【イエズス会 1599年度年報】(1)

1599年10月10日付、日本発信、巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ師のイエズス会総長宛、日本年報

イエズス会の日本とシナの巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノより、同会総会長クラウディオ・アクアヴィーヴァ師に宛てて
キリストにおいていとも尊敬すべき我らの師へキリストの平安

日本国全土の国主である太閤様が、生者たちの中にはいなくなった日以来、本年我らにとっては驚くべき種々の事があった。なぜなら我らに対して大きな恐怖を与え、また多くの場合この上ない窮地へ導いたことが少なからず起こったからである。我らに対するデウスの好意は、これらすべてを和らげ給うたので、キリシタン宗門を布教する我らのこの前途を妨げる逆境の中にあっても一杯に満ち溢れるのが習わしの慰安にこと欠くようなことはなかった。

またすべてのものが(デウスの)意向に沿って流れていると思われるような時でも、我らの努力に対して反対する者がいなかったわけではない。それゆえ我らは、どのような不安な事情も我らが着手した仕事の進路を遅らせるようなことはなく、またどのように我らの活動が順調な場合も、キリシタンの人物にふさわしくない心の人々を我らの側に引き入れることのないようにすることを、我らの任務としているのが実情である。

我らは喜びと混り合ったこの悲しい事態を経験している。なぜなら常にキリシタンたちによって与えられた栄誉はデウスに帰すべきであったし、またキリシタンの信仰についての良い評判は、明らかに異教徒たちの心の中に植えつけられているものだからである。

そして(キリシタンの)信者たちの数は非常な増加をたどっており、前年我らが貌下に宛てて報告した二月から、今回我らが執筆する十月までに、日本国各地において洗礼を授かった異教徒はおよそ四万人である。またこれまで種々の偶像崇拝の闇によって盲目にされていた多数の人々に対して、福音の光を照らすべき大きな門戸が開かれるに至った。そして最後に[その箇所において述べられるであろうが]、我らは今から二年前に破壊されていた我らの聖堂を再建し始めた。

しかしこれらすべてをもっともよく理解していただくためには、先年貌下に宛てて報告されたことを、もう少し精しく繰り返して述べる必要がある。なぜならそれらのことを念頭に入れていない限り、この(日本の)各地にいる(イエズス)会員の状況がどうであるのか、また我らがデウスの光栄を輝かせるためにそれぞれが耕作しているこの葡萄畑の収穫がどれほど多量になるかは、十分に見通すことはできないからである。しかし我らの年報ではこれについてはここまでにしておく。

ところで太閤様は、[先年記したように]、驚異的な賢慮をもって日本国全土の体制を整えた。彼はこれによって、己が権力ある国が、自分の幼少の息子が成年に達するまで続くことを軽々しい予測なしに確信したのであった。彼は大名たちを親戚関係によって己が一族と縁組みさせ、また自分が定めたことは順次後代に至るまで誠実に遵守すべきことを誓約するように強制した。これによって日本人は、太閤様の息子が父親の相続権をわきまえるにふさわしい年齢に達するまでは、自分たちは安全で静かな平和を維持するであろうと考えた。

彼は日本人の間でもっとも権力をもった八カ国の国主(徳川)家康の孫娘を自らの息子(秀頼)と結婚させて、家康に主君(秀頼)の後見役と、日本国全土の統治を任せ、その同僚として四名の重立った家老を与えた。彼はこうすることによって多くの者がこの栄誉に参画し、国家を統治する権力においては同等のようにして互いに平和を保つようにした。

なぜなら彼は、彼らが血縁と姻戚関係の非常に緊密な絆によって結ばれていることを知って、彼らに意見の不一致や不和の余地は少しも残っていないと考えたからである。しかし彼は、五大老の権力が強すぎはしないかと疑問を抱き、彼が大いなる栄誉へ抜躍した龍臣たちの中から、五(奉行)を選んだ。

(五奉行)は主君なる己が息子(秀頼)のことを特別に面倒を見てやり、また家族のことや、さらには日本全土のことを言って、重要な事項のすべてを(徳川)家康とその四名の同僚に報告させることにした。それゆえ後者の五(奉行)が、日本国の統治者としての栄誉ある称号と名前を得ていた。しかし誰よりも太閤様の寵愛を得ていた(徳川)家康が頭となっていた後者の五(大老)が国家全体の鍵を掌握し、統治権を司っていた。

