1582年(後半) 西国 中国大返しと山崎の戦い

1582年勢力図 山崎の戦い ※スマートフォンはタップせずに拡大表示できます

【小勢力マップ】

 

<織田・豊臣家>

本能寺の変後の動き

天正10年(1582年)6月3日、明智光秀が坂本城から近江へ向かう。(前日の6月2日、瀬田城主 山岡景隆に瀬田橋を焼き落とされ坂本城へ入っていた。)
光秀は瀬田橋を復旧させ、安土城へ進軍する。

6月3日朝、安土留守居役の山崎片家が明智方につく証として自邸に火を懸け、居城の近江山崎山城へ退去する。【フロイス日本史】

 

また安土城では6月2日夜、蒲生賢秀が安土城に残る信長の家族を日野城へ避難させるため、息子の蒲生氏郷を日野城へ行かせ牛馬や手下を用意させる。

6月3日未の刻(13~15時)、蒲生賢秀らが退去する際、信長の御上衆は天守にある金銀・太刀を奪い、城に火を懸けてから退くことを命じる。
しかし蒲生賢秀は天下無双のお館を焼くことは畏れ多く、金銀を乱取りすれば天下の笑い者になるとしてこれを拒否。夫人(文字判別不明)に警護を申し付け、日野城へ退去する。【信長公記】
※【東浅井郡志】では救出されたのは信長の夫人・側室・子女以下と記載。

「蒲生賢秀の侍 外池新介が進み出て申すには、もしこの御城で自害されると信長公の御台君達(濃姫カ)などは下臈の囚人となられてしまい、勿体無いことです。
まず御台君達を退けられることこそ、故将軍への忠節であります、と申し上げると、賢秀は確かにと思われ、御台君達やその他の女房達を日野の谷へ退けるよう申し、我が居城で籠城しようと言い、
(日野城にいた)子息忠三郎氏郷方へ、乗り物五十丁、鞍置き馬百匹、伝馬二百匹を召し連れ急ぎ参るようにと申し遣わせ、明くる三日の卯刻(5~7時)に退かれた。」【氏郷記】

 

6月3日朝、長浜城へ本能寺の変が伝わる。長浜城には秀吉の母なか(後の大政所)や妻ねね、木下家定(ねねの兄)がいたが、守備兵はほとんどいないため、広瀬兵庫助の里を頼って城を脱出する。【東浅井郡志】

6月3日昼頃、昨日に変の一報を聞いた徳川家康の一行が宇治田原城(城主 山口甚助秀康)へ入り、伊賀越えを行う。

 

<本能寺の変後の動き>
本能寺の変 動き 明智光秀
※明智軍の6月3日の宿営場所、家康一行の6月2日の宿泊場所は推定。

 

6月3日、京では明智軍による残党狩りが続いており混乱状態が続く。御所は住民が逃げ込んだため混雑する。【信長公記】

安土の町が混乱状態となる。
「安土の市はこの時、最後の審判の日を示したようであった。人々のある者は一方向に避難し、他の者は別の場所に身を寄せており、婦女の声、子供らの泣き声、男たちの叫びなど、民衆の混乱と狂気の沙汰は慨嘆すべきものがあった。」【フロイス日本史】

6月4日(宣教師は謀反当日を水曜日と記載していて、この日は金曜日と記載)、安土にいた司祭オルガンティーノは修道士らと協議、琵琶湖の沖島へ退去することを決める。
そこへ宣教師らを同情したふりをした者が船を用意、司祭はその船に修道士や神学校の子供たちを含む28名を乗せ、島へ退去する。

しかし船を用意したのは盗賊で、島に着くとその仲間の盗賊らがおり、全員狭い建物に隔離される。
司祭らは修道院から多くの銀や装飾品を持参していたが、同伴していた日本人の若者に頼み、夜になって島の山へそれらを隠させた。
盗賊は所持している家財を全て出すように伝えるが、欲しい物は既に隠しているため見つからなかった。

ついに盗賊らは司祭ら全員を別の場所で殺害するところだったが、あるキリシタンの異教徒の甥が、光秀と親しい間柄だったので、その甥に救助を求めて手紙を送ると、安土の修道院に残っていたヴィセンテ修道士とともに(おそらく兵を連れた)安全な船が島に派遣された。

盗賊は盗んだ家財を差し出し、司祭らは山に隠した銀を回収し、そしてその船に乗って島を脱出した。

司祭らは坂本へ到着すると、光秀のある一小姓の家に泊まった。その小姓の者は高山右近の城(高槻城)へ味方につくよう説得に向かう使者だった。

そこでその使者はオルガンティーノに、司祭からもジュスト右近を説得して欲しいと嘆願すると、オルガンティーノはこれを快諾し、手紙を二つ用意する。
一つは日本語で、光秀の味方になることを書き、もう一つは使者にはわからないポルトガル語で、「全員が磔になるとしても絶対に暴君(光秀)には仕えないように」と書き、手紙を使者に渡した。

その後司祭らは坂本城にいた光秀の息子(嫡子 十五郎か)を訪問する。
光秀の息子は司祭が京都へ戻るには、道中は占拠されていることから家臣を同行させようとしたが、司祭は通行書でよいと返答する。

その後司祭らは通行書によって捕らえられることなく京都の修道院へ着くと、使者の小姓にお礼としてポルトガルの鍔の広い帽子を差し上げた。

 

天正10年(1582年)6月4日、光秀が安土城へ入城する。
※奈良興福寺の英俊は4日に安土へ入ったと6月5日条で記載。【多聞院日記】
※吉田兼見は6月5日条で、光秀が安土に入城したこと、蒲生賢秀が安土城にいたが無事に城を渡したと2,3日の出来事を記載。【兼見卿記】

光秀は安土城にあった信長の金銀財宝を接収。財宝を朝廷や寺社に奉納し、また身分に応じて貴族や家臣、知人、さらに財宝目当てに集まった庶民にまで2,3日のうちに分配する。【フロイス日本史】

「貴人にはその位に応じて、また身分の低い者には彼の好みに従って黄金を分配した。幾人かの身分の高い人々にそれぞれ、黄金1千両、すなわち7,000クルサードを与えた。
信長の葬儀を盛大に行うために(禅宗の)各僧院に7,000クルサードを贈った。都の住民、ならびに同地にいた彼の友人たちには多数の黄金や価値ある品々を贈った。」【1582年日本年報追信】

 

大和国では6月3日、国衆が大安寺などに集結。6月4日、筒井軍の南方衆・井戸氏の一手衆が光秀のもとへ出陣するが、翌日に引き返す。「軍勢が早くも引き返した。信孝と申し合わせをしたか。」【多聞院日記】
6月5日、「先日山城へ向かった軍勢は今日近江へ進軍、光秀と手を合わせた。筒井順慶は堅く光秀と一味になっているらしい。」【多聞院日記】

伊賀国では織田信雄(北畠信意)の兵が城を捨て逃亡、牢人衆が城を占領する。【多聞院日記】

 

6月5日、光秀は斎藤利三と山崎片家を北近江へ進軍させ、城主がいなくなった佐和山城は山崎片家、長浜城は斎藤利三がそれぞれ占領する。【多聞院日記】

また阿閉貞征・貞大父子(浅井から織田に内応した武将)が明智方につき、長浜城へ入る。
京極高次(母は浅井長政の姉京極マリア、また武田元明の義兄)、若狭の武田元明も明智方となり、佐和山城へ入る。

 

丹後国の細川家へ光秀の使者が来る。使者は細川忠興へ軍勢を連れ急ぎ上られるようにと伝えるが、忠興は今回は命を助けて返すが、重ねて参れば誅伐すると返答する。【細川忠興軍功記】

細川藤孝は本能寺の変を聞くと出家し、細川幽斎と名乗り田辺城に隠居する。嫡男 細川忠興は妻の玉(光秀の娘、細川ガラシャ)の身を案じ丹後味土野の山中へ幽閉させる。

 

6月5日、大坂城(旧石山本願寺)で織田信澄(光秀の娘婿、信長の弟信行(信勝)の息子)が殺害される。

大坂城の織田信澄は織田信孝(神戸三七郎)が城へ入るのを防いでいたが、信孝は城内にいた丹羽長秀の助けを借りて大坂城へ入る。
さらに信孝と丹羽長秀は両者の間で偽りの争い事を起こし、敗れたふりをした丹羽長秀が内部へ逃げ込むと信孝の兵も続いて押し入り、塔に籠もっていた信澄を攻撃。これにより信澄は戦死する。【フロイス日本史】
(【細川忠興軍功記】では信澄は千貫櫓で切腹したと記載)

