1598年10月3日付、長崎発信、フランシスコ・パシオ師のイエズス会総長宛、日本年報

フランシスコ・パシオよりいとも尊敬すべきイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァ師に宛てて
イエズス・キリストにおいていとも ...

「本年すなわち1587年の1月16日(西暦)に、薩摩の軍勢は、府内から3里離れたところにある利光(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。だが敵は攻撃の手をゆるめず、ついに武力によ ...

第五三章(第二部五二章)
野戦が行なわれ、隆信が戦死し、その軍勢が壊滅した次第

ドン・プロタジオ(有馬鎮貴)は、隆信が最初の攻撃を開始してその鉄砲隊が火蓋を切るに先立って、それまでいた狭苦しい陣屋に立て籠っているこ ...

第五〇章(第二部四九章)
ドン・プロタジオ(有馬鎮貴)が薩摩国主に援助を乞い、(薩摩国主が)弟中務殿を彼のところへ派遣した次第

(竜造寺)隆信は、大村の地とその領内のキリシタン宗団をことごとく掌中に収めた後、その悪 ...

「三七殿(織田信孝)は柴田(柴田勝家)と滝川(滝川一益)に与すれば望み通り天下の主君となることができると考え、欲に駆られて人質となっている己の母と娘、および家臣らに対する愛情を忘れ、再び羽柴(羽柴秀吉)に敵対しようとして、そのように名 ...

(現代語訳)

「秀吉が(尼崎へ)着陣したので、池田紀伊守(池田恒興)、惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)は話し合い、摂津富田に陣を敷いた。先陣は天神馬場・山崎へ至って陣を取り続き、惟任(明智光秀)の動きを監視した。

...

「同国の重立った3人の大身(池田恒興・中川清秀・高山右近)は、羽柴殿がさほど遠くない所まで来ていることを期して、ただちに戦の準備を整え、兵を率いて高槻から3里の所にある山崎と称するかなり大きく強固な村へ出向いた。

彼らが互 ...

宣教師オルガンティーノが沖島へ避難する

「右のことをなし終えて明智は朝の8時または9時頃、兵を率いて都を出てゆき、当地から4里の所にある城に向かった。この城は坂本と称し、安土山への道中にある。すでに述べた通り、都から安土山 ...