太閤様の薨去後、これら十名の統治者たちは心の大いなる一致をもって、[そのように多くの人々には思われた]、彼らが故人(太閤様)に対してなした誓約を果たそうと気遣い、故人のすべての訓戒が遵守されるよう定め、また彼らは臨終(を迎えた)者の遺言の誓詞の各条項を理解して、(太閤様)自身が望んでいた結果に到るようにしようと定めた。

この結果継続中の朝鮮戦役に対して終結がなされ、そして日本軍は故国へ呼び戻された。太閤様は確かに国民を統治すること、とりわけ地上的なものを愛好する人々が大切にしているものを処理することでは、もっと才能に秀でていた。彼は縁組、下賜品、栄誉その他これに類するものによって貴族や庶民たちを問わず、すべての日本人を己れにいとも固く結びつけた。

その結果誰一人として、彼の息子のために支配権を擁立しようとあらゆる努力を惜しまぬ者はなく、また幼小の息子に対して好意と恭順を示すだけでなく、また先に父親(太閤様)から宣布された訓戒を遵守することを、栄誉に値することと判断した。

また多くの人々には不思議に思われるであろうが、日本人の間で、自分は太閤様の薨去によって何らかの喜びを得たときわめて小さな印しをもってさえ示した者は、これまでに一人も見られなかったことである。それゆえ、我らとともに聖主なるキリストを礼拝している諸君侯は、種々の所領から我らに対して真剣にこう忠告した。

我らはこの時にあたって、我らの諸職務のどのような変更も考えず、また太閤様の薨去が我らにとって喜ばしいことであったとはどのような印しによっても示さぬように。もし我らがそれに反した行ないをすれば、我らは容易に多くの人々から危険至極な攻撃を招くことになろうと。その後短くない期間、我らの心の中には期待と恐怖とが交錯した。なぜならこの上ない沈黙を伴った大いなる静穏は、今後いったいどのようになるのか我らには判らなかったからである。

しかし我らがキリシタンの事情に善処するために、デウス」によって与えられた機会を我らが粗略にすべきでないことについては、我らは実際の状況を示すことにしよう。
日本国の統治者である(石田)治部少輔(三成)と浅野弾正(長政)[彼らは十名(の統治者)の中にあり、身分の高い者である]が、同僚たち一同の一致した意見に基づいて朝鮮戦役を終結させ、軍勢を日本国へ帰還させるために都から下へ到着した時、我らは彼らと並々ならぬ友情を交わした。

彼らは私に宛てて書状をしたため、次のように証言している。私が日本へ帰って来たことを自分たちは喜んでいる、と。そして彼らは、私が長崎[太閤様の意向によって、我らにはそこにだけ居住することが許された]に留まるよう忠告した。そして彼らは非常に快く、[とりわけ我らの(小西)アゴスチイノ摂津守殿の特別の親友(石田)治部少輔(三成)は]次のように約束した。自分たちは我らの諸事情を記憶に留めておこう。そしてその時期が到来した時に、我らの諸用件を促進させてやろう、と。

しかし現在の時点では、太閤様から指図された命令に反しては彼らは何もなすことができぬので、諸事情の変化が新しい意見を取るべき機会を与えるまでは、我らはじっと忍耐しようということになった。
諸事情の大きな交替はまったく目まぐるしくなっている。なぜなら共同で統治している(十名の)人々の間での固い一致というのは滅多にないからである。そのため(石田)治部少輔(三成)と浅野弾正(長政)は、[彼らはこの時にあたって互いに外見上の友情を温めていた]、ついに心に隠していた憎悪を爆発させた。

同様に朝鮮で戦役を指揮していた重立った諸武将たちの間でも、朝鮮軍と和平を締結することについて、および軍勢を日本国へ引き揚げることについて、皆が同意見ではなかったために不和が生じた。そのため国外で疎外と心の離反が起こったことは国内では驚くばかり増大した。

朝鮮において(小西)アゴスチイノ(行長)に従っていた人々は、新たな盟約によって(石田)治部少輔(三成)と同盟した。これに対して他の派についていた人々は、浅野弾正(長政)の側に合流した。そのため貴人や重立った人々は多くの激しい抗争によって分裂し、互いに新たな敵意を燃え立たせるのであった。