 

備中高松城の戦い

備中高松城では5月からの水攻めが続く。

城主の清水宗治は兄の宗知(月清入道)へ降伏を相談する。宗知も賛同して弟の難波宗忠、末近信賀へ伝える。
6月3日昼、清水兄弟が蜂須賀正勝・杉原家次へ使者を送り、切腹と城兵の助命を伝える。

「謹んで我らの考えを申します。…当城の運命はいよいよ終わりが近づいています。清水兄弟、難波伝兵衛尉(難波宗忠)、近松左衛門尉(末近信賀)が人々の命に代わり切腹いたします。憐みの心をもって籠城の者へ寛大な仁徳を施され、悉くお助けくださればかたじけなく存じます。
よってお返事次第、明日の四日中に切腹に及びます。そこで小船一艘と美酒佳肴をくだされば、籠城の苦しさを忘れ、老兵の疲れを癒やすことができると存じます。」【甫庵太閤記】

清水宗治は息子の源三郎へ遺言書「身持ちの事」を残す(6月3日付)。

6月3日深夜、秀吉のもとへ信長自害の報せが届く。「上様御腹めされ候由、四日に注進御座候」【天正10年10月18日付秀吉書状】
(天正18年5月20日付秀吉書状では三日の晩に届いたと記載)

6月4日昼前、清水宗治・宗知、難波宗忠、末近信賀が船の上で自害する。【甫庵太閤記】

戦闘が終結した秀吉は毛利との領土交渉を行い、毛利から3か国譲渡で交渉がまとまる。

 

※【萩藩閥閲録】
秀吉は安国寺恵瓊を呼び国境を高梁川とすること、清水宗治の切腹要求を伝える。恵瓊はその内容を輝元に伝えるが宗治の切腹に納得しなかったため、密かに高松城へ入り清水宗治へ秀吉の講和条件を伝える。宗治は要求を受け入れ、切腹は6月4日と決まる。
4日巳の刻(午前9時~11時)、清水宗治と兄月清、家来四名が乗船し切腹する。

※【惟任退治記】
6月3日夜半、本能寺の変の一報が入る。高松城が降参を伝え、毛利家も以前から五か国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)進上と起請文を添えた人質を出すことを懇願。
秀吉は清水宗治を切腹させ、家臣の杉原家次が検使として城の請取りを行う。毛利軍の陣払いの後、6月6日未の刻(13~15時)に備中高松を引き上げる。
※羽柴秀長家臣の杉若無心の書状では三か国譲渡と書かれている。

※【6月8日付 毛利輝元書状 大日本史料】「羽柴和平の儀を申すの間、同心せしめ無事に候、まずもって互いに引き退き候」
※【別本川角太閤記】「怪しい者を捕らえると小早川隆景宛の光秀書状だった」
※【甫庵太閤記】6月5日朝、秀吉は毛利へ信長の死を伝え、和睦を求める。評議を行い、武勇にはやる者は追撃を提案するが小早川隆景は慎重を期すべきと発言、輝元は隆景の意見を採用する。
※【吉川家文書】「下々が申すには、今手を返せば天下を存分にできると言ったのを、隆景・元春はご分別が違うと、それぞれが申された」

「先年備中高松の城、□太閤様お責めの刻、信長ご生害の故、当方にご和平仰せ談ぜられ、御陣打ち入れらるべくの折節、紀州雑賀より、信長不慮の段、慥かに(確かに)申し越し候、下々申し様は、この時手を返し矛楯に及び候はば、天下則ち時にご存分に任せらるべき所を、隆景・元春ご分別違へ候と、各申され候へ共、前日神文取り替えられ候辻」
【慶長5年9月15日 輝元宛 吉川広家自筆覚書案 吉川家文書】

 

戦いを終えた秀吉は、光秀討伐のため急ぎ上方へ向かう。

 

中国大返し

<備中高松~山崎まで山陽道、西国街道の移動距離 約210km>
※【甫庵太閤記】では軍隊の行軍を「一日六里(約24km)」を基準と定めている。
210kmを(6月5日~6月12日として)約8日間で移動した場合の行軍速度は約26km/日となる。

6月5日(または6日) 高松~沼 <23km>
秀吉軍が備中高松から進軍、上方へ向かう。

秀吉が中川清秀に、信長は生きていると偽りの情報を伝える。
「野殿まで打入った処、御状を拝見した。今日(6月5日)は成り行き次第で沼まで通る。…上様(信長)と殿様(信忠)は何事もなく切り抜けなされ、膳所ヶ崎(大津)まで退かれた。」
【6月5日付 中川清秀宛 秀吉書状 梅林寺文書】
※他の秀吉書状では「五日まで対陣」と書かれている。【秋田家文書】

「尚々、野殿迄打ち入り候の処、御状披見申し候、今日成り次第、ぬま迄通申候、古左(古田重然)へも同前に候、自是可申与存刻、預示快然候、仍只今、京より罷下候者、慥申候、上様(信長)并殿様(信忠)、何も無御別儀、御きりぬけなされ候、せ丶(膳所)か崎へ、御のきなされ候内ニ、福平三(福富平左衛門)三度つきあい、無比類動(働き)候て、無何事之由、先以目出度存候、我等も成次第帰城候条、猶追々可申承候、其元之儀無、御油断御才覚専一候、恐々謹言」

6月6~7日 沼~姫路 <70km>(歩兵部隊は6月8日にかけて2~3日の行程と思われる)
「七日大雨疾風、洪水を凌ぎ姫路に至る二十里をその日に着陣」【惟任退治記】
※この区間は中国大返しで難所の船坂峠がある

6月8日、杉若無心(羽柴秀長家臣)が細川家臣松井康之へ書状を送る。
「去六日に姫路に至る、秀吉が馬を納れられた、…九日に悉く出陣する、なお昨日先に軍勢を出し帰っている」【松井家譜】(秀吉が騎馬で先着、その後歩兵が続いて到着したと思われる)

6月8日 姫路滞在
6月9日 姫路~明石 <35km>
「只今午刻(11~13時)、大明石に至り着陣した」【6月9日付秀吉書状 広田文書】
「諸卒揃わずといえども九日姫路を立つ、昼夜のさかいなく、人馬の息を休めず尼崎に至る」【惟任退治記】

6月10日 明石~兵庫 <17km>
6月11日 兵庫~尼崎 <25km>
「十一日の辰の刻(7~9時頃)に尼崎へ着陣」【10月18日付 (信孝家老)斎藤利堯・岡本太郎左衛門宛 羽柴秀吉書状 金井文書】(以下【秀吉書状 金井文書】)

6月12日 尼崎~伊丹~富田 <28km>
「播磨より羽柴摂津有岡城(伊丹城)入城あり」【宇野主水日記】(有岡城主は池田元助)

6月12日、秀吉が富田まで進軍する。ここで中川清秀・高山右近・池田恒興ら摂津衆と合流する。
秀吉は南から来る織田信孝を待つため、富田に陣を置く。【秀吉書状 金井文書】

6月12日、高山右近ら摂津衆が山崎村を占領する。先手が勝竜寺城の近辺を放火する。【兼見卿記】

6月13日 富田~山崎 <10km>
6月13日昼、秀吉が淀川を越えた信孝を迎え、進軍する。(山崎の戦いは6月13日朝より戦闘開始、昼頃に秀吉軍の勝利となる)

「光秀は秀吉が毛利攻めの間に摂津を抑え播磨へ乱入し、毛利に敗れる秀吉を討ち果たすと軍議するが、すでに秀吉が富田に着陣と聞き一戦を覚悟した。
秀吉勢は遅れた兵が多く一万余名に過ぎないが、精鋭たちであり他に織田信孝・丹羽長秀・堀秀政ら摂津の軍勢が加わった。」【惟任退治記】

※同じ頃、本能寺の変を聞いた柴田勝家は交戦中の越中から即撤退を開始し、近江長浜まで旧北陸街道の約300kmを12日間(25km/日)で引き返している。

 

北陸・関東方面の動き
3月より柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政が越中の魚津城を攻撃。6月3日、落城させる。

「魚津城へ四方より攻め寄せてきた。城兵が話し合うには、たとえ防戦しても景勝公はすでに馬を収められ、再度の出馬も間がない。そのうえ兵糧も絶え力戦も叶わず、然る後は敵に生け捕られ武名を汚すのも口惜しい。各一同腹をかき切って名を後世に残そうと言う。

