「信長はいともたやすく征服したかの国々から戻ると、新しい市、安土山を拡張することに余念がなく、日々多数の家を新築させていた。建てる家が大きく立派であればあるほど、それだけ彼に奉仕したこととなった。毛利氏に打ち勝った羽柴(秀吉)殿も邸( ...

<第四六章(第二部一二章)>
国主フランシスコが土持より豊後へ、そしてフランシスコ・カブラル師およびその同僚が国主とともに帰った次第

合戦の二日後数名が、敗走の末悲しく予期せぬ報せを携えて、国主(大友宗麟)、ならび ...

その頃、薩摩の国主(島津義久)が、豊後と一部分国境を接している日向を攻略したので、敗北した日向国主(伊東義祐)は、孫や息子の嫁を連れて豊後に避難して来た。

なぜならその長男はすでに死亡し、その嫁は、豊後国主の妹の娘であった ...

【信長公記】巻八「三州長篠御合戦の事」(現代語訳)

「五月十三日、三河長篠城の後詰(援軍)として、信長、嫡男菅九郎(信忠)が出陣され、その日に熱田に着陣なされる。熱田神宮の摂社八剣宮が廃墟となり本来の姿でないのをご覧になり ...

【甲陽軍鑑】品第五十二「長篠合戦の事」(現代語訳)

「その後勝頼公は信州より遠州平山越えをして、三州のうりというところにお着きになり、長篠の奥平が籠もる城へ攻められた。家康は後詰ができず結局、山県三郎兵衛(山県昌景)に押し ...

【三河物語】「三方ガ原の戦い」(現代語訳)

「元亀三年十二月二十二日、家康が浜松より三里のところへ及び出陣する(原文:家康浜松寄三里に及打出させ給ひ)。”合戦しよう”と仰せられると、それぞれの家老衆は “今日の合戦はいかが ...

【甲陽軍鑑】品第三十二「川中島合戦」(現代語訳)

「永禄四年八月十六日、信州川中島より飛脚が来て申し上げた。”上杉輝虎が出陣して海津の向かい、妻女山(原文は”西条山”)に陣を取り、海津の城を攻め落とそうとしています。 その ...

【三河物語】 「桶狭間の戦い」(現代語訳)

永禄元年、御年十七歳にして大高の兵糧入れの命令を受取られ、お入れになる。
(中略)

(敵は)退却し、大高の兵糧入れと言って御一大事となった。そこで信長も清須へ ...