(小西)アゴスチイノ(行長)の側には(石田)治部少輔(三成)と、彼自身のすべての家臣や友人たち、有馬と大村の国主たちとその家臣と友人たち、薩摩の王(島津義弘)、柳河殿と筑後の他の諸侯であり、彼らの中には我らの味方(小早川)藤四郎(秀包)殿、それに長崎奉行で他の地の領主である寺沢(広高)殿が挙げられる。

これらの人々の敵側は、大いなる権勢をもっており、浅野弾正(長政)殿、(加藤)主計(清正)殿、彼の所領は、肥後の国の半分を占めており、(小西)アゴスチイノの所領と境界を接し、浅野弾正は小西アゴスチイノと大いに不仲である]、(黒田)甲斐守(長政)、豊前の国の国主(黒田孝高)、市正(片桐且元?)、それに肥前の国主鍋島(勝茂)がいた。

そのためこの両派は、もはや憎しみを隠さず互いに反目していた。そして彼らは都[ここに国主たちの居所がある]に到着すると、互いに批判を開始し、それに諸々の罪のなすり合いをし、そのうえ浅野弾正(長政)派は、全力を注いで自分の敵側の者を打倒しようと努めた。

そして(徳川)家康その他の大名たちは、皆が敵対心を捨てて固い友情が結ばれるように何も試みないわけではなかったが、(小西)アゴステイノ(行長)に有利に奉行所から宣告が下される以前には、彼らは何も推進させることはできなかった。

しかし浅野弾正派の人々はそれで黙るべきではないと判断し、自分の意見の方へ他の重立った者、および特に主君の側にいるのを常としていた人たちを引き入れるに至ったので、ついに日本国のすべてが内乱に燃え立ち始め、これによって日本国の変革が恐れられていた。
(石田)治部少輔(三成)は(徳川)家康に対して公然と反対を唱え始め、次のように非難を浴びせた。国家の統治にあたってひどく権力を我がものにしており、また天下の支配権を獲得する魂胆の明白な兆候を示していると。

そこで(石田)治部少輔は武器を取り他の統治者たちの意見に従って、使者たちを(徳川)家康のもとへ遣わし、予のことで何が気に入らぬのかと公然と詰問させた。(徳川)家康はすべての点について穏やかに弁明し、己が行為についてなしえた非常に立派な諸理由を述べた。しかし彼は無防備のまま対面することはせず、己が諸国から三万の軍勢を召集し、これによって敵方の力に対してなしえた最大の兵力をもって固めた。

その当時、日本国の全諸侯は国主の宮殿に留まっていたが、[太閤様が臨終の時に、最終的なものではなかったが、統治者たちに訓戒を与えた他の条項の中で、国王の宮殿の華麗さを保持するために、或る人々は都の近くの築城である伏見に居住し、或る人々は大坂に居住するようにした]、彼らの中でどちらか一方の派に味方しない者はいなかった。

しかし自分はすべての抗争には無関係であると絶えず主張して、どちらの派に対しても公然と好意を示していた者たちがないわけではなかった。己が国主たちに召集されて、種々の領国から伏見と大坂へ集まった将兵たちはおびただしく、その数は二十万以上にのぼった。どの諸侯も自分の邸内で多数の護衛兵たちによって警護されているのが見られ、あたかも隙間もない包囲によって支えられているにすぎぬようであった。

そして夜間には、この(伏見と大坂の)二城内では、諸々の武具の喧騒が非常に大きかったので、ただにそれらの城自体の崩壊のみならず、この世界の破滅が近づいているように思われた。それにも拘わらず日本人の自制の度合は、誰一人として敵に対して戦闘を挑まず、また相手方の派の将兵を殺害しようとして刀の鞘を払う者もいない状況であった。

なぜならもしそのようなことが行なわれたら、多くの人々の殺戮と、日本国全土の擾乱とが起こりそうであったからである。また諸大名自身が、この種の不都合に対して警戒し、何らかの方法によって敵方に攻撃をしかけた者は死刑に処することを望んだからである。

時が経つにつれて、(石田)治部少輔のもとを離れた軍勢や武将たちの数の増大によって家康は強大になり、勝利者のように、こう言うようになった。(石田)治部少輔が故国の礼儀に従って切腹をしない限り、その他の方法によって日本国が平穏になることはできぬ、と。