それぞれが尤もと一決し、板札に姓名を書き、耳輪に穴を空け、姓名札を結びつけてそれぞれ腹十文字にかき切って同じ枕に死んだ。忠死した者は中条景泰、竹俣慶綱、吉江信景(以下12名)である。」【上杉家御年譜】


魚津城を落とした後、柴田勝家は越中 宮崎城へ軍を進めると、6月5日夜に上杉軍は退却する。

6月6日、柴田勝家に本能寺の変の報せが届く。【6月13日頃 柴田勝家書状】
6月6日夜、柴田軍が撤退する。【6月9日付 上杉景勝書状 平木孝志氏所蔵文書】

勝家は上杉や一揆勢の対策として、佐々成政に越中、前田利家に能登、佐久間盛政に金沢城を守らせる。

6月8日、上杉景勝が家臣の色部長実へ、上方で凶事があり織田諸将は悉く敗軍になったと伝える。【上杉家御年譜】

6月9日、勝家が越前 北ノ庄城へ帰城する。※北ノ庄城まで約190kmの距離を3~4日間で移動しており、勝家は騎馬隊での移動、歩兵はその後遅れて到着したと思われる。

6月10日、勝家は若狭 高浜城 留守居役の溝口半左衛門勝吉へ書状を送り(丹羽長秀と高浜城主 溝口秀勝は大坂にいた)、
昨日北ノ庄城へ戻ったこと、近江にいる光秀は優勢(実際の光秀は6月9日に安土から京へ移動)、また各将が連携して光秀を討伐すること、また若狭で牢人衆が蜂起すれば加勢すると伝える。(大坂へは近江ルートが使えないため若狭を経由している)【6月10日 溝口半左衛門勝吉宛 柴田勝家書状】

 

 

東美濃の動き
海津城の森長可は越中を攻撃中の柴田勝家の援軍として越後へ侵攻、春日山城近くの二本木に着陣する。
6月6日に本能寺の変の報せが届いたため、6月8日に領国の美濃へ向け撤退を開始する。

6月24日、森長可は居城の美濃金山城へ帰還する。
しかし家臣らの離反が多く森家の勢力は弱体化していたため、周辺の反対勢力へ攻撃を開始する。

7月に信孝方の斎藤利堯が守る加治田城を攻撃する。(加治田・兼山合戦)
戦いは野戦となり、森軍の攻撃で斎藤軍は大きな被害を出すが、森軍は敗北となり退却する。

その後森長可は大森城、上恵土城、今城など諸城を攻略、東美濃で勢力を拡大する。
また秀吉とも連携し、美濃平定の大義名分を受ける。

 

西美濃の動き
本能寺の変後、安藤守就(天正8年に信長に追放されていた)が子の定治とともに挙兵、明智方につく。旧居城であった稲葉良通(一鉄)の北方城を占領する。
しかし6月8日、曾根城の稲葉良通が北方城を攻撃、安藤守就父子は討ち取られる。

稲葉良通は岐阜城にいた織田信忠家臣の斎藤利堯(斎藤道三の子、稲葉良通の甥)に城を占領させ、中立の立場を取り独立する(その後秀吉方につく)。
大垣城にいた氏家直昌(氏家ト全の子)は織田信孝、その後秀吉方につく。

 

この頃、光秀は高山右近が西国へ出陣した後の高槻城へ使者を送り、城の者は右近の味方をするようにと伝える。これに対し城内にいる右近の妻や家臣らは、光秀につくと偽りの返答を伝え、使者を帰す。
「明智は勘違いして、右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていた。」【フロイス日本史】

この後、高山右近が高槻城へ帰還する。

「ジュスト(高山右近)が高槻に帰着するとキリシタンたちは皆生き返ったかのように見え、ただちに彼は自ら明智の敵であることを公言し、出来得る限り迅速に城を整えて信長の第三子三七殿(信孝)および毛利の征服者羽柴殿と手を結んだ。
…ただし、三ヶ殿(三箇城主 三箇頼照)は明智が河内国の半分と兵士に分与するための黄金を積んだ馬一頭を約束していたので彼の側に立った。」【1582年日本年報追信】

6月7日、御所の誠仁親王は、吉田兼見を勅使として安土城へ登城させ、光秀に朝廷から緞子一巻きを渡す。光秀は吉田兼見にこの度の謀反の存分を雑談し、まだ蒲生賢秀が挨拶に出仕していないと話す。【兼見卿記(別本)】 ※後に書かれた正本では「雑談」は削除されている

 

伊勢 松ヶ島城の織田信雄(北畠信意)は変の一報が入ると出陣して鈴鹿峠を越え、蒲生氏郷が守る日野城に近い甲賀郡土山へ布陣する。【勢州軍記(1638年)】

「北畠中務信雄も、伊勢国より多勢を率いて上るが、蒲生賢秀父子の籠城を聞かれて加勢されると、氏郷の養子で二歳になる子を信雄へ人質に渡し、ますます無二の忠誠を申し上げた。信雄も近辺に陣を張り備えられた。」【氏郷記(1634年)】

 

6月8日、光秀が安土城を出陣、京へ向かう。安土城の守備には明智秀満を配置する。
明智軍の先手が山科・大津に着陣する。【兼見卿記(別本)】

「光秀はこの報せ(織田信澄が討たれたこと)を聞いて、軍勢を揃えて日野へ攻めよと(明智秀満に)命じて京へ攻め上った。」【氏郷記】

※宣教師による安土の状況
「彼(光秀)はいずこにも火を放たなかったが、重臣(明智秀満)を一人、幾らかの兵と共に同所に残して彼は予期していた戦を始めるため、(安土に到着してから)2、3日後、都と境を接する河内国と津の国(摂津国)へ引き返した。
この時、安土山では略奪が行われ、家々を荒らして家財を盗み、路上では追い剥ぎを働くことのみが横行していたが、このことは同所ばかりでなく堺の市から美濃国および尾張国まで道程にして6、7日の所でも同様であり、ここかしこで殺人が行われた。
…イエズス会が当地方に有する家財や装飾品の大半が同所(安土)に集められ、神学校の求めに応じたあらゆる物が十分に備わっていた。 …盗まれたものは2,800クルサード以上に値し、運び出せなかった柱と屋根以外には何も残らなかった。」【日本年報1582年追信】

 

6月8日、蒲生氏郷が織田信雄の加勢を受けて日野城を出陣、石原に着陣する。【寛永諸家系図伝(1643年)】

6月9日、伊賀国で一揆が起きたため、織田信雄が伊賀へ兵を送り鎮圧する。【勢州軍記】

 

6月9日未の刻(13~15時)、光秀が京へ入る。

吉田兼見が出迎えて同行する。上京・下京の諸家や地下人が出迎えるが光秀は礼は堅く不要と伝える。
光秀は吉田兼見邸に入り、両御所への銀子500枚を献上する。京都「五山」と京都大徳寺へは銀子100枚を奉納する。吉田兼見邸で夕食後、光秀が下鳥羽へ出陣する。【兼見卿記(別本)】

 

6月9日、光秀が細川藤孝へ書状を送る。

「一、御父子が元結を切ったことに一旦は腹が立ちましたが、よく考えるとこのようにあるべきかと思います。しかし、この上は(そちらの)重臣を(こちらへ)派遣していただき、入魂を望みます。

一、国の事は内々に摂津国を与えるつもりで上洛を待っていました。但馬・若狭国を求めるなら同様に与えます。不都合があっても必ず申し付けます。

一、私が不慮の儀を思い立ったのは、忠興を取り立てるためで他の理由は全くありません。数十日のうちには(反対勢力を討って)近国を固め、それ以後は十五郎(光慶)・与一郎殿へ引き渡し、私は何事も関わることはありません。」【細川家文書】※偽文書とする研究有り

一、御父子もとゆい御払い候の由、尤余儀無く候、一旦我らも腹立ち候へ共、思案候程、かやうニあるへきと存候、然りと雖も、此上は大身を出され候て、御入魂希う所候事、
一、国之事、内々摂州を存じ当候て、御のぼりを相待候つる、但・若之儀思召し寄り候ハ々、是以って同前ニ候、指合きと(急度)申し付くべく候事、
一、我ら不慮之儀存じ立候事、忠興なと取立申すべくとての儀ニ候、更に別条無く候、五十日・百日の内には、近国之儀可相堅め候間、其の後は、十五郎・与一郎殿なと引渡し申し候て、何事も存間敷候、委細両人申さるべく候事、
以上
六月九日 光秀(花押)

