詰ができず結局、山県三郎兵衛(山県昌景)に押し詰められて悉く敗れたので信長を引き出した。

(家康は信長へ援軍の使者を送るが断られる。3度目の使者で徳川家は武田傘下になってしまうと伝えると、ようやく信長は出陣する)

さてこの長篠では武田の家老、馬場美濃守(馬場信春)、内藤修理(内藤昌豊)、山県三郎兵衛、小山田兵衛尉(小山田信茂)、原隼人佐が皆ともに申したのは、御一戦なさるのは御無用です、といろいろ申し上げたが、御館様勝頼公と長坂長閑(長坂光堅)、跡部大炊助(跡部勝資)は一戦してよいのだと言って決まった。

御館様はこのとき御年三十歳だったので、長坂長閑と跡部大炊助が申すのをもっともだと思い召され、明日の合戦はやめられないと、御旗と盾無しの鎧に誓われた。

その後は誰も物申すことはできず、三州長篠において、天正三年乙亥五月二十一日に、勝頼公三十歳の大将一人、軍勢は一万五千、敵は信長四十二歳、息子城介殿(織田信忠)二十歳、その舎弟(織田信雄)十八歳、家康三十四歳、子息(信康)十七歳、軍勢は信長と家康合わせて十万である。

さらに柵を三重に設けて要害を三つ構えて待ち受けているところへ、勝頼公一万二千の軍勢にて攻めかかり、防戦をなされ、一戦はみな武田方の勝利と申した。

それは馬場美濃守が七百の兵で佐久間右衛門の六千ほどを柵の中へ追い込み追い討ちで二、三騎討死したからである。

滝川(一益)の三千ほどを、内藤修理衆が千ほどで柵の中へ追い込んだ。家康衆六千ほどを、山県三郎兵衛が千五百で柵の中へ追い込む。

しかし家康は強敵なので、また攻撃に出る。山県衆は味方の左の方へ廻り、柵の木がない敵の右の方へ押出し、後方より攻めかかる動きを、家康衆は気づく。
大久保七郎右衛門が蝶の羽の指物をさし、大久保二郎右衛門は釣鐘の指物にて、兄弟と名乗りを上げ、山県三郎兵衛衆の小菅五郎右衛門、廣瀬郷左衛門、三科伝右衛門の三人と声を出し、追い入れ追い出し九度の戦いが行われ、九度目に三科も小菅も傷ついて引き退いた。

そのうえ山県三郎兵衛が鞍の前輪が外れたところを鉄砲にて後ろへ撃ち抜かれ討死したのを、山県の被官の志村が首を取り甲州へ帰った。

その後甘利衆も一度戦い、原隼人衆も一度戦い、跡部大炊助も一度戦い、小山田衆も戦い、小幡衆も一度戦い、典厩衆も一度戦い、望月衆も、安中衆もいずれも戦いにはみな柵際へ追い詰め勝利した。甲州武田勢の中央と左翼の戦いは以上である。

さて右翼は真田源太左衛門(真田信綱)、同兵部助(真田昌輝)、土屋右衛門尉(土屋昌続)、この三名は馬場美濃守衆と入れ替わったが、上方勢は家康衆のように柵の外へ出てこないので、真田衆が攻めかかって柵を一重破ったが、おおかた討死してしまった。あるいは傷を負い引き退いたが、中には真田源太左衛門兄弟は深手を負いそのまま死した。

その次土屋右衛門尉は申すのは、先月信玄公の御葬儀の際に、追腹を切ろうとしたが、高坂弾正に言われ、このような合戦を待てと申されたことにつき、命を永らえてきた。今こそ討死すべきであると言い、敵は出てこないので自身から攻めかかって、柵を破って土屋右衛門尉その歳三十一にて討死した。

馬場美濃守は七百の軍勢も、おおかた傷を負い引き退く。あるいは死んで八十人余り、馬場美濃守はいまだ傷を負っておらず、同心や被官へ皆退けと申したが、さすがの武田勢なので、美濃守を捨てては退かず、穴山殿衆は戦わず引き退いた。一条右衛門大夫殿は馬場美濃守のそばへ馬を寄せ一緒にいた時、一条殿の同心の和田と申す者、その歳三十歳ほどだったが、戦には長けていたので、馬場美濃守殿に向かって下知なされよと申した。

馬場美濃守はこれを聞き、にっこりと笑い、引き退くしかあるまいと言い、退却する。しかしながら御旗本が崩れている間は退却せず、勝頼公の大の文字の小旗が敵に後ろを見せてから、退却された。

その後は一条殿も、いずれも退却された。ただし馬場美濃守殿は退却したが、長篠の橋場に来ると少し後へ引き返し、高い所へ上がり、”馬場美濃にてあるぞ、討って手柄にせよ”と潔く名乗った。敵四、五人が槍を持って突き落とすが、刀に手をかけず、この歳六十二歳で討死した。

勝頼公がこの合戦を思い留まられるように御意見申したとき馬場美濃守の意見を聞かれなかったので、そこに長坂長閑、跡部大炊助に向かい合戦を勧め申した傍らは、おのずから逃れることもあるだろう。留め申した馬場美濃守はおおかた討死であると申された、言葉ゆえの通りである。

(この後、勝頼のお伴の初鹿伝右衛門が勝頼がつけていなかった母衣(ほろ)を用意する。また信玄からの秘蔵の兜を、預かっていた初鹿伝右衛門が逃げる際に捨てたのを、小山田弥助という武士が名高い兜は捨てられないとして持ち帰った)

これは勝頼公三十歳の御年の三州長篠合戦というものである。

甲州方の侍大将、足軽大将、小身な衆まで剛勇な武士はおおかた全て討死した負け合戦であった。
討死の衆は馬場美濃守、内藤修理少輔、山県三郎兵衛尉、原隼人佐、望月殿、安中殿、安中左近、真田源太左衛門、同兵部助、土屋右衛門尉、足軽大将横田十郎兵衛。城伊庵は深沢へ、小幡又兵衛は足助へ出ていたのでこの両人は足軽大将として残った。飛脚がたてられ甲府へ呼び戻された。

甲州勢がこの度小勢だったのは、越後謙信より前年戌十二月、一向衆長遠寺を呼び、勝頼公へ伝言があり、遠州、三州、美濃の三ヵ国を取り来春に勝頼公は上洛されよ、謙信は越前から上ろう、という内容だったが、勝頼公は御返事で承諾しなかったので、輝虎は腹を立て申されたのである。

その上東美濃、遠州の城東郡で勝頼公が見事だと聞き、謙信が信濃へ打ち出なかったら、勝頼公に恐れをなしたと諸国に言われるかと思われ、信濃へ手を出すと内々思われているとの報せがあり、一万余の信州勢を高坂弾正へつけて越後の抑えに置かれていたので、勝頼公の御軍勢は長篠へ一万五千で出られたのである。(後略)」