当然のことながら、(石田)治部少輔方に味方していた(小西)アゴスチイノその他のキリシタンたちは次のように判断した。家康の憤怒は、(石田治部少輔)一人の死によって収まり得るものではない。しかし一派の頭首が切腹を強いられているとすれば、自分たちも生命を落とさねばならぬ危険があるのはいとも明白である、と。

ついに家康は、太閤様の息子である主君(秀頼)が住んでいた大坂城を占拠した。しかも彼は、このことを心中の意図によって非常に狡猾にやってしまい、そのため奇襲攻撃を受けた援軍に来ていた敵方には防衛の余裕を与えなかった。(大坂)城から遠くない邸にいて、六千の武装した軍勢に護られながら夜を過ごしていた(石田)治部少輔は、この思いもかけぬ不幸を阻止することができなかった。

(石田)治部少輔はこの窮地に追い込まれると、同僚の統治者たちの権力下にあった伏見の城へ赴いた。(小西)アゴスチイノは、以前受けた太閤様の恩義を裏切らぬように彼の後について行くことに決めた。なぜなら(小西アゴスチイノ)は、そのために死を覚悟せねばならぬとしても、汚名の印しなしに己が友(石田)治部少輔のもとを去ることはできまいと判断したからである。

とりわけこの派は、太閤様が制定した統治の秩序が、取り繕われた所として存続するために活動していると考えられていたからである。しかし家康は、伏見の城への出発を遅らせるべきではないと考えた。彼は軍勢を率いてそこへ到着すると、諸侯の勧めを入れて次の条件で兵力を撤退させることを約束した。すなわち(石田)治部少輔は、これまで帯びていた官職を捨てた身分に落とされ、今後は国家統治の任を離れ、己がすべての軍勢とともに自領である近江の国にずっと引き籠っているように、と。

このために両派の中の諸侯たちの間で調停が行なわれ、(石田)治部少輔が、彼らの間の安定した友情の人質として家康の幼童とともに自分の邸へ帰る時、(小西)アゴスチイノは連れ立って行くことを望んだ。(石田)治部少輔はこのことには賛成しなかった。彼は自分が(小西)アゴスチイノの恩恵を被っていることを明白に証言し、とりわけ自分の逆境は(小西)アゴスチイノの尽力と助言によって軽減されたことを、記憶していたためである。

そういうわけで国王の宮殿においてのように、(小西)アゴスチイノの名は友人に対して尽くされた誠実さのゆえに非常に有名になった。それのみならずさらに家康自身が(小西)アゴスチイノを称賛することに何らの制限もつけることができず、栄誉をもって敬意を表することにして公然とこう言いふらした。彼は友人を助けるために、己が生命とすべての財産を危険に曝した[(小西)アゴスチイノが(石田)治部少輔のためにそうしたことは明白であった]。

彼をその功績にふさわしく十分に惜しみなく誉れ高く処遇することはできない。自分は(小西)アゴスチイノの模倣者たちと深く心から望んで友情を結びたい、と。それゆえその後彼はしきりに(小西)アゴスチイノと親交を結び、大いに好情を示した。

私が述べたこれらのことや、その他の危険を切り抜けて、(小西)アゴスチイノおよび彼とともに同じ運命にあった他のキリシタンたちが邸へ帰って後に、我らは心を安んじ始めた。とりわけ我らは、(小西)アゴスチイノが家康の好意を得ていることを知ったからである。

そういうわけでデウスを称えるべきであるが、我らは現在、恐怖なしに生活している。さらに家康は、これらの混乱期に際して、日本国全土を流血を見ることなしに、非常な不安動揺からもっとも平和な状態へ導く人物として、男を見せるだろうことは否定できない。確かに彼は敵たちを制圧するのに非常な賢明さをもってしており、刀を抜くことなしに彼らを道理の渦の中へ導き、言葉に耳を傾けさせ、日本国全土の大いなる善のために駆り立てるだろうからである。

彼は自分といっしょに(用務に)携わっていた同僚たちから、彼らが以前得ていた国家の政務を取り上げることは決してせず、何事も彼らによる命令なしには行なわれることを許さなかった。このことでは彼は明白にこう宣言していた。自分は太閤様に従っている、と。なぜなら彼は、(太閤様)から国家の統治のことで定められた秩序と国王(秀頼)の威光を保持するために、特に有益なものは忠実に留めておくべきであると判断していたからである。