 

「光秀は信長公の御父子を殺し、長岡父子へ "急ぎ着陣ありて、何事もよきにお計らいください" と飛脚を何度も送り、摂津国は幸いに領主がいないので知行しますとの旨を固く知らせた。しかし一向にそれには組みせず、むしろ弔い合戦の軍勢に加わりたいと秀吉へ急ぎ書状を送った。」【甫庵太閤記】

 

6月9日、姫路から明石へ移動している秀吉が、淡路国の国衆 広田蔵之へ洲本城攻略の協力を求める。(淡路国では明智方についた国衆 菅達長が洲本城を占領していた。その後洲本城の攻略に成功、菅達長は脱出して四国へ入り、香宗我部親泰の与力となる)

6月9日、大和国の筒井順慶が光秀への派兵を延期、籠城の準備を始める。

「今日河内へ筒井軍が出陣するところ、急に延期となった。また郡山城へ塩米を急に運び入れたらしい。どのように覚悟が変わったのか、不審である。」【多聞院日記】
6月10日、「先日山城へ向かった筒井軍が昨今引き返してきた。秀吉が近日に上ることが決まったことで覚悟が変わったらしい。」【多聞院日記】

 

<京都周辺地図>

 

6月10日、光秀が京から南下、洞ヶ峠に布陣し筒井順慶を待つ。【蓮成院記録】
和議に成れば順慶に六ヵ国を与え、自身の子を養子にする約束を伝えた。【老人雑話】
信孝・丹羽長秀を討ち果たすべく、筒井順慶へ使者を出したところ軍勢を出すと申したので洞ヶ峠にて一日二夜野陣した。【細川忠興軍功記】

6月10日、光秀が筒井順慶のもとへ使者を派遣。順慶は味方せず、秀吉へ起請文を送る。
「光秀より使者藤田伝吾が来た。同心しない返事を伝え、昨夜山城国木津まで帰るところを順慶が呼び返した。いかが心苦しいことか。秀吉へはすでに別儀無しとの誓紙を遣わせた。」【多聞院日記】

「彼(光秀)は8,000から10,000の兵を有していたが、摂津の国の軍勢が味方につかないのを知って数ヶ所の城を包囲することにし、徐々に高槻に迫っていった。」【フロイス1582年度年報】

6月11日、光秀が洞ヶ峠を引き取り、再び北の下鳥羽へ布陣する。合戦に備え淀城(淀古城)を普請する。【兼見卿記】

 

光秀のもとに秀吉が向かっているとの報せが入り、桂川を越え戦に備える。
「太閤にも明智にも特に親しかった施薬院全宗(医者)はこの時、太閤の見舞いで西国にいたが、上って下鳥羽の明智の陣所へ寄って、"筑前守はこれを聞いて早くも上洛するので時間はありません"と伝えると、明智は慌ててその夜しきりに雨が降っていたが、桂川を無理に越したので鉄砲玉薬が濡れて役に立たなくなった。」【老人雑話】

6月12日、秀吉が摂津に入り中川清秀・高山右近・池田恒興と合流、軍議を開く。中川清秀と高山右近が先鋒を争い、秀吉は両人に先陣を命じ、山崎に布陣させる。
秀吉本隊は南西にある天神馬場(高槻にある上宮天満宮への参道)に到着し、秀吉は信孝を待つため富田で一晩過ごす。
【秀吉書状 金井文書】

6月12日、「光秀の敵か、山崎から軍勢が進出した。勝龍寺の西に足軽が出て、鉄砲隊もいる、この近辺を放火している」【兼見卿記(別本)】※後の正本では「光秀の敵」を削除

 

6月12日、光秀が雑賀衆の土橋重治へ返書を送る。
「まだご挨拶していないところですが、上意(足利義昭の命令と思われる)への協力に感謝します、御上洛の事はお請けしているので協力されることが大切です。そちらと入魂するのはめでたく、高野山・根来・雑賀衆で和泉、河内に出陣するのはもっともです、近江・美濃は悉く平定するよう命じています。」【森家文書】

6月13日昼、秀吉が大坂から淀川を越えた織田信孝を出迎える。
「次の十三日の昼頃、川を越えられたので、私もお迎えに馳せ向かい、お目にかかると、お涙を落とし、私も大声で泣きました。」【秀吉書状 金井文書】

6月13日、秀吉・丹羽長秀が大和郡山の筒井順慶に書状を送る。「今日信孝様が川を越され、高槻方面に陣取されました。明日は西岡方面へ陣替えされる予定なので、それを理解され、そちらの軍勢を山城へ出してはじめに救援されるのが尤もです。これは信孝様のご指示です。」【藤堂家文書】

 

<両軍の位置関係>
山崎の戦い 明智光秀 豊臣秀吉 布陣図
※河川は明治古地図を基にした推定図

 

山崎の戦い

天正10年(1582年)6月13日、雨の中、明智軍(兵数10,000~16,000)が勝竜寺城から出陣する。

中備えに斎藤利三・柴田勝定、加勢として近江衆の阿閉貞征・小川祐忠ら、
左翼に津田信春、
右翼に伊勢貞興・諏訪盛直・御牧景重、
山の手に松田政近・並河易家を配置する。
【甫庵太閤記】

秀吉軍(兵数30,000)の先手が進軍する。

道筋(中央)を高山右近・中川清秀・堀秀政、
淀川沿いを池田恒興・加藤光泰・木村重茲・中村一氏、
山の手を羽柴秀長・黒田官兵衛・神子田正治・前野長泰・木下勘解由が進軍する。
【10月18日付 (織田信孝家老)斎藤利堯・岡本太郎左衛門宛 羽柴秀吉書状 金井文書】(以下【秀吉書状 金井文書】)

<山崎の戦い布陣図>
山崎の戦い 明智光秀 豊臣秀吉 布陣図

13日早朝、天王山で明智軍と秀吉軍が交戦する。

明智軍の松田隊1,000名が山の上から弓・鉄砲攻撃を行うため天王山に登る。秀吉軍からは堀尾吉晴が200名で山頂へ登り交戦、松田隊に勝利する。
山の麓では堀秀政が松田隊を攻撃し、勝利する。これにより松田隊は壊滅する。
【甫庵太閤記】

13日午前、高山右近が秀吉が前線に到着する前に明智軍と交戦する。

「ジュスト(高山右近)は羽柴殿の軍勢が遅れることを知ったので、彼が自らその危険を知らせに行こうとしたが、突然、明智の兵が村の門を叩くに及んでジュストはこれ以上待つことを望まず、また、彼は勇猛でデウスを深く信じ、戦時には果敢なので、1,000にも満たぬわずかな兵を率いて門を開き敵に襲いかかった。」【1582年度日本年報】

山崎の戦い 明智光秀 豊臣秀吉 布陣図


中川清秀と池田恒興が両翼から攻撃、包囲された明智軍は退却を始める。

明智軍の先手、伊勢貞興・諏訪盛直・御牧景重が東西に開き、南北に押し返し合い、高山勢と戦っているところ、中川清秀が左翼から、池田恒興が右翼から突進したため、下級兵士たちが動揺する。
伊勢貞興・諏訪盛直は勇敢に戦い討死、御牧景重は光秀へ退却するよう使者を送り、自身は突撃して討死する。【甫庵太閤記】

「彼らキリシタンはこれを勇敢に行なって1人の戦死者を出したのみであったが、最初の合戦ではたちまち明智の身分の高い者の首を200以上取った。それ故、明智の軍勢の士気が下がり始め、右の初回の攻撃が終わるとジュスト(高山右近)の両脇を進んだ他の二人の殿が到着し、明智の兵は逃げ始めた。」
「この勝利は、聖母訪問の祝日の正午にもたらされ、明智の滅亡の主たる原因となった。」【1582年度日本年報】

「敵の士気をもっとも挫いたのは、三七殿(織田信孝)と羽柴殿が同所から1里足らずの所にあって2万を超える兵を率いていることを彼らが知ったからであった。だが、彼らは疲労していたためジュストのもとへ到着することができなかった。」【1582年度日本年報】

