【三河物語】桶狭間の戦い
【三河物語】 「桶狭間の戦い」(現代語訳)
永禄元年、御年十七歳にして大高の兵糧入れの命令を受取られ、お入れになる。
(中略)
(敵は)退却し、大高の兵糧入れと言って御一大事となった。そこで信長も清須へ退却した。 次郎三郎様(家康)の戦功の初めである。
そして岡崎へ退却され、寺部の城へ押し寄せ外曲輪を押し敗り放火して岡崎へ退却される。次に梅が坪の城へ押し込まれると、城より(敵が)討って出て防ぎ戦ったと言えども、いかが防がれただろうか。城へ付け入り、外構えへ追い込み、二の丸・三の丸を焼き払い、多数を討ち取り、そして岡崎へ退却する。
次に広瀬の城、衣の城へ押し寄せ、多数を討ち取り構えを敗り、放火して退却され、岡崎へ戻られた。程なくしてまた駿河へ帰られた。譜代衆の喜びは大変なものだった。 さてなんとか成長され、軍事のこともいかがと、朝夕心もとなく案じていましたが、さても清康の威勢に全く違わないことのめでたさと、皆それぞれ涙を流して喜んだ。
さて義元は、尾張の国へ出陣のとき、次郎三郎元康(家康)もお供として出陣した。義元は駿河、遠江、三河の三カ国の軍勢を集めて駿府を出陣、その日藤枝に到着した。先手は原河、袋井、見付、池田に着く。夜が明けると懸河を出発、引間に着く。
軍勢は本坂と今切に両手にわかれて押し出て進み、 御油、赤坂で合流する。義元は引間を出陣、吉田に着く。 先手は下地の御位、小坂井、国府、御油、赤坂に陣をとり、義元も吉田を出陣、岡崎に着く。軍勢は屋萩、鵜等、今村、牛田、八橋、池鯉鮒に陣取り、夜が明けると義元も池鯉鮒に到着される。
この以前に沓懸、鳴海、大高を占領していたので、沓懸の城には駿河衆の番兵としていた。鳴海の城には岡部五郎兵衛(元信)がいた。大高には鵜殿長勿(長照)が番手としていた。信長は大高の付近に砦(鷲津砦)を造り、棒山の砦(丸根砦)を佐久間大学(盛重)という者がいて、敵に空け渡すことなくいた。
永禄三年五月十九日に、義元は池鯉鮒より段々に押し進み大高へ行き、棒山の砦(丸根砦)をじっくり巡見して諸大名を呼び評定をして、「さらば攻め取れ、それなら元康に攻めさせよう」と言われると、もともとせっかちな殿なので、すぐに押し寄せ攻められると、程なくしてたまらず佐久間は切って出るが運がつきていなかったのか、討ち漏れて逃げ落ちた。家の子郎党はことごとく討ち取った。
そのとき松平善四郎(正親)殿、筧又蔵(正則)、そのほかの衆も討死した。それより大高の城に兵糧を多く入れた。
その上また長い評定があった。そのうちに信長が清須より軍勢をくり出した。評定では「(大高城の)鵜殿長勿に長く番をさせている。誰を代わりに置こうか、誰かこれか」と言ううち、長い時間誰もいなかった。「それなら元康を置き申せ」として次郎三郎様(家康)を置かれ、本陣へ引き戻る間、信長は思いのままに駆けつけた。
駿河衆はこれを見て石河六左衛門という者を呼び出した。この六左衛門という者はとてもつわ者で、伊田合戦のときも顔を十文字に切られ、首を半分切られ、体中続いたところがないほどの傷を持った者だった。その者を呼んで言うには、「この敵には(強い)武者がいるか、またはいないか」という。「皆のおっしゃるまでもなく、あれほど若々しく見える敵に、武者がいないはずがない。敵は武者を倍もいるだろう」と申した。
「それなら敵の軍勢の数はいかほどあるか。敵の軍勢は少なくとも五千もいるだろう」と言う。そのとき皆は笑って言った、「何とて五千もいるのだ」と言うと、そのとき六左衛門は笑って、
「方々は軍勢の数の見積もりをご存じないようだ。高い所にいる敵を下から見上げたと きは少勢も大勢に見えるものであるし、敵を高い所より見下ろせば大勢も少勢に見えるものだ。 方々の見積もりはどうして五千より少ないとおっしゃるのか。
だいたいこのような長い評定では、成すべきことは得られない。棒山を攻めようか攻めまいかの評定を長い時間がかかり、また城の番を替える相談で長い時間がかかっているので、決してなにもできない」と申したことに違わず、その通りになった。
「ここへ押し寄せたなら、そのまますぐに棒山を攻め落として番手を早く入れ替え、退却しないといけないところを、あまりに重苦しく行動が遅いので、成すべきことはない、早々に戻られよ」と六左衛門が申したので、急ぎ早めて行く処、(敵の)歩兵は早くも数人ずつ山へ上がるのを見て、我先にと退いた。
義元はそれを知らずして弁当を食べゆっくりしている処、どしゃ降りの雨となる。永禄三年五月十九日に、信長の三千ばかりの兵が切り懸かり、我も我もと敗走すると、義元を毛利新助が場も去らせずに討取り、松井(宗信)をはじめとして十余人が枕を並べて討死した。その外は敗軍となり追い討ちを受けた。
そのまま押し寄せたなら駿河までも取れただろうが、信長は勝ちを抑えられない人ではなかったので、それより清須へ引き返された。 元康が殿(しんがり)をなされていれば、これほどの事はなかっただろうに、大高城の番手を申し付けられたのが義元の運命である。」
(ここでは合戦場所は書かれておらず、後に”桶狭間の合戦にも義元をば打取”と記載)
岡部五郎兵衛(元信) は義元が討死し、そのうえ沓掛の番衆が逃げ落ちたが、鳴海の城を守っていた。それ故信長を引き受け、ひと攻めさられてから、降参して城を明け渡した。 そればかりか信長へ申して義元の首を受け取り、駿河へお供して帰った。御死骸はおいて、首だけのお供をして国へ帰ることは珍しいことだったが、立派なことである。
この五郎兵衛の話を昔 話のようにいうなら、武芸といい、侍の義理といい、譜代の主君への奉公といい、異国のことは知らず、本朝にはなかった。尾張の国から東において、岡部五郎兵衛を知らない者はなかった。