これによって日本国の政情は非常に平和になったが、(石田)治部少輔の敵方は、沈黙しておれなかった。彼らはこの者(石田治部少輔)が最高の栄誉の位階を追放されたことでは満足せず、のみならずこの男自身に対する災難、それどころか殺害が仕組まれることさえ恐れなかった。なぜなら彼らは、その一部には、家康自身から(小西)アゴスチイノに対して並々ならぬ栄誉が与えられていることさえ快からず思っていたからである。そこで彼らはまた新たに、家康のもとに(石田)治部少輔と(小西)アゴスチイノを訴えたが無益であった。

なぜなら家康は厳しい言葉で彼らを制し、そしてたいへんな苦労で得られた平和を彼らが軽視していることから、日本国に不和と公安妨害をもたらす蛮勇に対して罪を帰した。
そこで一同に対しては邸へ帰る許可が与えられ、さらには皆の期待に反して、我らは現在この(日本)国全体の中で確固とした平和を享受している。確かに日本国にいる人たちの誰一人として、この当時貴人諸侯の反目が鎮圧されようとは、いかようにもその可能性を考えている者はなかった。他方諸侯の心の中には憎悪が包含されたままであった。

なぜなら(日本)国の統治において、家康の同僚であった四大老は、家康自身が日本国全土の支配を手に収めて国家の相続権を自らのもとに留めておきはしないかと、このことを極力警戒したからである。さもなければ彼らは、最大の好意の異常な印しと結合したすべての栄誉を(家康)に捧げたからである。

以上がこの際私が(本書簡で)報告すべきであると考えたことである。これによって私が、我らの(イエズス)会と日本国のキリシタンたちの状況について書こうとしていることが、いっそう容易に理解されるであろう。
既述のことが生じている間に、我らは災難の時代が我らに立ち退くことを強いていた主要な地へ(イエズス)会の仲間たちを少しずつ復帰させ始めた。

オルガンティーノ師は我らの司祭や修道士たちを連れて、同じ(都の)市に滞在していた都の我らの(同僚たち。の)もとへ戻って来た。そして寺沢(広高)殿は(イエズス)会の人々に対して、ほとんど平静さを失っている態度を示したので、我らは長崎にいた者の中から少なからぬ人たちを他の所へ移転させることに決め、そうすることによって(彼らが)始めた文学の勉強をもっと自由に続けられるようにした。

司教(ドン・ルイス・セルケイラ)貌下はそれを知ると、大いなる心をもって、この異国の(勉学の)仲間に参加した。なぜなら彼は、司教職を適切に遂行するためには、自分にとっては明らかに日本語の知識が必要であることを認めたからである。それゆえ年高を積んでいることも、[現在彼は五十歳である]、肉体の衰弱も[長年の労苦によって肉体自体の力は弱まっていた]、ヨーロッパの人々の耳には相容れぬ言葉を学ぶことの困難さも、その高い位階において決心した彼自身を、その開始された考えより都えさせることはできなかった。

彼は異国の(勉学の)仲間としてヴァレンティン・カルヴァリュ師とジョアン・ポメリオ師を加えた。それゆえ非常に立派で敬虔深い上長の模範は、我ら全員に対し、我らキリシタンの教会にとって有益になるようにと希望する労苦を我らはどの年齢においても決して拒まぬようにしようと、いたく心を動かさせた。

この文学の勉強のためには、(小西)アゴスチイノの所領の島である天草が他の何処よりも適当であると考えられた。なぜならそこは、すべての用務から遠ざけられた所にあり、また我ら(イエズス)会の人々の修練のために、不都合ではない建物を所有しているからである。

(一五九九年)三月に司教貌下とともに十六名の(イエズス)会員、それに三十名以上の学生、[彼らは日本語で書かれた、我らの信仰の主要な教義を綱要にまとめたものを絶えず学んでいる]がこの島へ移った。我らはそこで、数カ月間日本語を学ぶためのこの勉学に、かって青少年時代に神学と哲学を我らが学ぶために準備した以上の労力を費やした。授業は毎日二時間、反復と文型の練習を伴って行なわれた。