正午頃、明智軍は総崩れとなり、兵が逃亡する。

「明智の兵は非常に急いで逃亡し、この都から敗戦地まで4里あったが、多くの者は明智がその途中に占領していた城においても安全ではなかったので、午後2時、当地(京都)を通過し、慌てて逃げた。」
「多数の兵は都に入ることを望んだが、市の人々が入口で彼らの侵入を防いだので明智の主たる城である坂本へ向かった。
しかし、村々から盗賊が、また各所で別の輩が現れて馬や刀剣を奪うため彼らを殺したので多くの者は城に達することができなかった。」【1582年度日本年報】

光秀は旗本3,000の兵と勝龍寺城に立て籠もる。申の刻(16~18時 ※夏至時刻)、秀吉軍は城を包囲して鉄砲攻撃を行う。
「十三日、雨降。申の刻、山崎方面に至り鉄砲の音が数刻鳴り止まない。一戦に及んだか、果たして五条口より落武者が大勢現れ敗北したようだ。」【兼見卿記(正本)】

夜、秀吉本隊(直番衆に福島正則・加藤清正・大谷吉継・山内一豊・増田長盛・仙石秀久・田中吉政)、織田信孝、丹羽長秀が山崎に着陣。

「その十三日の晩に、山崎に陣取りしました。高山右近・中川清秀・堀秀政の軍勢に、明智は段々に分けて軍勢を揃えて切りかかるところを、道筋は高山右近・中川清秀・堀秀政が切り崩しました。南の手は池田恒興、我ら者の加藤光泰、木村重茲、中村一氏が切り崩しました。山の手は羽柴秀長、黒田官兵衛、神子田正治、前野長泰、木下勘解由、その外の軍勢をもって切り崩し、そして勝龍寺城を取り巻きました。
明智は夜に逃げ落ちたところを、あるいは川へ追い入れたことは、我らの覚悟によってできたことです。それにつき、明智は山科の籔の中に逃げ込み、百姓に首を拾われました。」【秀吉書状 金井文書】

光秀は夜中に勝龍寺城を脱出、坂本城を目指す途中で討死する(55歳、または67歳)。

【フロイス日本史】「(光秀は農民に金の棒を与え坂本城まで案内を頼むが)彼ら(農民)はそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲に駆られ、彼を刺殺して首を刻ねたが、それを三七殿(織田信孝)へ差し出す勇気がなかったので、別の男がそれ(首)を彼(織田信孝)に提出した。」
【多聞院日記】「惟任日向守は十二日に勝龍寺より逃れて、山科にて一揆に叩き殺された」
【言経卿記】「惟任日向守は醍醐辺りに引き籠もり、郷人一揆に討たれた」
【兼見卿記】「向州は醍醐の辺りで一揆に討ち取られ、その首は村井清三、三七郎殿(織田信孝)へ届けられたそうだ」
【秀吉書状 浅野家文書】「明智めが山科の藪の中へ逃げ込み、百姓に首を拾われた」

斎藤利三は逃亡するが、坂本の北にある堅田で捕えられる。

 

【惟任退治記】の山崎の戦いを開く(別ページ)
【1582年度日本年報追信】の山崎の戦いを開く(別ページ)

 

6月14日、秀吉が大津へ進軍、三井寺に入り一日滞在する。【惟任退治記】【兼見卿記】

討ち取った首が秀吉のもとへ送られ、検視したところその中に光秀の首を発見する。【惟任退治記】

6月14日、高山右近、中川清秀が光秀の居城、丹波亀山城を攻撃、占領する。

6月14日、本能寺に明智兵の首が多数並べられる。 「信長が殺された場所には、初回分だけで一千以上の首級がもたらされた。全ての首級を同所に持参するよう命令が出ていたためで、それらをそなえて信長の葬儀を営むとの指令でなされたのである。
日盛りになると耐え難い悪臭が立ちこめ、そこから風が吹き寄せる際には、我らの修道院は窓を開けたままではいられぬほどであった。」【フロイス日本史】

 

紀伊の本願寺顕如から6月11日に明智光秀へ宛て、思い通りに平定されているので入魂頼み入れたいとの書状を送る。しかし使者は光秀の敗北を知り引き返す。【宇野主水日記】

明智秀満が守る安土城では、光秀の敗北が伝わると兵が逃亡、3,000の兵が700になる。【三宅家史料】

 

安土城炎上

【兼見卿記 6月15日条】「安土は放火らしい、または山下からのもらい火らしい」(この日の日記の先頭に書かれてあり、昨日の情報が15日に京都へ伝わったとも考えられる。※安土~京までは約50kmで1日の距離

【惟任退治記】「安土城には明智弥平次(秀満)が在城していた。光秀敗北の報せが届くと宮殿楼閣は一度に焼き払われた。」

【太閤記】「明智左馬助(秀満)は…光秀が合戦に打ち負けたとの報せが、同日亥の刻(22時頃)に届くと、十四日未明に天主に火をかけ、坂本を目指して落ちて行った」

【日本年報1582年追信】「付近にいた信長の正しく一子が浅知恵に動かされてか理由はわからぬが、城の最上層の主な部屋に火をかけ、続いて市をも焼き払うことを命じるよう仕向けた」※発掘調査から焼失範囲は天守閣・本丸周辺のみと判明している

【家忠日記増補追加(1668年成立)】「明智左馬助は安土に在りて味方の敗北を聞き、安土の城を焚いて坂本の城に入り」

【6月17日付 遠藤秀繕書状 安養寺文書】「安土城は明智の息子、自然(十次郎、明智定頼)がとどまっていました。蒲生氏郷が来て(自然が城を)空けて出たと聞き、乗っ取りました。その他近江一国が以前のようになり、伊勢の織田信雄様を呼び立て、去る七日伊賀を越され、無事に進まれ請け取られました。」
※参考文献:『本能寺の変 史実の再検証』盛本 昌広(著) 東京堂出版

【吉浦郷右衛門覚書 明智一族 三宅家の史料】※明智秀満の子、三宅重利の子孫による覚書(江戸中期成立)
「(左馬助様は)造作もなく城を乗っ取りなされ、上方の様子(山崎の戦いでの敗北)が到来すると、早速、安土に火を懸けられ近江坂本の城へ引き取られ」

 

6月14日未明、安土城の明智秀満は兵1,000を率い坂本城へ向かい出陣。
しかし近江へ進軍した堀秀政と大津の打出浜で交戦、300名が討たれる。明智秀満は小船で坂本城へ入り籠城する。【惟任退治記】

「その夜は追い討ちにされた光秀の兵は多数いた。長雨のせいで敵味方の区別がつかず、山科・醍醐・逢坂・吉田・白川・山中辺りで討ち取られた首は数がわからないほどだった。」【惟任退治記】

6月14日、光秀についていた槇島城 井戸良弘が城を明け渡すことになり、大和衆の井戸・越智・楢原・万歳氏が向かう。筒井順慶も明日出京となる。【多聞院日記】

6月14日、吉田兼見は光秀からの銀子を朝廷に取り次いだ件で織田信孝家臣の津田入道に事情を問われるが、申し開きをして信孝に許される。【兼見卿記】

 

坂本城落城
6月15日、堀秀政ら秀吉軍が坂本城を包囲。

明智秀満は城内の者に白米・金銀を渡し、夜に紛れて城から脱出させる。秀満の息子藤兵衛は老女が抱えて脱出する。【三宅家史料】

秀満は城に火を放ち、光秀の長男 光慶ら一族を殺害、秀満も自害する。

「山から見ると比叡山の東方面で大火災、これは坂本城を攻撃していると聞いた。」【多聞院日記】

「また第一に入城したのがジュスト(高山右近)であることを見て、高山右近殿ここに来れと呼びかけ、沢山の黄金を窓より海に投じ、次に塔の最高所に入り、敵の手に落ちずといい、内より戸を閉じ、まず婦女および子児等を殺し、つぎに塔に火を放ち、彼らは切腹した。明智の二子は同所で死んだというが、長子は13歳で、ヨーロッパの王侯とも見ゆるごとき優雅な人であった。」【イエズス会報告書】

 

6月15日、本能寺跡地に光秀と3,000ほどの首が並べられ、見物衆が集まった。【日々記】

光秀の亡骸が磔にされる。
「信長の名誉のため、明智の身体と首を、他の首が置かれている場所(本能寺)に運んだ。(中略)
三七殿は、身体に首を合わせた後、裸にして、万人に見せるため町外れの往来の激しい一街道で十字架にかけるよう命じた。」【フロイス日本史】