さらに我らは経験によって知ったことであるが、私の職務の遂行は私に信仰を委ねられていた人々からずっと遠く離れた所にいるという不便を受け、また都の事態は日々いちだんと平穏になっていたので、私は場所の移転について考え始めた。そこで我らは八月に、(小西)アゴスチイノの領内にある志岐という町に居住地をもち始めた。我らはその地で、勉強し始めた課業に熱心に励みながら気持ちよく生活している。それ以外に有馬や大村や長崎の町々に近いことが多くの理由から我らにとっては非常に好都合である。

私はこの志岐の町[ここには以前、(イエズス)会の居住地があった]において、非常な配慮と熱心さをもって我らのために司祭館を再建するように世話をした。なぜなら寺沢(広島)殿は、特に彼の命令なしに私がオルガンティーノ師を都へ派遣したことで、これを理由に我らを手こずらせたからである。

それというのも彼自身が我らの聖堂を倒壊させたことについて、我らが彼の名を日本国の統治者たちに訴えたとしたら、それがために自分は長崎の市の奉行職を追われはせぬかと恐れていたからである。彼はこのオルガンティーノ師を、こう言って激しく脅迫し始めた。彼が長崎の市[人の言うところによると、我らは日本の都市ではこの市だけに、太閤様の掟によって滞在する自由があった]へ急いで帰らぬならば帰るよう強制されているのに、口で帰ると言っただけでは、それによって師父はひどい迷惑を受けることになるだろう、と。

彼は副管区長師に同じ趣旨で不満に溢れた書状をしたためて、自分の命令に服従することを拒んでいる人々に対して激しい呪いの言葉をかけて、(副管区長)師を脅迫している。そこで彼は長崎の支配においては、己が代官に次のような仕事を課している。あらゆる悪事をもって我らを悩ませ、またすべてのキリシタンたちには我らの教会へ近づくことを禁止するように、と。

偶像の崇拝者である代官が、寺沢(広高)殿の書状を受け取った、しかもそれはキリシタンたちが、聖主キリストの御死去を特別な儀式をもって弔う週間であった]後に、己れに対して命じられたことをどれほど大真面目に実行しようとしたかは驚くばかりであった。

なぜなら他の諸々のことの中にあって、二名のキリシタンはデウスの御子が人類のために受け給うた十字架の磔刑の苦難をよりいっそう記憶に想い起こすために鞭打ちの苦行をしているところを逮捕され、生命の大きな危険に遭遇したからであり、また長崎の年寄たちも、同じ代官から無礼な言葉によって非難を受けたからである。

それゆえ我らの仲間の中で長崎に滞在していた人々は、大きな混乱と、それに切迫している何らかの大きな不幸の恐怖の中にいた。そこで彼らは書簡によって私に次のように頼んだ。私がそこ(長崎)から神学校だけでなく、我らの修道士たちをも召喚するように。そしてキリシタンのことを世話する少人数の司祭たちだけが滞在することを許可して欲しい。こうすることによって寺沢(広高)殿は落ち着きを取り戻すであろう、と。

そこで我らは、天草島への我らの移転について先に書いたことは神意によってなされたものであることを今になって理解している。そこで私は目前に迫った難儀に対処するために、国主の宮殿でもっともよく知られたジョアン・ロドゥリーゲス師を都へ派遣した。つまり彼はたびたび太閤様と我ら(イエズス)会のことで交渉したことがあるからである。

私はまた、危険をともにして寺沢(広高)殿と親しくしていた(小西)アゴスチイノに宛てて、我らの仲間たちが何らの罪もないのに受けている厄介な諸事について書簡をしたためた。それ以外に私は、寺沢(広高)殿自身に対して彼の知らぬ間にオルガンティーノ師を都へ帰した正当な理由が知らされるようにした。同様に私は、私の言葉でもって(寺沢広高殿)に次のように告げられるよう命じた。

(寺沢広高殿)は我らについて抱いている憎悪に満ちた嫌疑を棄てて欲しい。なぜなら我らは(キリストの)福音の光を日本人に伝える以外の理由で日本国へ来たのでは決してなく、我らはそれを守るためには、デウスの御加護によって我らの血を流すことを躊躇していない。もし彼が我らの労苦に対して好意を抱いているのなら、我らは長崎の市の支配が彼自身によって継続されるよう特に望んでいる。

しかしこれに反して、彼が開始しているように我らを迫害することを決定したとしても、それが理由で我らから何らかの損害や不幸を被ると恐れを抱くべきではない、と。同様にして長崎のキリシタンたちも、同じ理由から、重立った年寄の一人を寺沢(広高)殿のもとへ使者として遣わした。