6月15日、筒井順慶が京へ向かうが、秀吉から叱咤を受ける。
「順慶が今朝自身千ほどにて向かった。昨今出陣した軍勢は六七千あったという。今日夕刻、醍醐へ着陣し、あまりにどちらにつくか見合いをしたことで秀吉より曲事とされたという。」【多聞院日記】

6月15日、越前 北ノ庄城の柴田勝家が若狭の溝口半左衛門勝吉へ、先鋒隊の柴田勝豊・佐久間盛次・柴田勝政が16日に出陣すること、自身もすぐに出陣すると伝える。【大阪城天守閣所蔵】

6月15日頃、山崎の戦いで光秀が敗北したことが柴田勝家に伝わる。前田利家は翌16日に伝わる。【前田利家書状 中村不能斎採集文書】

6月16日、秀吉が大津から琵琶湖を渡り炎上後の安土城に到着する。【惟任退治記】

 

6月17日、六条河原にて斎藤利三が処刑される。

「十七日、斎藤利三、この度の謀反随一なり。堅田に隠れていたが探し出され、洛中を車にて引き回され、六条河原において処刑された。」【言経卿記】
「彼など信長打ちの談合衆なり。生け捕られ車にて京中引き回しされた。」【日々記】

「光秀が討たれたことを知らず堅田の知音に隠れていたところ計略により捕まった。まことに天運が尽きたところである。惜しいかな、利三はふだんは武芸ばかりをたしなんでいたのではない。…なぜ今この災難にあわないといけないのか、非常に残念である。…その後車で洛中を引き回された。光秀の首もまた身体につけられ粟田口で両人ともに磔刑にされた。」【惟任退治記】

秀吉が長浜城へ進軍、阿閉貞征の息子 貞大は降参せず城を退き山本山城へ籠城する。しかし中村一氏らの攻撃を受けて捕らえられ、6月18日に磔となる。
佐和山城の武田元明は丹羽長秀に降伏する。(武田元明は7月に丹羽長秀領の宝幢院で自害となる)【惟任退治記】

同じく佐和山城にいた京極高次は越前へ逃亡、柴田勝家に匿われる。【京極家譜】

6月18日、越前を出陣し南下していた柴田勝家が近江へ進軍。長浜周辺の坂田郡加田荘へ禁制を出す。【小川武右衛門氏所蔵文書】
柴田勝家は秀吉から光秀を討ったことを知らされると、清須城にいる三法師(信忠の嫡子)のもとへ向かう。

6月19日、徳川家康は三河へ帰国後、軍勢を揃えて上方へ向け尾張の津島まで進軍していたが、秀吉から上方を平定したので帰還するよう伝えられ、撤退する。

 

6月18日、甲斐で武田旧臣による一揆が発生。甲州征伐後に甲斐四郡を統治していた河尻秀隆が殺害される。

 

6月19日、北条氏直・氏政・氏照・氏規らの大軍(兵数50,000)が上野国へ侵攻、滝川一益(兵数18,000)を攻撃する(神流川の戦い)。滝川一益は大敗となり、領国の伊勢長嶋へ退却を開始する。

滝川一益は人質を北条へ返還し、6月20日夜、箕輪城から松井田城(城主 津田秀政)で兵をまとめ、撤退を開始する。

滝川一益は木曽郡へ向かったところ木曽義昌の通行妨害に合う。連れていた佐久郡・小県郡の人質(依田康国・真田昌幸の母)を引き渡すことで通行を許可される。(箕輪から清須までは約300kmの距離があり、清須会議には間に合わなかった)

 

荒山合戦

本能寺の変が能登へ伝わると、能登では信長に寺領を没収されていた石動山の天平寺衆徒が蜂起、越後の上杉家に保護されていた旧畠山家臣の温井景隆・三宅長盛・遊佐長員へ協力を呼びかける。

6月19日、温井らの能登復権の噂を知った小丸山城の前田利家は、金沢城の佐久間盛政、南下した柴田勝家へ援軍を要請する。

6月23日、温井景隆らは上杉軍とともに兵3,000で海路から越中に上陸、石動山や荒山へ僧兵4,000で布陣する。

前田利家は兵2,500で小丸山城を出陣、石動山と荒山の中間にある柴峠に布陣する。佐久間盛政も兵2,500で金沢城を出陣、荒山方面に布陣する。

前田利家の隊が荒山砦の築城へ向かう温井景隆・三宅長盛の隊と遭遇、交戦となり前田軍の勝利となる。温井軍は僧兵2,000で荒山へ立て籠もる。
この報せを受けて佐久間盛政が荒山砦を攻撃、温井景隆・三宅長盛を討ち取る。

6月26日未明、前田利家が石動山を攻撃。遊佐勢を討ち取って僧兵を壊滅させ、石動山の天平寺院を焼き討ちにする。山門に1,000余名のさらし首を並べる。
【甫庵太閤記】

 

6月19日、秀吉が明智方に長浜城を攻撃された際、母なかと妻ねねを匿った地侍の広瀬兵庫助に感状を送り、近江高山・甲津原・杉野500石の領地を与える。【羽柴秀吉・秀勝連署宛行状 甲津原文書】
(翌年11月12日にも1500石の領地を与える【広瀬文書】)

6月20日、織田信孝は光秀との関係が疑われていた近衛前久に成敗あるべしと洛中にお触れを出し、近衛前久は京を追放される。

 

秀吉が近江から美濃・尾張へ進軍、光秀方の残党勢力を攻撃、制圧する。
岐阜城を占拠していた信忠家臣 斎藤利堯(中立の立場をとっていた)から人質を取り降伏させる。【秀吉書状 金井文書】

6月22日、織田信孝の軍勢が美濃へ出陣する。【兼見卿記】

6月24日、織田信雄が秀吉に書状を送り、岐阜城近くに場所がないので北方に布陣したこと、そちらの良いように場所を決めていただき連絡をください、そちらの近くへ陣地を移します、と伝える。(清須会議を前に信雄から秀吉へ連絡を取っている)

秀吉・丹羽長秀・池田恒興は進軍し、清須城へ向かう。柴田勝家も近江から清須城へ向かう。
(織田信忠の嫡男 三法師(3歳)は信忠の居城である岐阜城にいたが、本能寺の変が起きると前田玄以によって清須城へ移されていた)

また蜂屋頼隆、筒井順慶やその他織田の旧臣も、三法師に家督継承の挨拶に向かう。【甫庵太閤記】

 

清須会議

天正10年(1582年)6月27日、清須城にて四宿老(羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興・柴田勝家)が織田家の後継者(実際は後継者三法師の名代選び)と領土再配分を話し合う。
※織田信雄と信孝は会議には出席していない

後継者を三法師(織田信忠の嫡男 3歳)とし、三法師が15歳になるまでの代理を務める「名代」をどうするか話し合われる。

協議の結果、名代は置かず宿老が政務を執り行い、三法師を支えることとした。【甫庵太閤記】

「信孝様、信雄様のお二人が御名代を争われたとき、どちらを御名代に立てるべきか、宿老たちが清須で相談したところ、信忠様の子(三法師)を擁立し、宿老たちが守ることと決めました。
信孝様、信雄様に尋ねたところ、「それでよい」との仰せだったので、四人の宿老はそのようにしました。そこで、御誓紙を証拠として、清須から岐阜へお供し、信孝様へ三法師様を預けました。」【秀吉書状 金井文書】

丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興・柴田勝家4名の連署状で、協議の結果を上京・下京へ発給する。
「この度、御両殿様(信長・信忠)が不慮の死を遂げられたことについて、信忠様の若君を宿老中として奉守し、天下を治めるよう仰せつけられました。」【6月27日付連署状 豊臣秀吉文書集】

※奈良興福寺の僧英俊はこの結果を「大旨羽柴(秀吉)のままの様なり」と記述している。【多聞院日記】

※【川角太閤記】や【絵本太閤記】では後継者について秀吉が三法師を推薦、柴田勝家は信孝を推薦し、互いに激しく言い争う場面が記述されている。

 

<領土配分>
織田信雄:尾張と伊勢(加増:尾張・伊賀)
織田信孝:美濃(減封:北伊勢、加増:美濃)
柴田勝家:越前と北近江3郡(加増:北近江3郡)
丹羽長秀:若狭と近江2郡(減封:佐和山)
池田恒興:摂津3郡(加増:大坂・尼崎)
羽柴秀吉:播磨・淡路・但馬・因幡・山城・河内(減封:北近江3郡、加増:山城・河内・丹波)
堀秀政:近江佐和山
三法師:近江 安土城と坂田郡(代官は堀秀政)