ロドゥリーゲス師は都では、家康からもまた国王の宮殿に住んでいた他の人々からも、そして寺沢(広高)殿自身からさえも鄭重に迎えられた。(寺沢広高殿)は(小西)アゴスチイノ、有馬(晴信)殿、奉行らが我らの事情について説明するのを聞いた後、我らの司祭(ロドゥリーゲス)が都へ帰って来たために、(本当は)それは罪(になること)を我らが心得ていることについて、彼は十分に納得したことを、言葉によってだけでなく実際に証明したことであった。

彼は我らの仲間を敵意をもって追求したことを後悔し、そして代官に宛てては非常に怠り豊かな書状を与えて、こう代官に命じた。自分が好意と恩恵をもって、敬意を表すべき人々を迎えたように、(代官)は彼らを栄誉と恩恵をもって処遇するように、と。我らはこの書状の並々ならぬ効果をただちに受けた。なぜなら非常に多くの善男善女が教会へ集まるようになり、もし我らが完全に旧状に復したとしたら、我らが以前享受していた太閤様からの自由を与えられたのと同じになりえただろうからである。

ロドゥリーゲス師はそれ以外に、我らを昔の状態に回復させることについて家康と話し合った。司祭は家康から親しく聞いてもらった後に、次のような回答を受け取った。太閤様の戒めによって、(我が)専制君主国を占領しようとする(改らに対する)嫌疑なしに(女らを)滞在させることは許されぬのであるから、自分としてはこの争乱の時期には何も力をかすことができない。不都合なしに我らの要求を満足させることができる時代が将来訪れるかも判らぬ、と。

この家康の回答によって、また家康と我らの司祭(ロドゥリーゲス師)の間で双方に交わされたその他の言葉によって、キリシタンたちは次のような意見に到達した。家康は福音を布教する我らの活動に対しては何らの妨害もしはせぬであろう。それゆえ我らは安心すべきであろうと。

先の嵐がようやく鎮まったと思うと、私がこれから説明しようと思う理由で、前よりももっと危険な新たな嵐が生じた。年老いた平戸の殿(松浦隆信)が亡くなり、彼の息子の(松浦)法印(鎮信)という偶像崇拝者は、都でなされた日本国全土の公の評議によって、父親の支配権を自分が享受する許可を願い受けた後に、祖父の領地を支配していた己が息子(久信)に宛てて、熱心にこう書いた。

彼が支配権をもっていた一同に、今は亡き父親の魂のために(異教徒の)祈祷が行なわれるよう配慮せよ。そしてこの勤行の務めを果たすことを、(籠手田)ドン・ゼロニモをして、その息子ドン・トメと親戚および全家族とともに強いて行なわせよ、と。そのうえ彼はこう望んだ。平戸に住んでいるすべてのキリシタンたちをして聖主キリストを棄てるよう誓わせよ、と。そして彼自身はもとよりこう決心した。すべてのキリシタンたちを、己れの諸々の地から追放してしまおう、と。

この最悪の命令が出されると、キリシタンという名に対するすべての敵たちは、キリストの礼拝が日本国の中で皆のうちで最初の真理の光を眺めていた人々のもとからまったく絶望されるようにと武器を調えた。息子(久信)は父親(鎮信)のこの命令を厳かに誓うために、己が妻であり、大村(喜前)殿の姉妹であるドナ・メシアに知らされることを望んだ。

それのみならず彼自身は、悪意に満ちたへつらいを混えて、父親(鎮信)の脅迫を、同様に夫人に対してこう説明して言った。最初に抱き始めた考えを行なうに際しては断行する人物である自分の父親は、「キリシタン全員は、日本人の古来の迷信(信仰)に戻れ。もし彼女自身が、彼といっしょに結婚を続けようと望むなら、他の人々に対してこの点で手本を示せ」と命令した、と。

しかしこの非常に秀れた夫人は、[不信仰の夫は彼女から三人の息子をもうけていたが、夫には黙って彼らは洗礼を授けられていた]、このような脅迫に対しては、自分の信仰を堅固にするために長い間非常に慣れていたので、大いなる勇気をもってこう答えた。自分が夫のもとを離れるよう強いられるとすれば、ひどく辛い目に遭うことは施い隠すことができない。しかしこれも、キリシタンという名のために耐えるよう準備された事柄に比べればごく些細なことである。