※三法師は安土城が修復中のため信孝の岐阜城に預けられることになる。

<清須会議での領土再分配>
清須会議 清洲会議 領土再分配

 

天正10年、柴田勝家(60歳)が信長の妹 お市の方(35歳)と再婚することが清須会議で決まる。
信孝の岐阜城で婚礼が行われ、その後お市の方は越前北ノ庄城へ移動する。清須城で暮らしていた妹の茶々(14歳)と江(10歳)も北ノ庄城へ移る。

7月7日、東国では天正壬午の乱が始まっており、家康が織田政権(信雄・信孝)に旧織田領へ侵攻するための同意を求めたことで、7月7日に秀吉が家康へ書状を送る。
秀吉は家康に信濃・甲斐・上野を敵方(北条)へ渡さないよう、軍勢を出して支配するようにと伝える。【7月7日付秀吉書状 新修徳川家康文書の研究】

7月10日、秀吉が三法師を伴って上洛、本圀寺へ入る。翌11日、吉田兼見ら公家衆と面会する。

7月11日、秀吉が細川父子に血判起請状を送る。「この度の信長の不慮は比類なき御覚悟で頼もしい、入魂の間柄となり、思うことは心に残さず良いように意見を伝える。」【細川家文書】

7月、秀吉は新たに支配下となった山城国で山崎城を普請、拠点とする。(翌年に大坂城築城が始まると、山崎城を破却している【兼見卿記】)

7月13日、秀吉が姫路城へ帰還。17日、信長への弔意を表した毛利輝元に感謝を伝える。その後19日に上洛する。

 

7月19日、武田元明が丹羽長秀領の近江海津へ招かれ、宝幢院で自害する。(21歳または31歳)

8月、織田信孝が秀吉へ、美濃・尾張の境目で信雄と問題になっていることを伝える。秀吉は境目は大河(木曽川)がよいと答える。【大日本史料】
(織田信孝と信雄は互いに国境線を争い対立していた)

9月、細川藤孝が本能寺の変で光秀方についた丹後弓木城の一色満信(義定)を宮津城へ呼び出し、殺害する。その後細川家臣の松井康之が弓木城を攻撃、占領する。

9月11日、柴田勝家と妻のお市などにより、京都の妙心寺で信長の百日忌が営まれる。法名は「天徳院殿龍厳雲公大居士」。
翌9月12日、秀吉の養子 羽柴秀勝(信長の四男)により、京都の大徳寺で信長の百日忌が営まれる。法名は「総見院殿贈大相国一品泰厳大居士」。
(秀吉は翌天正11年(1583年)に信長の追善菩提として大徳寺総見院を建立し、本堂に織田信長坐像を奉納する。)

 

10月、秀吉の主宰により、京都の大徳寺で大規模な信長の葬儀が行われる。
7日間の法要と仏事が続いた後、10月15日の葬礼では秀長が30,000の兵で警護に当たり、豪華な棺が火葬場まで運ばれる。棺を乗せた御輿の前を池田輝政、その後は羽柴秀勝が担ぐ。側で秀吉が位牌と太刀を持つ。洛中洛外から3,000人の僧侶が読経を唱えながら歩き、葬地の蓮台野にて火葬する。【惟任退治記】【言経卿記】【兼見卿記】
(この葬儀に織田信孝・信雄は出席せず)

10月18日、秀吉が距離を置く信孝に対し披露状を送る。(一部抜粋)
「なぜ三法師様を安土へ返さないのか。備中高松では二十七里を一昼夜で七日に姫路に入り、本来は休むところを八日に信孝様が明智に取り囲まれて腹を召されると聞き、昼夜なく後巻に駆けつけました。十三日の昼頃、川を越えられたので、私もお迎えに馳せ向かい、お目にかかると、お涙を落とし、私も大声で泣きました。
(明智討伐後は)我らの尽力といえども御兄弟にまず国を進上すべきと考えました。御葬儀を相談するが返事もなく勝家からも沙汰がなく、天下の評判はいかがかと思います。」【秀吉書状 金井文書】
(秀吉は自らの武功を述べ正義に基づくものだと主張した)

10月16日、柴田勝家は堀秀政へ、秀吉の行動を諫める5か条の覚書を送る。この中で秀吉の山崎城築城を私的行為だと非難する。【南行雑録】

 

10月28日、秀吉が京都で丹羽長秀・池田恒興と協議。織田信雄を「御家督」として据えることを決定する。【蓮成院記録】【11月1日付石川数一宛羽柴秀吉書状 豊臣秀吉文書目録】
秀吉による信長の葬儀や信雄の家督擁立により、三法師を匿う織田信孝・柴田勝家と決裂する。

10月、飛騨国では、信長の死を好機と見た旧武田方の江馬輝盛が、荒城郷八日町村で姉小路頼綱と交戦(両家は飛騨国内で勢力を二分していた)。この戦いで江馬輝盛は討死、姉小路軍の勝利となる。(八日町の戦い)
姉小路頼綱は残る反対勢力を討ち、翌年には飛騨一国を統一する。

 

12月9日、秀吉軍(兵数50,000)が柴田領となっていた長浜城(城主 柴田勝豊(勝家の養子))へ侵攻。柴田勝豊は城を開け渡し、秀吉方につく。秀吉は柴田勝家と一時休戦する。【天正11年1月17日付 小早川隆景宛羽柴秀吉書状】
(北陸は雪深く柴田勝家は援軍が出せなかった)

12月20日、秀吉と信雄が信孝の岐阜城を攻撃、信孝を降伏させる。三法師を引き渡させて安土城へ入城させ、信孝の娘と母(信長の側室 坂氏)を人質とする。
美濃の稲葉良通(一鉄)も秀吉に人質を出し、秀吉方につく。

12月29日、秀吉が山崎城へ帰還する。

 

天正10年頃、宮部吉継(後の豊臣秀次)が三好康長の養子となり、三好信吉と名乗る。
(天正10年10月22日付の秀吉書状にある「三好孫七郎」が初見)
(秀次は4歳の元亀3年(1572年)に元浅井家臣の宮部継潤へ人質として送られていた。その後秀次は16歳となる天正12年(1584年)に羽柴家へ復帰する。)

 

天正10年、秀吉が山城国で太閤検地を行う。
検地は7月に山城で始まり、次に播磨、丹波、河内、近江、若狭、越前、また九州や関東など領地を広げながら慶長3年(1598年)まで各地で検地を実施していく。(秀吉が太閤になる以前の検地も太閤検地と呼ばれる)

検地には奉行を派遣し、田畑を測る竿の長さや収穫米を量る枡など、規格を統一することで安定した年貢徴収を行い、また国ごとの生産力を把握できる新しい土地制度を整備する。

太閤検地 ※2023/5/13 追記

戦国期の年貢徴収は大名が奉行を派遣する検地ではなく、領主から土地の面積と収穫量を記した台帳を提出させる申告制の指出検地(さしだしけんち)が行われていた。

指出検地では虚偽の台帳提出や有力者による土地の権利関係の問題があったため、秀吉は検地奉行を派遣して測量することとし、地主による中間搾取を排除するため一地一作人の原則を作り、一つの土地に一人の耕作者を年貢負担者として登録させることとした。

また検地竿の長さの設定や、地域で枡の大きさが異なっていたことから京枡を使用することなど、測量する長さ・体積などの基準を決める度量衡(どりょうこう)を統一した。

年貢率は二公一民(2:1)とされ、農民は収穫米の2/3を納めるよう決められた。(江戸時代の「四公六民」などより重い税率)

(初期の段階はまだ指出検地が行われ、後期になると太閤検地の条目に沿った検地が実施されるようになる)

 
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太閤検地による主な検地条目(■)

■長さの単位
曲尺(かねじゃく)の1尺約30.3cmをもとにした、6尺3寸(約190.9cm)=1間の検地竿を用いて測量する。

 

■面積の単位
面積の単位は一反を三〇〇歩とした、町反畝歩の単位を使う。

1歩(ぶ)=一辺が1間(6尺3寸、約190.9cm)の正方形
1畝(せ)=30歩の面積
1段(反)(たん)=10畝の面積
1町(ちょう)=10段(反)の面積

※1間の長さを短くするほど計測面積が広くなり、実質年貢の引き上げとなる。
※江戸時代の1間は各藩により5尺8寸~6尺3寸。明治時代は度量衡法により1間は6尺(約181.2cm)と決まり、現在まで使用されている。