なぜなら自分はキリシタンの信仰を少しでも棄てるくらいなら、もし能うれば六百回も死の宣告を受ける方がましだからである。自分のこの回答は、真にキリシタンの精神から発したものであることを皆は理解して欲しい、と。こうして彼女は夫のもとを去って、他人の家へ赴いた。

それから間もなく、彼女は自分の兄弟の大村殿に宛ててこう書状をしたためた。自分が大村へ都合よく帰ることができるように随伴者をよこしてほしい。なぜなら自分は、夫のもとを離れることをはっきり決心したからである。それは自分が聖主キリストに対して罪を加え、[自分はその栄誉のために貧しさの中に生活しており、もし必要なら生命を捧げることを望んでいる]、非道な罪によって自分の身を汚すことのないようにするためである、と。

彼女は同じ意見で書状を司教(セルケイラ)貌下と(イエズス)会の司祭たちに宛てて、デウスへのお祈りにおいて、ひどい惨めさに打ちひしがれている自分を助けていただきたいと書き送った。(これに対して)大村殿は、キリストの真の礼拝者にふさわしい回答をした。
夫は夫人の中にこの心の偉大さを認めた時、彼女を喜ばせるために、また兄弟(大村殿)のもとへの移住についての彼女の考えを変えさせるために、以前のような態度をまったく棄ててしまった。

しかし彼女は、聖主キリストを自由に礼拝する権限についての許可を得、さらに今後は、彼女がキリシタンの宗儀に従って生活することでキリシタンの名に対して誰も不満の意を表わさぬのでなければ、(家へ帰ることに)同意することを望まなかった。こうして彼女は今のところ夫の屋敷で大いに賛美してキリストを礼拝している。

まったく同じ頃、キリストの敵たちは先に述べた(籠手田)ドン・ゼロニモ、ドン・トメ、それに彼らの他の兄弟たち、彼らの親戚のドン・バルタザル(一部正治)に対して、少なからぬ面倒を起こした。これらの人々は、平戸の住民の中ではもっとも高貴で、多数の従者たちの主人であり、また殿(松浦隆信)自身と血縁関係にある。

これらの人々一同は自由にこう答えた。自分たちは初めてではなく、祖父の時代からキリシタンとなっているのだから、デウスの諸々の掟に背いていないことであれば万事殿に服従するであろう、と。

平戸の奉行たちは、これらのキリシタンの貴人から何らかの危険に遭いはせぬかと恐れて、術策に逃げ込むべきだと判断した。なぜなら彼らは密偵たちを構成させ、これらの者たちは(このキリシタン)たちの行事を熱心に見守り、とりわけ人々の群が(このキリシタン)たちによって一カ所に集められ、これによって何らかの騒動が起こることを監視したからである。この術策をもってわずかな日数が費やされた時、同じ奉行たちは多くの言葉で、これらの(キリシタンの)貴人たちに次のように懇願し、また要請し始めた。

もし貴人たちが安全であることを望むなら、自分たちは何事においても殿に対して従順になるとせめて口約束するように、と。彼ら貴人たちは、すべての事態を司教(セルケイラ)に報告すべきであると判断した。彼らはキリシタン宗門を棄てるくらいなら、むしろ死んだほうがよいと願ったが、すべてにおいて司牧司祭の意見に従うべきであると考えた。

そこで彼らは書状を送って、司教貌下に自分たちの諸事情の現状を知らせ、それと同時にデウスへの我らの会(員たち)の祈祷に一身を委ねた。そして(松浦)法印(鎮信)の帰還が日々期待されていたので、我らは書簡といっしょに(イエズス)会員の中の一人を遣わして、彼らの苦悩を慰めさせ同じ領国にいた、他の四名の(イエズス)会員は、その任務を熱心に遂行していた]、またこのように困難な事態においていかに対処すべきかを彼らに向かって説明させた。

ついにこれらのキリシタンたちは、法印(鎮信)が帰ってくる前にその地を去って長崎へ出発する決心をした。彼らのこの考えは、デウスが祝福し給う限りにおいて驚くべきことである。なぜなら彼らは夜の間に、キリシタンたちのすべての敵たちが知らぬ時に、妻子や家族たち、それにいっしょになった彼らの従者たち六百名以上とともに、船に乗って長崎へ向けて出発したからである。