(現在の面積の単位)
1坪(1歩)は約181.2cm×181.2cm=約3.3㎡ ※畳二畳分
1畝は10m×10m=約100㎡(1a)
1反は31.5m×31.5m=約992㎡=1,000㎡(10a)
1町は100m×100m=約10,000㎡(100a=1ha)

 

■年貢米を量る枡
京都で使われていた京枡(京都十合枡)を使用することとする。これまでの枡は回収する。
京枡の内寸は、5寸×5寸×深さ2寸5分(約15.2cm×約15.2cm×約7.6cm)、容積62500立方分。(現在の一升枡よりやや小さい約1708ml)。

※江戸時代の寛文9年(1669年)に公定枡を64827立方分(約1804ml)の枡とし、現在はこの一升=約1800mlが踏襲されている。

 

■等級ごとの石盛(1反当たりの予定収穫量)
田畑(屋敷も含む)は収穫が期待できそうな土地から、そうでない土地に合わせて「上・中・下」の3段階とし、さらに下の「下々地」という等級を決め、それぞれ石盛を設定する。

上田=1石5斗(225kg=3.75俵)/反
中田=1石3斗(195kg=3.25俵)/反
下田=1石1斗(165kg=2.75俵)/反
下々田=9斗など(135kg=2.25俵)/反
※「俵」は現在の1俵=4斗(60kg)として
※江戸初期の平均収穫量は144kg/反と言われ、太閤検地の等級は高めの基準になっている

(米の単位について)
1合=150g(約180.39ml)
1升=10合=1.5kg
1斗=10升=15kg
1石=10斗=150kg=2.5俵

※米1石は大人1人が概ね1年間に消費する量と考えられている。(1日3合×旧暦の1年360日=1,080合)
1反からは等級の差はあるが概ね米1石(150kg)前後が収穫されていた。(戦国時代は小氷期のため農業の生産性は低かった。現在は肥料や農作業の機械化により1反で500kgほどの収穫が可能)

※「俵(ひょう)」は米を流通させる際に使用された単位で、戦国・江戸期は統一されておらず地域により1俵=四斗~六斗があった。明治末期に1俵=4斗(60kg)に規格が統一される。

※戦国時代、全国の人口は約1200万人、全国の農耕地は150万町(=1500万反)程度だったといわれ、農民1人当たり1反は所有していたと考えられている。(ただ年貢を納めた後は残る米が少なく、麦・粟・稗などの雑穀も主食としていた)

 

■村切り
村と村との境界を明確にするため、境には村切榜示(むらぎりぼうじ)を立てる。これまであった榜示は隣村と相談し新しい境目にする。
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秀吉による検地の古い史料は、天正11年と12年の近江国蒲生郡八日市に出された指出台帳の徴収記録があり、また天正13年の淡路国二郡の指出台帳が残っている。

【多聞院日記】では天正14年(1586年)6月20日条で指出があったこと、また枡の記録として10月9日条で京枡が大和国に届けられ、1石が前の十合枡で量ると1石2斗あったと書かれており、地方ではそれまで独自の小さい枡が使われていた。

天正17年(1589年)の美濃国の野口村で行われた検地帳には、田の等級や石盛が記載されている。

天正16年(1588年)の九州征伐後、秀吉は大友・島津・伊東家に指出台帳を求めている。
また文禄4年(1595年)の越後の検地では、前年に指出を徴収している。(田畑を測量する検地を行う前に、在地の台帳を集めてから検地を進めていたと思われる)

文禄3年(1594年)~文禄4年(1595年)には、畿内の直轄地である大和・伊勢・摂津・河内・和泉の広範囲で条目に沿った検地が行われる。

毛利領では天正15年(1587年)から従来方式に近い検地が行われ、慶長3年(1598年)からは太閤検地の条目に沿った検地が行われた。

検地竿(間竿)は、上野、武蔵、三河、駿河などで6尺5寸、一部地域では6尺2寸の長さも使用された。

 

検地奉行には石田三成、長束正家、小堀新介、浅野長吉(長政)、増田長盛、片桐且元ら政務を担う文治派の諸将、また検地帳には多数の奉行の名前が残っている。
奉行の下には帳付(ちょうつけ)・竿取(さおとり)・見付役(みつけやく)などの下役があり、業務を担当した。

太閤検地の実施により、中世から続いた荘園制度(既に武力で土地を奪う戦国時代に入り崩壊していた)は完全に解体され、領地ごとに生産力を把握できる石高制によって、調査に基づいた軍役や年貢を課せる大名知行制が成立した。

 

 

<宇喜多家>

天正10年(1582年)6月頃、秀家(11歳)が豪姫(前田利家の四女、9歳)と婚約する。【関屋政春古兵談】(婚姻は1588年正月以前)
秀家は元服し、秀吉から「秀」の字を与えられる(幼名は於福、通称は八郎)。

天正10年、秀家が従五位下・侍従の官位を与えられる。

 

<毛利家>

天正10年(1582年)6月4日、備中高松城で安国寺恵瓊が秀吉と交渉を続ける。

毛利側は五ヶ国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)割譲と起請文を添えた人質を出すこと、家を存続することを提示。4日に高松城主 清水宗治らの切腹で交渉がまとまる。(秀吉領との国境線交渉はその後も継続される)

6月6日、小早川隆景が自国へ、1日に信長父子自害、謀反人は光秀・勝家・信澄と伝える。(まだ正確な情報はつかめていなかった)【萩藩閥閲録】

6月9日、足利義昭が小早川隆景へ、備前・播磨へ侵攻し上洛に忠誠を尽くすよう御内書を送る。

6月13日、足利義昭が毛利家臣 乃美宗勝へ御内書を送る。 「信長を討ち果たした上は、(京へ)上洛すること、必ず協力するように。輝元、隆景へ申し遣わすこと。」 【大日本史料】

 

<長宗我部家>

本能寺の変が発生、織田軍による四国侵攻の危機を脱する。
織田軍に先駆けて四国へ渡り、長宗我部の夷山城を攻撃していた三好康長は変の一報を聞き撤退、京へ戻る。
(この頃、長宗我部元親は病のため8月まで軍事行動は行われなかった)

天正10年(1582年)8月、長宗我部軍が三好領の讃岐・阿波へ侵攻する。

8月28日、中富川の戦い。長宗我部軍が勝瑞城の奪還に向け出陣、中富川で三好存保 (十河存保) 軍と交戦、勝利する。
三好存保は勝瑞城に籠城するが9月21日に開城し、阿波を捨て讃岐 虎丸城へ撤退する。

長宗我部軍は三好康俊の籠る阿波 岩倉城を攻撃して勝利。三好康俊は逃亡する。

8月、長宗我部軍・香川軍が讃岐 十河城を攻撃するが落城できず撤退する。(第一次十河城の戦い)(1584年に落城する)

 

<龍造寺家>

天正10年(1582年)10月、鷹尾城の田尻鑑種(旧大友家臣)が離反、島津方へつく。
10月、辺春城の辺春氏も呼応して謀反。鍋島直茂が攻撃して鎮圧。

11月頃、日野江城の有馬晴信が島津へ離反。

12月、龍造寺が制圧していた釜蓋城(千々石城)を島津・有馬軍に攻撃される。

龍造寺隆信が大村氏に圧力をかけキリシタン撲滅を図る。大村城(玖島城)から大村純忠を退城させ、息子の大村喜前を入れる。

 

<島津家>

天正10年(1582年)8月、隈本の城氏が再び島津方へつく。新納忠元らが隈本城へ入る。
その後義弘・歳久・家久、老中の伊集院忠棟・上井覚兼が隈本城へ入り、肥後攻略を進める。

11月頃、龍造寺方となっていた有馬晴信が離反。家久を通じて援軍の要請が届き、島津から山田有信らを派遣する。
鷹尾城の田尻鑑種からも援軍要請が届く。

12月、島津・有馬軍が龍造寺領の釜蓋城(千々石城)を攻撃。城を奪うが撤退、島津の派遣軍は八代まで撤退する。

12月、家久が阿蘇氏と交渉を続け、甲斐宗運と和睦する(甲斐宗運は人質の提出はせず)。合志氏とも和睦する。
義弘は戦線が伸びたため肥後からの撤退を決定。